巻の四「秘されたもの」

第29話「奇妙な幽霊寺」

「まったくおまえの兄ちゃんは。全然出家できてないだろ」

 言いながら珂惟かいは、車輪ほどの大きな焼餅ナンを頬張る。小麦粉に塩と水を混ぜて焼いただけのほどよい歯ごたえのある焼餅を、珂惟はいたく気に入っていた。茗凛めいりんはトウモロコシ粉入りの柔らかい焼餅を手に、

「ごめんなさい」

 その言葉には兄のことだけでなく、ひそかに自分のことも絡ませておいた。

「いや。こっちも、ちょっと意地が悪い言い方だった、と思う。ごめん」

 今のは、兄さんへの発言についてだけなのかな? 茗凛はふと思う。しかし、

「ホント美味いよなあコレ。小麦と水と塩だけなんて嘘みたいだ」

 珂惟はそう声を張り上げ、また焼餅にかぶりついた。見守る茗凛は自然と笑顔になる。 

 なんとなく仲直りした二人は、「まあまあ、行っておいで。仲良くね」とニヤニヤ笑いのおかみに送られて、焼餅の店でそれを食べていた。昼時を外れているうえ、持ち帰りが多い店なので、店先のガタつく長椅子に他の客はいない。そこで茗凛は昨日、然流ぜんりゅうから聞いた話を珂惟に伝えていた。

 珂惟は黙々と焼餅を食べながらそれを聞いていたが、茗凛が話し終わったとき、最後の一片を口に放り込んだ。手を払いながら大きく口を動かして、ごくりと飲み込み、

「なんかヘンだなその話。言葉も満足に話せない胡人の女が? 寺の奥まで入り込んで? たまたま開いてた地下牢に入って? 誰にも気づかれず閉じ込められる? その女の死体はどうした。まさか勝手に始末してないよな、それじゃ家族や仲間が大騒ぎだ。それとも口封じに金品でも握らせたのか?」

「それは分からないけど……。でもただの噂かもよ。だって幽霊だなんて……」

 言うと茗凛はぱふっと焼餅を噛む。珂惟は身を乗り出し、

「そこなんだよ。いくら地下牢が使われてないからって、その上には行者たちが住んでたんだろ? どうして誰も女が閉じ込められてるのに気づかないんだ。声は聞こえたはずだ。まあ諸事情で気づくのが無理だったとしてもだぞ、幽霊が出るからって寺人や行者を外に住まわせるか? 何より、幽霊が絶対いるって思ってるその根拠はなんなんだ? 上座が見たのか? だったら経なんか上げても無意味だし、上げてなんとかなると思ってんなら、最初から行者たちを追い出す必要なんかない。どうも、『あの建物を無人にしたい』っていう理由があるとしか思えない。――もう四ヶ月だっけ、沙弥たちが外に出されたのって」

「確か三月のことだったから、そうなるわね」

「あれ? そういや、前の上座かみざが倒れたのも、そのあたりじゃなかった?」

「そう。上座がいなくなって、あの寺の法力が落ちちゃったのかな。わかんないけど」

「ずっと体が悪かったわけ? 結構お年ではあったみたいだけど」

耳順ろくじゅう近かったと思う。座長が言うのは、若い頃はもっとキビキビしておられたとか言ってたけど、あの年齢にしては元気だったと思うな。寺で騒ぐ子どもを見かけて叱り飛ばす声は、関係ない人でさえ背筋を伸ばしちゃうくらいだったもん。いなくなった直前も普通にみえたんだけど、いきなり倒れたみたい。その頃、兄さんは瓜州かしゅうの寺に使いに行かされてて、戻ったら上座がいなくなっててすごく驚いたみたい。兄さん、あの上座が和上わじょうだったから、相当落ち込んでたわ。身近にお仕えしていながら、体調の変化にも気づかなかったなんてって、ひどく自分を責めてたって、然流さんが」

 珂惟の表情が一瞬険しくなった。と思ったとたん、持ち歩いている竹筒を珂惟が慌てて傾けた。なーんだ、茗凛は脱力しながら、

「もう、だから急いでがっつくなっていつも言ってるのに。食べ物を喉に詰まらせて大事になる人だっているんだからね。こっちでは水は貴重なんだから、気をつけないと」

「……分かってるよ。で? 今、前上座はどこにいるんだ? 敦煌とんこう城外って言ってたけど」

「本当に分からないのよ。前に兄さんに聞いたことあるけど、『知らない』って言ってた。隠してるってことはないと思う」

「嘘つけなさそうだもんな、あの方。――それにしてもヘンだ。和上の居所を知らされないだなんて」

「そういうもの?」

「だって親みたいなもんなんだぜ、和上って。憎み合ってるならともかく、子が親の居場所を知らされないなんておかしいだろ。それにいくらここの気候が厳しいからって、病人をわざわざ城外に運び出すか? 確かに瓜州の方が大きな城市まちだったからいい医者がいるかもしれないけど、それにしたって春なんて、ここら辺は風が強くて黄砂が凄いっていうじゃんか? ここから遠く離れた長安でさえ黄色い靄がかかるくらいだっていうのに、靄じゃすまない黄砂の中を動かすなんて、その方がよっぽど体に悪いだろ」

「そうなのよね。長旅させるほうがよっぽど体に悪いってみんな言ってたんだけど……」

「『いい医者』を呼んでくるならともかく、わざわざ連れて行って診せなきゃなくらい重症だったら、医者のトコに着く前に倒れる気がするけど。ホントあの寺はヘンな話ばっかりだな。前の上座はどこにいるか分からんわ、留学生には監視をつけるわ――それにあの建物だって――どう見たってあの潰れそうな宿より立派に見えるんだけどな。まだ丹色も鮮やかだってのに老朽化? おかしな話しだ。――ヤツも言ってたな、俺に寺のあれこれを探られたくないから、寺内を自由に歩かせないとしか思えないって。やっぱなんか怪しい感じがする――ごちそうさん!」

 珂惟は立ち上がると、火を囲むようにして作られた石の壁に、かがみこんで生地を貼り付けている店主に向かって声を張り上げた。

 笠を被りながら歩き出した彼の後を追い、茗凛は尋ねる。

「どういうこと?」

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