第31話 トライミックス

 矢倉は「なるほど」と頷き、続けざまに、「それでは続きだ――」と言って更にルイスに質問をぶつけた。


「君は船内を探して、行方不明のダイバーを発見した。もちろん彼はパニック状態。君が見つけた時には、もう彼には浮上できるエアーが残っていない。さあ、どうする?」

「まず、自分のエアーを確認しますね。2人が十分に浮上できて、更に余るだけのエアーが残っていれば、まずは相手を落ち着かせ、それから出口に誘導します。相手のエアー残量を細かくチェックし、切れそうになったところで、自分のオクトパスを咥えさせます」


「エアーが2人の浮上分ぎりぎりだったら?」

「そこは悩みどころですね。相手がパニック状態であれば、2人分だけのエアーでは全然足りません。救出は諦めざるを得ないでしょう」

「放っておいて、自分だけ浮上するのか?」

「前提がそういう事であれば、仕方がないでしょう。そこに迷いはありません。しかし今の話には無理があると思います。

 相手のエアーの残量は、相手のすぐそばまで行って、残圧計を見なければ確認できません。パニック状態のダイバーは、危険物と同じです。それにも関わらず、相手に近寄るかどうかの判断がまずは必要になります」


「君は近寄るのか?」

「止むを得ませんね。ただし、ダイバーズナイフのストッパーは外して行きますが……」

 矢倉はルイスの話を聞き終えて、彼を潜水調査のパートナーに決めた。

「君に決めた。頼むよ、ルイス」

 矢倉が差し出した手を、ルイスが握り返した。


「ところで、エアーはトライミックスで構いませんよね?」

 ルイスが訊いた。

「トライミックス? ヘリオックスを使うつもりでいたんだが」

 トライミックスは、矢倉がいつも深海での仕事で使っている酸素―窒素―ヘリウムの3種混合ガスだ。専門性が高いので、通常のダイビングショップでは充填できない。矢倉は小笠原でも使った酸素とヘリウムの2種混合ガス――ヘリオックスを使うつもりだった。


「レックダイビングでトライミックスは常識でしょう。他のガスで70mを潜れば、必ず酸素酔いが発生します。視野が狭窄して周囲が見えなくなるし、頭はガンガン鳴りはじめる。へたをすると痙攣も起こしかねない。危険ですよ」

「当然それは知っているが、充填できるショップはあるのか?」

「自分でやるんですよ。船に3種類のガスボンベを積み込んで、船上でブレンドし充填するんです。潜る深さに応じて混合比を変えられるし、自分でやるのが一番ですよ」

「こちらとしては、トライミックスが使えるならば、何もいう事は無いよ。しかし驚いたな、そんなことまで君は出来るのか」


 確かにルイスが言うように、一定の潜水深度を越えると、窒素酔いよりも酸素酔いの方が深刻な問題になってくる。それは矢倉にとっても懸念事項だった。ルイスは矢倉の驚きの声とは裏腹に、さも当然というような風情で、表情ひとつ変えることは無かった。

「レックダイビングの事なら、あなたよりもよく分かります。何でも言ってください」

 ルイスの言葉が偽りのない親切心の現れであることは、矢倉には良く分かった。


「それでは言葉に甘えようかな。今回一緒に潜るダイバーは、まだ君1人しか決まっていない。あと2人は欲しいんだが、君の目に叶うダイバーはいるか?」

「それなら、うってつけのやつがいますよ。ミゲルとエヴァという兄妹です。ミゲルは22歳で、駆け出しの海洋カメラマンですが、ダイビングの腕は一流ですよ。何しろ僕が技術を仕込んだのですから。エヴァは18歳で、ミゲルのアシスタントをしています。彼女も僕の弟子のようなものです」


「そいつは良いな。カメラマンをしているなら撮影も頼める。好都合だ」

「すぐに連絡してみますよ。彼はまだ名が売れていないので、恐らく明日からでも大丈夫だと言うと思います」

「君はいつから潜れる?」

「明日からでも」

 ルイスの返事を聞いた矢倉は、オフィスの片隅にいるフェリペに視線を送った。

フェリペは「こっちも明日から大丈夫だぞ」と答えた。


 結局、矢倉は出港を3日後にし、ダイビング機材の積み込みや、整備で2日間を使う事にした。ルイスが紹介してくれると言ったミゲルとエヴァの兄妹とも、出港前に事前に会っておきたかった。


 ルイスに会った翌日、矢倉が自分のドライスーツやタンクをベッティーナ号に積み込んでいると、1台のトラックがやってきて、桟橋の入口に横づけした。車から降りた3つの人影は、荷台から荷物を下ろして台車に積み上げると、それを押してベッティーナ号の脇まで来た。


「お早う、マサキ」

 声の主はルイスだった。台車を押す彼の両脇には、荷物を支えている若い男女がいた。

「紹介しよう、ミゲルとエヴァだ」

「はじめまして、ミゲル・カナレスです。ミゲルと呼んでください」

 ミゲルは黒髪で、矢倉より少し背の高い男だった。矢倉はミゲルと握手を交わした。

「はじめまして、私は妹のエヴァ・カナレスです」

 エヴァの方はミゲルと違って、髪は赤茶色で、日焼けした肌がとても健康的に見えた。


「海洋カメラマンなんだって?」

 矢倉はミゲルに訊ねた。

「そうなんですが、まだ自称カメラマンという感じです。新米なのでまだ撮影の依頼はほとんどありません。ルイスの仕事を手伝いながら、空いた時間に自分の作品を撮りためているところです」

 ミゲルは笑顔がとても人懐っこく、彼の性格が温和であることを示していた。ルイスが可愛がっているのも頷けると矢倉は思った。

 妹のエヴァは兄を立ててか、ほとんど自分からは話をしなかったが、その表情には気立ての良さがにじみ出ていた。


「さあ、早く荷物を積んでしまおう」

 ルイスの声に、2人はてきぱきと動き始めた。最初に船に引き上げたのは、重いボンベが3つだった。トライミックスに使うもので、年季の入ったそのボンベの横にはそれぞれO2、N2、Heとペンキで書かれていた。

 ルイスはボンベを斜めにし、下面を転がしながら、手慣れた手つきで操舵室の脇まで運ぶと、勝手知ったかのように壁面のバンドで固定した。

 恐らくルイスは何度もこの船で沖に出ているのだろう。


 ルイスが作業をしている中、ミゲルとエヴァは次の荷物を取りに、台車を押してトラックに戻って行った。

 ダイビングに使うタンクは、各自がダブルタンクで1日2ダイブするとして、一日で1人につき4本は必要だ。4人分だとタンクだけで16本にもなる。

 更にルイスは予備タンクや、容量の小さい補助タンクを沢山積み込んだので、船の甲板はタンクだらけになった。


「こんなに沢山の補助タンクを、一体どう使うんだ?」

 矢倉はルイスに訊いた。

「色々な事に使いますよ。まずトライミックスは70m深度を前提にブレンドするので、浅い深度では酸素不足を起こしがちです。30m深度までは補助タンクに充填した通常のエアーを利用します」

「つまり、トリプルタンクで潜るということか?」

「そういう事です。他にも万が一のエアー切れに備えて、現場の周辺に10本ほど沈めておきます。また沈没船の中にも必要に応じて配置します。

 浮上時の減圧停止でエアー不足が起きる可能性もあるので、ガイドロープにも10m置きに、深度別でブレンドを変えたタンクをぶら下げます。これはガイドロープを見やすくする役割も兼ねています」


 矢倉は同じダイビングでも、分野が違うとそれぞれにノウハウがあるのだなと思った。ポルトガルのダイバーが全てルイスのように慎重だとはとても思えないが、少なくとも矢倉は、運よく自分のポリシーに叶うパートナーに出会えたようだ。

 荷物を全て積み終えると、ルイスは3つのタンクからホースを伸ばし、それぞれを圧力計に繋いだ。幾つものバルブや、ホースが絡み合う様子は、船上にちょっとしたダイビングショップが開業したように見えた。


 ルイスとミゲルは、その日遅くまで掛かって全てのタンクにガスを充填し、エヴァはコンプレッサーで、圧縮空気を充填した補助タンクを作った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る