Ⅰ・魔女の薬局

 差し込もうとした鍵が弾かれた。どうやらシャッターの鍵穴に入っていた水滴が、夜のうちに凍りついてしまったらしい。

 親指を鍵穴に押し付けて、温まった内側から氷が溶け出してからやっと鍵が差し込める。ぎいぎい軋むシャッターの下には大きなガラス窓。そこには目立つ赤い色で、『魔女の薬局』と書かれていた。

 この少し……いやかなり変わった、ふざけて命名したのかと疑われそうな名前の店は、文字通り薬局である。処方箋を受け付けて薬を用意する、あの薬局である。ついでにちょっとした雑貨や栄養ドリンクも販売している。

 「ううー、さっぶい」

 かじかむ手で三枚のシャッターを押し上げ、開店を知らせるノボリを一本立てれば、『魔女の薬局』の営業はゆるゆるとスタートする。

 「寒い、寒い……」

 サンダルのまま、白衣の上に何も着ないで表に出れば寒いのは仕方がない時期だ。それを理解していても実行しないのが、この薬局を切り盛りしている新人店長・矢幡コウスケという男なのである。

 「矢幡さん、おはようございます」

 この時期だけ大量に仕入れるリップクリームを山盛りに積んだ籠へ『特売』の札を掛けていると後ろから挨拶が聞こえた。

 「あ、清水目(すずのめ)さん。おはようございます。寒いですねー」

 振り返ると、暖かそうな黒のダウンに身を包んだ女性が白い息を吐いていた。

 六十を過ぎたばかりの清水目トシコは、『魔女の薬局』にパートタイムで勤めている薬剤師だ。長らく病院に勤めていた経験がある彼女は、店長とは名ばかりの上、薬剤師としてまだまだ新米のコウスケにとって心強い先輩だ。

 「こっちのハンドクリームも出しますか?」

 白衣に着替えた清水目が、三段ラックに並べられたハンドクリームの山を指す。

 「お願いします」

 本日は金曜日。近所のスーパーの特売日だ。この日に合わせて季節の商品を安く売り出すのが、この小さな個人薬局のささやかな抵抗であった。

 「あ、もう空いてる?」

 自動ドアの前にロゴの入ったマットを敷いた直後、通勤途中らしい中年の男性が返答も待たずに店の中へ入って来た。

 まっすぐ栄養ドリンクが並んでいる棚へ向かうと、迷うことなくそのうちの一本を掴んでレジカウンターの上に置く。

 「いらっしゃいませー。ありがとうございまーす」

 条件反射の笑顔と定型文の挨拶を添えて会計を済ませる。釣りがないよう小銭を置いた男性は、レシートも受け取らずに去った。

 代わり映えのない薬局の朝。あと二時間もすれば、近くの病院から処方箋を持ったご近所さんが訪れ、それなりに忙しくなっていく。

 

 この妙な名称の薬局は、元はコウスケの義父、つまり、コウスケの実母の再婚相手の持ち物だった。

 名付けは母親によるものなので、コウスケの記憶の中ではここはずっと『魔女の薬局』だ。コウスケが家業を継いだ今も、名前は変えられないでいる。薬局開設者、言うなれば社長の地位に名を置いている母が、改名をよしとしないからだ。

 ちなみに、コウスケに経営を譲った義父は、以前から友人に誘われていた起業に関わって、それなりにやっているらしい。

 

 「後藤さん、お待たせしましたー」

 『魔女の薬局』は個人経営の小さな薬局ではあるが、幸いにも徒歩圏内に個人病院が三件ほどあるため、開店中に暇になることはあまりない。地方都市のベッドタウンに開設された薬局としては、なかなかの立地である。

 朝一に持ち込まれたのは、いつも近所の眼科を受診しているお婆さんだ。

 この周辺では、この薬局が最も早く開店するため、早い時間に診てもらった患者の何割かは、ここへ処方箋を持って来てくれる。勿論、大手チェーンの薬局が順次開店すると途端に患者の数は少なくなるのだが。

 「三井さん、お昼お先にどうぞ」

 十三時を過ぎた頃、病院が昼休みに入る時間になると、処方箋を携えてやって来る患者はぱたりと途切れる。その隙に交代で休憩をとるのだ。

 「清水目さん、一緒にどうですか?」

 お弁当の包みを片手に、薬局事務の三井ナナが休憩室から顔を覗かせた。短大を卒業して間もない三井は、まだ女学生の雰囲気を残した笑顔を見せる。

 「今日は十四時までだから、私はお昼抜きなの」

 「あ、そうなんですね。じゃあ、お先いただきます」

 眉を寄せて残念そうな表情を作りながら、三井は再び休憩室に引っ込んだ。少ない人数で回しているせいか、薬局の中の人間関係は良好だ。休憩も誰かと喋りながら過ごすことが多い。

 しかし、いくら客足が少ないとは言え、たまにふらりとやって来る客のために店舗を空にするわけには行かない。

 コウスケと清水目は店舗側に残り、暇を見つけては、薬を渡した患者の記録簿を書いていく。今日の体調や服用中の不調の有無など、薬を渡す時に話した内容を患者ごとの記録として残していくのだ。

 記入する清水目の手は、心なしかいつもより早い。何と言っても金曜日。週末を控えた上に、もう一時間もすれば一足先にそれを満喫できるのだ。浮き足経つのも仕方がない。

 そうして、夢中で仕事をしていれば、一時間などあっという間だった。コウスケが昼食を簡単に済ませた頃、清水目は再びダウンに身を包み薬局を後にする。

 その清水目の姿を、近所の小学生たちがこそこそと伺っていた。『魔女の薬局』という名前のせいで、周辺の小学生の多くは、清水目が魔女だと思っているらしいのだ。

 彼らが真実を知る日は、まあ、来ないだろう。

 「ご飯食べると眠いですねー」

 きゃあきゃあ騒ぐ下校途中の小学生を視線で追いながら、誰もいないのを確認して、三井が大きく伸びをする。

 「ほんとにねぇ。今日の午後は吉村先生のとこが休みだし、もうそんな忙しくはならないでしょ」

 閉店の六時まで、恐らくはまったりとした状態が続くだろう。一番大きな内科の病院が午後から休診になる金曜日は、余裕ができるのだ。

 三井は眠気を払うように肩を回し、バックルームに在庫を取りに向かう。棚の商品を補充してくれるようだ。

 「いらっしゃいませー」

 眠気って棚に商品を並べながら、『魔女の薬局』は午後の営業に移行していった。

 

 だが、客足が穏やかだったのは、小春日和の日差しが降る時間帯だけだった。日が沈んだ頃から、予想外に混みだしてしまったのだ。

 受け取った処方箋を入力してはレジで商品の会計をする三井に、処方箋を確認しながら薬を用意するコウスケ。お互いにばたばたと動き回るが、なかなか混雑のピークを抜けない。

 「すみません、こちらの塗り薬は二種類を混ぜないといけないのでお時間が……」

 「どれくらい?」

 「順番に用意しておりますので、十五分ほどいただけますか?」

 混雑しているところに飛び込んできた女性は、渡すまでの所要時間を告げると露骨に顔をしかめた。しかし、既に何人か待っている手前、急いでくれと騒ぐこともできない様子だ。

 不機嫌な表情のまま、待合室替わりに並べられた椅子に腰掛けると、すぐにスマートフォンを取り出して一心不乱にいじり始める。

 急いでいるのはコウスケにも痛いほど理解できるが――何と言っても週末の夕方なのだ――さりとて順番を変えることもできない。

 他の薬局が空いていればそこに行くこともできただろうが、時刻は十八時を回り、調剤薬局の多くが閉店になる時間帯だ。近くのドラッグストアでも、十八時を過ぎると薬剤師は帰ってしまう。薬を貰いそこねた人々は、必然的に遅くまで開いているところを探すしかなくなってしまい、結果的にコウスケの薬局に駆け込んでくるのだ。

 少ない供給を気の毒だと思うが、しかし、薬剤師を長時間働かせるとそれだけ人件費がかかる。つまりは、昨今の世知辛い人権費削減の煽りなのである。

 そうは言っても、当面の問題として、コウスケが急がなければいけないことに変わりはない。薬棚が並んだ調剤室は、外用は目薬からうがい薬まで、内服は錠剤からシロップまで細々とした薬が揃えられている。その中から、処方箋に書かれた薬を選び出していく。

 「……」

 処方箋に書かれた二種類の軟膏をかごに取り、薬棚の影になっている場所にそっと置いた。

 小さな調剤室はぎりぎりまで薬を置けるよう、三面の壁と部屋の中央に背の高い棚が設置されている。中央を棚で仕切られた調剤室の奥は、外からは覗けないのだ。

 (頼むぞ)

 かごの中から軟膏の壺とチューブがふわふわと持ち上がる。まるで、見えない手が掴んでいるように、くるくると蓋が外れ、必要な分だけが混合用の軟膏板の上で、混ぜられる。

 その不思議な光景を知る者はコウスケ以外にいない。

 見えない手が仕事をしている間、コウスケは他の処方箋の薬をせっせと用意し、順番に患者へと渡していく。そうしているうちに、棚の影から出来上がった薬がすっと差し出された。コウスケは、何でもないように出来上がった薬を受け取って、次の患者の名前を呼ぶ。

 そう、この『魔女の薬局』の『魔女』は、清水目でなければ三井でもない。

 矢幡コウスケこそ、この薬局の『魔女』ならぬ『魔法使い』なのだ。

 

 「お疲れ様でした!」

 「お疲れ様。足元、気をつけてね」

 「はいー、ありがとうございます」

 溌剌とした返事を残し、三井は帰路につく。雪の積もった歩道に残る足あとをしばし見守り、コウスケもシャッターを降ろした薬局を後にした。

 二階建ての薬局は一階が店舗に、二階がコウスケの居住スペースになっている。帰りたい時にすぐ帰れる距離の部屋は、コウスケのお気に入りだ。

 「ただいまー」

 ついでに、疲れて帰ってきた自分を労ってくれる恋人でもいれば満点である。

 「あ、お帰りなさい。ご飯できてますよ」

 しかし、そんな都合良く世の中は回らない。現代日本に生きる魔法使いでさえも、例外はない。

 「今日は赤ワインで牛肉を煮込んでみました。ソースも玉ねぎを使った自家製です」

 得意げに湯気の立つ皿を並べているのは、二メートル近い長身の男である。しかも、頭部はまるで被り物のように牛の姿形をしていた。

 ただし、ぺらぺらと料理の説明を述べる口が動いているせいで、被り物などではないということが分かる。

 「いつも悪いねぇ、マラックス。こんなことまでさせちゃって」

 「それは言わない約束ですよ」

 「してないけどな、そんな約束」

 軽口を叩くコウスケは、異様な造形の男を気にもしない。

 それもそのはず、この奇天烈な姿の男こそ、魔法使いのコウスケの使い魔にして、悪魔のマラックスなのだ。

 今晩の悪魔の手料理は、牛肉のメインディッシュにサラダ、スライスしたバゲットと、やたら洒落たメニューである。コウスケ一人ではとても作る気にならないものを暇にまかせて作るのが、この悪魔の楽しみだ。

 「今日はちょっと混んでましたねぇ」

 「なー。軟膏練るの、手伝ってくれてありがとな」

 「あれくらい、お安い御用ですよ」

 料理だけではなく、時折薬局の裏方もしてくれる、非常に心強い悪魔である。

 もともと薬に造詣が深い悪魔であることに加え温厚な性格のマラックスは、雑用も仕事のうちと割り切ってよく働いてくれた。

 「そういえば、『魔女会』の立花さんから手紙が来ていましたよ」

 「立花さん?なんだろ?」

 マラックスの差し出した封筒には、古風な封蝋が施されていた。差出人には『立花ユリ江』、間違いなく日本総合魔女協会こと通称『魔女会』の現代表の名がある。

 学校で言えば校長、市で言えば市長、国で言えば総理大臣のような立場の魔女が、コウスケのような下っ端の新人魔法使いに直接連絡を寄越すなど、まず、ありえない話だ。

 ありえないことが起こっているのだから、手紙の内容はありえないほど良いか、ありえないほど悪いかに決まっている。

 「……!」

 恐る恐る取り出した手紙には、後者の内容が書いてあった。つまり、『ありえないほど悪い』。

 「どうしました?」

 皿を片付けていたマラックスが、紙面を見つめたまま顔面蒼白のコウスケをいぶかしむ。

 「どうしよう……」

 「だから、何がです?」

 「サヤの恋愛、ぶち壊さなきゃダメだって」

 シンクに皿が落ちる音が響いた。

 「……妹さんの?」

 「うん」

 「えー?」

 手を拭きながら振り返ったマラックスは――彼の手は人間と同じ形をしている――信じられないと訴える表情でコウスケを見つめる。牛の顔なのに、随分表情豊かなものだとコウスケは毎回感心するが、今回ばかりはコウスケも同じ思いだった。

 何だってまた、妹の恋路に口を出す必要があるのだろう。

 「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてなんとやら、ってか」

 「馬じゃなくてすみませんね。しかし、一体何だってこんなことに?」

 「……あの妹さんに、何かあるとは思えないのですが」

 「ほんと、それ。あいつに限って、何か悪いことの引き金になるとは思えないんだよ」

 「むしろコウスケさんの方が心配ですよねぇ」

 「お前も言うよね」

 マラックスとの使い魔の契約を破棄して、魔力の供給を止めてやろうかと思う。だが、思うに留める。

 彼とはコウスケが大学に合格して以来、もう四捨五入で十年の付き合いだ。悪魔にとって微々たる時間とは言え、人間の時間を生きるコウスケには、それなりの愛着を抱くのに、十分な時間を共にしてきた相手だ。

 それに、マラックスの言うことはもっともである。

 

 現在高校二年生のサヤは、コウスケの母の再婚相手が連れていた子供だった。血の繋がりがない義妹とは、八歳もの年齢差のためにコウスケとサヤはあまり喧嘩することもなく、コウスケが言うのもなんだが、比較的仲の良い兄妹関係を築いていた。

 穏やかな兄妹関係は、サヤがコウスケと血縁がないことを知ってからも変わらず、コウスケもまた、妹に好きな人がいるらしいと知って衝撃を受けるくらいにはサヤのことを可愛がっている。

 「とにかく……一度、葛姫稲荷さんに行ってみないと」

 「そうですねぇ」

 今日は金曜日、明日の営業は午前中だけなので、早ければ午後には出掛けられるはずだ。

 「ああー気が重い」

 「まあまあ、案外あっさり片付くかもしれませんし」

 「そんだったら、わざわざ立花さんが連絡してこないだろー」

 「はは、……まあまあ」

 慰めるマラックス自身も、簡単な問題ではないことは理解している。それが証拠に、コウスケが一刀両断した後は、もう安易な気休めの言葉を口にすることはなかった。

 

 

 まるで起きるのが嫌だと訴えるように軋むシャッターをなだめながら、『魔女の薬局』は土曜日の朝を迎えた。

 「おはよう、お兄ちゃん」

 真冬の朝に白い息を吐くコウスケの後ろから、聞き慣れた声がする。

 「おはよう。まだエアコン効いてないから中も寒いよ」

 「りょーかい―」

 トートバッグを片手に現れたのは、コウスケの妹にして、昨晩突然渦中の人になった矢幡サヤだ。何も知らずに裏口に向かう背中を、コウスケは何とも言えない面持ちで見送る。

 土曜日は終日休業の病院があるため、平日に比べると処方箋が持ち込まれる件数が少ない。薬局の営業時間も昼過ぎまでなので、薬局事務の三井の代わりにサヤが薬局を手伝いに来るのだ。

 簡単なレジ打ち程度はあっという間に覚えてしまった彼女は心強い助っ人だが、昨日のことがあるせいで、何となく顔が合わせ辛い。当のサヤは兄の様子に気付くこともなく、さっさとエプロンを着けて開店準備を始めている。

 「ユカっち、おはよう!」

 「おはよう、サヤ!」

 入口を箒で掃いていたサヤが、表に向かって手を振る。

 声につられて通りの向こうを見遣ると、自転車にまたがった数人の少女の姿があった。恐らく高校に入ってからできた友人なのだろう。興味津々といった表情で、コウスケとサヤを見比べていた。

 皆一様に学校指定の体育着の上にコートなりマフラーなりを重ねて防寒している。冷気で赤らんだ頬は健康的で、如何にも部活少女という格好だ。

 「何か買ってってよー!」

 「あはは、帰りに寄るよー!」

 サヤの呼び込みも虚しく、自転車の集団は薬局の前から走り去る。お互いに強制しないやり取りは見ていて気持ちが良い。

 「お兄ちゃん、電源入れるね」

 「ああ、お願い」

 慣れた手つきでレジの電源が入れば、『魔女の薬局』はいよいよ目を覚ます。

 

 処方箋が希に飛び込んでは来るものの、やはりコウスケもサヤも売り子としての仕事の方が多い曜日だ。単純な会計の作業は、単純だが短調で時間の経過を遅く感じさせる。

 昼も近くなった頃、朝に薬局の前を通り過ぎていったサヤの同級生たちが、言葉通り薬局に寄って売上に貢献してくれた。閉店直前に今日一番の賑わいを見せた薬局の中、コウスケに並んだ彼女らのためにレジを打っていると、

 「いっつもそう言ってばかりじゃない!」

 「申し訳ございません」

 賑やかな薬局の中で、つんざくような声が響く。続いてサヤの謝る声。

 コウスケも店の客もぴたりと動きを止めて、声が聞こえた方に視線を注いだ。

 レジ待ちの客に、少し待っていてもらうように示せば、サヤの同級生達は了解の意を返してくれる。並ばせたまま待たせてしまうのは申し訳なかったが、あの客はサヤに任せても対処しきれないだろう。

 癇に触る声の持ち主は、コウスケには大体検討がついていた。

 「お客様。何かございましたでしょうか?」

 急ぎ足にサヤの元へ向かうと、やはり、そこにはコウスケがよく知った婦人の姿があった。

 ぽってりと太めで、けれど決して温和な雰囲気はない。いつものように、コウスケよりいくらか低い位置から威嚇するように目をぎらつかせている。この薬局に度々やって来るクレーマー婦人だ。

 煩い客はままいるが、彼女はその中でも突き抜けていた。折角沢山の客が入っているというのに、この人まで来ていたとは運がない。コウスケはおくびにも出さず嘆く。

 やって来れば必ず、何かしらのクレームを置いていくのだ。

 「この前、私が言った化粧品入ってないじゃない!」

 どうやら今日は前回のクレームの続きらしい。女性向けの雑貨を並べている一角を指差しながら、きんきん声を張り上げた。

 「申し訳ございません。卸業者との関係で、お取り扱いできない商品もありまして……」

 「業者とかそういう話してるんじゃないわよ!客の不満に対応できないのは、店の落ち度だって言っているの!」

 「……」

 客の求めに応じられないのは店の質が悪いからだ!前にも言ったのに対応しないのは誠意がないからだ!――そんなことを好き勝手主張してはいるが、結局自分の欲しい化粧品がいつまで経っても置かれないことが不満なのだということだ。

 小さな個人薬局に一人一人客の希望の商品なんて置いていったら、あっという間に赤字である。勿論、そう訴えたところで、そんなことはそっちの都合だと切り捨てられてしまうのは目に見えている。だから、コウスケは相手に理解を求めようとは思わない。

 何より、彼女ご所望の商品は、近所の大きなドラッグストアでメーカー希望価格より割安で買えるものなのだ。

 それでも何故この薬局にやって来るのか。コウスケには理解も及ばない理由があるに違いない。そうでなければ、納得いかない。

 「客をなんだと思っているのかしら!こんな店、もう二度と来ないから!」

 最後まで金切り声を上げながら、ご婦人は税込百四十八円のチョコバーを棚からひったくり、ぴったりの金額をレジに叩きつける。チョコバーは彼女の鞄に放り込まれた後、店の外へと運ばれていった。

 店から彼女の姿が完全に見えなくなるのを確かめてから、コウスケは肩で大きく息を吐く。ひたすらクレームを聞いて平謝りをしていれば、言いたいだけ言って満足した後に帰ってくれるのだ。いつものことである。

 それにはもう慣れたが、帰るまでの間、店内の客が不愉快な思いをするだろうことだけ気掛かりだった。

 「ごめんね、お兄ちゃん」

 「なんで謝るんだよ、気にするなって。サヤが何かしたわけではないだろ?」

 この妹に限って、客に失礼なことをするはずがないと、コウスケは一切の疑いなく信じていた。あまつさえ、謝罪まで述べて客の怒りを鎮めようとしてくれたのだから。

 「でも、あのお客さんもう来ないって……お兄ちゃんのお客さんだったのに……」

 「大丈夫だよ。ああ言いながらあの人、もう何度も来てるから」

 「そ、そうなんだ。……よかった、のかな?」

 「うーん……」

 正直なことを言えば、良くはなかった。売り上げはチョコバー一本分、彼女に接客するためにかけた時間を考えれば、全く見合わない。

 「まあ、サヤが気にすることじゃないのは確かだ」

 明るさを取り戻した妹の表情に、つられてコウスケの顔にも笑みが戻る。

 変な客に絡まれたサヤに友人たちは労いの言葉をかけていたが、普通、理不尽な物言いを目の前にすれば、こういう反応が普通なのだ。つまり、本人がいなくなったところで「やなおばさんだったね」とか「今度来たら塩撒いちゃいなよ」などと口にしてしまうのが、ほとんどの人間の反応なのだ。

 なのに、サヤはあんな客でさえも『兄の客』だと考え、たった一人の客足が遠のくことまで心配してくれた。その心遣いが、何よりもコウスケを元気にする。

 年齢が離れているせいか、コウスケにもこの血の繋がらない妹を猫っ可愛がりしている節があったが、サヤもそれに応えるように血の繋がらない兄によく懐いた。

 それは血縁関係がないことを知ってからも変わらなかった。いや、家族の事情を聞かされた在りし日のサヤは、「もうお兄ちゃんはお兄ちゃんじゃなくなっちゃうの?」と泣き出した後、関係は何も変わらないと知らされてから、以前よりももっと兄を慕うようになったと思う。

 そういえば、大好きだった変身少女もののアニメが終わる時も、いなくなった仲間のために旅に出る主人公の背中を見て涙していた。あの泣き虫だった妹が、すっかり大きくなってしまったようだ。

 (サヤ、立派になって……!)

 友人らを見送り、閉店の支度を始める妹の後ろ姿を見ながら、コウスケは緩む涙腺を引き締める。知らないうちに成長していたサヤは、やはり知らない間に好きな人ができていたようだが、それでも、兄は兄として妹を慈しむ気持ちは変わらない。

 なのに、妹の恋を応援することができない自分の立場が、ただただコウスケには恨めしかった。

 「……もうじきバレンタインデーだけど、お給料少し上乗せした方がいいか?」

 だが、同時に本当に好きな人がいるのか疑問が無いわけではない。迫る恒例行事にかこつけて尋ねてみると、頬をほんのり上気させたサヤと目が合う。

 「う、……ううん、大丈夫。いつもので」

 「そ、そうか……余計な気を回しちゃったなぁ」

 ははは。乾いた笑いしか出てこない。

 これは完全に黒だ。給料の値上げ要求こそなかったけれど、恐らくはバレンタインデーに告白もするに違いない。

 

 手伝いを終えて帰っていく妹を見送るコウスケの背中には、哀愁が満ちていた。

 「しっかりしてくださいよ、娘を嫁に出す父親でもあるまいに」

 半日の間に妙に老けて帰ってきたコウスケに、マラックスの言葉が突き刺さる。

 「妹がいないマラックスには分かんないから!」

 「いたかもしれませんけど、もう何千年も前のことなので忘れましたね」」

 マラックスをはじめ、名のある悪魔のほどんとはキリスト教布教以前に欧州や、その周辺地域で崇められていた土着の神霊だ。

 一神教が欧州地域の文化圏を掌握してしまったため、かつての地位を追われてこそいるが、実はかなりの期間を『神』という肩書きで過ごしている。マラックスの言うように生きてきた期間だって、簡単に千の単位になってしまうのだ。

 「けど、感慨が無いわけではないですよ。あの小さなお嬢さんが、一端に恋をするようになるとは……人の成長は早いものですね」

 「そっか、マラックスが俺と契約したのって、サヤがまだ小学生の頃だったもんな」

 一人前の魔法使いになるには、魔力の質を高め、魔術を教授してくれる使い魔が欠かせない。マラックスを召喚したのは、コウスケが十八歳、サヤが十歳の時であった。

 思春期の多感な時期のサヤを、マラックスはコウスケと共に見守っていたことになる。

 「いいえ、それ以前からですよ」

 しかし、マラックスはもっと前から知っていたと言うではないか。

 「ほら、前にお話したでしょう?私たち悪魔は、日本の神様と同じように本霊と分霊で存在できる、と」

 「ああ。いわゆる『創世記戦争』の後の話しだよな?天使や神に地上から追い出されて、今は空の彼方、星の間に隠れ潜んでいる……だっけ?」

 空に逃げた悪魔は『天魔』と称される比較的力のあった悪魔たちだ。創世記戦争を生き延びた彼らと交信するために用いられるのが、今なお残る魔法陣を使う召喚術である。

 「そうです。魔法陣で召喚されるのは、基本的に本体ではなく切り離された分霊です。だから、世界中の魔女に召喚されても、同時に存在できるんです」

 「そっか、その分霊の一人が昔の母さんに会ったことがあるんだな」

 「当たりです」

 コウスケの母・キリハも魔女である。

 現代日本に潜む魔女たちは、ここ百年ほどの間に独自の組織『日本総合魔女協会』を設立し、定期的に会合を開いている。情報交換を目的としたものだが、使い魔を伴って行けば、お互いの使い魔とも交流できるというわけだ。

 「何か、俺より母さんと付き合い長いのって複雑」

 実の息子よりも付き合いの長い男――という例えをすると、途端に怪しげな雰囲気が漂ってくるではないか。

 「まあ、悪魔ですし」

 「何でもそれ言えば解決できると思ってるだろ?」

 「まあまあ。遅くなりましたが、昼食でも食べて落ち着いてください」

 文句を言いたげなコウスケの前に、マラックスが準備していた昼食が差し出された。

 「美味い料理出せば、俺が黙ると思って……!」

 しかし、料理に伸びる手は止まらない。結局のところ、母とマラックスとが長い知り合いであるよりも、美味しい料理を用意してくれるということが、今のコウスケにとってはかなり重要なのだった。

 「……まあ、そういうわけで、明日にでも葛姫稲荷神社に行ってみようと思うんだ。構わないだろ?」

 「勿論です。あ、スーツのズボン、寝押ししていただいていいですか?」

 「う、うん……いいけど」

 そんな知恵はどこで覚えてくるのだろう。つくづく不思議な悪魔である。

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