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堂々巡りの思索を中断して、彼は遺体に向けていた視線を青い海へと投じた。人けのない海は静かだ。彼は知っている。海はいつも凪いで美しいばかりではない。目の当たりにした光景が必ずしも真実を告げるわけではない。
何も覚えていない事で、彼の身の潔白を証明する事は難しくなった。むしろ、今の状況は不利にしか働かないだろう。それでも彼は落ち着き払っていた。自身の名が脳裏から消えている事を忌々しいと思いこそすれ、怖れる心はカケラもない。
この状況が、彼を殺人者であると断定する現状証拠を揃えていても、彼は悠然とそこに立っている。まっすぐに伸ばした背にも気負うものがなく、しなやかで大胆で、どこか不遜な顔付きをして、ただ黙って海を眺めていた。一枚の絵画のようにごく自然に景色に馴染み、佇んでいる。彼には、この場を誰かに目撃される心配はないという、妙な自信のごときまでがあった。
彼は失くした記憶のリストアップを始めた。昨日より前、ここ二、三日の記憶は完全に飛んでいるようだ。自身のプロフィールも全滅、交友関係さえ何も出てこない。だが、ネット検索で得た最近のニュースなどは覚えていた。奇妙な感じはする。霊的な事柄に関連して、何か重大な事を忘れている気がした。けれど、作為的だと感じても何が出来るわけでもなかった。
彼は続けて、ぐるりと周囲を見渡した。この浜の静けさも、どう考えても不審としか思えなかった。海水浴には最高のロケーション、絶好の日和だろうに、人の一人も見当たらないとは。あるいは無人島かも知れないと、ふいにそんな考えが浮かんだ。お蔭で誰かに目撃される恐れもなしに、これだけ落ち着いていられるのかも知れなかったが。忘れているだけで、その事を承知しているから余裕があるのかも知れないとも考えた。結局は何も確かな事は言えない。
内省の後に、彼は再び意識を海へと向けた。遺体の傍を離れ、再び波の打ち寄せる際まで歩いた。玉石の浜を歩くこの不安定な足の運びもどこかで覚えがあるような気はする。だが、曖昧模糊とした感慨はすぐに打ち消され、掴みかけた記憶の足場も砂のように崩れていった。溜息を一つ落として、記憶を手繰る努力はそこで遂に放棄された。
彼は打ち寄せる波を見つめた。もう一つの、今、考えるべき事柄に目を移した。白い波濤の間にはゆらゆらと何かの気配が蠢いている。かなり古い者たちで、自身の姿も朧となってしまうほどに多くを忘れているようだ。黒いぼんやりとした影が見えるような気がしており、彼に言わせればその感覚こそが気配を感じるという事だった。目には映らない、気配だけがそこにある。見ようとしても見ることは出来ない。相手に見せるつもりがない時は、彼には見ることが出来ない。暴き出せるほどの力は彼には無かった。
目の前の美しい浜辺には、見える形での生きた人間の姿など一人もなかったが、彼には無数の人ならざる者どもの気配と視線とが感じ取れた。波打ち際が境界であるかのように、彼らは一歩もこちらへ踏み込んでは来ない。彼らの姿を探して意識を向け、波の砕ける泡ぶくにじっと目を凝らすのだが、彼らは姿を見せずに気配を消してしまう。あちらこちらの視線は確かにあるが、目を向けた途端に消え失せた。この浜辺には確かに、生きた人間の姿は彼しかない。だが、人以外の何かの気配ならば無数にあった。こんなにはっきりと認められる事も珍しいと彼は思い、けれど他人には理解されない感覚である事が解かっていた。
彼の目に映る世界は特殊だ。大抵の者は感知する事もなく、ごく偶に、彼と同じく敏感な者が薄気味悪く何事かを感じ取っている、その姿を見るくらいだろう。彼も、いっそはっきりと見えたなら、それはそれで世界がまた違って見えたのだろう。彼には見えるほどの力はなく、気配しか解からないから話が複雑になる。これを霊能と呼ぶならば、彼のその能力は、自称で言っても微々たるものとしか思えない程度の力だ。
そのせいで、彼の考え方は世の霊能者とは違っていた。怪異に対して否定的ですらあった。まずは疑うことから入るくらいには、オカルティストを信用しない。それでいて、死者の想いは伝わった。
降って沸くような断片的な思考は、彼自身のものか別の何者かの意識であるかは判然としない。それは精神病の領域を疑うべきかも知れなかったが、ときには誰かの秘密を言い当て、ときには未来の災害を予言した為、心の病と一蹴もされなかった。彼のひねくれた性格を作り上げる事に寄与しただけで、幸か不幸か精神病扱いにされる事はなかった。
彼は、自身の今考えたその思考にすら疑いを持っていた。自分が常に自分である確信などなぜ持てるだろう。姿なき者たちは、さっきのように平然と、彼の脳髄を借りて彼の意識に割り込んでくる者たちだ。自身と気配との間には境界も無く、彼等は好きなように渾然と入り混じる事ができる。肉体など出入り自由な容れ物に過ぎず、誰でも入り込める事を彼は知っていた。脳に思考させる存在は、その意識は常に一つきりとは限らない。それが自身の思考とは限らない。ネットワークに繋がれたコンピュータのように、人間の頭脳だけでなく、思考もまた、無防備だ。脳を動かす意識というプログラムへの入力は、遠隔操作でも充分に行えるという事を、鈍感な人々は忘れている。
彼の見ている『世界』はそういうものだった。特別な能力を持つ者の見る世界とは、そういうものだろうと思っていた。人は、見えるものしか信じない。見えるものが正しいという保障など何処にもなく、他者が自身と同じ世界を見ている保障も何処にもなくても、だ。少なくとも彼の目に映る、この見えない者込みの風景が、霊能を持つと言われる者の見ている景色の一つであり、それは多くの人の見ている景色とは違っているらしいと、彼は気付いている。
この土地は、けれど彼の慣れ親しんだ日常風景の、より以上の気配たちがひしめいていて、さすがの彼も圧迫感を受けずにはいられなかった。波打ち際に群れなす死者たちは、夥しい数だ。
気味悪く、彼は固唾を呑んだ。固まったように視線が外せなくなっていた。気配の感じからしても、何もしてこない事は解かっていたのに、本能的な恐れが警戒を呼んでいた。これほどの数の死者と合いまみえた事があっただろうかと思った。
彼は視点を切り替えに掛かった。真正面の波打ち際には人見知りな気配たちが無数で群れ蠢いている。ようやくと彼等から視線を引き剥がして周囲を見回した。
遠浅の海は途中で深い群青色に切り替わり、浅瀬のほうでは鮮やかなエメラルドグリーンの海表に白い波が煌めいている。遠い波の合間にも何かが居て、揺られながらこちらを眺めている。波打ち際では揉みくちゃにされる有象無象がころころと波に洗われていた。見えないけれど、感じられるそれらは、概ね無害で無邪気な者たちだ。
彼は何度か瞬きを繰り返し、苛立たしく首を振った。苦心惨憺の末に、人の見ない世界から、目に見える物質の世界に意識の焦点を移した。
此処は完全な無人の地という訳でもなさそうで、少なくとも近世まで人が住んでいたらしき痕跡が残っている。岩礁地帯に作り付けられた白い正方形は、コンクリート製の階段と見えたし、コンクリが出来た時代には確実に人が居たという事だろう。他に人の手になる物は見いだせない。彼は階段に向かって歩き始めたが、ふいに思いついて引き返した。
死体の前で立ち止まり、嫌気のさした溜息をもう一つ吐きだして、彼はうんざりと青い波間に目を向けた。傍観者な気配たちは我関せずでこちらに興味はなさそうだった。彼等が大挙して興味を示した場合を考えるとぞっとする。彼らの無関心はせめての慰めにも感じられた。
これから行う厄介な一仕事を考えて、彼は憂鬱になった。死体をこのままに残していく事は危険であり、万が一を考えれば隠すべきだと考えていた。それはごく自然な思考であり、彼は疑念を差し挟まなかった。
死体の腕を取ると、ぞんがいに重みが感じられる。死んだ人間は物質であるから重い。彼は無造作に引きずって、死体の足は小石をガラガラと掻き鳴らした。彼は舌打ちで、自分で歩いてくれれば手間もないのにと、死者に対して文句を言った。気配は彼の傍で眺めていて、賛同も抗議もしない。
彼の心は妙に落ち着いていて、周囲の気配たちと同じに相変わらず他人事のように事態を受け止めている。むしろ面白がって、自身が引きずる死体の観察を続けていた。心のどこか片隅に興味津々で身を乗り出す自身が潜んでいて、名残惜しく、この変死体をもっと分析したいものだと感じている。それは何者の思考なのかも解からない、同居する誰かのようだ。
割り込んでくる死者の思念とは別種のこの思考は、おそらく自分自身のものだろうと、その程度には確信がある。なんとも冷たい、常人離れの思考回路は嫌な予感を覚えさせた。
脳裏には、死体と記憶と後頭部のコブとがぐるぐると回り続け、何かの関連を探している。彼は、そこから先の推理を躊躇していた。真っ先に出て来たイメージは、認めがたいものだ。冷淡すぎる自身の態度、奇妙な符合、心の奥底に潜む無邪気な好奇心、それらが示す答えは、限りなく断定的だ。自分が殺したのかも知れないというだけでは済まないような気がした。
五色の玉石が埋める美しい浜も、奥に行けば漂着物が帯になって堆積するゴミの丘を控えさせていた。やはり人の手が満足には入っていない証拠のようなもので、彼は確信をもってそのさらに奥を目指した。
取り留めない思考が流れ続けていたが、滞りなく隠蔽工作は進む。まるで自動的に動く機械のように彼の手足は勝手に動いていた。彼の中には確固たる目的が存在しており、死体を浜から移動させなければならないと強く思っていた。それだけはブレない軸となって在る。ここに置けば潮に流されてしまう、それはひどく不本意な事と思えた。いつの間にか、死体の口元が笑みの形に歪んでいる。不吉な予感がした。
見間違いかと目を瞬かせた。死体の口に変化は無かった。しかし、彼は異変に気付いた。いつの間にか、遠巻きにしていた気配どもが周囲に満ちている。壁のようにうず高く積み上がって彼を押し包み、四方から圧するような視線が彼を見下ろしていた。
何かを観察するような、威圧感に刺されるような、期待に満ちた彼らの眼差しには先ほどまで無かったはずの禍々しさが滲んでいた。死体を掴む彼の両腕に緊張が走る。死者がまた嗤ったような気がした。
錯覚だと言い聞かせながら、彼は坂になった窪地めがけて死体を投げた。一瞬、死人の手が彼の手を握り返そうとしたかに思え、振り払った拍子に死体は転げ落ちた。
息があがる。気が動転した。さっきまでの奇妙な落ち着きとは一転して、ひどく気忙しい思いに囚われていた。やられた、と。他者の思考は容易く自身の中に紛れ込んでくる、自身の判断のフリをして、操って来る、そうと解かっていながら。やられた。と、再び思った。
逃げるべきだと咄嗟に浮かんだ。この『島』はなにかが奇妙だ。彼はこの地が列島と陸続きではない事だけは、はっきりと確信していた。
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