Ⅲ・失恋大作戦

 「……多分、ちょっと大味な塩チョコだと思われたんじゃないかな。……俺の想像だけど」

 サヤから送られてきた幸せいっぱいのメッセージを何度も読み返しながら、第一作戦の失敗を振り返る。

 好きです!これ受け取ってください!――と渡されたチョコレートをドキドキしながら食べてみれば強烈な塩味だった……なんて、上手いことドキドキはガッカリに変わり、お断りという流れになってくれるかと思ったのだが。

 「手作りのチョコレートならば単純に砂糖と間違えた、と思われたのかもしれませんし」

 「でもさー、気合入れて作ったはずなのに味付け間違ってるとか、ガッカリしないか?」

 「緊張しながら作ったからこそ間違いを起こしてしまった、と考えたかもしれませんよ。ああ、そういえば、日本人は塩味を特に好む人種らしいですね。その分、世界的に見ても胃癌の発症率が高いのだとか……」

 「ああー、分からん!恋愛ってのは本当に分からん!しかも最後の方、最近読んだ本の話にしただろ!?」

 初手が完璧だったとは言わないが、それなりの成功率を期待していたのも事実だ。何より、お付き合いが始まってしまったことで、今後の難易度が跳ね上がってしまったのも痛い点である。

 病気と同じだ。ひき始めならば治療に手間はかからない。こじらせてからでは治るまで時間も手間もかかる。『恋の病』とは言ったものだ。

 「ちなみにマラックスくん、恋愛経験は?」

 「聞きたいですか?私がまだ一頭の雄牛だった頃……」

 「あ、もういいです」

 「……そもそも、私よりコウスケさんの方が詳しいのでは?大学時代、彼女いたでしょう?」

 まだ将来の希望に満ち溢れていた頃の記憶が蘇る、

 「人恋しい冬の季節に告白されたと思ったら、開放的になる夏に振られた俺に!何を期待してるんだ!」

 「……すみません」

 「謝らないでくれ」

 「コウスケさんにも、いい人できますよ」

 「やめて、本当……」

 謝られた上励まされては、ただ情けなくなるだけだ。ちなみに同時期に彼女ができた級友は、夏になっても振られることなく続いていたので、彼女の扱いが上手くできなかったのだろうことはコウスケにも分かっていた。

 問題故明暗を分けることになった理由が理解できていない点である。乙女心というものがよく分からず、ひいては、どうすればサヤの恋を冷めさせられるのかも、いまいち想像できないでいた。

 悪魔の中には男女関係に影響を及ぼす者もいるが、あいにくマラックスが得意とするのは薬学の分野だ。おっとりとして粘り強い反面、理性的で冷たい印象を受けることもある。

 初めての彼女ができ浮かれていた頃、マラックスはコウスケが恋に一喜一憂するのがよく分からないという様子を見せていたのだ。もっとも、コウスケの六年間の大学生活を通じ、マラックスなりに現代の若者への理解を深めたらしく、最近は随分印象を変えていた。

 「もうこれは、『こんなんじゃ百年の恋も冷めちゃう!』みたいなシチュエーションを考えていくしかないか?」

 「それはアリですよね。自然な別れが演出できますし、上手いことお互いに冷めれば後腐れもありませんから」

 「問題はどういう場面で冷めるのか、ってことだよな」

 「個人差がありますからね」

 「あと、どうやってそういうシチュエーションを作るか?」

 「自然に任せるだけでは、どうしようもないですからね」

 「……やっぱり、魔術だよなぁ」

 今まで学んだ魔術を書き留めたノートを読み返す。魔法使いとして間もなく八年目に入るコウスケだが、記されている魔術は少ない。

 数少ない魔術の中、常用しているのはたったの一つ、週末の酔っ払い避けに閉店後の薬局に施す『姿隠しの術』のみだ。まさにペーパードライバーならぬペーパー魔法使いである。

 「今から新しい術を覚えるとしたら、どれくらいかかると思う?」

 「コウスケさんは魔術こそ覚えていませんが、大学生のころから私と魔力を共有して、魔力の精度を上げてきました。なので、あとは体力と気力の問題でしょうね。正直なところ、何とも言えません」

 魔術と魔力は切っても切れない関係にあり、大掛かりな術を使えばそれだけ消費する魔力も増え、無理をすればあっという間に枯渇してしまう。体力と同じく個人差のあるもので、生まれつき多い者もいれば、少ない者もいる。

 そこで考えられたのが、少しの魔力で術を発動するための手段だ。もともと人間の生まれ持つ魔力の量には限界があるため、量よりも力の純度を高くする方が効率よく術を扱うことができる。

 純度の高い魔力とは、即ち悪魔のそれだ。どうすれば悪魔の魔力に近づくかと言えば、方法は非常に単純で、魔法使いと使い魔がお互いの魔力を共有し、魔法使いの肉体に宿る魔力を少しずつ変えていくというものである。

 魔法使いとしては初歩中の初歩だが、使い魔を持つ一番の理由がそこにあり、全ての魔法使いが通る道でもある。勿論、コウスケも先人に習い、きちんとこなしてきた。逆に言うと、それくらいしかまともにやっていなかった。

 「魔力の純度は良くても、今からでは、手当たり次第に術を覚えている余裕もないでしょうし」

 「なんで?」

 「まず、一つ一つの魔術を覚えるのにもそれなりに準備が必要だということ。それから、トヨツヅラヒメ様の言う事件がいつ起こるのか分からないということです。……もし、一ヶ月もないのだとしたら、悠長に構えてはいられませんよ」

 もしかしたら、与えられた時間は少ないのかもしれない――考えると背中に鳥肌が立つ。教えられた事件発生までの流れを考えれば、ここ数日で起こるということもないだろうけれど、それも確証がない。

 果たして間に合うのだろうか。いや、間に合わせるのだ。そのために効率良く計画を立てなければならない。

 「……そうだな。急ぐに越したことなさそうだ」

 タイムリミットが分からないということも頭に入れつつ、コウスケは恋人がいた頃を振り返りながら『百年の恋も冷める瞬間』のシチュエーションについて想像を巡らせる。

 例えば、デートの最中に家族と鉢合わせてしまい、しかもその印象が最悪とかはどうだろう。学生ならば付き合い始めてから成績が急落するというのも、関係を解消するきっかけになるかもしれない。

 浮かんでは消える案は様々だが、一つだけ共通していることがある。

 「……ろくでもねえことばっかだ、これ!!」

 分かりきっていたとは言え、冷静に考えるほどに辛くなるようなことばかりだ。しかし、そもそも人の恋路にちょっかいを出し破局させようとしているのだから、ろくでもないことをしなければならないに決まっているのである。

 しばらくの間、使命感と良心と情けなさを行ったり来たりしながら、思いつくままにノートに書いたり、想像を巡らせて悶えてみたりした。

 「……なんです、その格好は」

 「何をしているように見える?……あ、その蔑むような眼差しはやめてください」

 「なら、ソファーから転げ落ちて床に這いつくばってノートにミミズがのたくったような字を書くのは止めてくださいね」

 指摘を受けてのそのそ起き上がる。

 「それで、何か妙案は浮かんだのですか?」

 「妙案って言うほどじゃないけど、まあいくつか。一番はやっぱり成績下げるとかさ、付き合い始めてから目に見える実害が出てきたって思わせることかな、と」

 「確かにサヤさんは春から高校三年生ですし、この時期に成績が下がったとなれば恋愛は二の次になってしまうでしょうね」

 「だろ?ってか、サヤと彼氏くんの間にしこりを残さずに何となーく別れる雰囲気に持ってく良い方法って限られてるよな。それ以外だと、誰かが損する形になるんじゃないか?」

 「まあ、まずはやってみましょう。……場合によっては、損を被るのを避けられないことぐらいは、覚悟しておくべきですね。ところで、サヤさんのお相手ってどなたなんですか?」

 そこで、コウスケは初めてサヤの彼氏というのが、どこの誰なのか知らないことに気付く。はっとした表情を見て、マラックスも彼の主人が肝心の部分を把握していないことを知った。

 「ご、ご存知ない……?」

 「いや、だって……彼氏誰?、とか聞いたら、すごいシスコンの兄みたいじゃないか」

 しかも、血縁関係の無い、年齢の離れた妹である。下手をすれば、コウスケがサヤに横恋慕しているように受け取られかねない。

 周囲からの冷ややかな眼差し、そして変な噂を立てられて、間もなく薬局には閉店の張り紙が――最悪の想像が脳内を駆け巡る。

 「いやだあっ!」

 実母に勘当され、義父から職場兼住居である薬局を追い出されたところまで妄想したところで、コウスケは悲鳴を上げた。

 「何を考えているのか、時々分からなくなる方だ……。とにかく、嫌ならまずは準備をしなければなりませんよ」

 「……そうだな!」

 「学力に影響を及ぼす方法は、既にコウスケさんが覚えている『姿隠し』の応用が効くはずです。効果がどれほど出るか、今の段階では何とも言えませんが、こちらがすぐに実行できるという点では、現実的で良い案だと思いますよ」

 「え、『姿隠し』?そんな術で応用できるのか?初歩魔術じゃないか」

 「隠すということは、対象への認識をあやふやにさせるということです。勉強するべき内容を認識できなくなったら、学力の低下は免れないかと」

 続けて、全ての悪魔が使う基本中の基本である『姿隠し』を甘くみてはいけない、とマラックスの説教が始まるが、早速希望が見え始めていたコウスケの耳には、あまり届いていなかった。

 「よし!じゃあ、あとは相手の名前だな!」

 「私の話、ちゃんと聞いてましたか?……ふむ、私が姿を隠して探ってくることもできますが、折角の機会ですし、新しい使い魔を持ちましょうか」

 どんな時でも教育を忘れないマラックスである。

 根が真面目である彼は、恐らくコウスケが魔法使いとして生きてきた時間に対し、あまりにも経験が不足していることを考慮したのだろう。今回の件を通じ、今まで以上に使い魔として――いや、一人の魔法使いを育てる悪魔として意識を強く持つことにしたようだ。

 「新しい使い魔って言っても、誰を?俺の星座、出生時間からすると、マラックス一択になるけど……二人目はさすがになぁ」

 日本の神々が一柱で複数の分霊を持つように、悪魔たちも霊体をいくつもに分けることができる。コウスケの召喚したマラックスも沢山の分霊の一人に過ぎない。逆に考えれば、もう一人増やすこともできるということだ。

 ただし、召喚には当然、二人分の魔力が必要になる。

 身近な悪魔と言えば、マラックスと実家にいるグラシャラボラスくらいしかしらないコウスケとしては、新しい使い魔を持つということには興味があった。だが、やはり自身の消耗を考慮すると悪魔二人分は荷が重い。

 コウスケの訴える不安を、マラックスはすでに理解していたというように頷いた。

 「普段の二倍も魔力を消費するようなことを勧めたりはしません。私二人分だなんて……例えばジョギングでも、前準備もなく距離や速度を倍にして、今までどおりの消耗では済まないでしょう?魔力も同じですからね」

 悪魔のトップであるルシファーや六副官に比べれば下級だが、マラックスとて悪魔七十二将の一人だ。彼を使い魔にするために必要な魔力は、決して少なくない。

 「……いや、でもコウスケさんならば、あるいは……」

 「え、何?」

 「何でもないです。手軽に扱うならば、その辺にいる『地霊(ノーム)』を手懐けるのが一番でしょう」

 何かを言いかけたマラックスは、しかしコウスケが尋ねると話題を変えてしまった。追求するつもりもないので、コウスケは彼の振った話題に乗る。

 マラックスとは決して短い付き合いではない。彼が伝えなくてもいいと判断したならば、その判断に任せようと思ったのだ。

 「ノーム?」

 「妖精の一種、とでも言いましょうか。精霊や妖魔と言われるほど強くない程度の……とりあえず、やってみましょうか」

 「よーし、久しぶりに書くぞー」

 「あ、魔法円と魔法三角は不要ですよ」

 大きな模造紙に赤いクレヨンで、久し振りの魔法円を書く気満々のコウスケをマラックスが留める。

 ちなみに昨今の魔法陣は、血ではなく赤い蝋で書くのが一般的だ。血液は準備も後始末も面倒な上、魔法陣が生臭くなると悪魔からも評判が悪い。

 「ちょっと待ってくださいね。……あ、いたいた」

 まるで空気を摘むようにマラックスの指が動く。指先に奇妙な空気のゆらぎを感じ、コウスケはじっと何もない空間を見据える。それこそ、穴を開けるつもりで、そこに何かがあると信じて見つめた。

 「……うわっ!」

 「あ、見えました?これがノームです。思ったより可愛くないでしょう?」

 言う通り、姿を現したノームはファンタジックな妖精よりも、ぼろを纏った小人に近い姿をしていた。体型も痩せぎすで、健康的とはとてもではないが言えない。

 コウスケと目が合うと、まさか自分たちが見えているのかと慌て始める。あたふたする様は可愛らしいが、やはりみすぼらしい格好には違いなかった。

 「コウスケさん、最初に私を召喚した時と同じように、彼らにも魔力を与えてください。妖精や地霊の持つ力は貧弱ですから、簡単に魔力で餌付けできますよ」

 「よ、よし!」

 初めてマラックスを召喚した時、まるでエネルギーの塊を目の前にしたようだと思ったのを覚えている。

 人間の体とは比べ物にならない魔の力は、コウスケの力を吸いとってしまうのではないかと恐れを抱かせるほど強く、鮮烈だった。しかし、魔力の流れに逆らわず意識して放出する方が楽になると教えてくれたのも、あの日のマラックスである。

 目を閉じて感覚を思い出すと、間もなく足元に複数の小動物が擦り寄るような感触があった。

 「懐きましたね。これで簡単な命令ならば聞いてくれますよ」

 「へー……じゃあ、これ、この写真の女の子の彼氏を探して、それから……」

 「あ、そんな難しいのはダメですよ」

 「え?」

 「だから、彼らに人間の群れを観察して、関係や立場というものを見分けるほどの知能がないんですよ。人の顔くらいは覚えられるはずですが」

 「つ、使えねー……!」

 手軽に扱える分、高性能ではないということはよくある。安かろう悪かろうだ。けれど、ここまでお馬鹿さんなのは想定外である。

 「ま、まあ顔は覚えられますから!ね?ノームたちにサヤさんの一日の様子をこっそり写真にでも撮ってきてもらうとか……」

 がくりと肩を落としたコウスケに、慰めにもならない提案が出された。

 「ああ、うん。……て言うか、それぐらいしかできないよな?」

 「で、でも扱いやすいでしょう?魔力の消費も少ないから疲労感も無いでしょうし」

 「……確かに」

 足元でわらわらしているノームたちは、コウスケの魔力を貰った分、最初に見た姿よりも幾分か生き生きして見える。複数の相手に魔力を与えたにも係わらずぴんぴんしているのは、マラックスの指摘通りだった。

 「よし、じゃあ改めて。お前たち、この写真の女の子が一日生活している間、よく一緒にいる人物の写真を撮ってきてくれ」

 デジタルカメラの使い方を説明して――といってもボタンを押すくらいだが――『姿隠し』でカメラを見えなくする。ノームたちは見えなくなったカメラを受け取り、自らの姿も消した。

 「あ、見えない」

 「だから言っているでしょう?姿を消す術は基本中の基本だ、と」

 「……はい」

 初めて『姿隠し』を覚えた時には、一端の魔法使いになれたと胸を躍らせたものだ。

 けれど、ノームでも使えるような魔術でいきがっているのでは、スタートラインから一歩も踏み出せていないも同然だ。再びがっかりと落ちたコウスケの肩が軽く叩かれる。

 「いつもより少しだけ疲れやすくなっていると思いますから、無理せずにいてください」

 「ああ、ありがとう。けど、今のところ、本当に何ともないんだ」

 既に放出した魔力の流れも安定し、体は軽い。魔力を多く失った時、空腹を覚える魔女もいると聞くが、それもなかった。

 「……もしかして、俺、結構魔力あるのかな?」

 少しばかりテンションを上げているコウスケの隣で、マラックスは何とも言えない、何かをためらっているような眼差しを向けていたが、コウスケがそれに気付くことはなかった。

 

 残雪も水に姿を変え、春の陽気に包まれた薬局の中、コウスケは一人溜息を吐く。折角の休憩時間まで辛気臭くなる、深い溜息だった。

 「……三井さん、土曜日っていつもどうしてるの?」

 「え?な、なんですか?」

 常は土曜日に休んでいる三井は、突然予定を尋ねてくるコウスケに質問で応じた。確かに、捉え方によっては誘いかけるような言い方になっていたことに気付き、コウスケは慌てて付け足す。

 「いつも、土曜日は妹が手伝ってくれてたんだけれど、しばらく来ないことになってね」

 「あ、あー!そう言えば、もう高校三年生でしたっけ?忙しい時期になりますもんねぇ」

 「うん……」

 それに彼氏もできたんですよ、とは言えずコウスケは昼食用のサンドイッチをかじった。いつものように、マラックスのお手製の弁当である。つくづく、悪魔にしておくには勿体無い才能があると思う。

 サヤから連絡があったのは、今朝のことだ。もっと勉強の時間をとれるよう、土曜日に手伝いに来ていたのをしばらく止めると言うのだ。

 まさか「彼氏と勉強する時間を増やすならばダメ」なんて言うこともできず、コウスケは一も二もなく了承した。受験生の勉強の邪魔をするなんて、よほどの理由があってもそうそう許されることではない、というのがコウスケの考えである。一応、コウスケなりに邪魔をしたい理由があるのだが、相手に理解してもらえないのでは無効だ。

 「うーん、そうですねぇ……」

 考える素振りを見せる三井は、しかし答えを渋っている。明らかに、土曜は出勤したくないという風だ。

 「無理なら大丈夫だから」

 いくら雇用主という立場でも、従業員に強制するつもりは無い。

 土曜日の営業をしばらく中止するなり、新しいバイトを雇うなり、手段はあるのだから。

 「マラックス、レジ打てる?」

 閉店後、早速新しいバイト候補に声を掛けてみる。当たり前だが、マラックスは驚きに目を丸くした後、呆れたように首を横に振った。答えはノーのようだ。

 「……もう千年単位で悪魔やってますけど、レジ打ちができるか聞かれたのは初めてですよ」

 「つまり、無理ということだな」

 「覚えろというならやってはみますが……私、変身術は苦手なんですよね。さすがに、この牛頭のまま店に立つのはダメでしょう、店長?」

 「ダメだな」

 いくら物腰が柔らかくても、身長二メートル近くの男を牛頭のまま店先には置けない。

 ちょっと考えた後、マラックスは何か呪文を唱えて自らの頭部を人間のものに変えるが、すぐに「疲れました」とぼやいて元の牛頭に戻ってしまった。

 「しかし、何だってまたそんなことを?」

 「今朝方、サヤから連絡があったんだけれど、受験勉強のために薬局の手伝いにくるのをしばらく止めたいんだって」

 「ああ、なるほど、三井さんに土曜の出勤を断られたんですね。……あの、言ってはなんですが、本当に受験勉強のためだけだと思ってます?」

 「……思ってません!」

 勿論勉強だってするだろう。しかし、図書館デートなどの名目で恋人と一緒に過ごす時間が増えるだろうことは、疑う余地もない。例え忙しくたって、受験生の恋人同士が一緒にできることはあるのだ。

 「思ってないけどさー、勉強するって言われちゃうと俺からはどうにも……!」

 「私たちの都合で言えば、勉強時間を増やしても成績が下がることで、存外早く別れてくれると楽なんですけどね。……おや?」

 「んっ?」

 足元に何かが掠める。椅子の下をちょこまかと走り回る気配を辿ると、数日ぶりにノームたちの姿が見えた。

 「お!戻って来たなー」

 いくつもの小さな手がデジタルカメラを支えている。差し出されたそれを受け取ってみれば、既に充電が切れていた。

 「げっ、いつ頃切れてたんだろ」

 起動したパソコンにSDカードを差し込む。しばらくコウスケの足元にまとわりついていたノームたちは、マラックスから夕食用に用意していた牛しゃぶの切れ端を貰って更に騒がしく動き回る。

 「あー、これが彼氏っぽいな。名前は……ヒロトくんか」

 ピントが合っていなかったり、見切れていたり、とにかく撮るだけ撮ってきたと言わんばかりの動画の中に、どうにかサヤとよく写っている人物を見つける。

 『ヒロトくん』とサヤが呼んでいる相手が恋人だろう。映像をマラックスにも見せてみれば、やはり彼も同じ印象を抱いたようだ。

 「マコさん、と呼ばれている方が、サヤさんと特に親しく見えますね。どんな方か、ご存知ないですか?」

 「分かんないなぁ」

 記憶にない名前だ。妹とは歳が離れているせいで、あまりお互いの交友関係に干渉してこなかった。気楽な関係が裏目に出てしまったようだ。

 「……トヨツヅラヒメさんが言ってたのは、きっとこの子のことだよな。後々変なカルトに引っかかるって……」

 画面の中で、サヤと笑い合う少女の姿を見る。ゆるいくせっ毛のミディアムを揺らし、授業中には薄いメガネを掛けている、大人しそうな女の子だ。

 サヤと昼食を一緒にしている姿や、移動教室のために並んで歩いている姿。友人と穏やかに過ごしている日常の一部のはずなのに、笑顔の下に友情と恋の間で揺れる心を隠しているのだ。

 「……複雑だなぁ」

 「けれど、決めたことですからね。途中退場は無しですよ」

 「……分かってるさ」

 そうなのだ。やらなければならないのだ。

 

 こっそりとサヤに魔術を掛けたコウスケの元に、術の効果を示すように見えて落ち込んだ様子のサヤがやって来たのは、三月の始め、二月末の考査結果が出た頃だった。

 「お兄ちゃん!勉強教えて!」

 「どうした突然。何かあったのか?」

 妹を案ずる自分の声が白々しい。

 「……実は、あの、この前の考査結果が……すっごく悪かったの」

 わざわざ薬局が閉まったのを見計らい、二階の住居スペースに駆け込んできたサヤは、赤点ばかりが並ぶ解答用紙を握りしめていた。

 「うわ、ひどいな……」

 真面目な妹らしからぬ点数に、わざとらしく眉間に皺を寄せる。渋い表情の兄を見て、サヤはますます顔色を悪くした。

 「いつも通りに勉強してるつもりなんだけど……気がつくとぼーっとして、授業は頭に入ってこないし、試験前の勉強も焦ればせるほどワケ分からなくなって、しかも、テスト中まで気を抜くとすぐに答えを書く手が止まっちゃうの」

 「……疲れてるんじゃないか?調子悪い時もあるさ」

 作戦通りならば「彼氏ができて気が緩んでいるんじゃないか」と忠告するところを、どうしても言えずにサヤを取り成してしまった。

 突然のサヤの来訪に、慌てて姿を消したマラックスだが、彼の視線が「予定と違う」と訴えるのが分かる。

 「そうかな、また成績戻って来るかな?」

 「う……サヤの頑張り次第じゃないかな?」

 「でも、このままだったら?私、お兄ちゃんと同じ大学に入れるよう頑張ってたのに、このままじゃ……!」

 「え、同じ大学?」

 まさかの志望校にコウスケは耳を疑う。そんな話は初耳だ。

 「あっ、えっと、実は、私もお兄ちゃんと同じ大学に行って、薬剤師目指してみようかなって考えてて……ああ、言っちゃったよー……」

 合格するまで内緒にしておきたかったらしいサヤは、自らの失態に頭を抱えて、頬を赤くしている。愛らしい姿だが、現職の薬剤師としてのコウスケは微妙な気分になってしまう。

 「えー、俺は勧めないぞ、こんな仕事。薬局手伝ってれば何となく分かると思うけど、面倒な客も来るだろ?儲かってると思って嫌味言ってく患者もいるしさぁ……」

 「それでも、一生懸命働いてるお兄ちゃんはすごいなって思うよ。それに、前にクレームのお客さんから庇ってくれたところも、カッコ良かった!」

 思いがけない賞賛だった。

 人間を相手にした仕事だと、理不尽なクレームや処理能力以上の要求を受けるのは従業員として当たり前だと思い込んでいた。当たり前のことだから、誰からも評価されないものなのだと思っていたのに、こうして褒めてくれる相手がいるというのは、コウスケにとって嬉しい驚きだった。まして相手が可愛い妹ならば、尚更だ。

 「あとね、実はヒロくんも……えっと、彼も同じ大学志望なんだ。学科は違うけど同じ目標だから、一緒に頑張ろうって言ってて」

 妹の目標に慣れて嬉しい――と打ち震える胸が冷めていく。動機とし不純ではないのだが、どうしても実はそっちが本当の理由なのではないかと勘ぐってしまう。

 「そうかー、彼氏もかー……」

 「うん。お兄ちゃんのこと話したら、やっぱり志望校の先輩だからかな、すごいって言ってたよ!」

 すごい。便利でいまいち中身の入っていない褒め言葉だ。

 しかし、まさか既にコウスケの存在を彼氏に明かしてしまっていたのは予想外だった。うっかり顔を合わせることになったら、相手に先に「お噂はかねがね……」みたいな反応をされてしまうのだ。

 ひとしきり兄に話を聞いてもらってすっきりしたのか、サヤは笑顔になり、テーブルの上の夕食を確認してから――兄が自炊しているのか気になったらしい――帰っていく。

 その姿を窓から見送りながら、コウスケは姿を現したマラックスに泣きついた。

 「無理!この魔術これ以上サヤに掛けらんない!」

 宥めるようにマラックスが牛肉の佃煮を差し出す。生姜の効いた特製だ。

 「ダメですか」

 「効果的、だとは思う。多分、続けてれば勉強の方に気が向いて、恋愛どころじゃなくなると思う。でも、無理。あんなに頑張ってるのに……!」

 「ですが、そうなると……」

 マラックスが、『サヤの失恋作戦』を書き付けたノートを手に取る。

 「あとは、コウスケさんが体も世間体もはらなければならない作戦ばかりですよ」

 「……いいよ、仕方ないだろ。前にも言ってたけど、タイムリミットが見えない状況で、悠長に魔術を覚えていられる余裕もないし」

 「……では、これを実行するんですね?」

 「ああ」

 「……『妹のデートに突然乱入する』、『彼氏の前でシスコンアピールする』……これを、実行されるのですね?」

 「よ、読み上げないでくれ……」

 「自分で書いておいて……」

 「分かってるから!それに、二言はない!やります!」

 本当は、デートに乱入するなんて途方もなく勇気がいるし、シスコンアピールをした後に血縁関係が無いことを知った周囲の人間から誤解を受けるのだって嫌だ。特に後者は最悪だ。事情を知っているキリハはともかく、義父――つまりサヤと血縁関係のある親の方は、胸中穏やかでいられないだろう。彼とは比較的良好な関係を作ってきたので、あらぬ誤解をされるのは本望ではないのだ。

 「ほ、ほら、えっと……何か言われたら、それこそ恋愛にうつつを抜かしてテストの点数が下がった実績を作りましたし、心配し過ぎてしまったように装えばいいんじゃないですか?……ダメ、ですか?」

 自信に満ちた表情で「やります」と宣言した直後、顔色を変えながら百面相しているコウスケを見て、さすがに悪魔でも気の毒に思ったらしい。マラックスが万が一の場合にできる、精一杯の言い訳を考え出してくれた。

 「……うん、ありがとうな」

 最悪の状況下で、その言い訳で周囲を納得させられるか否かは単にコウスケの信用にかかっているのだ。自分自身の信用というものがどれほどのものなのか、知る由もないけれど。

 しかし、第一作戦の継続が不可能になった今、第二作戦の効果に期待するより、コウスケが取れる手段は他にないのだ。

 

 その第二作戦は、キリハからサヤの外出予定を確認してから決行された。

 日曜の朝、友達と勉強すると言って出掛けたという連絡を受け、コウスケとマラックスは後を追うべく飛び出す。

 「友達だと思うか?」

 「半々、ですかねぇ。本当にお友達の可能性もありますし」

 「半々だったら、半分は彼氏の可能性があるじゃないか!」

 「非常に個人的な意見を言わせていただければ、私はどっちでもいいですね。彼氏だったらデートの邪魔をする、友達だったら撤退で済むんですから」

 「そ、そうだな……」

 もし本当に友達と一緒だったら、二人の邪魔をするために割って入らなくても済む――その可能性は、少しコウスケの気を楽にする。

 最寄駅から電車に乗り込むまで、サヤは誰とも合流せずに一人だった。行く先を確認して同じ電車に乗ったコウスケは、サヤの行き先に早々に目星がつく。

 弟月市と隣の稲苗(いななえ)町の境目近くに、日曜でも開館している図書館があるのだ。それほど新しくもないが、最近では少なくなった自習スペースも広く取られている造りで、学生には人気がある。

 コウスケも、大学の自習室では人目が多いからと言って、当時の彼女と一緒に試験勉強などに励んだ思い出の場所である。

 なんとなく甘酸っぱい気持ちになりながら、到着した駅の改札口を出て行くサヤを探す。

 座席を探す振りをして車内を見渡すと、思った通りサヤの姿を見つけた。駅で誰かと待ち合わせているかもしれないという予想に反し、サヤは出口からさっさと出て行ってしまう。迷うことなく進む足取りは、やはりあの図書館を目指していた。

 「……あ!」

 図書館の前に、見覚えのある少年が待っていた。ヒロトだ。

 彼を見つけたサヤも、サヤを見つけたヒロトも、嬉しそうに手を振り合い、揃って図書館の中へ向かう。

 「やっぱりデートだった……!」

 物陰から初々しい恋人たちを見守り歯噛みするコウスケは、完全に不審者だった。

 「ある程度は予想していたでしょうに」

 「しかも現地集合ときた!」

 「現地集合の何が悪いんですか、まったく……」

 予想はしていたし、現地集合も何も悪くない。ものすごく複雑な心境のコウスケが、むやみやたたらに難癖をつけたいだけである。

 「ほら、行きますよ!ぐずぐずしない!」

 マラックスに背を押され、コウスケはようやく建物の中へと足を踏み入れた。

 休日の図書館には、親子連れや学生の姿がちらほら見えるが、やはりわざわざ日曜に訪れようという者は少ないのだと分かる程度には静かだ。静寂を壊さないよう、足音を忍ばせて懐かしい場所に向かえば、学習スペースの机の一つに陣取って、ノートや参考者を広げるサヤたちの姿が見える。

 追加で友人が加わった様子もなく、二人きりで時折囁き合っては、小さく笑っているようだ。

 「ほら、頑張ってください!」

 「よ、よし!」

 目の前の幸福な光景を打ち壊すべく、コウスケは本棚の影から身を乗り出した。片手には本を持ち、いかにも偶然図書館に来ていたのだと言わんばかりの笑顔で近付いて行く。

 しかし、その足は何者かの手で後ろに引っ張られた。

 「ねえねえ、遊ぼう」

 「お兄ちゃーん、遊んでよ」

 「え、え?な……?」

 幼稚園ほどの子供二人がコウスケのズボンを力任せに掴んでいる。

 「ちょ、やめ……どっか行けって」

 身も知らぬ子供に構ってやる理由はない。振りほどこうとするコウスケに、子供たちは尚まとわりついた。

 「あーそーんーでーよー!」

 「お兄ちゃーん!ねーえ!」

 しかも、遊べと訴える声は次第に大きくなっていく。

 何故こんなに懐かれるのか、原因が分からず困惑するコウスケをよそに声はどんどん甲高く、癇癪を起こしたようにきんきん響いた。すでに、何人もの視線を集めて始めている。

 「ちょっと、よろしいですか?」

 見かねた図書館職員がコウスケと子供たちを外に引っ張り出す。玄関ホールまで連れて来られて尚、子供たちは遊びをせがむことを止めなかった。

 まるで、わがままで躾のなっていない様子に、職員は露骨に眉をしかめる。

 「困ります、図書館では静かにするようにしていただかないと」

 「いや、この子たち、俺とは何の関係も、ないです」

 「ですが……」

 無関係だと主張するコウスケの隣で、お兄ちゃん、お兄ちゃんと呼ぶ声が聞こえる。

 しかし、親しげに呼ばれても、こんな子供たちは知らないのだ。それを伝えると、職員は胡散臭そうにコウスケを見つめた後、「今度から気を付けてくださいね」とだけ言い残して、仕事に戻って行った。

 途端、騒ぎ疲れたのか、子供たちはぴたりと騒ぐのを止め、コウスケのズボンから手を離す。もっと早くにそうしてくれればいいのに。これでは、もう戻れないではないか。

 「……何なんだよ、知り合いでもないのに、なんだって俺に遊んで欲しいんだよ!?」

 困惑を怒りに変えて、コウスケは子供たちに言う。本当は怒鳴りつけて、尻の一つもひっぱたいてやりたいくらいだ。

 「別にお前と遊びたくないよ、バーカ」

 「さっさと帰ればー」

 「なっ……!?」

 コウスケの強い語気に怯むどころか、馬鹿にする口調で舌を出してみせる。これには、コウスケも穏便なままではいられない。

 「この悪ガキどもっ!」

 「悪くないもーん」

 「天使さまの言うこときいただけだもーん」

 コウスケを嘲笑う子供たちは、捕まって叱られるのはごめんだとばかりに、ばらばらに走って逃げていく。身勝手な彼らの後ろ姿を見送りながら、コウスケはもう呆気にとられる思いだった。

 「なんだったんだ、あいつら……」

 「天使、と言っていましたね」

 「ああ、何のことだろうな」

 子供がいたずらの言い訳にするには、奇妙な単語だ。『天使』なんて、あの年頃の子供が意味を理解して口にするだろうか。理解していないなら、尚のこと妙だ。

 特に、かつて天使たちと創世記戦争を戦ったマラックスは、あまり良い思い出のないものらしく、明らかに困惑している様子をしている。

 「……最近、その手の噂が流行っているとかないですか?」

 「噂?」

 「ええ。一昔前の、『口裂け女』とか『ヒサルキ』みたいなやつですよ。目撃証言だけ沢山ある謎の存在とか、何か不可解なことが起こると“なんとかのせいだ”と子供が口を揃えて言うような何かの……」

 「ううーん、聞いたことないなぁ、天使の噂なんて。そもそも、俺、そんなに耳が早い方でもないし」

 「そうですか……」

 「気になるか?」

 「ええ」

 マラックスははっきりと答える。噂なんていう信ぴょう性のないものを気にするなんて、彼にしては珍しい。

 「大人と違い、子供は物事に経験則を持ち込まず、ありのまま処理してしまうことが多いですから。『天使』も何かの隠喩(いんゆ)でなく口にしているならば、あるいは……」

 「マジで天使がいるって?そう思うのか?」

 「私にも断定はできません。気にするなと言われればそうしますが、気にならないわけではありませんから」

 「……と言っても、あいつらさっさと逃げちまったし……」

 聞こうにも、聞ける相手がいないのでは、仕方がない。

 「あ、そうだ、アイツ。アイツに聞こう」

 噂とやらの追跡を諦めようとした時、ある人物が脳裏に浮かぶ。

 「お詳しい方がいらっしゃるのですか?」

 「いや。でも、安東(あんどう)ナツミがこの近くに住んでたはずだ。あいつなら、この辺の噂に俺よりも詳しいだろ」

 「ああ、あの魔女ですか。以前、魔女界の定例会でお会いしたような」

 「そう、その魔女。確か、ショッピングセンターに勤めてる」

 「ショッピングセンター?」

 昨今あちこちの郊外に建設されている大型ショッピングセンターは、この稲苗町の片隅にも居を構えている。衣料品から生鮮食品まで、何でも揃うを謳い文句にしているだけあって、勿論薬局も併設されていた。

 その薬局に勤めているのが、安東ナツミだ。魔女であり薬剤師でもある彼女は、コウスケにとって二重の意味で同僚である。年齢も近いこともあり、頻繁ではないが、時々連絡も取り合っていた。

 図書館とは比べ物にならないほど混雑した店の中、あくせく商品を並べる白衣の背中位声を掛ける。

 「すみませーん、ちょっといいですかー」

 「はーい、いらっしゃいま……何だ、矢幡くんか」

 笑顔で振り返った薬剤師は、客がコウスケだと気付くと接客用の表情を切り替えた。胸の名札には『あんどうなつみ』とある。目当ての人物だ。

 「え、何か用?零売(れいばい)じゃないよね?連絡貰ってないし」

 「違う違う、薬を分けてもらいに来たんじゃない」

 「あーそうよねー、世間は日曜だもんねー。矢幡くんのことはお休みなのねー。いいですわねー」

 コウスケが休みだと気付くと、ナツミの態度は目に見えて悪くなる。同業者でありながら、職場の環境で日曜でも出勤があるのは気の毒だが、コウスケとて暇ではない。

 ナツミの嫌味をいなしながら、コウスケは本題を切り出した。

 「安東にちょっと教えて欲しいことがあるんだけど、今日、時間あるか?」

 「夜ならいいわ。そうね、十九時くらいなら。ついでに、そこの角の串カツ屋で飲みましょうよ」

 「分かった」

 「じゃあね」

 用が済んだならさっさと行け、もしくは何か買っていけ。そんな態度を隠さず、ナツミはコウスケを残して仕事に戻る。彼女の会社員らしい姿から、正体は魔女だなんて誰も気付きはしないだろう。

 

 

 その日の夜、待ち合わせの十九時に少し遅れて現れたナツミは、酒が入ると早々に管を巻き始めた。

 「だからさー、従業員に買わせんじゃねーってのよ!ほんと!」

 油とタレの混ざり合う串カツ屋の一角、一見すると四人掛けの席を二人で占領しているように見えるそこには、人間二名、悪魔二名の合計四名様でいっぱいである。

 「年度末だからってさー、従業員割引でもいらないもんはいらないのよ!」

 「雇われ薬剤師も大変だな、お疲れさん」

 洒落っ気もないジャケットに、一つにまとめた髪。就業後の姿のままのナツミからは、それなりの忙しさが窺えた。

 「ボーナスと有給を考えるのよ、なっちゃん!心の支えでしょう!」

 「確かに、コウスケさんのように自営だと、ボーナスや有給がないのは悩みですよね」

 姿を隠したままのマラックスと、ナツミの使い魔・アスタロスから労いのような言葉を掛けられながら、ナツミは新しいジョッキを飲み干す。ぐいぐい喉を鳴らした後、潤んだまなざしでナツミはアスタロスの両手を握った。

 「うん、うん……頑張る。いつもありがと、アスタロス」

 「いいのよぅ!」

 いい具合に酔いつつあるアスタロスとナツミがわっと抱き合う。人間が見れば空気に抱きついているような光景だが、店内は酔っ払いばかりなので、幸いなことに気にする者はいない。

 「で、何だっけ?噂?この辺の?」

 『二度付け厳禁』の札が付いた容器にジャコ天を突っ込んで、ナツミはコウスケに向き直る。ようやく話が進められそうだと、コウスケは昼間の出来事を話し始めた。

 「天使ぃ?」

 「そう、天使って幼稚園くらいの子供たちが言うんだ。だから悪くないって」

 ナツミもやはり『天使』の単語に引っ掛かりを覚えたらしい。少しばかり酔いの覚めた目で、アスタロスを見る。

 「アスタロスは何か、そういう話聞いたことある?」

 「そおねぇ、関係あるか分からないんだけれどー」

 尋ねられたアスタロスは、足を組み替え、思い出すように髪の毛をいじる。

 アスタロスは一見壮年期の女性のような姿をしているが、熟れて形を失う直前の果実のような、怪しい色気があった。些細な仕草が、一々意味ありげに見えてしまうから困る。

 「いつだったかしらねぇ……、町の教会で相談すると恋の願い事が叶うって噂してる女の子を見たわよ」

 「恋の願い?」

 「ええ、ちょぉっと気になって聞き耳立ててたんだけど、恋に限らず熱心にお願いするとほとんどが叶うらしいのよ」

 「ええー私、そんなの聞いたことないんだけれど」

 自分よりも地元の噂に詳しい使い魔に、ナツミは悔しげな様子を見せるが、

 「それならもっと給料上がるようにお願いするのに……!」

 悔しく思うポイントは、どうやらなかなか上がらない給料の方にあるらしい。

 「やぁだ、ナツミちゃんたら!教会なんかに行かなくたって、いざとなればハゲンチになんとかさせるわよぅ!」

 ハゲンチというのは錬金術に精通している悪魔だ。

 「よっしゃー、石ころを金に変えるぞー!仕事もやめるぞー!」

 「絶対やめてくださいよ!?バレた時の面倒くささを考えただけで頭痛が……」

 不法な一攫千金を夢見る酔っ払いに、マラックスが冷静なツッコミをして頭を痛めている。酔いの回った人間の言を間に受けるべきではない、とコウスケは使い魔の肩を軽くい叩いた。

 「……で、その教会の噂はどこから出てきたのか知ってるか?」

 「それがねぇ、私にも分からないのよぅ。私って一応、繁殖や性愛に関係する悪魔だから、ちょっと興味があったんだけどねぇ。バレンラインデー前には、かなりの女の子が押しかけてたみたい。でも、誰が言い出したものなのかは話してなかったわ」

 アスタロスは忌々しげにつくねの刺さった串に齧り付く。

 男女の性に敏感な悪魔としては、お株を教会に――つまり、悪魔にとって天敵でもある唯一神を頂く施設に奪われたのは、気に食わないのだ。

 「……マラックス、どう思う?」

 「出処が分からない噂……にしては、妙に信じられているようですね」

 「そうだな……あ、煮玉子とシシトウください。うん、信ぴょう性が無さそうな割に、願い事を叶えたい子が大挙して押し寄せるってことは、それなりに効果があるんだろうな」

 「……教会に、そんな力があるとは思えませんが……」

 しかし、天使と教会ならば関連があってもおかしくはない。その二つが繋がっているか否か、確認する必要がありそうだ。

 「それにしてもぉ、しばらく見ない間に面倒なことになってたのねぇ」

 「確かに。半年前の魔女会で会った時には、こんなことになるとは思わなかったわ」

 新たに玉ネギと豚カツ、ビールのジョッキも追加してナツミはコウスケにも飲むように勧める。

 「言っちゃあ悪いけど、私だったらアスタロスに頼んで妊娠させちゃうかもしれない」

 「え?」

 「だから、妊娠させちゃうのよ、アスタロスの魔力で。さすがにそうなれば両家の問題になるしさ。進学希望の受験生だったら、多分中絶になるでしょうし、そうなったら二人の関係も自然と破綻するでしょ」

 酒のせいだろうか、コウスケがぎょっとするような提案をナツミは簡単に口にした。

 確かに、相手の事情をしっていながら妊娠させたとあれば、いくら合意の元行為に及んだとしてもサヤだけではなくヒロトへの非難も相当のものになるに違いない。それに、そんな恐ろしい状況になってまで、若い二人の交際を両家が許すとは思えない。結果的に、破局させることには成功するだろうが、当人たちが負う傷はあまりに大きい。

 「まあ、極論なのは分かってるわよ。周囲が理解を示しちゃえば、出産して浪人して進学するものありだけど」

 「……いや、無理だろ。子持ちで浪人、更には大学生なんて、周りからどう見られるか考えれば怖すぎるって」

 「そうね、常識で考えたら、こんなこと許されないわ。でも、私たち魔女と魔法使いなのよ?人間の道理だけでは解決できない問題にだって、この先ぶち当たるもの。そういう時に、一番効果的だと思われる手段をためらうのは馬鹿らしいわよ」

 「でも……」

 コウスケは反論しようとしているのが自分だけだと気付いて口を閉ざす。マラックスもアスタロスも、ナツミのやり方には異論を唱えようとすらしないのだ。

 きっと、彼らからしてみれば、コウスケの考えの方が甘いのだろう。甘ったるくて、理想論を振りかざして効率を無視しているとさえ思われているかもしれない。

 「まあ、最終手段として、アスタロスとの契約も視野に入れてみてね。言っといて何だけど、私がこういうこと言えるのも、自分の身内が無関係だからだしさ……ごめんね」

 「うん、ああ、いや……」

 ナツミなりに、自らの提案が人道的ではないと理解しているらしい。

 アスタロスは協力を請えば手伝ってくれるようだが、コウスケとしては、彼女に頼むのはできれば避けたい。いや、絶対に避けたい。

 

 「じゃあね、おやっすみー」

 夜が更けきるより早く、コウスケたちは店を出た。

 コウスケもナツミもそれなりに酔っているが、目に見えない相方がいるために帰路を心配することもなく現地解散が可能である。使い魔を持つ魔法使いの利点だ。

 「……やっぱり、割り切ると女の方が強いっての、よく分かるなぁ」

 寒さが残る春の夜、コートの中で身を縮めながら、コウスケは帰宅すべく駅へ向かう。既に帰宅ラッシュも過ぎ、ホームに立つ人はまばらだ。

 「昔……私たちが日本に来るより前ですけどね、その頃、魔法使いよりも魔女の方が多かったのも、そういう理由だったのかと思う時はあります。一度、魔女として生きると……今までの宗教を捨てようとを決めてしまうと、生来の生き方に上書きできてしまうんですよね、女性の方が」

 「うーん、俺には理解しきれない世界だ」

 「はは、それでいいんじゃないですかね。コウスケさんのそういうところ、私は嫌いでは……」

 次の瞬間、コウスケの体が線路に押し出された。

 「え?」

 ドンッと音がすればしただろう、強い衝撃だった。

 何が起こったのかも分からない。コウスケは足元がホームから離れる感覚だけを妙に生々しく感じながら、右側から猛スピードで光が迫るのを見つめた。

 「危ない!」

 ホームのあちこちから悲鳴が上がるも、咄嗟に襟首を掴んでくれたマラックスのお陰で、辛うじて線路上でミンチにならずに済んだ。

 ホームの際で腰を抜かしたコウスケの目と鼻の先を、快速電車が通り過ぎて行く。

 「あ、す、すみません、つまずいちゃったみたいで……」

 完全に人身事故未遂である。周囲の恐ろしいものを見る視線に、跳ねる心臓を抑えつつ言い訳をした。

 「誰だ、突き飛ばしたのはっ!!」

 ホーム中に響く声でマラックスが吼える。コウスケ以外には聞こえないということを忘れているようだ。しかし、震える空気は彼が見えていない人間にも感じられるらしく、幾人かがふいに体を震わせた。

 普段の冷静な様子は一転、感情をむき出しにして周囲を睨みつけているが、ホームから逃げて行く者の姿は無い。

 「……何だ、今の?誰か、押したのか?」

 「何かが、いたように思ったのですが……」

 一瞬だけ騒然となったホームは再び静けさを取り戻す。コウスケが死にかけたことなどもう忘れてしまったように、電車を待つ人々はそれぞれのスマートフォンや、連れとの会話に意識を戻していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る