Glorious World Part.1 -World is beautiful
北原 亜稀人
第0話 Invitation
黒一色だ。床も、背景も一面黒。隙間なく並べられた黒の中央に、前触れなくスポットライトの光が降り注いだ。
木製の、頑丈そうなつくりの椅子がひとつ置かれている。本来は四本であったはずの脚が一つ喪われていて、その代わりに大判の漫画雑誌が積み重ねられている。その力を借りることで椅子はかろうじて自立を保っていた。
「世界は美しい。多くの人がそう言います。守らなければいけない。次代へと繋げていかなければならない。かけがえのないもの……本当にそうでしょうか? 世界は美しい。まさか……本気でそう思ってらっしゃるのですか?」
椅子の上に誰かが現れることのないまま、場に声が満ちた。少しくぐもった響きの、若い男の声。誰かの答えを待っているわけではないらしい。言葉はすぐに続けられた。
「言うまでも無い事ですがこの世界は嘘に溢れています。中には良い嘘もあるのかもしれません。しかし、そんな優しさが飲みこまれてしまうほどに沢山の酷い嘘、醜い嘘、冷たい嘘……一つ一つを判別していくにしては我々の生涯は短すぎる。大切なのは、いついかなる時でも嘘は世界中に溢れかえり、我々はそれに飲みこまれるしかない、ということです。信じれば欺かれる。優しさですらその殆どは非情な嘘と同居する。逃げ場なんか何処にだってありはしない。我々は我々である限り、逃げる事を許されていないのです。逃げ場が無いから、人は自らの嘘を正当化します。そしてまた、世界が哀しい嘘で埋め尽くされていく。嘘は嘘を呼ぶのです。嘘を求め、嘘を愛し、嘘自身をさえ裏切ります。結局のところ、我々そのものも嘘の一部でしかないのかもしれない。それは世界の一つの側面です」
声はそこで一度途切れ、ライトも落とされた。再びの暗闇。一分ほどの間隔を置いて再び点灯されると、椅子の横に昼下がりの電車で暢気に大学へ向かう学生のような格好をした男が一人、立っていた。
派手なTシャツとダメージ加工の施されたジーンズ。大きなバックルのついたベルトにごついブーツ。髪は完全に脱色された金髪で、左耳には大きくはないが目立つピアスが数個。男はこちら側をしっかりと見据えて深々と一礼し、それから椅子に腰を下ろした。
余分なものは何一つなかった。ライトは彼を照らし、椅子は彼の体を支える。漫画雑誌は椅子の足の代役を健気に務め、残りの暗闇が彼の存在を際立たせる。そしてその中心、彼は喋る。必要な事を、必要なだけ。
「およそ六十五年。世界の人類の平均寿命です。生まれてから死ぬまで六十五年。二万三千七百四十一日。長く短いこの期間、我々は驚くほど沢山の嘘を積み重ねます。積み重ねて積み重ねて、そして消える。そこにあるのは嘘と……あと、何でしょう。勿論、全てが嘘だとまでは言いません。中には真実だってあるでしょう。しかし、残念な事にそれらが現実に及ぼす影響は極めて軽微だ。数少ない真実は抵抗も虚しく飲みこまれていく。そして、今日も明日も変わりなく、世界は嘘によって運営されていくのです……と、ここまでをお話すると大体皆さんそういう顔になるんです。つまらなそうな顔、苛立った顔、僕に対する嫌悪。そして、その人が善良であれば善良であるほど、僕に感情的な言葉を向けるのです。ある人は言いました。世界にはまだ信じる価値のあるものだって沢山ある、と。また別の人は、一つの真実があるからこそ、その周囲に嘘が生まれる……。まあ、そういう見方だってあるのでしょうね。否定はしません。そんなご意見、ご高説をしっかりとお受けしてその上で僕は言い続けます。世界は嘘で溢れている。それはもう、許し難いほどに」
椅子から立ち上がった男が舞台の下手に向かってゆっくりと歩を進めて行く。周囲の気配がそちらに向く。かすかなざわめきが生まれる。
スポットライトの光が一筋、彼を追いかけていった。光の中から、これまでよりも幾分優しい彼の声が優しく響いた。
「皆さんのために幾つかの物語をご用意しました。それは何処にでもあるありふれた世界。嘘がある。時には真実もあるかもしれない。皆さんが何を信じても結構です。疑ってかかっても良い。どのような感想を抱かれるか、とても、とても楽しみです。もし宜しければ皆さんが抱かれる感想、そこを出発点として考えてみて下さい。皆さんの前にあるこの世界が本当に美しいのかどうか……。これから始まる小さな物語。小さくて、優しくて、悲しくて、嘘ばかり。ある人は悩んでいます。またある人は混乱している。何処にも行けない人がいる。何処かへ行きたくて仕方が無い人も。愛する人と、愛される人がいる。信じて待ち続ける人がいる。その反対側には待たせている人も。嘘にまみれた世界の、嘘にまみれた物語……全てが終わった後でもう一度お目にかかります。世界は本当に美しいのかどうか。皆様の素晴らしい解答を期待しております」
彼はそこで言葉を区切り、当たりを見回す仕草を一つ。物音は一つとして生まれない。沢山の沈黙が寄り集まって、今にも壊れてしまいそうな、薄く伸ばされた静寂が広がった。
彼は一礼をし、そのまま下手方向へと去っていった。ライトは消され、場は再び、隙間のない黒に埋め尽くされた。幾つかの吐息が漏れる。張り詰めていた緊張が撓み、場の静寂は少しずつ穏やかさを帯びていく。そのタイミングを見計らったかのように、今度はスピーカーを通して彼の声が聞こえた。
「目を閉じても構いませんし、少しの間なら眠ってしまうのもまた良いでしょう。物語は優しく、悲しい響きを紡ぐ。此処ではない何処かへと我々は連れ去ってくれる。〝嘘ではありません〟。勿論、信じなくとも結構です。それではまた、後程お目にかかりましょう」
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