第2話 常世虫
放課を告げるチャイムが鳴る。生徒が一斉にざわめき出す。潮が引けるように、下校が始まった。
「先生、トコヨムシの話なんですけど」
晶子は手に揃えていた教科書から顔を上げた。そこにはひとりの男子生徒が立っていた。
「木嶋くん、どうしたの?」
木嶋は学級委員長をしている。成績はよく、教師に質問をするところなど殆ど目にしない。必要がないのだ。
数人の男子生徒が木嶋の肩を気安く叩いていく。それに挨拶を返して、木嶋はじっと晶子を見つめてきた。晶子は教科書を胸の前で抱えた。
晶子はあまり芸能人には詳しくないが、木嶋はアイドルの誰それに似ているということで、女子からは人気がある。あまり背は高くなく、甘い顔立ちと相まって、年齢よりも幼げに見える。しかし、彼に宿る鋭い知性が、むしろ大人びた雰囲気を醸し出していた。
「この前、先生が蝶の話をしてたじゃないですか」
晶子は首を傾げる。自分は授業が下手で、雑談を混ぜ込む余裕はあまりない。話しても生徒がしらけて、とても気まずい。
「図書室につきあって下さい。資料を見せますよ」
「し、資料って、何の……」
ぐいと手を引かれる。木嶋に引きずられるようにして晶子は図書室に向かった。
図書室で木嶋が広げて見せたのは、図鑑と日本書紀の解説書だった。
「ああ、常世虫のこと……」
日本書紀には、七世紀、飛鳥時代に一時的に大流行した新興宗教が記されている。これは常世虫という虫を常世神として祀る宗教だった。
常世虫はアゲハチョウではなかったかとされている。
晶子は記憶を辿る。確かに言ったかもしれない。『蝶はひとの魂だと言われることもあった、常世虫なんていって、神様にされたことも』
晶子は思い出しして、頬を熱くした。
これは全くの受け売りだ―――阪口の。
阪口は晶子の指導を担当している教師だが、晶子にとってはそれだけではない。
「先生?」
のぞき込まれて晶子ははっと気を取り直した。
木嶋はビー玉のように透き通った目で、じっと晶子を見ている。しかし、晶子が思い浮かべるのは、違う人物の目だ。太くはないが、まっすぐではっきりした眉の下の、切れ長の目。眼鏡のレンズの向こうで、鈍い光を放っている。
「昔のひとにとっては、驚くべき変化ね。幼虫から蛹へ、蛹から成虫へ。神様だと思っても仕方ないかも」
「先生みたいに?」
木嶋が呟いて、晶子はまじまじとこの男子生徒を見た。
「最近、先生変わったよね。俺だけじゃない、ほかにも言ってる奴いたよ」
木嶋はどこか思い詰めているような顔をしていた。自分は教師として頼りないが、この生徒は自分を悩みの相談相手に選んでくれたのだろうか。
常世虫は、相談のきっかけで実は……。晶子は居住まいを正した。
「木嶋くん、私でよかったら」
「先生、阪口先生とは」
二人同時に言ったとき、図書室のドアがからりと開いた。
晶子と木嶋がゆっくりと振り向く。そこには阪口が立っていた。
「探しましたよ、本間先生。すぐ会議だと言ってあったでしょう」
木嶋が眉を顰めた。気づかずに晶子は慌てて椅子から立ち上がる。
「阪口先生、すみません!」
真っ赤な顔で阪口に頭を下げて、そのまま席を離れようとする晶子の手首を、木嶋が掴んだ。急な動きで、手首にこもる力は痛いほどだ。とっさに振り払おうとして、晶子は思いとどまった。
彼はやはり先ほどと同じ思い詰めたような顔に、更に苦しげなものを滲ませていた。
晶子は木嶋の手に自分の手を重ねた。
「木嶋君、私でよかったら、またいつでもお話しましょう。今日の続きでも、違う話でも」
微笑んだつもりだが、うまくいったろうか。視界のすみでは阪口が呆れ顔で晶子を待っている。
木嶋の手から力が抜けた。彼は俯き、晶子からはつむじが見えるだけになる。髪の毛から覗いた木嶋の耳は真っ赤になっていた。
「…………きっとですよ」
木嶋が小さな声で言い、晶子は頷いた。
渡り廊下を歩く阪口の足は速い。
晶子は小走りで追いかける。
「すみません、阪口先生」
何度目か声をかけるが、阪口の足は止まらない。
晶子の息があがってきたところで、阪口が止まった。先にある教室のドアを開ける。
「会議って、ここ……?」
晶子は教室をのぞき込んだ。近頃の少子化のせいで、この学校にも空き教室が幾つかある。この教室はそのひとつだ。
ドンと勢いよく背を押された。阪口だ。晶子はまろぶように教室の中程まで突きとばされる。
「会議は嘘です」
「嘘?」
「あの生徒が何を言おうとしていたか教えて上げましょうか。本当にあなたは覚えが悪いから」
晶子は俯く。阪口は怒っているのだ。優秀な教師から見て、晶子の態度はなってなかったに違いない。きっと彼ならば、もっとうまく生徒の内面を察しただろう。木嶋もすんなり悩みを相談できたのだろう。
また失敗、と思うと目が潤んだ。最近は涙もろくていけない。
「晶子ちゃん」
阪口が、二人きりのときだけの呼び方で晶子を呼ぶ。そうすると、いよいよ涙が溢れた。
「ご、ごめんなさい、先生。私」
涙に濡れた晶子の顔を見て、阪口がため息をつく。
「怒ってませんよ」
阪口が腕を広げる。晶子はぱっと彼の胸に飛び込んだ。
頬をすり寄せると、阪口の匂いがする。嬉しい、そればかりがこみ上げてたまらない。
阪口に抱きしめられていると、何の不安もなくなってしまう。反対に、抱きしめられていない時は、些細なことも晶子の不安につながる。
阪口を怒らせた? いらつかせた? どうしよう、どうしたら…………。
一度抱きしめられる安心感を知ってしまえば、比例して不安も強くなった。そのうち、一瞬たりとも阪口と離れていられなくなるかも知れない。
晶子が見上げると、阪口は口元を歪めた。更に強く抱きしめられて、息が詰まる。
「私は本来、とても独占欲が強いほうなんです」
蝶が羽を広げる場所は二つある。彼らの生息地、森や野原、川辺などの自然の中、それともう一つ、彼の標本箱の中。
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