恩州任侠伝
よろしくま・ぺこり
老中斬り
春の夜だった。
朧月夜に照らされ、舞落ちる桜の花びらを肩に着飾りながら一人の男が道を行く。辺りは諸大名の上屋敷が立ち並ぶ閑静な土地柄。すれ違う人とて無い。ただ風だけがその背中を見送る。
しばらく行くと男は目当ての場所を見つけた。見事な門構え。幕府若年寄金信佐渡守の邸宅である。今宵、こちらで夜桜を愛でながらの宴席があるという。
男は門を叩いた。
しばらくしてこの家の下人が通用門を開いて顔を出す。
「どちら様で」
下人が言うのも束の間、男はその眉間に拳を入れた。下人は音も無く崩れ落ちる。すると、もう一人、別の下人が現れた。
「貴様、何者だ」
男は門内に素早く門内に入り込むと、刀の柄で二人目の下人の鳩尾を撃つ。下人は声も無い。
しばらく佇む。
それ以上人影は現れなかった。
佐渡守の邸宅は広大だ。さすが、幕府で権勢を誇る老中首座松近豊後守の腹心である。
男は遠くに見える玄関へは行かず、かすかに灯りがもれる屋敷の右側へと進んだ。
嬌声が聞こえる。宴の場のようだ。男は静かにそちらへ向かう。そこで男は懐から不動明王の像を取り出し、一礼すると己の額にあて鉢巻きでしばった。
のうまくさんまんだ ばざらだん
せんだ まかろしゃだ
そあたや うんたらた
かんまん
男は不動明王真言を唱え、心を鎮める。
やがて中庭に出た。
見事な一本桜であった。
幅広く、天高い。
男は一瞬それに見とれた。
だが、せっかくの絶景というのに、周りには酒に酔い、嘲り乱れる武士たちの醜態があった。女たちの痴態があった。
男はそれらを無視して表廊下を目指す。武士たちは酒にまみれ、女に乱れてこの異様な侵入者の存在に全く気付かない。いや、気に止めなかった。同輩の誰かとでも思ったのだろう。酒と女は心を緩ます。
表廊下の向こう、襖を開け放した座敷にはこの家の主、金信佐渡守と主賓である老中松近豊後守がいた。女に酌をさせ上機嫌な様子だ。我が世の春とは、まさにこのことだろう。
男はさらに進む。
最初、男に気付いたのは金信佐渡守だった。
「何奴」
男は答えない。
「なんだ、そのいでたちは……貴様はたしか、草刈新九郎。御書物方だな。紅葉山文庫の青侍が何の用だ。豊後守様の面前である。無礼であろう」
金信佐渡守が怒鳴る。
「草刈とな。ならばかつて、旗本一の俊英と謳われた者ではないか」
豊後守が問う。
「さよう、寄合の家に生まれ、幕閣の期待を一身に受けながら、書物に淫し、何の働きも見せない、頭でっかちの青侍でございます」
「そうか役立たずか。良き容姿なのにのう」
衆道好みの豊後守が残念そうに呟く。
「新九郎、ここはお主のような下郎の居るところではない。とにかくすぐに消え失せよ。でないと斬るぞ」
金信佐渡守は威嚇した。ここで、男……いや草刈新九郎がようやく口を開いた。
「この草刈新九郎義高、義によって、松近豊後守殿並びに金信佐渡守殿を不動明王様に成り代わり、討ち取り申し上げる」
声高らかな宣言。
「何を血迷うたか。乱心者じゃ、ものども出合え、即刻切り捨てよ」
金信佐渡守の大音声に家人たちが顔色を変えて新九郎を取り囲む。その数五十余名。したたかに酔っていても、幕府一の武芸者を自負する金信佐渡守の配下だ。多勢に無勢、新九郎の命運は尽きたか。
その時である。
邸宅の塀から黒装束の集団十数名が音も無く庭内に乱入して来た。そして新九郎を取り囲む金信勢をバッサバッサと切り伏せて行く。何という凄腕。あっという間に死体の山。新九郎の視界は晴れた。
「御本懐を」
黒装束の一人が新九郎に囁くと一党は風のごとく消え去った。
一陣の旋風に桜吹雪が舞い落ち、庭は雪化粧を施したようになった。篝火に照らされる陰は三つのみ。
「し、忍びか?」
豊後守が怯えた声を出した。
「卑怯者め。ならば拙者がお主を斬る」
佐渡守がいきり立って、新九郎に向かう。そしてあることに気付いた。
「お主、太刀を何で右腰に差しておる。まさか、武士のイロハも知らぬのか。ははは……やっぱりお主は青侍じゃ」
そう嘲笑すると、佐渡守は刀を抜いて上段に構える。
「どりゃあ」
斬り込む佐渡守。だが、酔いのためか足がよろめく。
その刹那。
『ズバッ』
鋭い音がして、佐渡守の首が宙を飛んだ。
「それがしは……左利きだ!」
新九郎は叫んだ。
あまりの惨劇に豊後守は腰を抜かしてしまった。しばしのち、蚊の鳴くような声で、
「なんでも言うことを聞くから、命ばかりはお助けを」
と、新九郎に懇願した。
「ならばご出家あそばせ」
新九郎が詰め寄ると、
「わかった、わかった。まずは近う寄って酒でも召されよ」
拝まんばかりに言った。
「酒は結構。代わりに水を一杯」
新九郎が頼むと、
「水、水な。わしが井戸から汲んでこよう」
と豊後守はその場から逃げようとした。
「待たれよ」
止める新九郎。そのとき振り返った豊後守の手には懐に隠してあった、短筒が握られていた。
「下郎、老中たる、わしを斬ろうなどとは笑止千万」
形勢逆転とばかり豹変する豊後守。しかし、
「ならば、それがしも」
新九郎も懐から短筒を取り出した。そして素早く撃ち放つ。
「うわあ」
弾は豊後守の髻に命中し、ざんばら頭になった。
「あはあ」
逃げ出そうとする豊後守の背中を新九郎の一刀が切り裂いた。
「うげえ」
断末魔をあげる豊後守の首級を新九郎は無慈悲に刎ねた。
白い庭が朱に染まる。新九郎の顔も篝火を受け、迦楼羅焔に包まれているようだ。
「我が事なせり」
新九郎は呟くと夜の闇へと駆け出して行った。
翌朝。江戸城本丸御休息の間。
「上様、お目覚めでございますか」
側用人竹内修理亮が襖越しに将軍徳川家元へ声を掛けた。
「おう、修理か。起きておるぞ」
家元が返事をした。
「朝から何事かな」
「一大事にございます」
修理亮は常と変わらぬ声音で話した。
「一大事とな。それにしては落ち着いた声だな」
竹内修理亮は冷徹な男である。話を続ける。
「昨晩、老中首座松近豊後守殿、若年寄金信佐渡守殿、ご病死の由にございます」
「病死とな」
「はい」
「二人ともか」
「はい」
「珍しいことだのう。幕閣の重臣が二人も同時に身罷るとは」
「はい」
「流行り病かな。余もお主も気をつけねばのう」
「はい」
「とりあえず、あとの仕置きは残りの老中どもに任せよ。そして修理、お主、後見せよ。なにせ余は名高き暗君だからのう。政には関与せぬよ。お主の考えが余の意向じゃ」
そう言うと家元は笑った。修理亮は笑わない。
「ところで、《黒猫》たちに褒美……いや、良い餌を与えねばならんのう」
家元が呟く。
「はい、そのように取り計らいましょう」
修理亮は慇懃に返答をすると立ち去った。
しばしの静寂。その後家元は独り言をした。
「新九郎、でかした」
同日昼前。
同じ江戸城本丸御用の間に於いて、緊急の老中寄合が開かれていた。老中の職務は本来月番制で全員が顔を並べることはない。しかし今日は老中首座の松近豊後守の急逝、並びに若年寄金信佐渡守の死去という前代未聞の事態が起きた。それ故、残された四人の老中が緊急登城して善後策の協議を行っているのだ。
まずは老中最年長の遠藤伊賀守が会議を取り仕切る。
「このたびの豊後守殿と佐渡守のご逝去、突然のことで言葉もござらんが、とにかくご冥福を祈りましょう」
四人は黙祷した。
「さて、とりあえず次の老中の選定からまいろうか」
伊賀守が話しを進めようとすると、
「あいや、待たれよ伊賀守殿」
切れ者と評判の飯沼大和守が伊賀守を制した。
「何事か」
古参の鈴木出羽守が問いただす。
「今回の豊後守殿の死に不審の儀がございます」
「何と」
驚く出羽守。
「当方の調べによると、昨晩佐渡守の邸宅において何らかの騒動があった模様。そこに豊後守殿が臨席していたという事であります。さらに、隣接する福原常陸介殿の話しでは斬り合いの音や発砲音まであったとか」
飯沼大和守は続ける。
「また、両名のご遺族は大目付の検死を拒否しております。病死がまことならそのようなことは無いはず」
「と、言うと両名は病死ではないと」
訝る伊賀守。
「当然です。重臣二人が同日同夜に病死するはずがない」
飯沼大和守は堂々と言い切った。ここで今まで沈黙していた老中最年少の小暮因幡守が話しを継いだ。
「大和守殿のおっしゃることは事実です。それがし、今朝方配下の者に探らせたところ、市中の読売りが『豊後成敗、悪政滅びる』という見出しで瓦版を出しておりました。もちろん取り押さえ、南町奉行大山右衛門尉を通じて発禁処分にいたしましたが、市中はその噂で持ちきりです。しかも、その瓦版には下手人の名前まで書いてあります。庶民の英雄として」
「両人とも手回しが良いのう」
皮肉る、出羽守。
「いや、庶民の情報力は侮れん。で、因幡守殿、その下手人とは」
遠藤伊賀守が尋ねる。
「下手人は……草刈新九郎でござる」
驚愕する伊賀守と出羽守。
「あの知恵者、新九郎か」
天を仰ぐ出羽守。
「新九郎は何処」
「御書物方へ人を出せ」
いきり立つ伊賀守。そして出羽守。
騒然となる老中寄合の場。
そこへ、奥に控えていた側用人竹内修理亮が現れ、静かに言った。
「その儀は無用に存じます」
「どういうことだ、修理」
怒鳴る出羽守。
「一昨日のことでございます。旗本、草刈新九郎義高より担当若年寄の臼井図書頭殿へ病による隠居願いと、弟、小十郎義正との養子縁組及び家督相続の願いが出され即日受理されております。また小十郎によれば新九郎は昨日の早朝より『病気治療の旅に出る』と言って出奔したとのこと。いまさら騒ぎ立てても仕方ないことです。それに……」
「それに何じゃ」
尋ねる遠藤伊賀守。
「豊後守、佐渡守の病死の件、即刻仕置きせよというのが上様のご意向でございます」
「新九郎の事、不問にいたすのか」
収まらない出羽守。
「上様のご意向でございます。なにか不都合でも」
毅然たる態度で臨む、修理亮。
「うぬぬ……上様のご意向なら異存はない」
出羽守は引き下がざるを得なかった。
「では、あとは皆様で後任の人事など、ごゆるりとお決めください。失礼いたします」
そう言って竹内修理亮は奥に引き下がった。
数刻の後。
老中寄合において、新たに老中首座となった遠藤伊賀守は将軍家元に拝謁した。
「伊賀守、大儀である」
家元が大仰に言う。
「上様、既にお聞き及びとはございますが、昨夜老中首座でありました松近豊後守及び若年寄金信佐渡守の両名、急病により身罷りました。残念至極にございます」
「うぬ、承知しておる」
「つきましては、新たに譜代の伊東和泉守を老中に、同じく森淡路守を若年寄といたしとうございます。どうぞご承知くださいませ」
伊賀守は身を低くして尋ねる。
「おお、ともに実直な男だのう。良い、許す」
家元は機嫌良く答える。
「さらに松近家は嫡男健一郎を後継に、金信家は嫡子が居ないため親族の仁三郎を当主にしたいと申し出がございました。ご承知いただけますか」
伊賀守はさらに身を低くして伺いを立てた。しかし、
「それは駄目。両家とも取り潰しじゃ」
家元は立腹の態で答える。
「そ、それはいかにして」
思わず面をあげる伊賀守。
「豊後、佐渡の両名は、余やそなた達をないがしろにし、政を私したのみならず、賄を集めて私腹を肥やしたと修理が申しておる。それに市井の噂もあるでな、修理よ」
家元が竹内修理亮の方を向く。
「さて」
顔色一つ変えずに惚ける修理。
「とにかく取り潰し、改易じゃ。よいな伊賀守」
将軍の強権発動。
「ははあ」
平伏する伊賀守。
「まあ、災い転じて福となすじゃ。豊後守の政は庶民に苦しみを与えすぎた。だから斬り殺されたなどという噂話が出るのじゃ。伊賀守よ、庶民あっての徳川幕府じゃ。穏やかな政をせよ。余は暗君だから口出しはせん。そちらに任せる。よろしく頼むぞ」
そう言うと家元は退出した。
(充分、口出ししているではないか!)
遠藤伊賀守は心で叫びながら平伏し続けた。
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