第43話 心理的過程としての問題無認識主義 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 #とは #定期

心理的過程としての問題無認識主義


子供の頃から能力の高い者は、失敗と謝罪の機会に出会う事が、人生経験の中で少ない。


 だから失敗を認めることに慣れていない。


 だから能力を問われるような局面を嫌う。


 失敗すれば、不得意な失敗と謝罪を認めなくてはならなくなる。


 それは自尊心の否定という、辛い感情を生む。


 だから、自己の能力を問われるような局面に入る事自体に拒絶的になる。


 自己の能力を問われる局面に入る事自体を拒絶すれば、失敗も謝罪もしなくとも良い、何もしなければ良いのだから。


 そこで、問題の存在自体を認めない、もしくは問題を過小評価する、それにより、


「自分は何もしなくとも良い」


という状況になる事を望むのだ。


 つまり、自分自身のプライドを守る為、自分自身が傷付かない為に、


「自分は何もしなくとも良い」


という判断を下したいが為に、問題解決を怠ろうとする、それにより責任を放棄し、しかし政治家、官僚としての権限と権威と立場は失いたくは無いので、問題を放置する、という心理変化と行動のメカニズムが働くのだ。


 つまり、この様な過程全体が、責任放棄と権力、権威への執着、そして問題放棄の社会的仕組みそのものなのだ。


この様な構造から、人々のニーズに合わない事を平然と行なう、政治家や官僚が出てくる事になる。


 深刻なこの社会構造的病理は、これらの構造より起こっているのだ。






 そしてそれが、官僚という、高い教育費が掛けられる、社会的上部層の人々が勤めやすい職業として成立しやすい以上、税金による資金の徴収は、国民にとっては、何の社会的問題、つまり人々の苦しみを解決しない、社会的上部層による国民からの搾取に他ならなくなり、それが階級対立と不満の蓄積、そして内乱、戦争となっていく。



政治家や官僚は総じて、高い教育費を掛けられる家庭に生まれ育った者がその職に就く傾向が強い、つまり成績優秀者とは、同時に社会的上部階層者に属する物が多くなりやすく、そのような官僚の人生経験自体が、貧困や病気や公害や犯罪や差別といった問題に人生経験として触れた事が少ない事になる。




そのような社会基盤の上で、教育として




「あらかじめ用意された問題に、上手く答える訓練」




ばかりを受け、




「自ら課題を発見し、解決する」




という訓練を受けないまま、成長して大人になり、政治家や官僚になってしまう、という事である。




 そして政治家や官僚は、その親族も含めて、総じて社会的成功者に囲まれる生活を送る、その中で聞き及ぶ様々な社会問題は、社会的成功者の悩みであり、それは比較的に、社会的な供給者側の問題であることが多くなり、政治家や官僚の知識と経験の中に、消費者や被害者や社会的に恵まれない人々の悩みや問題が入り辛い。




 その為、いわゆる事なかれ主義、問題無認識主義的な政治が行なわれる、となってしまうのだ。


国民のニーズに対し、サービスを提供するのは、国民に対する政治家や官僚の義務である。

しかし、税金による収入の保障は、政治家や官僚に錯覚を生じさせる。

サービスを提供するからこそ、その対価として収入がある。

民間企業では成立するこの図式は、政治家や官僚においては成立しない。

国民が政治家や官僚にサービスの提供を求めるのは、それが国民と納税者に対する政治家や官僚の義務だからである。

税金による政府への国民の支払いや、税金による政治家や官僚の収入の保障とは、いわば政治家や官僚のサービスに対する、国民の政治委託料の前払いでしかない。

国民が政治家や官僚に頭を下げて依頼するのは、その政治家や官僚個人への服従を意味するのではなく、その許認可権限への依頼であって、政治家や官僚の個人的性質には全く関係が無い。


しかし、政治家や官僚は、その点で錯覚してしまう。


政治家や官僚が偉いのではない。


国民は認可を求めているだけであって、政治家や官僚を褒め称えているのではない。


 問題無認識主義的な態度を政治家や官僚が取り続けると、次の様な社会問題の進展が起こる。


 政治家も含む、官僚病的官僚とは、社会の問題自体を発見できない為、人々が苦しんでいる問題自体を認識出来ない。


 国民による報告や、マスコミによる問題の報道などがかなりの数に登っても、官僚機構の動きは鈍い、責任を問われる事を恐れて、行動を取る事を恐れる為である。


 その為、問題自体を無視、または過小評価してその解決に取り組もうとせず、問題の進行に対し、何らの対応も取らない。

  ↓

何らの問題への対応を取られない為、問題が更に深刻化すると、官僚はその次に、問題を放置した責任を問われる事を恐れ、責任回避の言動を繰り返し、責任を放棄し、更に問題を放置する。

 ↓

その結果、取り返しの付かない事態に事が進行してしまい、それによってより多くの人々が苦しむ事になるが、そこまで事態が進行し、時間が経過した頃には、問題発生時の責任者の官僚は、人事異動による配置換えになって転任しており、新しい責任者は、前任者の責任だから、と更に問題の先送りを謀ることになるのだ。


 この様なことを繰り返していると、社会全体の問題解決能力自体が無くなってしまう。


 その結果、問題はまるで解決されず、人々は苦しみ続け、その不満がはけ口を求めて、暴力や革命となっていき、社会は内乱から戦争へと至るのである。


 官僚病、事なかれ主義と言われるものの本質とは、


この、


問題無認識主義


であり、この様な態度を取る官僚とは、国民にとっては、政府という強制力のある存在が、力ずくで税金を取っておきながら、何のサービスも提供せず、それどころか国民生活の邪魔をしており、場合によっては国民の敵となっている、という事である。




政治家や官僚が、問題無認識主義に立つのは、何の人権意識も無く、問題を認識し、人々の苦しみを解決しようという目的意識が欠落しているからだ。そしてそれは、前例主義型教育システムの人格育成が、前例に適合しない現実に対しての認識反応力を持たない人々を大量生産している事により起こる問題そのものでもある。


 この様な官僚は、国民にとっては、税金泥棒でしかなく、搾取者以外の何者でもない。


 人権意識の無い官僚は、国民の敵であって、国民の敵を、国民の税金によって養ってはならない。


人権意識の無い政治家は、国民の敵であって、国民の敵を、国民の税金によって養ってはならない。


 政治家や官僚は、国民に対し、自分達は、国民の敵ではなく、味方であるという事を、証明し続けなくてはならない。


それが、税金は国民からの搾取ではなく、国民への奉仕の為の費用の徴収であり、国民の富を騙し取ろうとしているのではないという証明なのだ。

 この問題無認識主義を生み出す、連続循環から脱出するには、まず教育カリキュラム自体に、


「人々の苦しみを自ら理解し、自ら問題や課題を発見し、その解決策を考え、実行する」


という項目や授業を追加する事である。


その結果、問題の発見と、解決を生み出す人格に子供が育ち、社会全体が問題解決能力を向上する。


 それが人々の苦しみを解決し、結果として暴力を生み出さず、世界から戦争を生み出さない社会を作り出すのだ。


 そして政治家、官僚は、自分自身の頭の中にある情報や判断が、常に社会的強者の情報になりやすく、その為政策判断も、社会的弱者の立場の考え方を見落としがちになりやすい、という職業的特性に、十分配慮しつつ仕事を行なう必要が在る。



 官僚主義、事なかれ主義、といったこれらの事象の本質は、問題無認識主義である、と言える。


 官僚主義、事なかれ主義といった用語は、具体的イメージとして伝わりにくいが、問題無認識主義だ、という指摘は、イメージとして解りやすい。


 問題を認識すれば、解決の為のアイデアが生まれる機会が生まれ、新しいアイデアが、問題を解決する、その繰り返しが、全人類全体の進化を生み出す。

 問題無認識主義は、問題自体の認識を拒絶する為、新しいアイデアが生まれる機会を潰す、それは全人類全体の進化の機会を潰す事である。


 問題無認識主義は、全人類にとって退化に他ならない。


 官僚的な事なかれ主義とは、問題無認識主義の事であり、それは怠慢の極みであって、そのような政治家や官僚を、税金をもって養ってはならないのである。


2 問題先送り主義

官僚は責任を取らないことによって、自己の収益、つまり給料の永続化を求める。

その為、問題が存在していても認めようとせず、問題の認識それ自体を拒絶し、もしくは過小評価し、先送りしようとする。

先送りすれば、仮に問題が放置され、それによって被害が拡大しても、それは民間の被害の拡大であって、自分達官僚の被害ではない為、このような対応を取る。

民間企業ならば、問題の放置は売り上げの低下を生み、企業の倒産や給料のカット、解雇という形で個人の責任追及が起こるが、官僚の世界では倒産や解雇に当たるものがあまり存在しない。


3 手続き主義

官僚にとっては、官僚による法の執行による社会の結果という現象は、あくまでも民間の世界の変化であって、官僚の世界の変化では必ずしもない。

その為、結果よりも、手続きが決められた手順通りに行われているかどうかが重要視される。

手続きが整っていれば、手続きの正確さを確認する官僚にとっては、責任を問われる事態には発展しない。

手続きを行った結果、間違った結果が出て、民間に何かの被害が生まれても、官僚にとっては、手続き通りにおこなった結果の責任は、その履行者の責任であって、手続きの確認をした自分の責任は無く、従って被害の責任は、その手続きの履行者か、その被害を我慢しない民間人のわがままである、と考える。

間違った法律や、間違った手続きを作り出した自らの責任については、彼らは理解しようとしない。


本来手続きとは、よりよい結果を出すための手段に過ぎず、結果が悪ければ、手続きを改めるのが当然なのだが、官僚の世界では、手続きの手順自体の変更が大変な労力を伴う為、心理的にこれを行いたがらない。


つまり、結果を出すための手段の方が、官僚主義においては重視され、結果は全く考慮されないという、本末転倒が起こる。


そしてそのような官僚が、権限を握っているため、民間としては、権限を持つ官僚が何も行わないため、よりよい結果が出ず、結果として損害を受けるという問題に膨らむ。



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