第二二話 愛をとりもどすお話

 夏もかなり本格的になり、僕らがこの町に訪れてから3週間が経過しようとしていた。時々痛むものの手首の傷は塞がり、血もだいぶ体内で作られたのか階段を駆け上がっても少し息切れする程度まで体力は回復した。

 水は、いよいよ尽きかけていた。昨日飲んだ水は、人間が生き延びるのに最低限必要と言われる2リットル弱。今日はそれより少ないし、明日はもっと減っているだろう。もっともそれは、このままこのマンションに留まり続けるのなら、という話だ。僕らは今日、このマンションを出て行く。


 ナオミさんの立てた脱出計画に従い、僕らは粛々と準備を進めていた。マンションの地下駐車場に残されたままの乗用車からガソリンを抜き取り、使えそうなものも全て集めた。

 結局あの後ナオミさんの作戦に反対する者も、僕が囮役を務めることに反対する者もいなかった。いたら何としても僕が変わっていただろうが。どのみち、準備は順調に進んでいる。斧やナイフなどの刃物を使った戦い方はナオミさんから教わったし、バイクの運転方法も習った。それらを実践できていないことだけが心残りだが、まあぶっつけ本番で何とかなるだろう。バイクなんてエンジン付きの自転車だとナオミさんは言っていたし。


 ガソリンや武器、医薬品などは腐るほどあるが、水と食料だけはほとんど消費しつくしてしまった。何が何でも脱出を成功させるため、体調を万全に整えておく必要があったのだ。空腹で動けず渇きで判断力が鈍った、なんてことになったら元も子もない。

 いわば背水の陣だ。下手をすれば全滅、どちらかがしくじったら生存者は1人か3人になる。だが全員が万全の状態で事に当たり、上手くやれば4人揃って生き延びられる。危険性は僕の方が大きいが、それも織り込み済みだ。もし合流に失敗して感染者たちの真っただ中に放り込まれても、僕なら1人でどうにかできるとナオミさんは思ったのだろう。だから僕が囮になる事を了承したわけだ、尚更その期待を裏切るわけにはいかない。


 ここに来てから自室として割り当てられたマンションの一室で荷物をまとめていた僕は、少し休憩を取ることにした。そもそも持ち出す荷物は少ない。リュックの中には食料と水が入っているが、それはほんの少しだけ。合流に失敗した時に備えて医薬品と火炎瓶、そして発煙筒などが荷物の大半を占めている。

 時計を見ると時間は午前4時を回ったばかりだった。あと一時間もすれば朝日が昇る。感染者は人間と同じで夜も獲物を見つけられる、なんてことはなく、夜間はじっとして動かない。かといって夜の内に脱出計画を実行するのは憚られた。町のどこに感染者がわからない以上、暗闇の中を進んで行って気づいた時には感染者の集団の中に突っ込んでました、なんて事態は避けたい。

 そのため脱出作戦の開始時刻は明け方に設定されていた。薄明りの中ならこちらから感染者が視認できる。もっとも向こうがこちらに気づく可能性もあるが、明け方は感染者の動きは鈍いとナオミさんは言っていた。彼女の言葉を信じるなら、一番行動しやすい時間帯だ。


 ナイフの収まった鞘と、ずっしりと重い斧を包むホルダーをベルトに下げた。今回は使い慣れたバットを携行しない。バットを背中に吊るすと、途端に運転しにくくなってしまう。

 ポケットがいくつもついたベストを着込み、ポケットに色々入れていく。救急キット、地図、コンパス、ライター……。

 僕はスプレー缶のようにも見える焼夷手榴弾を手に取った。これを使ってタンクローリーを爆破しろとナオミさんは言っていたが、上手くできるだろうか。まるで映画のような話だが、出来ると信じるしかない。

 うっかり安全ピンを引き抜かないように慎重に手榴弾をポケットにおさめ、ようやく一息ついた。僕の身体を簡単に焼き尽くしてしまう武器を身に着けているかと思うと、何だか手榴弾が物理的にも精神的にも重く感じられる。


「準備できたー?」


 そう言って、ドアもノックせず突然結衣が部屋に入ってきた。彼女は既にリュックを背負っているから、どうやら準備を終えたようだ。燃料などの嵩張るものはマンションに置いていき、ハイブリッド車を確保した後こちらに戻ってきて積み込むことになっている。彼女が背負っているリュックの中には、僕と同じく計画が失敗した時に備えて最低限必要な分の物資が入っている。


「うん、一応」

「一応って、頼りない返事ね。本当に大丈夫なの?」

「大丈夫さ、僕はやれる」


 しかし結衣の僕を見る目は疑わしそうだった。結衣は溜息を吐くと、やや声のトーンを落として続けた。


「……ねえ、何でアンタはわざわざ囮になろうとしたの? アタシでも問題ないじゃん。バイクを運転できるかどうかは不安だけど、それはアンタだって同じ。どうしてアンタは私に囮役を押し付けようとしなかったの?」

「何でって、結衣がやるより成功率が高そうだからだよ。それ以上でも以下でもない」


 もちろん、それだけが理由ではない。結衣も当然その事を見透かしたのか、僕の目を見つめて言った。


「嘘ね、目を見ればわかる。アンタまだ何かアタシたちに隠してることがあるでしょ?」


 あるとも、色々と。僕が自分の手で親を殺したこととか、愛菜ちゃんの親が感染者化していた挙句僕によって撲殺され、そのことを未だに本人に伝えていないとか。いつかは言わなければならないとわかっているが、僕にはその覚悟が未だに出来ていなかった。

 結局僕はただのチキン野郎なのだ、その一言に尽きる。非難を恐れて愛菜ちゃんの家族を殺したことを隠し続け、他人に自分のことを明かす自信もない。僕が囮役に志願したのだって、心の底では自分を消し去ってしまいたいという自殺願望があることを否定はできない。この世界は辛すぎる、ならばせめて誰かの役に立って死にたいと僕は願っているのかもしれない。


「……今は話せない、でもいつか話すよ」

「本当に?」

「本当に」


 結衣はそれでも少し疑っているような目をしていたが、何も言わず僕の肩を叩いた。彼女はこんなちっぽけな理由で僕が悩んでいるとは思ってもいないに違いない。もっとも僕にとっては重大な理由であるし、愛菜ちゃんにとっては文字通り今後の人生を左右する秘密なのだけど。




 準備を終えた僕らは部屋を離れ、二人で地下駐車場に向かった。マンションの敷地は高い柵と門で囲まれており、ゾンビは中に侵入していない。ナオミさんがここに移り住む際に門をきっちり閉め、中にいた感染者は全て殲滅したからだ。

 念のため建物の陰から顔を出し、外の様子を伺う。通りは不気味なほど静かで、感染者の姿も片手で数えられるほどしか見当たらない。その感染者も俯きゆらゆらと彷徨っているだけだが、もし僕らが一歩でも通りに出たら、途端に連中は目の色を変えて追いかけてくるだろう。

 巧妙に隠されていた地下への入口を通り、車が100台は収容できそうな駐車場に到着した。停めてあるのはどれも高級車やクラシックカー、スポーツカーばかり。全部売ったらいくらぐらいの値段になるのか、想像もつかない。

 この中にハイブリットカーがあればわざわざ自動車販売所まで行かずに済んだのだろうけど、どうせ通りには感染者がいる。誰かが囮になって連中を惹きつけなければならないのは変わりない。


「よし、全員揃ったね」


 愛菜ちゃんを連れて先に駐車場に到着していたナオミさんは、全員の姿を見て頷いた。腰からは2本のグルカナイフがぶら下がり、肩にはクロスボウを掛けている。お手製の特製火炎瓶も何個か持っているようだ。今の彼女なら感染者の10体や20体なら楽々倒せるのかもしれないが、生憎僕らという足手まといがいたのでは、その実力も100パーセント発揮できまい。


「それじゃ、頼んだよ。ちゃんと合流地点は頭の中に入ってるね?」


 僕は頷いた。地図に印をつけてあるし、地図も頭に叩き込んだから合流する場所だけは覚えている。その途中の道路などは記憶が怪しいが、まあ何とかなるだろう。重要なのは感染者たちをタンクローリーまで惹きつけて爆殺し、合流すること。それだけ出来れば何の問題もないね。

 念のため、ナオミさんはトランシーバーも渡してきた。せいぜい1キロかそこらの通信範囲しかないが、合流地点を見失ったり作戦が失敗した時などには重宝するだろう。使う機会が無い事を祈る。


「あの、気をつけてください」

「わかってるよ。じゃ、また後で会おう」


 愛菜ちゃんの心配そうな顔を見て、僕は心が痛んだ。もし僕が死ねば、彼女は自分の家族が既にこの世にいないということを知らずに生きていかなければならない。そうなった場合もし感染者が日本から一掃されても、愛菜ちゃんは死んだ家族を探し続けるのだろう。そうならないためにもいつかは彼女に本当のことを伝えなければならない。が、その時は今じゃない。


 僕が乗るバイクは、新聞配達に使われていたらしい年季の入ったバイクだった。取り付けられた前カゴにはビールケースに並べられた火炎瓶が収まり、走りながら投げられるようになっている。ナオミさんによると一番故障しにくいバイクで、いつか自分一人で脱出する時に備えて確保してあったらしい。

 ここから先は一人で行かなければならない。今エンジンを作動させたら音で感染者が集まって来るし、駐車場から飛び出す時に他の3人も一緒にいたら、感染者は僕ではなく彼女たちに向かっていくかもしれない。バイクに乗って駐車場から飛び出し、派手に辺りを走り回って感染者たちを惹きつける。それが僕の仕事だ。


 重いバイクを一人で押して駐車場の出口へと向かう。駐車場の出口は地上に繋がっているため、スロープを上に向かって押していくのはかなりきつかった。振り返ると結衣が手助けしたそうにこちらを見ていたが、それをやっては全てが無駄になるとわかっているのだろう。無言で僕を見送るだけだった。

 これから先は、また結衣と出会う前のように一人で行動しなければならない。だけど他人の命に責任を負わなくてもいいというのはかなり楽だ。もし僕が死んでもそれは自分の責任、結衣たちに被害が及ぶ恐れもない。


 息を切らしてバイクを押し、ようやく僕はスロープを登り終えた。駐車場の出口にあるバーを押し上げ、ナオミさんがあらかじめ開いておいてくれたシャッターから通りに出る。感染者が何体か通りをうろついているが、全く見当違いの方向を向いていて僕に気づいた様子はない。


「さて、ロックンロールといきますか」


 シートの後ろ、以前は籠を取り付けてあったらしい荷台の上には、ナオミさんが載せておいてくれたラジカセがバンドで固定してあった。僕はラジカセの電源スイッチを入れ音量調節ツマミを最大まで回すと、再生ボタンを押した。

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