第30話
「ウソ」
渡された小さな紙切れを見た萌は、思わずそう呟いた。目にしている数字が信じられなくて、その紙は手の中で握りつぶさんばかりにされている。
何かの計算ミスだろう。萌の立場ではこんなに給料が、ボーナスが多いわけがない。後から返還しろと言われるのも面倒だから、経理に駆け込もうとしたその時、笑顔の加瀬がこう言った。
「正当な評価だよ。安心して」
「え、でも、これは」
慌てるあまりに、しどろもどろになってしまう。彼はそれをからかうようにケラケラと笑った。
「残業時間と成功報酬と考えたら、それでも足りないだろうに。随分、謙虚なんだね」
彼の言葉に、この数か月間を思い起こす。確かに、ばかみたいに働いた。終電の日々は当然、休日もあまり休んだ記憶はない。誰よりも顔を合わせたのは、萌以上に働いていた山田だ。
「でも、ちゃんと残業代はもらってますし」
「うちの会社でのボーナスの意味、わかってる?頑張りはきちんと評価しているつもりだよ」
加瀬は穏やかな表情でそう言った。
山田がどう言ったのかは知らないけれど、急にどんっと萌の仕事量が増えたことについて、彼は何にも言わなかった。ただ、申請を出せば当然のように承認してくれただけだ。
「評価してくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ。無茶振りが続いていたのに、よく頑張ってくれたね。とても頼りになったよ」
急にそう言われて、萌はつい照れてしまった。決して相手が、いわゆるイケメンの加瀬だったからというわけではない。仕事で人から高い評価を受け、その結果もついてきたという事実に、嬉し恥ずかしくなってしまったからだ。が、彼はもしかしたらそうは取っていないのかもしれない。加瀬はこう続けた。
「よし。じゃ、今日あたり飲みにでも行くか。ちょうど急ぎもないしね」
「はぁ、でも急にだから、皆さん予定もあるんじゃ」
「君はあるの?」
「いえ、私は別に」
「なら、問題ないじゃない」
そう言って、加瀬は思わず見惚れてしまうような甘い笑みを浮かべた。不覚ながら、萌も一瞬ドキリとしてしまう。けれど、ムダに色んな情報を得ているわけではないのだ。
なるほど、こうやって色んな女性を引っ掛けるわけか。萌は冷静にそう分析すると、表面はにこやかに、内心は爆笑しながら、こう回答した。
「せっかくだから、大勢集まる日がいいじゃないですか。忘年会も兼ねて、みんなでワイワイしましょうよ」
「まぁ、それもいいけどさ。たまにはじっくり話してみたいなぁとも思って」
なかなかしつこい。のらりくらりとかわすことはことは出来そうだろうが、そのやり取りも面倒だ。絶対にこの男になびくことはあり得ないのだから、飲みにくらい行ってもいいのかもしれない。
「そうですねぇ。じゃ、ご一緒させてください」
「おっ。付き合いいいじゃない」
加瀬は嬉しそうな反応を返しながら、時間を指定してくる。
「なら、八時でいいかな?店は探しとくから、エントランスで」
「了解しました」
萌は軽やかに返事をした。頭の中には一つの考えが浮かんでいたのであるが、加瀬はそんなことには一切気付いていないだろう。
自席に戻った萌は、何気なくデスクのカレンダーを見た。かわいいサンタクロースの絵の隣には、⒓と書いてある。ついでに見れば25日は、青色。土曜日だ。と、いうことは今年のイブは金曜日。大樹と平穏に迎えられていたならば、どんなにか最高の年になったことだろう。
大樹との最後の電話から、いつの間にかこんなにも時が経っていた。あれから今まで、彼からは一切音信がない。そして、偶然なのか故意なのかはわからないけれど、会社でその姿を見かけたこともなかった。
何度か悩んだことはあったけれど、こっちから連絡するのはぐっと堪えた。怖くて出来なかった、という方が正確かもしれない。気持ちを決めてしまった以上、頑固な大樹を説得することは不可能だ。話したところで、また苦しそうに別れを切り出されるだけだろう。こっちだって同じ苦しみを味わうのはごめんだ。
大樹の大量の荷物は部屋の片隅の段ボールに全部詰めてある。送りつけてやろうとも思ったが、正確な住所がわからなくて出来ずじまいだ。合鍵もまだ彼の手元に残ったまま。こんなにも曖昧な終わり方でいいのかとも思うけれど、もう頑張ろうと思えるだけの勇気は湧いてこなかった。
「…仕事しよ」
萌は思考を切り替えると、入力しかけのシートに向き直った。
「ね、今日、暇?」
三時過ぎ、コーヒー片手に戻ってきた美奈子に、萌はそう問いかけた。
「今日ですか?締めはないですけど」
「飲みに行かない?加瀬さんに誘われてるんだけど」
萌は何気ない感じでそう言ったのだか、彼女はあからさまに嫌な顔をした。
「加瀬さんですか。あの人飲むと面倒だからなぁ」
「適当に流しとけばいいじゃん。ボーナス出たから、おごりになるかも」
「んん、他に誰います?」
「まだ聞いてないからわかんないけど、部の人なら誘っても構わないでしょ」
「なら、私、ちょっとメール流してみますね。人集まったら行きましょ」
「オッケー。八時だってよ」
仕事の出来る美奈子のこと、三十分もしないうちに数人の名が挙がってきた。驚いたことに、その中には山田の名前もあった。
「これだけいれば十分ですね。では、決行で」
美奈子は満足そうにそう言うと、参加を承諾した。萌としても二人きりは避けられたことで、ようやく前向きになってきた。勝手に人数を増やしたことで加瀬は不満かもしれないけれど、彼の部下を少数呼んだだけなのだから、上司としては何も言えまい。これで楽しく、心置きなく飲めそうだ。
「お待たせしました。今日の仲間を見つけておきましたよ」
エントランスで無邪気にそう告げた萌に、加瀬は少しばかり苦笑いをした。しかし、そこはさすがに敏腕上司。急な呼びかけに応じてくれてありがとうとばかりのことを言って、懐の広いところを見せつける。
「店は取ってあるんですか?」
「いや、まだだよ。適当にその辺に行くか」
山田が何気なく口にした問いに、加瀬は少し棘のある言い方をした。多分、二人でどこかの店を予約してあったのだろう。そこはおそらくは部下を引き連れていくような店ではないから、とっさにそう口にしたに違いない。
「じゃ、いつものとこで」
「ああ。頼む」
二時間後。萌はここまでかというほどに泥酔していた。
飲んだ。とにかく飲んだ。今までのストレスと一気に発散するかのように、とにかく色んな酒をガブガブ飲み干したのだ。どうにか意識はあるつもりだけれど、体の方は正直で足はフラフラでおぼつかない。千鳥足よりもっとひどい状況で、誰かの手(美奈子のだが)を借りなければ自分を支えていられない。
「大丈夫かぁ?」
「らいろうるれす」
必要以上に大きな身振りとともに、萌はそう返答したけれど、もはや言葉すらろくに発せていなかった。
「あれはダメだろ」
「誰か送った方がいいんじゃないですか?」
周囲の会話がなんとなくは理解できて、萌は何度も大丈夫と繰り返したのだが、それをまともに取る人は皆無のようだ。
「仕方ないな。誘ったのは僕だから、どうにか送ろう。会社に戻れば、住所くらいわかるから」
加瀬がそう言って面倒な役割を買って出る。美奈子はこれ幸いと、萌を彼に預けようとしたのだが不意に遮られた。そして萌が断ろうとするより先に、山田がこう言ったのだった。
「こいつの友達が俺と同じ駅なんですよ。名前も知ってるし、マンションはわかるからそこに届けときます」
誰のことだ? 山田の駅すら定かじゃないのに、そこに友人がいるかなんてわかるわけがない。そんな疑問はあったけれど、多少残っている理性が、加瀬との二人きりを避けることを優先していた。
「ろうらんれす、らから、らいろうる」
「…そうか? なら、山田に任せるか。気を付けてな」
「了解っす」
山田はきっぱりそう言うと、美奈子から萌を引き受けた。ぐらりと揺れたことで、また酔いが回る。自力で立とうとするも、どうしても体の芯がぐにゃぐにゃして寄りかかり先を見つけようとする。
「ちょっと、そこらで少し酔い覚ますか。ほら、こっちだ」
山田は萌を抱えるようにしながら、手近のベンチに座らせる。
「もう大丈夫。お疲れ様です」
彼がそう挨拶すると、面倒事はごめんだとばかりにさあっと皆が散っていく。加瀬と美奈子だけが最後まで不本意な視線を向けていたが、萌はもちろん山田も気付いてはいなかった。
全員の姿が見えなくなったことを確認した山田は、萌をそのままにして、通りに向かった。右手をあげれば、タクシーが彼の前に停まる。
「すみません。豊洲まで」
このやり取りの時点で、萌の意識はほとんどなくなっていた。警戒すべき加瀬がいなくなり、親しい山田だけになったことで、緊張がぷつりと切れてしまったのだ。こうなったら後はもう、睡魔に身を委ねてしまうだけだった。
山田に抱きかかえられるようにして車内に乗り込んだ萌は、そのまま彼の肩に頭を預けた。
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