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 真正面に立つとよく解かる。人を威圧する厳めしい洋館だ。重厚な飴色の扉も見上げるほどの大きさで、来訪者の前に立ち塞がっている。青年は身を固くして息を詰めていた。庭先からの遠慮がちな虫の声が背中を押す。蒸し暑い夜だ。

 動けない彼を尻目に、執事は扉に触れるほどに接近した。そのまま扉の中央にある獅子の顔を模したノッカーを掴む。強めに三度ほど打ち鳴らすと、扉は重い音を響かせて内側へと開いていった。影から現れたメイド姿の若い娘が二人、彼等に向かって丁寧なお辞儀の姿勢で迎え入れた。使用人たちは誰も、客を疑う素振りなど見せない。やはり自身は藤沢という名の招待客なのだろうか、彼に考える間も与えず、執事は足早に娘たちの間を通り過ぎた。


 光に包まれた玄関フロアを通る。離島という割に贅沢に電気が使われている。映画のセットを見ているような、西洋風の豪勢な建築物。高い天井にシャンデリアが煌めき、壁には燭台を模したランプが等間隔に並ぶ。両側へ伸びる廊下はどれだけの距離があるのか、一見では見当もつかなかった。先を歩く執事に遅れぬよう、青年もまた足早にこの空間を通り抜けたが、目だけはまだ壮麗な屋敷の内装を追っている。

 大理石をふんだんに使い、床には襟足の長い絨毯が敷かれ、天井には複雑なレリーフの彫刻が刻まれている。奥まった場所に再び重厚な両扉が現れ、今度は執事が自ら押し開いた。

 目に飛び込んでくる巨大なシャンデリア。玄関フロアで見たものがチャチに見えるほどの大きさで、まばゆく輝いている。およそ二階建てほどもある高さの天井からぶら下がり、その天井に描かれた絵画はまるで美術館に入り込んだと錯覚させるほどだった。どれほどの金持ちが、どれほどの資金をこの屋敷にぶち込んだものだろうか。高価な絨毯の深紅の色合いは濃淡を見せてとろりと広がっている。


 壮麗なはずのその景色が、またしても嫌な記憶に繋がった。この絨毯は血の色だ。少し時が過ぎた流血の赤だ。白い玉石を染めていた、あの色が重なった。血の海が彼の目前に広がった。

 無造作に掴んだ死者の腕の、いやに柔らかな肉の感触が、だらりと垂れ下がってきた頭部の力無さが、虚空を見つめ開かれた片方だけの眼が、まざまざと脳裏に浮かびあがった。そこへ、別の記憶が入り混じる。鬨の声と怒号、駆けていく男たちの背中、合戦の血生臭い空気までが感じ取れそうな、これは誰が見せているイメージなのか。

 累々と屍が浜を埋めている。首がない死体、胴から二つに離れた死体、斜めに斬られた死体など、夥しい数の遺骸が散らばる浜辺の景色が、いやにリアルな姿で目の前に現れた。真ん中付近には墜落死のあの男が混ざっている。

 眼窩を飛び出し、ゆらゆらと揺れている目玉。視線が釘付けになると、彼は微かな眩暈を感じてよろめいた。彼の顔から血の気が引いていた。


 おかしい、あの時には感じる事さえなかった怖気が今さらで襲ってくるのはどういうわけだ。彼は混乱しかけた思考を軽く振り払った。幻覚のはずの風景が消えない。何かがおかしいと察知した。

「藤沢様。顔色が優れぬようですが、どうかなさいましたか?」

 扉を開け、脇へ避けていた執事がそんな彼の様子に気付いて尋ねた。

「いや、大丈夫……、」

 応えながら、彼は自力でダメージから立ち直る。執事の声が届くと同時に、生々しい戦場は消え去っている。絨毯の濃厚な真紅の色だけが残った。広間に居る先客たちが彼に注目している気配が知れた。彼は、不審と思われ、通報される事を何よりも恐れている、気取られぬよう、慎重に呼吸を整えた。深く息を吸った。

 血に濡れたあの風景もまた、何かしらのメッセージだ。死者たちは何かを告げている。大量の死、虐殺の場面、それが自身とどう繋がるのかと、彼は訝しんだ。同時に強い反発も覚えた。彼らの望みがおぼろげながら伝わった時には、不快感に襲われた。何を望むのかはまだ知れない、ロクでもない事の気がして不愉快だった。彼は思考を無理やりに切り替えた。

 藤沢と言ったか。けれどどうしてもそれが自身の名だと思えない。彼は改めて室内を見回した。人々の態度は様々だった。露骨な好奇心でこちらを見ている者があるかと思えば、そっぽを向く者もある。彼は俯き加減に下を向き、上目遣いに視線を流す。顔を見られてしまった連中を、確認しておかねばなるまい。

 動転しているのだろうか、思考が奇妙だ。まるで犯罪者の心理だと彼は気付いた。死人たちの影響だろうか、心がささくれている。確かめておいて、後で一人ひとりと始末するつもりか――自嘲の笑みが独りでに浮かんだ。やるせなさに満たされている。ぐっ、と瞼に力を込めて、視界を閉ざした。


 動転しているには間違いないようだった。目を閉じてすぐ、朝の景色が思い起こされた。しつこく現れては彼を苛み続ける忌まわしい記憶だ。絵に描いたような海辺の景色、天界にも似た地獄の風景だ。遠くウミネコの鳴き声と打ち寄せる波の音が耳の奥に蘇える。異様に静かな中に刻まれる静謐のリズムだと今なら解かる。そこでは死は何ほどの意味もなく、ただ打ち捨てられているものだった。

 夥しい気配の群れは、取り残され、波に揺られていた。時がいかほど過ぎようと、何処へも行けない者たちが、ただ群れていた。血みどろの戦場にも、何事も無かったような穏やかな波が寄せていた事だろう。

 彼もまた、あの場所では無情の景色の一部を担った。寄せて、また引いていく波の泡ぶくと同じで、幾つもの推理が断続的に浮かんでは消えていった。機械的な疑問の処理に近しくて、彼の心情も驚くほどに冷淡で、憐れな死者に対しても何をか感じる所もなかった。当時の心は鏡のように平坦で、諸行無常と唱える法師の如くに、その心持ちは不惑だった。およそ、人間らしい思考からはかけ離れていたかも知れない。冷静な冷え切った心で、何らかの目的をもってあの死体の男と共に居たのだと思った。


 固く閉ざしていた瞼をゆるゆると持ち上げる。シャンデリアで拡散された灯りが目に刺さるように感じた。憂鬱にすっかりと心を明け渡した彼の双眸もまた、先ほどの執事や下男と同じように死者の瞳の色を湛えていた。

 恐るべき殺戮者を迎え入れたかも知れないと、この場の者たちは関知しない。彼は再びしげしげと辺りを眺め始めた。見る者によっては、獲物を物色する大型の肉食獣だと言うだろう。息を潜め、浅い呼吸を繰り返しながら、人々に気取られぬよう視線を配っている。自身はいったい、何者だというのか。落ち武者の怯えが乗り移っていた。

 古木のように痩せた執事が、彼の隣でじっと様子を窺っていた。その顔は強張ったまま動かず、彼を案ずる気持ちがあるのかないのか、表情だけでは測れなかった。

 彼は用心深く周囲を覗う。もし、自身の正体を知る者がここに紛れていたなら……思索は続かない。あらゆる疑念が億劫さに呑まれ、取って代わられる。思考はいつしか波の音に浸食されていく。

 冬の海の凍えた灰色が、執事の瞳の中にも見える。じっとこちらを見つめる落ち窪んだ両目の奥底に、猜疑の色が混じったような気がした。まともに目が合うことを避けるために、彼は会場の方へと身体ごと視線をずらせて執事から逃げた。


 彼は何気なさを装い会場を見廻す。何も知らぬという顔で人々を観察した。やたらと大きな広間は、結婚式などの式典会場を思わせる。それほど広々とした空間だというのに僅か数名の人間が居るだけだった。侘しい気持ちが掻きたてられる景色だ。客も使用人も、この大きな屋敷に見合う人数とは思えなかった。それとも、ごく一部の人間が集っているだけなのか。

 ゴシック調の壁紙はよく見れば細かなエンボス加工の手が込んだもので、壁紙一つにまで、掛けられた金の大きさが感じられるというのに、金に見合うだけの人数とはとても思えない閑散とした状況だ。

 重厚な樫材のドア、その傍で控えめに立っているメイドは、玄関で見かけたと同じ二人だろう。この広い屋敷に、たった二人というのだろうか。外から眺めた時の人けの無さと相まって、妙な感じばかりが増していく。

 メイドの衣装は新品同様だ。調度品と同じに使用人たちの服装にもケチ臭い節約の跡はない。少女たちは、切り返しの白い前掛けエプロンを手で揉みくちゃにしたり、フリルの皺を伸ばしたり、いかにも暇を持て余している。二人の視線は好奇心に満ちて、値踏みするように新たな来客を観察している。膨らませた筒袖は二の腕までを剥き出しにしているから、冷房の聞いたこの空間では少しばかり寒そうで、腕をさすってみたりと彼女たちには落ち着きがない。二人は不躾な笑みで囁き合い、来客たちの品定めを続けていた。躾は行き届いていないらしい。その事実もまたチグハグに感じられた。外側ばかり贅を尽くして人材には金を掛けないかのような、妙なアンバランスが会場内には見えた。

 下男は二人の隣へ移動した。並んでいると親子のようだ。小声でメイドたちのお喋りを嗜め、それから一人、元の扉をそっと開けて出ていった。もう一人、執事は寄り添うようにまだ彼の傍に立っている。叱られたメイドの二人は肩を竦めて小さくなっていたが、客への興味は尽きてはいない様子だった。新参者である彼は背中に執事の圧し掛かるような威圧を感じ取っている。メイド服の少女たちはあちこちに視線を飛ばし、無邪気に笑っていた。客たちは談笑し、それでいて新たな来客にも用心深く注意を払っている。彼は、集う場所にも人々にも、何か奇妙さを感じずにはいられなかった。


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