第三章 ヒーローに、もう一度

一話

 ザーザー降りの篠突く雨の中、水溜まりに躊躇なく足を踏み入れて、その水を後方に弾き飛ばす人影があった。


「はあ、はあ、はあ……」

 走り続けているせいか、息は絶え絶えだ。

 しかし、それでも歩を止めることはせずに、一心不乱に走り続けている。

 視界を遮りそうなぐらい長い前髪が特徴的な少女である。

 透き通るような色合いの青髪を背後に靡かせながら、寝間着を着ている彼女は、なにかに怯えているような表情で走り続けていた。

 空は暗雲に包まれている。

 そのせいか、彼女が走っている辺りには光がなく、彼女の周りは闇で覆われていた。

 まあ、この暗がりに乗じて逃げようと考えたのは彼女自身なのだから、それに対して文句は言えないのだけど。


 ――けど。やっぱり恐いなあ。

 闇に乗じて逃げるという事は、逆を言えば自身もその闇で、周りが見えない。

 暗闇の中、暗中模索で雨の中を走り続ける。

 雨が襟元から入りこみ、寝間着を冷たく濡らす。

 体は一気に冷えきり、心細さも相成って、歯がぶつかりカタカタと音を鳴らす。


 ――そう、恐い。

 ――恐くてたまらない。

 それなのに。

 この期にも及んで。

 彼女は、恐怖に怯えている自分がいる傍ら、安心している自分もいる事も、確かに感じ取っていた。

 どんな状況にあろうと、きっとあの人が助けにきてくれる、だから大丈夫。

 そんな種類の安心感だった。


「はぁ、はぁ……」

 彼女は白い息を吐く。

 恐怖も一緒に吐き捨てて、無言でポケットの中にある携帯を握り締めた。


 ――大丈夫、彼は来てくれる。

 心の中で、何度もそんな言葉を反芻しながら小坂井せつなは走り続ける。

 命を狙われているという恐怖に、心が圧し潰れそうになっていた小坂井が咄嗟にとった行動は、誰かに助けを求める事だった。

 幸いにもその手には高坂鋼屋から没収した携帯がある。

 走りながら、近くにあった物陰に隠れる。

 体を出来るだけ小さく縮こませると、携帯を開いて、連絡帳を開く。

 彼はどうやら友好関係は広いほうらしく、連絡帳にはかなりの人数の名前が登録されていた。

 小坂井はその大量の名前の中から、一人の名前を選択する。

 その名前を選んだ理由は彼女自身、よく分かっていない。


 『知っている名前だったから』とか『あいうえお順で一番上にあったから』とか『汐崎美咲に言われたことを思い出した』とか、後で理由をつけることは幾らでも出来るけれど、結局の所よく分からない。

 理由なんてないのかもしれない。

 ただただ自然に、その指は彼の連絡先を選択した。

 そして、内気でか弱い彼女らしくなく、叫んだのだった。

 助けて――と。

 彼にすがった。

 すると彼は。


『待ってろ、すぐ行くから』

 力強く、そう返してきてくれた。

 たったそれだけで――安心できる、そんな一言だった。

 その一言が、彼女が不安と恐怖に圧し潰されるのをなんとか防いでいた。


 ――いつのまに、せつなはあの人をここまで頼りにしていたんだろう。

 そんな疑問を抱きながら、彼女はそれから、ずっと走り続けている。

 逃げ続けている。

 そんな折だった。

 彼女の視線の先に光が見えたのは。


 小さな光だった。

 大きさからして懐中電灯の光だろうか。

 その人影は、どうやら傘を持っていないようだった。

 この大雨の中、自分以外に傘をささずに歩く人がいるのかと、小坂井は一瞬だけ思ってしまった。

 考えなくても、そんなの、いるはずがないのに。

 実際、それは間違いだった。

 懐中電灯の光だと思っていたそれは、まるで炎のように揺らめいていた。


「……っ!」

 それに小坂井が気づいた時には、その光は――炎の球は小坂井の足に直撃していた。


「ひ、あっ……!?」


 その高熱の炎の球に、彼女の足はジュッ、と音をたてて、一気に内側まで焼かれる。

 その熱波で彼女の体は吹っ飛び、水溜まりの中に体を突っ込んだ。

 水しぶきがあがり、元々びしょびしょだった小坂井の体を更に濡らす。


「……あ、くっ」

「いい加減に、諦めたらどうなの?」


 悲痛な表情で、小坂井は焼かれた足を庇うように丸くなる。

 そんな彼女の前に、矢霧燈花は炎の球が飛んできた方から姿を現した。

 傘をさしていないというのに、彼女の体は一切濡れていなかった。

 いや、そもそも彼女は傘を用意する必要がないのだ。

 雨粒は彼女の体に触れる前に蒸発して、消えてなくなってしまうのだから。


「逃げても無駄だって、まだ分からないの?」

「……っ!」


 矢霧が一歩踏みだす。

 その瞬間、小坂井は焼けていた足を『深想記憶メモリー』でもどして、再び走りだした。


「ふん、記憶も一緒に遡るって『不便』だけど『便利』ね。そうやって痛みとか恐怖とか、忘れられるんだから」

 背後から聞こえる矢霧の声に、耳をかさずに小坂井は駆ける。

 小坂井の『深想記憶メモリー』は、異能バトル系の物語における、後方職の便利な回復系能力に過ぎない。

 そんな彼女が、超攻撃的な前方職系の能力者である矢霧を相手にした所で、勝てないことは誰の目から見ても明らかだ。

 だから彼女に出来ることは、助けが来るまでこうして逃げ続けるだけ。


「……!」

 小坂井が逃げた方向はT字路になっていた。彼女は咄嗟に左を選択して曲がる。

 その時曲がりながら、横目で背後を確認した。

 さっきまで矢霧が立っていた場所には、水しぶきがあがっているだけで、誰も立っていなかった。


 既に矢霧は、小坂井を追い詰めるために行動を開始しているようだった。

 ごくり、と生唾を呑み込む。

 辺りに警戒しながら小坂井は視線を前方に戻して――悪寒がした。

 いや、どちらかというと悪熱?

 果たしてそんな言葉が存在するのかは定かではないが、とにかく小坂井は背後から嫌な気配と熱。その両方を感じ取った。


「……!!」

 小坂井は思わず足を止め、振り返ってしまう。

 果たして、背後には誰もいなかった。

 しかしその悪寒(熱)は消えずに、彼女の体をジリジリと焼いてくる。


「……あ」

 いや違う。

 背後じゃない。

 もうちょっと、斜め上だ――。


「遅い」


 小坂井が顔を上げるよりも早く、T字路の壁に張り付いていた矢霧の手が、小坂井の頭を掴んだ。

 さっきまで矢霧がいた場所にたっていた水しぶき。

 あれは、彼女が跳躍した後だった。


 そこから矢霧はT字路の壁まで一気に跳んだ。

 そして、三角飛びの要領で、壁を足場にして再び跳んで、逃げようとしている小坂井の頭を鷲掴みにして、地面に叩きつけた。

 顔の片面が地面でガリガリと削られ、片面は熱せられて焼かれていく。

 二つ同時に、挟まれながら行われるその苦行に小坂井は顔を苦悶で歪め、絶叫する。

 すぐにもどそうと手に淡い光を灯すが、矢霧の足の裏がそれを阻む。

 グリグリと踏みしめて、それを阻む。


「い……っ!!」

「よくもまあ、そこまであがけるものねっ!」


 小坂井の手を踏んづけている足とは逆の足を振り上げて、小坂井の腹を蹴った。

 つま先が腹に深く喰い込み、小坂井は嗚咽と血を吐きだし、腹を抱えるようにして縮こまった。

 その時、蹴りの衝撃で高坂の携帯が小坂井の服のポケットの中から、ポロリと落ちた。


「ん、なにこれ?」

 矢霧は小坂井の手を踏んづけたまま手を伸ばして、携帯を取った。

 そして何かに気づいたのか、おもむろにそれを開くと、着信履歴を見た。


「五分ぐらい前に『雨夜維月』に連絡してる……。ふうん、助けを呼んだんだ」

 携帯を握りつぶし、そのまま炎で焼き尽くす。

 これでもう、連絡手段は残っていない。


「こんな時に助けを呼ぶんだ。きっとこの『雨夜』ってやつは、あんたにとって『ヒーロー』みたいな奴なんでしょ?」

 矢霧は小坂井の手を更に強く踏む。

 小坂井は悲痛な声をあげる。


「まあ別に構わないけどね、今更欠陥能力者が一人二人来たところで、問題はないし。この街にいる欠陥能力者は、あんた以外には、あの怪力骸骨と爆発の二人だけでしょ?」


 矢霧のその問に、小坂井は『いや街に住む住人全員です』なんて返事できなかった。


「ゴキブリを一匹見たら三十匹はいると思えというけど、さすがに九十匹もいるはずないだろうし」

「……」


 九十匹どころか、この街には欠陥能力者しかいないのだが。

 しかし幸いなことに、彼女はまだその事実に気づいていないようだった。

 まあ、たった二人の欠陥能力者を見つけたから『この街は欠陥能力者の街だ!』なんて、飛躍的というか暴論的発想に辿り着けるとは思ってはいないけど。

 小坂井は踏まれていない方の手で、自分の腹をさすりながらもどす。

 同時に記憶も遡り、いつのまにか矢霧が自分を倒していて、片手を踏みつけて拘束しているという事実に、普通に動揺したが、自分の能力の『不便』な点は把握している。すぐに平静を取り戻す。


「なに、どうして私がこんな目に……。みたいな顔をされても、困るんだけど」

 その一瞬の動揺が、どうやら矢霧にはそういうものに見えたらしい。

 まあ、意味合い的には間違っていないか。

 その『こんな』がさすものが違うだけだ。


 ともかく。

 状況を整理する必要もなく、見てわかる通り、自分は今、逃げていた敵に捕まってしまったらしい。

 雨夜が助けに来てくれるまで、後どれぐらいなのかは分からないけれど、それまでは逃げ続けていないと、生き残らないと。

 助けに行こうと必死になっている彼に、申し訳がない。


「どうして……?」

 だから小坂井は矢霧に話しかけた。

 会話を試みた。


「どうして、せつなを狙うの?」

「はあ?」

 小坂井の問いに、矢霧はあからさまに不機嫌そうな表情で返してきた。


「なにいきなり、どうしてあんたを狙うかって?」

「そう……」

「そりゃあ、あんたが欠陥能力者だからよ」


 矢霧はその一言で片付けた。

 欠陥能力者だから。

 確かにそれは、中々どうして説得力がある一言ではあった。

 雨夜や汐崎たちと違って、小坂井は自分を隠して、外の世界で暮らしていた。

 だからこそ、外の世界での欠陥能力者の扱いについても知っている。


 自分たちは、暴走で世界を破壊した化け物だ。

 その素性がバレてしまえば、どれだけ今まで仲良くしていた相手でも――それが例え結婚を約束していた相手とか、今まで寝食を共にしてきた家族だったりとか、そんな深い仲だったとしても、一般人は欠陥能力者を敵とみなして石を投げてくる。

 その時についうっかり反撃してしまえば、一般人を傷つけてしまえばさあ大変だ。

 どこからともなく情報を聞きつけた『ヒーロー』たる超能力者が、化け物たる欠陥能力者を倒しにやってくる。

 それぐらい、自分たちは嫌われている。

 だからこそ、小坂井は分からなかった。

 逆を言えば、『欠陥能力者』だとバレなければ外でも安全に暮らすことが出来る。


 それなのに、小坂井は今狙われている。

 自分の正体がバレた覚えはない。

 髪はかつらや帽子を被って隠してきたし、能力は使わないように尽力してきた。

 だから今まで自分が欠陥能力者だと噂一つさえ、たったことは無かった。

 当たり前のように生活していたら、いつの間にか狙われていた。

 小坂井の感覚からするとそんな感じだった。

 だからこそ、どうして自分が狙われているのかが、分からなかった。

 だから聞いたのだ。

 どうして『自分』が狙われるのか、と。


「ああ、なるほど。つまりあんたは、どうして『自分』が狙われているのかが分からないって言いたいんだ」

 矢霧はそんな小坂井の言いたいことを汲み取って、そう言った。

 小坂井は小さく首を縦に振る。


「へえ、つまりあんたは、命を狙われるような事に、身に覚えがないと、言うつもりなんだ」

 茶色の髪が赤色に変色して、ライオンのたてがみのように逆立たせる。

 熱気が辺りの空気を歪めていく。

 まるで、怒っていることを全身で表しているようだった。

 しかし実際、小坂井には身に覚えがなさすぎた。

 もしかして人違いをしているのではないかと、今更になってそんな疑念が浮上してきたが、まさかさすがにそんなことは無いだろう。


 というよりは、あって欲しくない。

 ここまで命を狙われ続けて「人違いでしたー」なんてオチ、殺されるよりもある意味酷いオチだ。

 命を狙われないのに越したことはないけど。

 小坂井の考え込むその表情に、矢霧は「ムカつく」と呟くと、親の敵を見るような目で――事実、親の仇を見ながら、吐き捨てるように言った。


「あんた、人の親を殺しておいて、知らないとかぬかすつもり?」

「……え?」


 小坂井は素っ頓狂な声を上げて、目をまん丸にした。

 それは、隠していたことがバレたから――ではない。

 知らないからだ。

 小坂井は今の今まで、暴走の時以外犯罪とよべるものを犯したことは一度もない。前科なしで生きてきたはずだ。

 もちろん、バレなければ犯罪ではない。と屁理屈を言うつもりもない。

 困惑している小坂井の顔を睨みつけながら、言う。


「私のお父さんとお母さんはね、あんたの暴走に巻き込まれて、消えた」

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