第28話

「車だし、今日は実家に帰るから」

「うん、わかった。帰り、気を付けてね」

「ありがと。じゃ」

萌をマンション前で降ろした大樹は、実に素っ気なくそう言った。その態度に、違和感を感じないわけがない。別れ際の彼はいつもキスを求めてくるのに、今日はそんな雰囲気ではなかったのだ。

と、もう一つ。こっちはそんなに珍しいことではないけれど、彼は車中でもほとんど口を開かなかった。萌が何か話せば、適当な相づちや返事はくれたけれど、その口調はどことなく硬かった。

なんて言えばいいんだろう。表現するのが難しい。しいて言えば、何かを打ち明けたくて緊張しているような感じというのが、しっくりくるかもしれない。


 エントランスを進み、自室の前まで来るまでの間、何となく心に重しが付いているような気がしていたけれど、ドアを開けた瞬間、それらの気持ちは吹き飛んだ。

久しぶりの、一人きりの夜だ。萌は勢いよくベッドにダイブすると、心置きなく伸びをした。

大樹がいたってそんなに気を遣うわけではないけれど、やっぱり一人でいるのとは違う。元々そんなに人付き合いは得意じゃないこともあって、誰かと過ごすよりかは一人でのんびりしている方が楽なのだ。たとえそれが大好きな相手でも。

「さすがに今日は疲れたな」

 気が緩んで、独り言で本音が漏れる。

 体力的にはなんてことはないはず。ただ車に乗っかって行って、一時間弱話し合いをしただけなのだ。仕事で残業している時の方がよっぽど大変だ。それなのに、横になったら立ち上がるのが億劫になるほど、心身ともにバテている。それだけ精神的にきているということだろう。


 あの女、リエはどう判断を下すだろうか。

あそこまで色々言ってやったのだから、いい加減自分の迷惑さに気付いてくれてもいいものだ。たとえ気付かなくても、こちらを面倒な相手とみなして、諦めてくれれば万々歳。まだしつこく食い下がってくるようなら、今後はもう訴えるつもりでもある。

彼女が視界をうろつく限り、決して大樹と結婚して幸せになれることはない。年も年だし、そろそろ一区切りをつけないとという焦りもある。萌としても、今回のことで最後通牒にしたかった。

 どう転ぶかはわからないけれど、この勝負に負ける気はさらさらない。萌は力の抜けきった体をどうにか起こすと、よろよろしながらバスルームへと向かった。

 

 ブーブー。テーブルに置いた携帯のバイブ音が、静かな部屋に響いている。

 萌はタオルで髪をわしゃわしゃしながら、それを手にした。相手の名が表示されている。大樹だ。

「はい」

「ああ、俺。帰ってきたよ」

「無事で良かった」

 萌はベッドに腰を下ろしながら、ほっとしてそう告げた。

運転するのが趣味とも言える彼だが、心配性の萌にとってそれは悩みの種でもある。ハンドルを握っている以上、いつ事故に遭うとも限らないのだ。自責でなくとも、巻き込まれる可能性だって大だ。もし彼に何かあったら。そう考えるとたまに、おかしいくらい不安に苛まれるときもある。

「ちゃんと安全運転してくれたんだね」

「うん。今日はスピードも出さなかったから」

「なら良かった」

 他愛ない会話はいつもと同じ。彼の声もいつもと同じトーンだ。萌は素直な思いを口にした。

「今日はワガママきいてくれてありがとう。おかげで言いたいことはっきり相手に言えて、すっきりしたよ」

「…そっか」

 電話の向こうで、大樹のテンションが急降下している。目の前にいなくたって、彼が今どんな表情をしているのかは予想できた。

「どした?」

「あ、いや、うん。なんでもない」

「なんでもないことないでしょ。言いたいことは言いなよ」

「いや、いいんだ」

「やだよ。気になるじゃん」

 なかなか本音を打ち明けない彼相手に、こんな応酬をするのは日常茶飯事。萌は何気ない調子で突っ込んでみた。

「はっきり言いなよ。聞きたい」

「…ん、わかった。あの、さ、今日のこと、いや、今後のことなんだけど」

「なに?」

「ちょっと、距離を置いて考えたい」

 ? 萌は単純にわからなくて、間抜けにも聞き返してしまった。

「距離?なんの?」

「あ、だから、俺たちの」

 ここまで言われて、ようやく大樹の言わんとしていることが伝わった。全身を冷たい感覚が走り抜ける。萌は感情の無い声でこう問い返した。

「…何を、考えたいの?」

「萌と、これから、ちゃんとやっていけるか、どうかを」

「え、だってさ、そのために今日行ったんじゃん。何でそんなこと言いだしてるわけ?」

 慎重に言葉を選んで話しているような大樹とは反対に、萌は感情的にがなり立てた。彼はそんな萌を逆撫でしないように、適度な間を入れて話をしてくる。

「うん。そうだけど」

「だったら、なんで今更」

「あの…いや、いいんだ。ただ、少しだけ距離を置かせてほしい」

「言いたいことは言えって言ってんじゃん。誤魔化さないでよ。イライラする」

 無言タイム。困った時の彼の武器だ。長い時はこれが十分近く続くときもある。その間、萌が黙っているわけもなく、一方的に怒鳴りつけることが多々あった。今回も同様だ。

「なんでよ。せっかく私が色々考えて言ってあげたのに。あれでわかったでしょ。相手がどんだけ非常識な存在なのかが。結局、あんたは金でしかなかったじゃん。それがわかっても、まだ見捨てられないっていうわけ?バカすぎだよ。あんたの目の前には、新しい道が出来てるんだよ。それを捨てるつもり?」

「違うけど…萌、ちょっといいかな」

「なによ」

 非常に稀なことながら、大樹は萌のマシンガン文句を遮ってきた。ちょっと強い口調で挟み込まれたことが意外で、萌は今度はぐっと押されたような感じになった。

「俺さ、ちょっとおかしいなって思ったことがあるんだ」

「なんのこと?」

「…あれが子どもに対しての言葉かなって。ちょっとさ、言い過ぎなんじゃないかな」

「あまりに常識不足で、教育不足だったから、きつめに話しただけだけど」

「それは確かにそうかもしれないけど。でも、子どもに親の悪口言ったり、わかんない言葉使って脅したりするのはどうなのかな」

 大樹は下手にだけれど、妙にきっぱりとそう言った。

「あの人は、まぁ、昔からあんな感じだからさ。あそこまであからさまに、俺を金目当てって言ったことはなかったけどね。でも子どもたちにはちゃんと愛情注いでるし、母親としてを否定することはできないと思うんだ」

「夜中まで飲んで歩く様な女なのに?」

「それはさ、個人に事情があることだろうし」

「子どもほっぽって終電まで飲んで、ほとんど他人の男からタクシー代せびるようなのが、立派な母親っていうわけ?」

「…萌は正論を言っている。それはそうなんだけど、でも子どもを傷つけるようなことまで言っちゃうのは、ちょっと行き過ぎだよ。みいちゃんにガンガン言っているとこ見ててハラハラしたっていうか、少し引いた」

 引いた。彼氏にそう言われてショックを受けない人はどのくらいいるだろう。少なくとも、萌は少数派の中には入っていない。頭を大きな金属の缶か何かでガンっと殴られたような衝撃に襲われた。

これまで大樹に否定されるようなことを言われたことは、一度だってない。そもそも人の悪口をそんなに言わない人なのだ。いつだって、萌がヒステリーを起こした時だって、穏やかに受け止めてくれていた。それなのに…。


 萌がショックで何も言えないでいると、大樹の落ち着いた声が耳に響いた。

「だからね、ちょっとだけ、冷静になって考えたいんだ。もちろん、萌が俺とのことを思って言ってくれたことだっていうのはわかってる。ただ、あの態度がどうしても引っかかっちゃって、だから」

「わかった。いいよ。大樹の気が済むまで、離れよ」

「萌」

「そう思っちゃったんなら、仕方ないもん。でも、これだけは覚えておいて。私は何があってもあなたを一番に大事にするし、幸せにする自信もある。大樹のこと、大好きだから」

 頬に伝う熱い水滴を拭うこともせずに、萌はそう告げた。幸いにして、嗚咽はまだ出てこない。これなら彼に泣いていることがバレずに済むだろう。

「また連絡ください。待ってるから」

 萌はそう告げると一方的に電話を切った。ツーツーという機械音だけになると、感情は爆発した。

 大声で泣いた。涙がどんどん溢れてきて、すぐに枕も顔もぐしゃぐしゃになった。むせ返るほどにしゃくり上げて、息をするのも辛くなる。それでも泣き止もうとは思わなかった。

 どんな手段をもっても彼が欲しい。そう思って自分が撒いた種だけれど、それは間違っていたらしい。今さら後悔しても遅いけれど、後悔せずにはいられなかった。

大樹に嫌われたかもしれない。いや、嫌われたのだろう。彼は優しいからそこまで言わなかっただけだ。距離を置くという提案は、彼の最大限の気遣いから出した結論なのだろう。その先にあるのは、別れだけだ。

大好きで大好きで仕方ない相手を失った悲しみは、とてつもなく大きくて、わずかばかりの時間ではとても癒えそうになかった。

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