壱ノ章

(これは――夢なの?)

 チヨは、現実を受け容れられずにいた。

 現実とは、因果のつらなりだ。原因があって、結果が付いてくる。だからこそ、夢の中のような支離滅裂しりめつれつな状況変化――例えば、自分の部屋が突如、別の場所に変わったりするようなことは有り得ない。

 ならば。

 十六年住み慣れた我が家が、木屑きくず瓦礫がれきの山に変わることだって、同様に有り得ないはずではないのか。

 昼食の材料の買出しから帰って、家の玄関をくぐろうとした時だった。突如、突き上げるような衝撃が、足元から襲って来て――気が付くと、この有様だった。

(何が、何が、どうなってるの――)

 この時、せめて周囲をうかがう程度の余裕があれば、何が起きたのかチヨにも分かったかもしれないが。

 あいにく、彼女は動揺のあまり、極度の視野狭窄きょうさくおちいっており、自宅以外は意識になかったのである。

(とにかく、お父さんに――)

 慌てて、自宅に隣接する店に向かう。

 父は書店を経営していた。昔気質かたぎの彼は、探偵小説などは低俗だと嫌って、硬い学術書しか置いていなかった。おかげで収入はささやかなものだったが、それでも親子の暮らしを支える基盤だったのだ。

 それが自宅と同様の状態になっているのを見て、チヨは暗澹あんたんたる思いだった。

(困ったわ、これからどうやって暮らしていこう)

 だが、そんな些細ささいな問題は、すぐに頭の中から消えた。

 店の残骸の下から、にょっきりと一本の手が突き出しているのに気付いて。

「お父さん!?」

 間違いない。あの袖は、父の和服のものだ。それは人形の手のように、ぴくりとも動かない。

「お父さん、大丈夫!?」

 チヨは無我夢中で父の手を引っ張り――。

「きゃっ」

 思わず、尻餅を着く。予想に反して、父の手があっさり抜けてしまって。

「え――!?」

 あっさり抜けたはずだ――

 ――父は、手だけになっていた。

『チヨ、この馬鹿者が!』

 時に叩かれ。

『チヨ、偉いぞ!』

 時にでられ。

 恐ろしくもあり、暖かくもあった父の手が、今はもう、ただの物体。

 家があり、父がいる。彼女の世界観はその瞬間、根底から崩れ去ったのだった。


 *


 1923年(大正12年)、9月1日、午前11時58分32秒。

 帝都を含む関東一円を、地震が襲った。

 後に言う、関東大震災である。

 相模さがみ湾北西沖80kmを震源とする、マグニチュード7.9、海溝型のこの地震は、日本災害史上最大級の被害をもたらした。

 死者・行方不明者14万2800人。負傷者10万3733人。住家全壊 12万8266戸。 半壊12万6233戸。

 さらに、発生時刻が昼食時であり、多くの家庭で火を使っていたことが災いし、火事も多発、44万7128戸が消失した。

 大日本帝国を名乗って以来三十年、西欧列強に追い着け追い越せと日本が築き上げてきたものは、わずか数十秒であっけなく崩壊したのである。


 *


 華の帝都。天皇陛下のお膝元、輝けるモダニズムの象徴。

 帝国ホテル、鹿鳴館ろくめいかん、浅草十二階、壮麗な西洋建築の合間を、鉄道や自動車が行きう。カフェーやダンスホールでは、洋装のモダンボーイ・モダンガールが恋を語らい、活動写真館では怪奇映画が人々を驚かせる。

 そんなきらびやかな光景は、もう人々の記憶の中にしかない。

 現実にあるのは、果てしなく広がる瓦礫の荒野と、亡者のような身なりの被災者の群れだ。

(あたし――どうして悲しめないんだろう)

 地獄さながらの光景を見つめながら、チヨは自問を繰り返していた。

 父が、唯一の肉親が死んだというのに、涙一滴出てこない。一体、どうしたことだろう。

(ひょっとして――)

 実は、自分も、父のように家の下敷きになり、とっくに死んでいるのではないか。それに気付かず、幽霊になって彷徨さまよっているのではないか。

 そうだ、それに違いない。自分が死んでしまったのだから、その上誰が死のうと関係ないという心持になるのも道理だ。

 あんまり多くの死人が出たものだから、三途さんずの川も混雑してしまって、順番待ちさせられているのかもしれない。死装束の死人たちが、さいの河原で押すな押すなと揉み合っているところを思い描き、チヨは空ろな笑みを浮かべた。

 それから数日間、チヨは何をするでもなく、自宅跡にたたずみ続けた。飢え死にしなかったところを見ると、おそらく買物かごに入っていた漬物をかじり、井戸水を飲んでしのいだようだが、よく覚えていない。

 なぜ、避難所に行かないのか。多分、動物が縄張りから出まいとする、本能のようなものだったのだろう。自宅とその周囲だけが、彼女の世界の全てだったから。

 しかし、今思えば、それが幸いしたのだ。おかげで、彼と行き違いにならずに済んだのだから。

 そう、世界の外からやって来た、運命の使者と。


 *


 その日も、自宅跡でぼうっとしていたチヨは、ふいに我に返った。

 周囲の光景から、あまりに浮いた人影を目にして。

(何かしら、あの人?)

 埃塗ほこりまみれれの被災者達とは対照的な、仕立ての良い洋装の紳士だった。燕尾えんび服という正式名称を、チヨは知らなかったが。

 服装だけではない。何気ない立ち振る舞い一つ一つが洗練されていて、気品が漂っている。きっと、偉い人に違いない。

(あんな人が現実にいるんだなぁ)

 こんな所に何の用があるのだろう。被災者の慰問いもんにでも来たのだろうか。しかし紳士は、被災者達には目もくれずに、ツカツカと優雅な歩みを続け――。

 チヨの前で立ち止まった。

「失礼します、田通たどおり書店はこちらでよろしいでしょうか」

 低いが、よく通る声だった。

「は? え、あの――」

 話し掛けられる等とは、夢にも思っていなかったチヨは、へどもどしてしまって、咄嗟とっさに返事が出なかった。

「は、はい、そうです」

「御店主は、どちらにおいででしょうか」

「――父は、亡くなりましたけど」

「お嬢様でいらっしゃいましたか。この度は、お悔やみ申し上げます」

 丁重に頭を下げられ、チヨは困惑する。なぜ、この人が父の死をいたむのだろう。

「申し遅れました。わたくしは金谷かなやと申します」

 さる地方の名家に、執事として仕えているのだという。

 年齢は――父より少し下か。しかし、よく見ると、丁寧に撫で付けた髪には、ちらほら白いものが混じっている。すらりとした長身と、ぴんと真っ直ぐな背筋のせいで、実際より若く見えるのかもしれない。

 切れ長の双眸そうぼう、真っ直ぐな鼻筋、丸みの少ない頬の線は、あたかも、ナイフで顔から無駄なものを削ぎ落としたかのようだ。

 主人の一部である自分に、個性など必要ないからと。

「お父上には、主が大変お世話になりまして――」

 金谷の主人は、何やら難しい研究にたずさわっているらしく、父はその手伝いをしていたらしい。手紙と小包のやり取りのみで、来店はしていなかったので、チヨは知らなかったのだ。

(お父さんが、そんな偉い人とお付き合いがあったなんて――それにしても)

 この金谷だって、チヨの目には十分偉い人に見えるのに、さらに上がいるのか。世の中は広いと思った、特に上下に。

「この度の震災でお困りであろうと主が申しまして、お迎えに上がった次第でございます」

「それは、わざわざどうも――」

 金谷の声があまりに淡々としているので、チヨは咄嗟に意味が飲み込めなかったが。

「車を用意してあります。半日程で着くでしょう」

「え?」

 ぽかんと、チヨの口が半開きになる。

「あの、行くんですか? その、金谷さんの、ご主人様のお宅へ――あたしが?」

「はい。帝都が復興するまで、どうぞ当家にご滞在下さい」


  *


 生まれて初めて乗る自動車の乗り心地は、快適だった。いや、快適すぎて、かえって居心地が悪いくらいだ。

「す、すみません、汚してしまって」

 ぴかぴかの革張りのシートに、自分から落ちた埃が付着しているのに気付いて、慌てて払う。

「いえ、どうぞお気になさらず」

 金谷の態度も、くつろげない要因の一つだった。自分などには、勿体もったい無いぐらい丁寧な言葉遣いではあるのだが、仮面のような無表情で、何を考えているのか窺い知れない。

 内心は、主人の命令だから仕方なく乗せてやっているのだぞ等と思っているのではないか。そう考えると、チヨはますます身を縮めるのだった。

 気を紛らわそうと、びゅんびゅんと過ぎ去る車窓の景色を見る。すでに帝都は遠く離れ、道路の周囲には森が広がっている。標高も上がっているらしく、夏用の着物では、少し肌寒いぐらいだ。

(こんなことってあるのかしら――)

 チヨはつくづく、運命の気まぐれさに呆れていた。

 つい数時間前まで、乞食のように生き長らえていた自分が、今は華族のお姫様のように運転手付の自動車に乗せられているなんて。

 状況が好転したのは間違いないが、嬉しいというより、狐にまれたような気分の方が強い。大体、いくら恩があるからといって、所詮しょせん父は小さな書店の主に過ぎない。執事を雇うような偉い人が、そんなに気に掛けてくれるだろうか。

 今にもドロンと煙を上げ、車が木の葉に変わるのではないか。半ば本気でそう思い始めた時だった。

 森の合間から、その村が見え始めたのは。

「うわあ――!」

 思わず素頓狂すとんきょうな声を上げてしまう。だが、無理もない。その姿は、山間の小さな村だと聞いて想像していたものとは、あまりに違っていた。

「あそこが――?」

「はい、佐羽戸さはと村でございます」

 佐羽戸村。金谷の主人が暮らす村。

 夕陽に金色に輝くのは、おそらく麦畑だろう。煉瓦れんが造りの家々は尖った屋根を被り、巨大な風車が山風を受けて優雅に回っている。

 柵で囲まれた牧草地では、日本ではまだ珍しい乳牛や羊が草をみ、牧羊犬がその周囲を走り回っている。

 村の中心に立つ建物は、どうやらキリスト教の教会らしい。鐘楼しょうろうから、涼やかな鐘の音を響かせている。

「まるで、外国みたい――」

 チヨの感想は、図らずも正鵠せいこくを射ていた。金谷の説明によれば、迫害から逃れてきた隠れ切支丹キリシタンが作った村であり、彼らをひきいていた宣教師によって、外国の技術と文化が伝えられたそうだ。

 日本が開国するずっと以前から、外国の文化を綿々と伝えてきた村。歴史のうねりが生み出した、日本中でも類のない村であろう。

 村人たち――ミレーの絵画に描かれるような、ヨーロッパの農民の服装だ――は、車が近づくと、必ず仕事の手を止めて会釈えしゃくする。

 金谷の主人の家は、村人たちを率いていた宣教師の血筋と言われており、代々教会の司祭を務めてきたらしい。のみならず、村のほとんどの土地を所有する大地主でもあるそうだ。

 まさに、信仰面と経済面の両方から、村を支配しているのだ。村人たちのうやうやしい態度も、納得できよう。

 車は、大名行列のように村人たちを平伏させながら村を走り、ついに目的地に辿り着いた。

「チヨ様、お疲れ様でした。あちらが、石守いしもり家本邸でございます」

 石守家。

 かの家こそ、金谷の主家、佐羽戸の要、そしてチヨの招き主だった。

(あ、あれ、お家――なの?)

 もう十分驚いたつもりだったが、甘かった。

 高い鉄柵の向こうに聳える建物は、なるほど、チヨの常識では、とても個人の住居とは信じられぬ代物だった。一度だけ遠目に見た鹿鳴館に、規模ではさすがに及ばねど、壮麗さでは肩を並べるのではないか。

 それぐらい、立派な洋館だった。

 全体としては、英国後期ゴシック様式の流れを汲むチューダー様式だ。銅版きのマンサード屋根の重厚さと、スクラッチタイル貼りの外壁の繊細さを、アクセントにもちいられた大華石が巧みに融合させている。

 などと言う専門的な評価はできるはずもないが、いかに金が掛かっているかはチヨにも想像できた。しかも、ここが山間の村であることを思い出せば、驚きは倍加しよう。全ては、石守家の莫大な富が可能にした奇跡なのだ。

「改めまして。石守家へようこそ、チヨ様。歓迎いたします」

 淡々とした金谷の声は、遥か遠くから聞こえてくるかのようだった。

(嘘よ、あたしなんかが、こんな所にご縁があるはずない)

 狐に化かされているのでないとしたら――そうだ、そうに違いない。金谷、あるいは石守家のご主人が、何か誤解しているのだ。そうでなければ、どうして自分などを呼ぶはずがあるだろう。


 *


 金谷の案内で――チヨには、連行されているように感じられたが――、噴水が飛沫しぶきを上げる広大な庭を抜け、壁に並ぶ猛獣のオブジェに威圧されながら進む。城門のような玄関ポーチを潜り抜け――やっと目にした内観が、駄目押しのようにチヨを圧倒する。

 入ってすぐのエントランスホールは、二階まで吹き抜けになっており、ここだけでも、父の店がすっぽり納まってしまう広さだ。白い壁紙とワインレッドの絨毯じゅうたんが対照を成し、木彫り細工のような階段が、優美な曲線を描いて階上に向かっている。くらくらするのは、シャンデリアがまぶしいせいではない。

 お疲れですかと金谷が椅子を勧めてくれたが、背もたれの透かし模様の見事さに、座るどころか手を触れることさえできなかった。隅から隅まで、美術品のように手が込んでいる。自分の汚い手が触れていい場所など、どこにもない。

 ステンドグラスの採光窓が、ベルベットのカーテンが、大理石のマントルピースが、自分を嘲笑っているかのようでたまらない。

『まあ、何でしょ、あの汚い小娘は』

『髪も服も、埃塗れ!』

『ここは、お前のような下賎げせんの者が来る所ではなくってよ!』

『ほほほ』

『くすくす』

(お、仰るとおりです、全部誤解なんです)

 早く言わなければ。しかし、誤解だとばれたらどうなるのかと考えると、恐ろしくて何も言えない。怒られる――ぐらいなら、まだいい。最悪、不届き者としょっ引かれてしまうかも。

 こちらに非はないという発想はできない。だって相手は、こんなお屋敷に住む“偉い人”なのだ。黒い物だって白いことにできてしまう、神のような存在なのだ――。

「まあまあ、可愛らしいお客様ですこと」

 春風のような声が、チヨの耳をくすぐった。

 廊下の角からその姿が現れた時、飾られていた彫刻が動き出したのかと、思わず錯覚した。

「チヨ様、こちらは女中のきぬです。御用がございましたら、何なりとお申し付け下さい」

(む、無理です――)

 この人に、物を命じるなんて。だって、女中だと説明されなかったら、てっきり奥様かお嬢様だと思っていただろう。そんな人なのだ。

 二十代前半か。しかし、纏う雰囲気は、実年齢の倍ぐらいの落ち着きをたたえている。

 長い睫毛まつげに飾られたアーモンド型の瞳、富士の稜線りょうせんのような鼻梁びりょう、唇はやや肉が薄いが、それがかえって、俗っぽい色気とは違う、神秘的な魅力をかもし出していた。

 この時代の女性としては、かなりの長身だ。おかげで、おそらく外国の女中のお仕着せであろう、独特の衣装――黒いドレスと白いエプロンを組み合わせたようなもの――も違和感なく着こなしている。

(金谷さんといい、この人といい――)

 使用人達も、この館に相応ふさわしい人達ばかりだ。その中で、自分の姿だけが、なんとみすぼらしく、周囲から浮いていることか。

 などと思っていたら。

「それでは、ご主人様にお知らせしてきます。絹、その間に、お客様のお支度を」

「お任せ下さい。さあ、お客様。お風呂が沸いていますから、どうぞ」

(え?)

 あれよあれよと言う間に、真っ白な陶器の浴槽に入れられ。

「洋服は初めてかしら? ウフフ、これなんてどう?」

(え? え?)

 絹が見立ててくれた、藤色のワンピースを着せられ。

「ほら、ご覧になって。まるでお姫様みたい」

(えええええ!?)

 桜色の口紅を引かれ、カメオのブローチまで付けさせられてしまう。

(あああ、こんなことまでしてもらって――)

 もう駄目だ、逮捕だ、懲役だ、いや死刑だ。

「金谷さん、お客様の準備が整いましたよ。ほうら、こんなにお綺麗になられて」

「お手数おかけしました、ご主人様のお部屋はこちらです」

 表面に彫刻が施された、一際厚そうなドアが、チヨの目には刑務所への入口に見えた。

 金谷の白い手袋が、軽やかなノックを響かせる。

「ご主人様、お客様をご案内しました」

(ひええ――)

 チヨは緊張のあまり、気絶寸前。

 そして、ドアの向こうからの返事に。

「おー、開いてるぜー」

 ――チヨの緊張は、一瞬で霧散した。

「――――」

 金谷の顔を見る。気のせいか、ついさっきまで完璧だった無表情が、微妙にゆがんでいる。

 その横では、絹がくくくと肩を震わせていた。

「――どうぞ」

「は、はい」


 *


 部屋に入ってまず目に付いたのは、どっしりした造りの執務机だった。その他の調度品も重厚さを強調したデザインで、部屋の主の威厳に、箔を付ける狙いがあるのだろうが。

 部屋の至る所に、塔のように本を積み上げていては、あまり効果がないのではなかろうか。

「もう、ご主人様ったら。お申し付け下されば、片付けましたのに」

「あ、あはは、つい夢中になっちまってさ」

 照れ笑いしているのは、声から想像した通りの――そして、声を聞くまでは全く想像しなかった――人物だった。

(まさか、こんなお若い人だったなんて――)

 どう見ても、まだ二十歳前だろう。ようやく、少年から青年に変わりつつある段階だ。

 きりりと吊り上った弓形の眉は中々凛々しいが、大きな澄み切った瞳や、頬骨の目立たない丸い頬は、まだまだあどけなさが抜けていない。

 若者らしい、均整の取れた体に纏う開襟シャツとズボンは、最高級の素材を使った一流の品では確かにあるのだが、着方があまりに適当で――。

「ご紹介致します。こちらは、石守家十七代目当主――」

 ――には、到底見えない彼は、金谷を遮って自ら名乗った。教室に始めて入った転校生のように、元気良く。

「石守栄太郎えいたろうだ、よろしくな!」

 今度こそ、金谷が誰の目にも明らかな溜息を吐く。

「――恐れながらご主人様、当主には威厳というものも必要かと」

「へっ、そんなもん背負ってても、肩が凝るだけだぜ。現に親父なんか、しょっちゅう肩が痛い肩が痛いって――」

 上方落語のような主従のやり取りに呆然としているチヨに、ひそひそと絹が囁く。

「そんなに緊張なさらなくていいのよ。偉い人と言ったって、実態はあ~んなものなんだから、ね?」

 石のように固まっていたチヨの全身に、再び血が巡り始める。

 改めて、三人を見る。金谷のお説教を、馬耳東風と聞き流す栄太郎。それを、くすくす笑いながら見物している絹。

(本当だ。あたしと同じ――)

 笑い、そしておそらく泣きもする。

(人間だわ)

「ほらほら、ご主人様。お客様の自己紹介がまだですよ。金谷さんも、お説教はまたの機会に」

 絹の遠慮のない物言いに、二人は慌てて居住いずまいを正す。立場的には一番下のはずの彼女だが、精神的には主人や上司よりも上らしい。

「た、田通チヨです。始めまして」

 まだ若干、声は震えてはいたが、挨拶はできる程度になっていた。

「ほ、本日はお招き、ありがとうございます」

「ああ、石守家へようこそ!」

 石守家の若き当主――栄太郎は、にっと白い歯を見せて笑った。何の飾り気もない、自然な笑顔。本当に、ごく普通の若者だ。だが、考えてみれば、それはすごいことだ。

 こんなお屋敷の御曹司、小さい頃から甘やかされ放題で、我儘わがままな子供のまま大人になってしまっても無理はないだろうに。余程親御さんの教育が良かったのか、それとも本人の素質か。

「あの、父がお世話になったとか――」

「はは、逆さ。世話になったのは、こっちの方だよ。ほら」

 さっきまで読んでいた本を、かかげてみせる。それは古めかしい和じ本で、文字も印刷ではなく、毛筆による手書きのようだった。

「あら、この本――」

「ああ、見覚えあるか? 田通書店さんに譲ってもらったのさ」

 父が倉庫の奥から見つけ出して、これであの方もお喜びになるだろうと言っていたのを覚えている。

「いや、助かったぜ。どうしても欲しかったんだけど、なかなか見つからなくてさ。おかげで、随分研究もはかどったよ」

「そうだったんですか――」

 懐かしい品を目にして、チヨはようやく信じられた。

 自分が確かに、目の前の彼に“招待”されたのだということを。

「だからさ、ほんの恩返しだよ。大した持て成しはできないけど、帝都が落ち着くまで、ゆっくりしていってくれよ」

「あ、ありがとうございます」

「腹減ってるだろ? すぐに飯にしようぜ」

「ご期待下さい。今日は腕を振るいましたよ」


 *


 金谷と絹は、普段は使用人控え室で食事しているらしいが、今日はチヨの歓迎会ということで、全員が真っ白なテーブルクロスが引かれた食卓に並んだ。あまり使用人を甘やかしては、などと金谷は呟いていたが。

 並べられた料理は、どれもこれも、見たことも聞いたこともないご馳走ばかりだった。

「こ、これは?」

「仔羊のお肉に、ワインで作ったソオスをかけてあるの」

「うまいぜ~、絹さんの得意料理なんだ」

 慣れないフォークとナイフを使って、恐る恐る口に入れると――。

「!」

 美味さのあまり気絶しそうになる、という貴重な体験をしたのだった。そんなチヨを見て、一同――金谷以外――が楽しげな笑いを響かせる。

 海亀のスープ、うなぎのパイ、デザートのプティング、どれも天上の美味だった。はしたないと思いつつ、猛然とがっついてしまう。ただでさえ、この数日間、ろくに食べていなかったのだ。

 ああ、美味しい。あまりに美味しくて――。

「え――!?」

 自分が涙を流していることに気付いて、チヨはぎょっとする。

「いやだ、ごめんなさい、あたし、何だか――何だか――」

 ぽろぽろ、ぽろぽろ、拭っても拭っても、止まらない。

 そんなチヨを前に、石守家の人々は――誰も驚かなかった。

 絹は、微笑みを浮かべて。

 金谷は、相変わらず無表情に。

 栄太郎は、ちょっとだけ格好付けて。

 けれど、三人とも同じ、優しい目でチヨを見つめている。

「いいんだ、チヨ――分かってる」

 一同を代表して、栄太郎が口を開く。

「親父さんのこと、本当に残念だった」

(お父さん――)

 ああ、そうか。チヨはようやく気付いた。

 自分が、父の死という現実を、受け止められずにいたことを。

 ――実は、自分も、父のように家の下敷きになり、とっくに死んでいるのではないか。

 そんな風に、生きる意志を放棄し、感情を麻痺させることで、その痛みを誤魔化していたのだ。

 けれど、今、数日ぶりに生きる喜びを思い出して。

 自分がまだ生きていることを実感して、そして父はもうこの世にいないことを痛感して。

 相反する想いが、涙になって溢れ出したのだ。

「あのさ、気持ち、分かるよ」

 え? と顔を上げる。栄太郎の声には、決して薄っぺらな同情ではない、同じ痛みを知っている者の、本物の共感があった。

「変だと思わなかったか? なんだって、俺みたいな若造が当主なのか」

 絹と金谷が、そっと目を伏せる。

「――死んじまったんだよ。親父もお袋も、5年前にな」

 思いも寄らなかった。こんなお屋敷に、あらゆる災いから守られていそうな場所に暮らす彼が、自分と同じ体験をしているなんて。

 栄太郎は、寂しげとも苦笑とも取れる、微妙な表情を浮かべている。

「全く、死者は勝手だよな――生者の事情なんか、お構いなしで逝っちまう。てめえは神様だか閻魔えんま様だかが、面倒見てくれるからいいかもしれねーけど」

 随分と不遜ふそんな、死者への冒涜ぼうとくにもなり兼ねない言い草だったが。

「残された方はどうすりゃいいんだよ、なあ?」

 一転、途方に暮れたような口調が、チヨの心を激しく共振させる。

 どうすりゃいいんだよ――そう、それだ、今の、この気持ち。

 お父さん、あたしどうしたらいいの――。

 ――この、痛みを。

「本当ですね――どうしたら、いいんでしょう――?」

 栄太郎は乗り越えたのか。その方法を知っているのか。ならば、ぜひ教えて欲しい。

「――分からない」

 そう言われても、チヨは落胆しなかった。気休めを言わないからこそ、信じられる。この人は確かに、この痛みを知っていると。

(この人は、あたしを分かってくれている)

「未だに、確信は持てないんだ。自分がちゃんと、両親の死を乗り越えたのかどうか――でも、まあ、こうしてそれなりにやれてるのは、金谷と絹さんがいてくれるおかげだな」

 恐縮するでもなく、金谷と絹は涼しい顔だった。それを見て、チヨにも分かった。彼らと栄太郎は、単なる主従ではなく、家族にも等しい関係なのだと。

 そして。

「だからさ、今度は俺が、誰かの力にならなきゃいけないと思うんだ。昔の俺と、同じ痛みを背負った誰かの」

 チヨとも、同じ関係を築きたいと、彼は言ってくれているのだ。

 たとえ短い時間でも、家族でいようと。

「チヨ、君を迎えるのは、半分は親父さんの恩にむくいるためだけど、もう半分は――」

 君のため、とはあえて彼は言わずに。

「――俺の勝手だよ。だから、遠慮はいらない。今日から、ここを自宅だと思ってくれよ、な? 金谷も絹さんも、そのつもりで頼むぜ」

「――かしこまりました」

「もちろんですよ。楽しくやっていきましょうね」

「はい――はい――!」

 ここに来て良かった、心からそう思った。

 まだ、胸は痛んでいる。しかし、きっと乗り越えられる。ここでなら。

 シャンデリアのきらめきが、涙でにじむ。もう、豪華な内装を見ても、嘲笑われているようには感じない。

 全てが光り輝いて、自分を励ましてくれているかのようだった。


 *


 こうして石守邸は、新たな住人を迎えたのだった。

 そんな様子を、それは村外れの丘から、無言で見下ろしている。

 今はまだ、その黒いおもてに何も映すこと無く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る