宣告-1
*
時は少し戻り、クレハ将軍の宮。
琴子は狼狽えていた。
「どうか顔をあげてください。私と何を話したいのかわかりませんが、私も私のことで聞きたいことが山ほどあります。えっと現皇様は、私の質問にこたえてくださいますか?」
琴子は震える声で、そう問いかけた。
「勿論でございます」
華やかな表情で顔を挙げた現皇は、ためらうことなくそう答えた。
琴子が天宮に向かうことを承諾すると、すぐに現皇は動き出した。
少し離れたところで跪いていた褐色の男の人を呼び寄せ、ニッコリと笑う。
琴子は、さっきのこともあり身構えて男を睨み付けたが、当の本人は全く気にしていない様子で琴子をただ一瞥した。
「この場に長居するのはあまりよろしくない。すぐに天宮へ向かいましょう」
この世界でも初めて見る、星屑をこぼしたような白金の髪がさらさらと揺れる。
「シザー、頼むよ」
現皇の言葉にシザーと呼ばれた男の人が頷いた。瞬間。
「え、」
琴子は一回瞬きをした。
一瞬。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。名前を呼ばれたその人はなめらかな動きで宙返りをすると、一切の音もなく、見慣れないものに変わった。
青々とした白銀の、毛。
琴子の二倍は優にあるような大きな背中。
風にそよぐ鬣は優雅で、こちらを見つめる両眼は、ハッとするほど深い琥珀色。
獣だ。
「え?」
口を開けてその獣を見つめた。マジック?いやまさか。
訳が分からず周りを見回すけれど、そこには琴子と現皇と、そして異型の獣しかいない。
琴子の間抜け面を笑うように獣が鼻を鳴らした。
「こ、これは一体……?」
獣の横で現皇が微笑んでいる。
琴子の脳裏に大通りで見た奇怪な人たちの姿が浮かぶ。日本で見たらコスプレとしか思わないような恰好をした、でもコスプレとは思えないほど自然に馴染んでいた半獣の人たちを。
でも目の前の、コレは違う。
彼に獣の耳や尻尾はついていなかったし、なによりそんな、一瞬でこんな大きな獣に化けられるなんて。そんなの普通じゃ有りえない。いくらここが琴子の慣れ親しんだ生まれ故郷じゃないにしたって、そんな漫画みたいなこと、そう簡単にあってたまるか。
獣は琴子の動揺などどうでもいいと言うように、大きく身震いをした。
まるでよく出来た絵画のように対となった一人と一匹が、じっと見定めるように琴子を見つめた。
「これについて話すのも天宮についてからにいたしましょう。さあ、お乗りください」
「えっ!?乗る?これにですか…?」
「ええ。大丈夫。落ちないよう私が支えます」
「いやいやいや、あの、私、動物の背中に乗ったことなんて一度もなくて、全然」
「ご心配なさらず。彼は人を乗せるのに慣れていますから」
焦った琴子の言葉は現皇にあっさり覆され、「さあどうぞ」と手を差し伸べられる。
(ああ、これ、腹をくくるしかないやつだ)
傷ひとつない白い手に恐る恐る触る。
うだうだ言っても仕方がない。乗るしかないのだ。乗るしか。
おっかなびっくり背中に登ると(獣は乗りやすいよう屈んでくれたが、なにせ大きく鞍もないので、必然的に琴子がよじ登る形になった)、思っていたより獣の背中は居心地が良かった。すぐに現皇が琴子の背後に飛び乗る。その姿が妙にしっくりきて、この獣はこの人のものなのだと直感した。
「思い切り掴んでも大丈夫ですので、しっかり捕まっていてくださいね」
ふいに現皇の息が耳に触れ、一気に頬が熱くなる。
「そ、そんなに掴んでもいいものですか?」
「急ぎましょう。あまり長く持つ結界ではないのです。くれぐれも舌を噛まぬようお気を付けて」
「えっ!?」
琴子がその忠告を飲み込むより先に、獣はノーモーションでその場から宮の屋根へと飛び乗った。
「ひぇっ!」
一気に高く飛び上ったせいで、内臓に変な負荷がかかる。
蛙が踏み潰されたような間抜けな悲鳴は、そのまま休むことなく走り始めた獣の動きによって塞がれた。
風が、耳元でヒュンヒュンと鳴っている。
「大丈夫ですか?」
現皇の声は聞こえたが琴子に応える余裕はない。
自分の下で獣の身体が動く感覚と、唐突な上下移動。急降下を繰り返すジョットコースターが常に八の字に動いているような不快感。最初の乗り心地の良さは一瞬で吹き飛び、今はただ、ただただ怖い。
視界が青空に染まり、耳元で風が飛び去る音がする。
ざわりと内臓が浮かびあがる感覚がして、思わず固く目を閉じた。
「もう着きますよ」
鈴の音がなるような声で現皇が囁く。
はっとして顔を挙げれば、はるか遠くに見えた大樹が、もう目の前に迫っていた。
(速い!)
クレハ将軍の宮から見た大樹は、もっともっと小さかったはずだ。
今琴子が目を瞑った一瞬で、一体どれくらいの距離を駆けたのか。
「天宮はあの大樹の麓にあります」
現皇の説明を裏付けるよう、獣はまっすぐに大樹へと向かっていく。すっかり空は大樹に覆われ、辺りは一面木洩れ日で覆われていた。木造から石造りへと周りの建物が変わっていく。天を突くような斜塔を抜け、獣はどんどん奥へと向かっていった。
「あれは……」
「ええ。あれが天宮です」
大樹の、絶えず変化する木洩れ日を受けて、こげ茶色の建物が半ば崩れかけそうないでたちで静かにそこに立っていた。
「先の内乱でだいぶ痛んでしまいましたからね。以前はこれでも綺麗な白木造りの建物でした」
懐かしむような声色に悲しみはない。
獣はまたノーモーションで跳ね上がり、空へ空へと高く造られた天宮の中ほどに降り立った。ぎゅうっと力を込めて獣の背中にしがみついていた琴子は、現皇に促されようやく身体の力を抜く。
恐る恐る顔を上げた琴子の視界にまず映ったのは、赤い南国の花だった。
「着きました」
開け離れた窓がある。その向こうには部屋が。
獣が降り立ったのは木製のベランダのようなところだった。
「ここが天宮にある私の私室です」
そういうと現皇はすすんで先におり、琴子の方へ手を差し出す。
「大丈夫ですか?少し酔ってしまわれたのかもしれませんね」
琴子の顔を見た現皇が、弱ったように眉を下げた。
「申し訳ない。私が直接出向くにはこれしかなかったものですから……さあ、どうぞ。慣れていないと降りづらいでしょう」
「あ、ありがとうございます」
差し出された手を取り、なんとか獣の背中から降りる。
そして現皇に促されるまま、琴子は部屋の中へと入った。
窓辺に赤い花が生けてある。さわやかな夏の匂いがした。
「さあ、どうぞお座りください。異界の方」
室内は特に広いというわけではなかった。隅々まで掃除がなされ、手入れの行き届いた居心地の良い部屋だ。開かれた窓際から、ときおりそよ風が入ってくる。クレハ将軍の意匠を凝らした豪華な宮に比べると、現皇の私室はいささか質素と言えるかもしれなかった。
「ではお茶を用意してまいります」
「ああ、ありがとう。シザー」
背後から聞こえた声にはっとして振り返ると、銀色の獣は既に人の姿に戻っていた。見慣れない褐色の肌のせいで、いちいちその存在に驚いてしまう。
シザーと呼ばれたその人は、鋭く尖った銀の目で琴子を一瞥する。
ドキッとして固まった琴子の横を抜け、彼はそのまま部屋の扉から外に出ていってしまった。
「えっと、あの人は…」
あの目で射抜かれると、内臓がぞわりと浮かぶ。反射的に距離を取りたくなるような、じんわり汗をかくような。
現皇はただ微笑む。
「さあ、どうぞお座りください」
「………」
「そういえばまだ名前も聞いていませんでしたね」
琴子が籐の長椅子に座ったところで、現皇が口を開いた。
「……ハヤミ、コトコです」
「二つ名をお持ちなんですね。良い名だ」
「いえ、別に……」
(──そういえば、前にロウに名前を言った時も苗字がどうのこうの言ってたな)
不意に思い出した。
ただそれ以来、特に名前のことが話題に上がることはなかったから、すっかり忘れていた。
「本題になる前に、あの者の話でもしましょうか。だいぶ気にされていたようだから」
クスクスと現皇が笑う。
「彼はシザーといい、幼いころから私に仕えてくれている側近です。そして、もうお気づきかもしれませんが、彼は純粋な人ではありません」
淡々とした口調とは裏腹に現皇の眼差しは温かい。
琴子はおもわずごくりと息をのんで、現皇の言葉を復唱した。
「純粋な人じゃない…?」
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