第6話 チョコレート
外出する機会はあまりない。平日はもちろん、休日でさえもこもりがちになってしまう。
今住む部屋は、晶子にとって蚕の繭の中にいるように心地よい。
職場である学校の黒板に日付が書いてあるのを見て、月日が経っているのをうっすらと感じるくらいで、晶子は特に何を思うこともなかった。
だから、一週間ほど前に、「本間先生は阪口先生にあげるの?」と生徒に言われて、意味がわからなかったし、同僚に「義理ってほどじゃないけど、日頃のお礼に配ろうかな」と同意を求められても、やはりよくわからなかった。
そして迎えた、二月十四日、バレンタインデー。
職員室の阪口の机の上には、大小の紙袋や、リボンのかかった箱。
「阪口主任、それ……」
晶子がおっかなびっくり声をかけると、阪口は煩わしそうにそれらを寄せて、机の上にスペースを作る。
「うちの学校は、こういうのゆるいですからね。お祭りだとでも思っているんでしょうか」
突き放されたように感じて、晶子は口ごもる。それを同僚の男性教師が引き取って晶子に教えた。
「チョコですよ、チョコ、バレンタインの! 阪口先生は毎年すごい数貰ってるんですよねー」
僕も貰いましたよ、と若干胸を張ってみせる体育教師に、阪口はうっすらと笑みを返す。そして、どこからか大きな紙袋を出してきて、それにカラフルな包みを纏めていく。
その様子に、他の教師たちも口々に話し出した。
「阪口先生は高価なものは断るけど、なんだかんだ受け取ってくれるし、お返しもくれるし。普段の指導のお礼にって、男性学生に貰ったりもしてましたよね」
「いつもそんなに貰ってどうするんですか、チョコ」
「まさか全部食べないでしょう?」
職員室は和気藹々としていて、晶子はそっとその場を抜け出した。
(バレンタインなんて気にしたことなかった……)
逃げ込んだ先は女子トイレである。鏡の中には、眉根を寄せた自分の顔がある。
晶子は男女交際の経験もないし、友達同士で好きな人について盛り上がったこともない、もちろんバレンタインデーに誰かにチョコをあげたこともない。
阪口は、どうやらチョコを拒否することはないようだ。
(ひょっとして、私がチョコをあげても、先生は怒らないのかな……)
胸がどきどきする。
先ほどの阪口は、機嫌が悪くは見えなかった。よくも見えなかったが。
阪口は元来、辛辣だが丁寧な指導をするので、生徒達から人気があった。晶子は、彼が教師という仕事のやりがいを感じているのを知っている。もとから、人にものを教えることが好きなのだろう。晶子に対しても何くれとなく世話を焼いている。遠慮すると、世話を焼きたいのだと言う。それで、いつも阪口に甘えるばかりなのが、晶子の胸にわだかまりとなっていた。
その日は阪口に「買い物がある」と言い訳をして、晶子はひとりで帰途に着いた。
駅ビルの華やかな陳列棚を矯めつ眇めつ、晶子は歩く。
赤やピンクの目立つ色彩の洪水に、晶子は夢の世界みたいだ、と思う。
彼のそばにいられるなんて、夢ではないかしら。
さんざん悩んで、ハンカチに小さなチョコがついたものを買う。
包みを大事に抱えて、晶子が駅ビルを出ると、「晶子ちゃん」と声をかけられた。
阪口が立っていた。
「あんまり遅いので心配しました」
結局閉店間際まで迷っていた晶子である。申し訳なくて視線があげられない。
コートの襟元にもつれた晶子の髪を、阪口が指で梳いた。
つられて晶子が顔を上げると、阪口がじっと晶子を見ていた。
阪口の手が差し出され、晶子はそこに自分の手を乗せる。周りをあるくカップル達は、みんな腕を組んだり、手をつないだりして歩いている。
「先生」
「どうしましたか?」
晶子の指の間に、阪口の指が滑り込んでくる。手の甲を親指がくるりと撫でて、そのまま力強く握られた。
晶子も握り返すが、弱々しく抵抗しているらいのものだ。
晶子はほうと白い息を吐く。
「私も先生に…………チョコを、あげたかったの」
呟くと、後から猛烈に恥ずかしくなって、晶子はつないでいない手で顔を隠した。
「私、本当に嬉しくて」
なかなか言葉にならない。でも本当に嬉しい。阪口の手の中に捕らわれているのが、ずっと視線の檻に囲われていたい、がんじがらめにされたい、もっと直截な言葉にすれば、阪口に飼われているような状況が、晶子には嬉しくてならないのだ。
もっとも阪口のそばに置いて貰えている。そのことに、晶子が感じている興奮を、ありのままに伝えることは難しい。これは、溢れるような感情は、祝福や感謝に似ている。
「先生、私、本当に、本当に…………」
顔を隠して黙り込んだ晶子の手を、阪口が自分のコートのポケットにつっこんだ。
「本当に、君が、かわいい」
思わず阪口を見上げた晶子に向けた阪口の目が、チョコのように甘くとろけた。
「チョコを食べるのを、手伝って貰えますか?」
その夜、晶子はチョコを小さく砕いて、阪口の口に運ぶ仕事をしましたよ、みたいな。
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