第七章 オンダアルタ

第23話 地図にない街

――2018年1月21日、8時55分、リスボン――

 

 矢倉がホテルの部屋でシャワーを浴びていると、フロントから電話があった。ロビーに来客があると言う知らせだった。

 時計を見るとまだ9時前。ポルトガル人はラテン気質で時間にルーズと聞いていたのに、約束していた時間のぴったり5分前だった。


 急いで服を着てロビーに下りると、若い女性が「ミスター・ヤクラですか?」と声を掛けてきた。「そうだ」と答えると、旅行ガイドの派遣会社から紹介されて来たのだと彼女は言った。

 矢倉は英語しか話せず、ポルトガル語は全く分からない。日本を発つ前に、現地ガイドを兼ねた通訳を頼んでいたのだ。


「テレサ・ガレアーノです。テレサと呼んで下さい」

 彼女は右手を差し出した。

「マサキ・ヤクラです。マサキと呼んで下さい」

 矢倉はテレサと握手を交わした。

テレサは黒い瞳に褐色の長い髪が良く似合い、とても理知的な印象を矢倉に与えた。

「それではマサキ、早速ですが、これから行く場所のご説明をします」

「オンダアルタですね?」

 矢倉が口にしたその地名は、祖父からの手紙に張られた切手に押されていた、スタンプに記されたものだった。矢倉は旅行ガイドの代理店に、オンダアルタという場所が今回の旅の目的地であると事前に伝えてあった。


「はい、まずはその報告からさせていただきます」

 テレサはテーブルの上に、リスボンを中心にした広域地図を広げた。

「実は、ご依頼のあったオンダアルタを調査したところ、該当する地名はありませんでした」

「地名が無い?」

「そうです。正確に言えば、オンダアルタという村は、過去に存在しましたが、現在は地図から消えているのです」

「どういうことですか?」

「その村はかつてリスボンから海岸沿いに、直線距離で100㎞ほどの場所にありました」

 テレサは地図の上に赤いマジックを走らせた。矢倉はテレサが丸く囲んだその場所をじっと見つめた。そこはポルト・コーヴォと書かれた町の更に5㎞程南側にあり、周囲には公園の印がある以外には、何も目立ったものが無い場所だった。


「オンダアルタ村は19世紀にクジラ漁で栄え、かつては人口が1000人を越えた時代もあったようです。しかし捕鯨の近代化に伴って小規模なクジラ漁は価値を失い、村人は細々と巻き網でのイワシ漁を営むようになりました。やがてそのイワシ漁も廃れて、遂には行政地図から姿を消してしまったと言う訳です」

「もうそこには誰もいないという事ですか?」

「まだ数軒の家はあるようですが、それ以上の事は分かりません」


「そうなのですか……。実はそこには42年前、一人の日本人男性が暮らしていたはずなのです。そして恐らくその人物は、私の祖父です。私は祖父の消息を知りたくてここに来たのです」

「42年も前ですか――。もしも存命なら、かなりのご高齢ですね」

「とにかく、その場所に案内してもらえますか? この目で現場を見てみたいのです」

「そうですね。ここであれこれ想像しても始まりませんからね」

 矢倉とテレサはホテルを出て、市内のレンタカー屋に向かった。そこで矢倉は、フォードのピックアップトラックを借りた。


 車に乗りこんだ矢倉は、テレサの道案内でリスボン市内を南に向かい、“4月24日橋”という名前のついた長いつり橋に入った。

 橋の下にはテージョ川が流れ、そこから見渡す光景は、見渡す限りの港湾都市だ。15世紀の大航海時代には、このリスボンから沢山の遠征船が旅立ち、ポルトガル海上帝国とまで言われていたのだ。


「しかし分からないものだな――」

 と矢倉は思った。かつてスペインと共に世界を二分したはずのここポルトガルが、すでに経済破綻を表明し、もう一方のスペインも同じ道を辿りつつあるのだ。つくづく国の興亡、盛衰といのはめまぐるしいと矢倉は思った。

 テージョ川を渡り切った途端に、近代的なビルと古い街並みが混在していたリスボンの街は終わりを告げ、辺りは延々と続く郊外の風景になった。矢倉にはそれが、帝国の落日を象徴する風景に思えた。


 矢倉が運転する車は、2時間以上掛かって目的地に到着した。直線距離で僅か100㎞の場所も、複雑な海岸線に沿ったルートを走ると、思った以上に時間を要する。距離メーターは180㎞も進んでいた。

 大通りから海岸に向かう道は、車2台がすれ違うのがやっとの幅しかなく、舗装路の両脇は砂を被っていた。矢倉は道が大きくカーブする先の広い空き地に車を停めた。


 すぐ先には、雑木林の間を縫うように、海側に抜ける細い道があり、その道の入口脇には、ゴミを分別する大型の回収箱が3つ並んでいた。その箱だけが、その道の先に人が生活していることを示す証だった。

 矢倉とテレサは車を降りて、雑木林の道を歩いた。そして100mほど進むと、不意に視界が開けた。


 確かにそこはかつて村であった場所だと思われ、その一角だけでも、ざっと見渡して20戸を越える家屋が確認できた。しかし多くの家では門扉が壊れ、屋根は崩れ掛けていて、とても全戸に人が住むとは思えなかった。

 敷地全般に手入れがされていないため、人が歩かない場所には例外なく枯れた雑草が横たわっており、それがまた一層村全体に寂れた雰囲気を醸しているのだが、矢倉のような来訪者からすると、逆にそれが、人の住まない家を識別できる印でもあった。


「端から当たって行きましょう」

 テレサは言った。何の当てが有る訳でもないので、彼女の言う方法が一番真っ当な考えに違いなかった。

 テレサは2人が立つ場所に一番近い家、その中でも玄関先まで雑草の生えていない家に向かうと、玄関の呼び鈴を押した。しかし、どうやらそれは壊れているようで、何の音も発しなかった。ドアもノックしてみたが、中からは返事が無かった。何度やっても同じだった。


 テレサはバッグからメモ帳を取り出し、ポルトガル語でメッセージを書いた。

『42年前に、この村に住んでいた日本人を探しています。もしもご存知であればお電話をください』

 そしてテレサは自分の電話番号を書き添えて、郵便受けの中にそれを入れた。


 2軒目の家も、3件目の家も同じだった。4軒目の家でやっと老人が玄関先に現れた。テレサはしばらくその老人と話をして、すぐに戻ってきた。

 テレサによれば、老人は40年近く前からここに住んでいるが、日本人は知らないと答えたそうだ。またこの村には、現在6人の老人が住んでおり、そのほとんどは、昼間は行政サービスのデイケア施設に行っているらしいとの事だった。


 一番古くからここにいるのは、コンスタンサ・ノゲイラという老女らしいが、そのコンスタンサも他の村から嫁いできた女性なので、恐らく目的の人物は知らなのではないかと、老人は言ったそうだ。

 矢倉とテレサは一通り村を回ったが、その後は誰とも会う事は無かった。テレサは雑草の生えていない全ての家に、メモ書きを入れてくれた。


 丈の高い雑草や、手入れのされていない樹木に遮られて、初めは気が付かなかったが、村の中央部には尖塔をもった教会があり、その周辺は比較的大きな建物が並んでいた。祖父が手紙を送った郵便局は、きっとその中の1つだったのだろうと矢倉には思われた。


「来るのが遅すぎたな……」

 矢倉は心の中でつぶやいた。

 10年前、否、せめて5年前にここに来ていたら、もっと違う結果が得られたかもしれない。祖父と自分を繋ぐ細い糸が、ぷっつりと切れるような、何とも言えず切ない思いが矢倉の心を満たした。


 その夜、矢倉はホテルに戻るとすぐに、ポルトガルの海洋考古学協会が発表している、沈没船の位置が書き込まれた海図を広げた。テレサが入手してくれたものだ。

 いつまでもオンダアルタの事を、くよくよと考えていても仕方が無い。潜水調査に頭を切り替えようと矢倉は思っていた。


 新聞の見開き2面分もあろうかという海図の上を、矢倉は指を滑らせて、あのセルロイド板に掘りこまれた緯度経度を辿ってみた。しかしその場所には沈没船は記入されていなかった。

 矢倉にとってそれは朗報だった。それはその海域に何も無いという意味では決してなく、まだ誰も見た事の無い、手垢の着いていない何かがそこにあるという可能性を示しているからだ。矢倉はそれを是が非でも、自分の手で発見したかった。


「しかし、さすがポルトガルだな」

 矢倉は思った。このような沈没船観光のための海図が発行されるなど、日本では考えられない事だからだ。

 欧米人の間ではレックダイビングは人気が高く、とりわけポルトガルには世界中から多くのレックダイバーが集まってくる。ちょっとした探検気分を味わいたい者から、一攫千金を狙うトレジャーハンターまで色々だ。

 なぜポルトガルなのかと言えば、そこに沈む沈没船が多彩だからだ。大航海時代の帆船はもちろんの事、古くはギリシャ・ローマ時代や、バイキングの船、新しいものでは、第二次大戦中の軍艦もある。


 レックダイバーからの需要に応じるため、ポルトガルには沈没船捜索のための調査船が多く、チャーターを専業とする業者もいる。矢倉は潜水調査に先だって、そのような調査船を使って、まずは現場の周辺海域を事前調査するつもりでいた。

 緯度経度の情報があるとはいえ、なんの見当もなしに、闇雲に現場に潜るわけにはいかないからだ。そして海洋調査の成否は船長の腕がものを言うだけに、雇う船を決めるためには、実際に船長に会うのは必須だと考えていた。

 明日からはその手筈を整えなければならない。


 矢倉があれこれと手順を考えていると、突然部屋の電話が鳴った。ホテルの交換手からだった。

 外線が繋がると、電話の主はテレサだった。

「マサキ、今日メッセージを残してきたコンスタンサという女性から、たった今電話がありました。自分はその尋ね人の事は知らないそうですが、以前自分の家の隣に住んでいた、カロリーナ・エスキベルという年かさの女性が、村の診療所で働いていた東洋人の事を、良く話していたそうです」

「その女性の居場所は分かるのか?」

「今はポルトガル南部の都市ファロで、老人ホームに入っているとのことでした。コンスタンサが連絡をとってくれて、明後日なら会えるという返事をもらっています」


 矢倉は天井を仰いで深い息をした。祖父との細い糸はまだ切れていなかったのだ。

「ありがとう、テレサ。明後日、もう1日付き合ってもらえるか?」

「もちろんです、マサキ。本当に良かったわね」

 祝福の言葉を残してテレサの電話は切れた。

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