Ⅱ・日本の神様と悪魔
「ひとーつ、日本の神様には逆らわないことー」
「そうですねぇ」
「ふたーつ、問題が起こった場合は自己責任、自己解決」
「魔法使いの基本ですねぇ」
「みーっつ、無闇に正体を明かさない。非魔女・非魔法使いの前では魔法を使わない」
「……もう少しなので、大人しく待っていてくださいよ」
何度もネクタイを締め直すマラックスを尻目に、コウスケは引っ張り出してきた『日本総合魔女協会の手引き』を音読していた。
まともに読むのは大学入学直後、悪魔のマラックスを召喚し、使い魔の契約を果たして以来だ。
魔法使いとしてデビューするにあたり必ず目を通すようにと渡された冊子だが、一度読んでからは大切に大切に――あるいは存在をすっかり忘れて――キャビネットの奥にしまい込んでいた。
「お待たせしました!」
「随分気合い入れたなぁ」
頭はいつもの牛だけれど、いつもと違うスーツにネクタイを締めれば随分雰囲気が変わる。あくまでも見た目は、牛だが。
「何といっても、大事な方とのお話ですから!」
「サラリーマンの“大事な商談”みたいなもんか」
そう考えれば、なるほど、服にも気合いを入れるわけである。
「サラリーマンと一緒にされるのは……」
微妙な表情を浮かべるマラックスだが、彼はコウスケと出会った日、召喚された時にも同じ一張羅のスーツを身に着け、あまつさえ名刺まで差し出したのである。
どうも彼には、サラリーマンの営業における作法を、現代日本のマナーの基準にしている部分があった。
「ほら、行こう。遅くなっちゃ、あちらさんに悪い」
それぞれのコートを身に纏い、コウスケは小春日和の外に歩き出す。
「うーん、使い魔のくせに俺より良いコートだ……」
「大事な方とのお話ですからね!」
「そうかー」
マラックスの意気込みを分からないわけではない。
何と言っても、今日は例の手紙に書いてあった『葛姫稲荷神社』へ行く日なのだ。一つの神社を任せられた神霊と会うのだから、失礼があっては、マラックス自身の今後の評判に影響してしまうのだ。
特に、日本総合魔女協会の手引きにもわざわざ書いてるとおり、西洋から入ってきた悪魔たちは日本の神々に逆らえないのだ。そのスタンスは、悪魔たちが日本に根付いて既に数百年に及ぶ現代でも変わらない。
どうしてこの不思議な関係ができあがったのかと言うと、時代は日本が鎖国に入る直前にまで遡る。
当時の欧州は、十二世紀頃の異端審問が魔女狩りへとエスカレートし、非キリスト教の文化に風当たりが日増しに強くなっていた時代だった。キリスト教布教以前の古い神々や、異文化の神々は『キリスト教における悪魔』の立場に追いやられ、彼らを崇める信者は『魔女』と見なされ、迫害されるのが当たり前の時代だった。
魔女と呼ばれるようになった人々は、自分たちの進退を考えるに至り、様々な考えを出し合った――古い神々との関係を断ち、今までの自分を捨てるべきか、この熱狂的な弾圧を一時的なものと判断し復権を待つべきか、当時の魔女たちは長らく悩んだらしい。
古代ローマ時代にはキリスト教とて同じく迫害の対象であった。ならば、いずれ自分たちも受け入れられる時代がやって来るのではないかと考えた魔女が少なくなかったのだ。
しかし、一部の魔女は故郷を捨て、新天地を求めて旅立つことを選んだ。遥か遠くまで逃げ延びた彼女たちは、極東の日本にまで辿り着く。
もともとキリスト教徒ではない魔女たちは踏み絵も問題なく踏み、鎖国の時代を経て、日本の社会にひっそりと溶け込んでいった。土台が多神教の日本、特に『荒魂(あらみたま)』という神々の荒ぶる面を認める文化は、悪魔たちのかっこうの隠れ蓑だった。
だが、悪魔たちに立ちはだかったのは、もとから日本にいた神々である。
自然物はもとより、無機物にまで八百万の霊が宿る日本では、当時既に悪魔たちが入り込む空きが無くなっていた。あらゆる土地は神霊や祖霊に守られ、偶像どころか、ささやかな食器にさえ、悪魔たちに切り分けられる領分は無かった。
最初こそ、日本の地で神としての復権を目論んでいた悪魔たちだが、状況を知り早々に断念することになる。
そして、長い長い話し合いの末、とうとう日本の神々の傘下に入ることが決まったのだ。
格下の霊魂という立場から徐々に力をつけ、働き振りを認めた神霊が現れれば、少しずつ神格に近づき、やがては神霊の一部として何かしかの宿るべきものを分け与えることを、八百万の神たちも了承した。
マラックスの場合、彼の住む弟月市を守護する葛姫稲荷神社の祭神から認めてもらうことが目標だ。今回、その祭神からの依頼を達成することができれば、マラックスは一つ功績を認めてもらうことができる。彼が妙に気合を入れているのは、そういう事情があった。
「大学生以来だなー」
日差しに遠い春の気配を感じながら、コウスケは神社への道のりを辿る。
マラックスを召喚した直後、契約成立の報告するために訪れたのが最後だから、もう随分、神社には訪れていない。
神社こそ様変わりしないないだろうが、数年の間に様子を変えた町並みに迷いながら、コウスケたちは予定よりも遅れて神社へ到着した。
「あーあったあった、ここだ」
「……やっぱり、道、忘れてましたよね?」
「着いたから!結果オーライだから!」
遠回りをして辿り着いた神社は、昔と変わらない佇まいである。少し傾斜のある参道も、例大祭や年始だけ機能している社務所も、台座に苔の生えた狐像も――
「こんにちは。お久しぶりです」
それから、人気のない敷地を掃除している一人の巫女さんも。何もかもが記憶のままだ。
竹箒で境内を掃いていた巫女服の少女は、コウスケの挨拶にゆっくりと振り返る。マラックスはコウスケの後ろで、露骨に体を強張らせ背筋を伸ばした。
にっこりと、しかし冷たく笑う眼差しは、およそ外見からは想像できないほどに大人びて見える。
「……実に、実に七年ぶりだ。人間の生きる時間の七年は、お前の挨拶のように軽いものなのか?矢幡コウスケ」
そして、不機嫌を隠さない声は、地の底を這うように低い。
長い黒髪を流したうら若い乙女の外見からは想像できないそれに、短い悲鳴を上げたのはマラックスの方だった。
「いやあ、かしこまっても七年もご無沙汰していたのは変わらないですし」
あくまでも軽口を止めないコウスケを、とうとうマラックスが小突く。
「……じゃあ、かしこまっても良いんじゃないですかねぇ」
「おお、使い魔の方が礼儀を心得ているとは、情けない……」
呆れたようにゆるく首を横に振った少女は、改めてコウスケに向き直る。真っ直ぐな眼差しは、射抜くように鋭く光っていた。
「して、このトヨツヅラヒメノカミに何用か。もっとも、矢幡の娘のことだとは思うが」
一見ただの尊大な態度の巫女さんに見えるこの人こそ、この葛姫稲荷神社に祀られる祭神・トヨツヅラヒメである。
小さな神社である故か、生活するところくらいは自分で掃除をするのが信条らしく、境内を掃除している姿をたまに見る――見ることができるのは、彼女が意図的に姿を現した場合に限るのだが。
「ああ、やっぱり立花さんが言ってきたのは間違いないんですか……」
「なんだ、へらへらしていれば誤魔化せると思ったのか?バカタレ。間違いでユリ江に手紙を書かせるものか」
「そういうわけでは……でも、何かの間違いだったらいいとは思っていました」
観念して、境内のベンチに腰掛ける。
「……いや、私とて、妹のことを気にするなと言うつもりはない。血の繋がりが無いとは言え、やはりお前の妹だ。思うところも多かろう」
トヨツヅラヒメも、コウスケの隣にゆったりした動作で座る。
「しかし困ったことに、何度今の『縁』を見直してみても、お前の妹を起点にこんがらがっているのだ」
「一体どういうことなんですか?サヤの好きな人に何か問題あるってことなんですか?」
「誰とは言わぬが、相手は悪い人間ではない。しかし、彼とサヤとは本来結ばれぬ縁……どういうわけか、無かったはずものが急に生まれ始めている」
「つまり、本当はサヤが振られるはずの運命が急に変わり始めている、ということですか?」
「そうなるなぁ。こういうことは無いわけではないが、普通は非常に緩やかに変わっていくものだ。サヤの場合はあまりに急すぎる。しかも、不自然な縁ゆえにサヤの周囲でも人間関係が乱れる」
「み、乱れる……?」
その単語に少々いかがわしい想像をしたコウスケへ、人外二人分の冷たい視線が突き刺さる。
「ふむ……矢幡の娘のな、一番親しい友人も同じ相手に好意を寄せているのだ。……単純に恋敵となるより面倒だろうが、お前の考えているようなシモネタは無関係だ」
「すみませんねぇ、下ネタ考えてて。友情と恋の泥沼三角関係も、随分ひどいですけど」
ただでさえ女子高生という、デリケート極まりない生き物だというのに。
「いずれにせよ、サヤの恋が成就すると同時に、彼女の親友は恋情と友情の間で板挟みになる。この娘も決して悪い者ではないのだ。友人であるサヤにも誠実にありたいと考えている。問題は、それが貫けるほど心が強くないという一点だ」
「それで、その子が精神的に参ってしまうのだけが問題だってわけではないですよね?立花さんの手紙では、もっと色んな人が巻き込まれる書き方をしていました」
「その通り。彼女は心を癒すべく専門家の元を訪ねるのだがな、その相手が悪い。非常に悪い。後ろ盾に質の悪い新興宗教団体がいるのだ」
「カルト的なアレですか?」
「ああ。だが何の不幸か……あるいは幸いか、組織に取り込まれながらもどういうわけか幹部として頭角を現し、間もなく頂点に立ってしまうのだ。しかし、同時期に家族の訴えで組織を抜けさせられてしまう」
それならば、経緯はともかく結果としては良いではないか。何の問題があるのか、コウスケとマラックスは顔を見合わせる。
「問題は急にトップを失うことになった胴体の方……つまり、残された信者たちだ。魂の救済だか世界平和だか分からんが、過激派と穏健派に袂を別けた後、日本国内で身勝手な『救済』を掲げた大規模な無差別殺傷事件を起こすのだ」
「日本で、テロが……?」
「私に分かるのはここまでだ。この先はまた未知の領域、いくつも枝分かれする可能性の先」
トヨツヅラヒメは視線をさまよわせ、ぎゅっと唇を噛みしめる。美しい顔(かん)ばせが引き締まり、コウスケに向けられた視線が鋭さを増した。
「お前、魔法使いとして未熟とは言え、魔法使いの心得は知っているな?」
「……日本の神様に逆らわない」
「そして今回の件は、私からユリ江を通し、お前に依頼したものだ。……分かるな?」
皆まで言わなくとも分かる。立花ユリ江という魔女を挟んでこそいるが、それは形式の上の話だ。紙を介しただけで、コウスケを名指しで呼びつけたのである。
どうしたものか――悩む気持ちはあるものの、依頼を受けないという選択肢はコウスケには無い。迂闊に断ってしまうと、コウスケは魔女や魔法使いのみに留まらず、悪魔たちからも総スカンを喰らうことになりかねないのだ。
けれど何より、将来起こる事件を、今行動することで防げるということがコウスケを動かした。多くの人命が巻き込まれる事件を放っておくなんて、魔法使いや悪魔以前に、人間として、できやない。
「……分かりました。俺、やってみます」
「そうか、良かった」
トヨツヅラヒメなりに気を揉んでいたらしく、コウスケが依頼を受ける旨を伝えると彼女はほっと胸をなで下ろした。
「魔法使いには、魔法使いだからこそできることがある……と、私は考えている。頼んだぞ」
「はい」
頷いたコウスケの目の間で、少女の姿は北風とともに消えた。
「……ああー、マジかー」
境内を後にしながら、コウスケは地を重苦しい溜息を吐く。それも仕方がないことだと、傍らのマラックスは苦い表情を浮かべていた。
いつの間にか恋をするほどに成長した妹を応援したい気持ちが、やはりコウスケにもあるのだ。しかし、多くの人命と、魔法使いとしての自分、そして使い魔のマラックスの立場――全ての要素を天秤にかけて、コウスケの選ぶ答えは一つしかない。
「お辛いかもしれませんが……」
「分かってる。それに、あれこれ言ったって、自分の中で答えは出てるんだ。沢山の人に被害が及ぶって知っているのに、妹が可哀想だからって理由で見て見ぬふりするなんて、できないよ」
もしかしたら、コウスケがその答えを選べるのは、サヤの恋愛に対して第三者だからだとか、薬剤師という医療人の一人であるからだとか、理由は色々考えられるかもしれないけれど。
「……存外、大局的なものの見方をされる」
「そう?変かな?」
「いえ、……何と言うんでしょう、サヤさんもそうなのですが、やはり人間の変化や成長は我々と違うのだなぁ、と」
「そりゃあね、人は変わっていくものだもの」
「うーん、魔術の腕は出会った頃とさほど変わらないのに……」
「少しは覚えただろ!一つ二つは実用してるし!」
「……ははは」
魔術の指南役であるはずのマラックスにしてみれば、約八年の間に覚えた術としては、あまりに少なく感じるだろう。
だが、コウスケにだって言い分はある。学生時代は単位に実習、卒業試験から国家試験にまで追われ、やっと魔法使いとしても学ぶ時間ができると思われた卒業後には、義父の薬局を任されて更に忙しくなってしまったのだ。
「でも、魔術なしでも何とかできると思うんだ、これは」
「……?」
魔法使いとして未熟なのはともかくとして、コウスケには算段があった。
時期は折しも二月。立春も過ぎ、一大イベントを間近に控えた頃である。
誰が誰を好きなのか判明してしまう――一年の中で、最も愛の告白に相応しい日がやって来るのだ。サヤもその風潮にのっとり、あの甘ったるい贈り物を用意しているのを確認できれば、少なくとも告白を失敗させるために、事前に手を打つことができる。
そして、それを確かめる手段は既にコウスケの手の中にあった。
「あ、もしもし母さん、今晩一緒に飯食っていい?」
まさしく、手の中のスマートフォンには、サヤが暮らしているコウスケの実家の電話番号が入っているのだ。電話口の向こうからは、日曜で暇を持て余していたらしい母の、了承の声が聞こえてきた。
電車で一駅、同じ市に住んでいながら、コウスケが実家に帰る頻度はあまり高くない。久し振りの帰省なのだからと一人送り出されたコウスケは、あるマンションまで慣れた足取りで向かう。
本日は薬局の定休日である日曜日。多くの人々が休みのこの日、学生のサヤも、恐らくは実家にいるはずだ。
「お兄ちゃん!」
「よ、今日は夕飯ご馳走になるぞー」
「うん!久しぶりだねぇ、一緒に食べるの」
予想通り在宅だったサヤが、玄関先で出迎えてくれた。
兄の本当の目的を知りもしないサヤに無邪気な笑顔を見せられ、コウスケは思わずたじろぎそうになる。
「おかえりー。もっ帰ってくればいいのに」
「いいだろー、別に」
奥から現れたコウスケの母・キリハは、久しぶりに顔を見せたコウスケへ嬉しそうに文句を言う。きゃんきゃん吠えながら、足元を駆け回るマルチーズも矢幡家の一員だ。残念ながら、コウスケには決して懐かないために、愛想の良い鳴き声ではなく、歯を剥き出しにした威嚇の鳴き声を上げている。
「サヤ、テーブルに置いてあったの、冷蔵庫に入れておいたわよ」
キリハがサヤに何事か伝えると、彼女はハッと思い出したような顔になった。
「お迎えに出て忘れるとこだったー、ありがとう!」
「え、何、なんかあるの?」
一体何を忘れるところだったのか、予想はついているのに尋ねる自分は、随分人が悪いのだと思う。
「ふふ、出来上がったらお兄ちゃんにも上げるね!」
お兄ちゃんにもと言うことは――他にも、誰か上げる相手がいるということだ。十中八九、バレンタインデーの準備をしていたというところだろう。予想していたとはいえど、やはりちょっと寂しくなってしまうのが兄心である。
飲み物を求めるふりをして冷蔵庫を開けてみれば、可愛らしい型に入れられ、固まるのを待っているチョコレートを見つけてしまった。
「……」
「ああ、もう……見ちゃダメだってばぁ!」
ペットボトルを片手に、その茶色の固形物をまじまじ見つめていると、さすがにサヤからストップがかかる。恥ずかしそうな、照れくさそうな、けれどちょっとだけ嬉しそうな声だ。
「バレンタインのかー」
「そ、そうよ!いいでしょ、別に。後でどうせ見るんだし、今見なくても!」
結局恥ずかしさが勝ってしまったらしく、サヤは僅かに足音を荒げて自室に引っ込んでしまう。
その見様によっては微笑ましい背中を見つめる、コウスケの手は震えていた。
(……どうして?)
動揺している自分自身に戸惑う。気を散らすようにペットボトルの中身を飲んで一息吐くも、冷たい汗は止まらない。
今更のように、トヨツヅラヒメの『予言』が実感を持って迫って来たのを実感した。
コウスケは無意識にトヨツヅラヒメの言葉を疑っていたのだ。国内で多くの人が巻き込まれる宗教テロもどきが起こるなんて、話が大き過ぎて想像できなかったし、その根幹にあると言われたサヤの恋だって、ここに来るまであいまいな実感しかなかった。
けれど、サヤは確かに意中の相手がいる。冷蔵庫の中で固まり、ラッピングされるのを待っているチョコレートがその証拠だ。
現実味のなかった様々なものに、一気に重さと色を付けていく。そのことが、コウスケの背筋を冷たくしていた。
「……顔色、悪いわよ」
青い顔のまま首を動かずと、心配そうなキリハの眼差しとかち合う。
「……サヤは?」
「チョコレートのラッピング用意するって、部屋にこもってるわよ。……あなたが突然来たのは、やっぱりサヤのことなのね?」
「うん、まあ。そっちにも、連絡行ってたんだね」
「そりゃあ少しはね。身内だもの」
コウスケの目的を知っていながら、邪魔をしようとしないのは、さすがに先輩魔女というところだろうか。
キリハは、コウスケが調味料の棚から塩をつまみ出し冷蔵庫に向かう様子を、料理の手を止めることなく見守っている。
その目は既に母のものではなく、一人の魔女のものであった。コウスケを産む前から魔女として生きてきた彼女は、既に不惑も過ぎたベテランだ。
家族としても魔法使いとしても、コウスケは彼女に頭が上がらない。だからこそ、キリハが命名した『魔女の薬局』という奇妙な店の名前を変えられずにいるのだ。
「サヤの恋がね、成就しちゃうとまずいんだってさ」
まだ固まりきらないチョコレートへ塩を振りかける。白い結晶は茶色に溶けて見えなくなってしまった。目撃者が証言さえしなければ、この濃厚塩味チョコレートは、サヤの手を経て思い人へと届けられるはずだ。
これを食べれば、いくら手作りであっても、好感度を下げられると踏んでの作戦だった。
「それで告白用のチョコレートに細工をしに来たのね?」
「うん。……考えてみれば、これ、母さんの方が適任だよなぁ」
サヤはキリハと暮らしているし、魔女としての経歴も長く、コウスケよりも余程実行力がある。どうして自分に依頼が来たのか疑問が生まれたが、今更だ。
多少理不尽な理由があったとしても、コウスケの決めたことは変わらない。いや、既に一つ手を打ったために、かえって決意は硬くなっていた。サヤには申し訳ないが、どうしてもバレンタインデーの告白は邪魔しなければならない。
「……それで、あの……聞きたいことがあったんだけれど……」
コウスケの『第一作戦』の遂行を見届けた後、キリハは困っているような素振りを見せた。いつもは見せない姿に、コウスケは首を傾げる。
「立花さんから聞いたんだけれど、どうもサヤの『縁』がおかしくなった原因に、誰かの魔力が係わっているらしいの。それで……その魔力の質が、コウスケに一番近いらしいって話なのよ」
「俺!?」
「ええ。私たちの決まりでは、『自分で起こした問題は自分で解決しなければならない』でしょう?だから、コウスケに解決させようって話になったそうなの……」
「……」
「……あなた、何かしたの?」
「まさか!サヤに好きな人がいるのだって、神社で初めて聞いたのに」
そんな自分に何かできるはずがない。いぶかしむキリハにコウスケは必死で言明する。届けられた手紙のことも、葛姫稲荷神社で聞かされたことも、包み隠さずキリハに打ち明けた。
「じゃあ、コウスケはサヤの恋愛については本当に全然知らなくて、係わった記憶もないってことなのね?」
「そう!そうだよ!」
「……どう思う?サラちゃん」
キリハが呼ぶと、居間の片隅で毛繕いに勤しんでいたマルチーズがやって来る。短い足で駆け回る姿は愛らしいが、抱き上げようとコウスケが伸ばした手は、するりと躱されてしまう。
「触らんで。わしゃぁわれの使い魔じゃなぃんじゃ」
加えて聞こえてきたのは、微妙に広島弁の混ざった日本語である。
「あ、すみません」
思わずコウスケが謝ってしまうほど野太いおっさんの声は、キリハの抱えるマルチーズが発していた。愛称の『サラちゃん』からこれほどかけ離れた声もあるまい。
「こーら、サラちゃん。いい子にしなきゃダメよ」
「んじゃが、キリハ姐さん……」
飼い主に注意され、いじけたように鼻息を漏らしてみせても、コウスケに向ける目は悪魔らしく威圧的だ。小型犬の姿をしている彼は、マラックスと同じれっきとした悪魔である。キリハが使い魔とする際に、グラシャラボラスという本名が長すぎるということで、勝手に愛称を付けた次第らしい。
「で、どうなのかしら?」
「お嬢か?まあ、誰か好きな人がいるんは間違いない。最近はいなげな本ばかり読みょぉる」
「いやげな本?」
「『恋のおまじない一〇〇選』やら『絶対叶える!恋愛成就』と書いてあったんじゃ」
「古典的なタイトルだなぁ……ん?待てよ……」
昨今聞かなくなったタイトル――少々古臭いそれらの名前をコウスケは聞いた覚えがあった。
「……そうだ、前にサヤが……選んでくれって」
夏だか秋だか思い出せないが、ある日いつものように薬局へやって来たサヤは、コウスケに何冊か『おまじないの本』を差し出して、どの本が良いと思うか尋ねたのだ。
好きな人の名前を書いた消しゴムを使い切る、好きな人の影を踏む、そして昔懐かしいプロミスリングの作り方まで書いてあったような気がする。
いくらかパラパラ捲って見て、そして、結局適当に良さそうなのを選んだのだ。
「思い出した。俺が選んだんだ、おまじないの本」
今の今まで忘れていた。
だが、「忘れていた」では済まさないとばかりに、キリハの目が釣り上がる。
「やだ!どんなにまがい物の『おまじない』だって、魔法使いが関わったら『魔術』になっちゃうじゃない!」
「俺が何かしたわけじゃないのに?本を選んだだけで?」
「どんなものでも、その道の専門家が見れば違って見えてくることがあるでしょう?あなたが無意識に選んだのだとしても、その本は、魔法使いから見て『最も有効に見える呪いが載っている本』だったんだわ。……そうね、確かにそれなら、サヤにあなたの魔力の片鱗があるというのも納得ね」
「……母さん、真面目に言ってる?本当にそんな些細なことが……」
「マジもマジの大真面目よ。サヤが何のおまじないを実行したのかは分からないけれど、これはコウスケに話が行くのも無理ない……」
キリハの指がびしっとコウスケを指差した。
「サヤには魔女の血は流れていないけれど、ただの人間が知らずに魔術を施行して、最終的に始末に負えなくなることはあるわ!あなたが頼まれたのは、事件ではなく『魔術災害』を未然に防ぐこと!それをよく噛み締めなさい!」
「う、りょ、りょーかい!?」
思わず了解したものの、今のコウスケには、さっき細工したチョコレートの仕掛けが上手く作用することを願うことしかできない。
そして、そうそう物事は上手くいくはずもなく、来たる十四日の夜、サヤから「彼氏ができました」のメッセージがコウスケの肩を落とさせることになるのだった。
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