第3話 春の嵐

 埃っぽい階段を一気に駆け上がって息が切れた。廊下は走らないこと、なんて普段は教える立場なのに、さすがにそうも言っていられない。

 生徒指導室の前で呼吸を整え、ドアを開けた。四つの目がこちらに向けられる。後の二つは、私が見えていないかのように無反応だ。

あらし……」

 呼びかけても、座ったまま眉ひとつ動かさない。

「何日かぶりに登校したと思ったら、三年とケンカ騒ぎですよ」

 学年主任の和田先生が椅子から立ち上がり、苦々しい表情で言った。

「しかも、まったく反省する気がないらしい」

「あっちが先にしかけたんだろーがっ。二年相手にふたりがかりで」

森本もりもとっ」

 噛みつくように反論する嵐の肩を、体育主任が押さえつけた。ふたりに冷ややかな目を注ぎ、和田先生が大げさとも言えるため息をつく。

「申し訳ありませんっ。担任の私の指導が行き届きませんで」

 私は前屈並みに頭を下げた。

三国みくに先生がいくら謝ったところで、本人がこの態度では、庇いようがありませんよ。この髪の毛も、いくら注意したところで、直りませんしね。これじゃ、上級生に睨まれても仕方ないでしょう」

 和田先生は、忌々しそうに、嵐の金髪を指さした。

「もちろん、きちんと指導させて頂きます。ただ、本人の言い分も聞いてみないと片手落ちになりますし、今はまだ意地になっているようなので……」

 和田先生の目尻が僅かにあがる。若輩者の小娘が、とでも言いたげだ。

「和田先生、僕からもよく言って聞かせますから、今日のところは」

 体育主任のとりなしもあって、和田先生は、なんとか後の対処を任せてくれた。

相模さがみ先生、どうもありがとうございました」

 和田先生が引き上げて、私は改めて体育主任に礼を言った。 

「いやぁ、三国先生も気苦労が絶えませんね。森本、お前、ちょっと献血でもしてこい。何にイラついてんのか知らんが、血の気が多すぎだ」

 そっぽを向いたまま、嵐は答えない。

「相模先生、献血は満十七歳になってからですよ」

「そうか、まだ三年先だな」

 相模先生はがっしりとした体格によく似合う大きな口で豪快に笑った。嵐に何も言わずに出て行くのが、先生らしい。教師が何人も説教を浴びせたところで、逆効果だということを知っているのだ。

 二人になったところで、私はようやく椅子に座ろうとしたが、それより早く嵐が立ち上がった。

「嵐、まだ話は終わってない」

「俺にはないね」

 取りつく島もないといった口調で言い切ると、嵐は私の横を通り過ぎようとした。

「待ちなさい」

 とっさに腕を掴む。途端、撥ねつけるように振り払われた。

「俺にさわんなっ」

 猫が全身で逆毛を立てるような、徹底した拒絶だった。言葉を呑込んだ私に一瞥もくれず、嵐は部屋を出て行った。残された私は脱力感に包まれて、堅いパイプ椅子に座り込んだ。

 彼のことでついたため息の数が、また更新されていく。

 一年の時の嵐は、あんなふうじゃなかった。

 森本嵐は、入学当初から確かに目立つタイプの生徒だった。素行が悪いとまではいかなくても、真面目ないい子とはおよそ言い難く、友達も似たような子達が集まるため、なおさら周囲の目を引いた。それでも、嵐は明るく気さくな性格で、その手の目立つ男子生徒にありがちな悪い癖、例えばおとなしいクラスメイトをいじるおふざけといった、悪意のなさに隠されたある種の傲慢さのようなものは、まったく感じられなかった。

 運動神経に恵まれた彼は走ることが好きなようで、陸上部に入って中距離を選んでいた。去年まで担任のクラスを受け持っていなかった私は、国語の授業でしか彼と接する場がなかったが、グラウンドを走る嵐の姿を見かけることが時折あった。細いけれど、バネのようにしなる手足を軽やかに操りトラックを周る嵐は、私の目にはとても気持ち良さそうに映っていた。

 嵐が変わり始めたのは、二年になってからだ。授業中もどこか上の空で、日毎に口数が少なくなっていった。初めて担任を持った私は彼の変化に戸惑い、正直どう接していいのか考えあぐねていた。やがて学校を休みがちになった嵐はクラブからも遠のいてゆき、幽霊部員から自然退部への道を辿っていった。

 嵐の両親が離婚したことは、担任引き継ぎ時の注意事項として聞いていた。今年の春先、母親が嵐をおいて出て行き、そのすぐ後に父親が再婚した、と。

 五月の家庭訪問の時、嵐は頑なに訪問を拒み、父親も出張中とかで、連絡が取れなかった。新しい母親とうまくいっていないことは、嵐の様子から窺えたので、無理に家に行くことも、その内情を聞くこともはばかられた。嵐は何も言わず、言葉の代わりにみるみる荒れていった。

 そんな嵐のために、担任として私がするべきこと、してあげられることは何なのか。私はため息を重ね、立ち上がった。この半年余り、手探りのまま、それを模索し続けている。

 職員室で教頭に事の顛末を報告し、教室に帰ると、廊下側の一番後ろの席で嵐は突っ伏していた。休み時間のざわめきの中、生徒達が、さりげなく遠巻きになっているのが分かる。嵐はクラスでも浮いていて、一部の男子以外とは口もきかない。皆、彼のピリピリした雰囲気にどう接していいか分からないんだろう。だけど私は、生徒達のように、彼のことをただ傍観しているわけにはいかない。

「嵐」

 また反応なしだ。

「嵐、起きなさい」 

 軽く揺すると、待ってましたとばかりに振り払われる。二度目だと、さすがに慣れてきた。

「さわられるのが嫌なら、返事くらいしなさい」

「……何だよ」

「今日のところは、自宅謹慎になったから。帰る支度して。家まで送る」

「はぁ? いらねーし」

 いかにも鬱陶しそうに顔を背ける。

「あんたがいらなくても、はいそうですかって、ひとりで帰すわけにいかないの。理由は自分の素行に聞きなさい。言い分があるのは分かったけど、ケンカ両成敗って言葉くらい知ってるよね? 言いたいことは、帰り道でゆっくり聞くから」

 嵐は不機嫌極まりない目で私を睨みつけていたが、舌打ちして鞄を掴むと、教室を出て行った。急いでその後を追いかける。

「で、改めて訊くけど、ケンカの原因は?」

 並んで歩くと嫌がられるから、嵐の斜め後ろから声をかけた。

「んなもん、あるかよ。ナマイキだとか何とかフザケたこと言ってっから、相手してやったんじゃん」

「あっそ」

 予想通りのベタな展開に半分あきれた。

「けどね、嵐。売られたケンカを片っ端から買っても、あんたが損するばっかりなんだよ。あんたがホントにしたいことって、そんなことじゃないでしょ」

 私の言葉に、嵐は鼻で笑った。

「分かったふうなこと言ってんなぁ」

「じゃあ、ちゃんと分かるように、もっといろいろ話してよ」

「やだね」

 嵐の家は、中学校から十五分ほど歩いた住宅街の角地にある。二階立てで、コスモスやランタナが植えられた可愛らしい庭があった。この花は誰が植えたんだろう。この家の現在の主婦か、それとも。微かに流れてきた祭り囃子に、私は顔を上げた。近くの神社で秋祭りがあるんだろう。

 門を開けてさっさと家に入ろうとする嵐を引き止めようとした時、玄関のドアが開いて女の人が出てきた。ほうきとチリトリを手にしている。嵐の新しい母親らしきその人は、思っていたよりも若く見えた。

「あの……」

 私と嵐を見比べて、不安そうに首を傾ける。私は慌てて一歩前に出た。

「初めまして。私、森本くんの担任の三国千尋みくにちひろと申します。あの実は」

 言いかけた私を押しのけるように嵐が玄関に向かう。継母がその背に言った。

「嵐、また何かしたの?」

 振り向いて彼女を見た嵐の目は氷のように冷ややかだったけれど、発せられた言葉はそれ以上に寒々とした響きだった。

「言ったよな? 俺の名前を馴れ馴れしく呼ぶなって」

 目を見開いて立ち尽くす彼女に向かって、嵐はゆっくりと平板な声で続けた。

「俺が何したって、あんたにカンケーないから」

 残酷に言い放ち、嵐は家の中に入って行った。嵐の継母は青白い顔をしていたけれど、私と目が合って小さく頭を下げた。

「またケンカ……ですか」

「はい。でも、森本くんが一方的に悪いというわけでは」

 事情を説明したが、継母はどこかうわの空のようだった。

「御手数おかけしてすいませんでした」

 話を打ちきるように言い、もう一度頭を下げると、継母はほうきを玄関先においたまま中に入ってしまった。その場に残された格好の私は、閉ざされたドアから二階の窓に視線を移した。嵐の部屋だろうか。カーテンが引かれていて、人がいるかも分からない。脱力感に両肩を押されながら、駅に向かって歩き出した。

 ふいに、小学校の卒業文集に綴った自分の言葉を思い出した。

『先生になって、たくさんの生徒に大切なことを教えるのが、私の夢です』

 つま先に視線を落として、同じ台詞を小さく声に出してみる。言葉の尻尾がため息にくるまれた。

 二十六歳になった私は、あの頃の自分に本気で訊きたい。

 顔を上げた先に、ブルートパーズのような空が広がっている。

 大切なことって、何?


 廊下に貼り出された写真の前には、賑やかな人だかりができていた。先月行われた体育祭のスナップだ。熱心に見入る生徒達の後ろ姿の中に嵐はいない。相変わらず、欠席や早退を繰り返していた。

 体育祭の練習にほとんど参加しなかった嵐は、当日も欠席した。体育祭は来年もあるが、卒業アルバムに載る二年時のスナップ写真やクラス写真には不在となってしまう。楽しそうに笑っている生徒達の写真を見ながら決心した。今月の文化祭には、絶対にクラスの一員として参加してもらう。

 明日、嵐が登校したとしても、学校では満足に話ができないのは分かっているので、放課後、文化祭の準備が終わってから、思いきって家に行ってみた。

「嵐は今、ちょっと……」

 玄関先で、嵐の継母はきまり悪そうに口ごもった。

「分かってます。最初から病欠だとは思ってません。ただ、とにかくもっと、学校に来てほしくて。文化祭が近づいてますし、進路についても、もう二学期も終わりに近いので、三年になる前に一度ちゃんと話をしたほうが」

「あの子は私のことを嫌ってますし、ほとんど口もきいてくれません。どうしようもなくて……」

 悩むというより、困惑に近い表情で継母は言った。どこか拗ねたような口調に、こちらが戸惑った。初対面では若く見える印象だったが、むしろ幼いといったほうがいいかもしれない。

「何してんだよっ」

 怒鳴り声に振り返った私は、一瞬固まった。嵐が鬼の形相で立っていたからだ。

「嵐……」

「何してるって訊いてんだ」

 詰め寄る嵐の剣幕に押されて、後ずさりしてしまう。私は気圧されないよう、顎を引いて足元に力を込めた。

「お母さんとちょっと話を」

「こんなやつ、母親じゃねーよ」

 嵐が吐き捨てた言葉に、継母の顔色が変わった。何も言わず、逃げるように家の中に入って行った。

「嵐、何てこというの」

 嵐の顔を見て、私は言葉を呑み込んだ。怒りに溢れた目の奥に、やりきれない悲しみのような色が滲んでいたからだ。

「帰れよ」

「勝手にお母さんに会いに来たのは悪かった。でもね」

「母親じゃないって言ったろ!」

 叩きつけるように嵐は叫んだ。

「あんなやつに、俺の何を話すって?」

「嵐……」

 伏せた目をゆっくりと上げて、嵐は私を見た。今はその目に怒りしかない。

「お前、男だったらよかったのに」

「どういう意味?」

「ぶん殴れるからさ」

 実際に、頬を思いきり張られたような気がした。私をまっすぐに睨みつける嵐の目が、本気でそう思っていることを告げていたからだ。

 翌日も、嵐は学校に来なかった。心配だったが、昨日の彼の剣幕を思い返すと、再び家を訪ねるのはためらわれた。これ以上近づこうとすると、本当に学校から離れてしまうんじゃないかと怖かったし、継母を激しく拒絶した嵐の目に浮かんでいた、形容しがたい複雑な何かも、心に引っかかっていた。誰も立ち入ってほしくない領域に、無神経に踏み込もうとしてしまったんだろうか。

 正直、嵐にこれからどう接していけばいいのか、まったく分からなかった。それでも、立ち止まっている場合じゃなかった。私は職員室の自分の机にクラス名簿を置き、携帯を取り出した。

『明日の放課後も、文化祭の練習や大道具の準備があります。待ってるので、学校に来てください。それから、三時間目の国語は、熟語と慣用句の小テストをします。範囲はワークブックのP96~99まで。

追伸:昨日はごめん』

 災害等緊急時の連絡用に、学校は生徒の電話番号とメールアドレスを把握しているのでメールを送ることはできるが、何度送信しても嵐から返信がくることはなかった。一方通行のメールを送る以外にできることがないなんて。教師として、自分の不甲斐なさに今日はため息も出ない。

「なんか、雰囲気が暗いねぇ、三国先生」

 数学の武田先生が後ろに立っていた。嵐の去年の担任だ。教員八年目の先輩だが、年が比較的近く、気さくな性格で話しやすかった。

「また森本のこと?」

「ええ、まぁ」

 言葉を濁すと、武田先生はやれやれというように苦笑した。

「あいつもなぁ、悪いやつじゃないんだけど」

「それは、分かってます。もちろん」

「森本、家庭訪問、拒否ってるんだって?」

 武田先生は、主が不在の隣の席に腰掛けた。私は、昨日の様子をかいつまんで説明した。

「ご両親が離婚したのは、二月か三月だったな」

 思案気に腕を組み、武田先生は顎を反らした。

「それから、新学年の引き継ぎ事項に再婚のことが書かれてて、四月の家庭調査票の母親欄には、しっかり新しい母親の名前が記入されてた。わずか二ヶ月足らずの間に……確かに十三、四の息子にしてみりゃ、受け入れ難いもんがあるな」

 昨日の嵐の継母の態度を思い出した。どう接すればいいか分からず、距離を測れない気まずさ。父親は、どれほど仕事が忙しいのか知らないが、その影も見えない状態だ。両親だけじゃない。クラスメートも、嵐を遠巻きに見てるだけ。そして、今のままじゃ、私も。

 私は、勢いよく武田先生に顔を向けた。

「うわ、ビックリした。何?」

「嵐のお母さん……生みの母親って、今どうしてるんでしょうか?」

「母親? さぁ……。あ、けど確か実家が秋田とか何とか。去年の夏休み、森本が遊びに行ったって聞いたような」

「秋田……じゃあ、ご実家に帰られたんでしょうか」

「それは分からないけど。ただ、特に仕事をされてたわけじゃないし、離婚してひとりになった以上、特にこっちに残る理由もないだろうしなぁ」

「そうですね……」

「森本の母親がどうかしたの?」

「いえ……ただ、もう嵐とは音信不通なのかと思って」

「夫婦は別れたら他人だけど、息子とは血の繋がった親子だからね,気にはしてると思いたいけど」

「嵐は、どうなんでしょう」

「どうって?」

「母親に会いたいと思ってるんでしょうか」

 武田先生はもう一度腕を組み、天井を見上げた。

「本人に訊いてみたら?」

 そう言ってニッコリ笑うと、立ち上がって行ってしまった。待っていたように午後の予鈴が鳴った。

「訊けるんなら、そりゃ訊くけど」

 周りに聞こえないようにそっとぼやいた。五時間目の授業の用意をしながら、携帯に目をやる。返信はなし。文化祭まで二週間。明日は来てくれますように。願掛けするように携帯を顔の前で握りしめ、ぎゅっと目をつむった。


 文化祭当日、遅刻しながらも嵐は登校して来た。それまでも来たり来なかったりだったが、結局、クラスの出し物の劇の準備には一度も参加しなかった。それでも、文化祭に来る気になってくれたことが嬉しかった。

「嵐、パンフレット」

 体育館の入口で、他のクラスのいわゆる問題児連中と四人で連れ立ってやって来た嵐に声をかけた。嵐は私が差し出した文化祭のパンフレットをチラリと見て、受け取らず中に入って行った。

「三組は十番目だからね」

 背中に告げた。振り返りもしないけれど、とりあえず私は胸を撫で下ろした。

  嵐達はクラス毎に仕切られた席につこうとせず、体育館の入口で床に座り込んだ。私は慌てて注意しようとしたが、先に彼らの担任と相模先生が近づいて行った。

 先生達が席に着くよう促しても、嵐達は動こうとしなかった。

「席で座ってられないなら、出てけ」

 相模先生の低く厳しい声に、問題児連中もようやく反応する。

「わぁったよ。出てくわ」

 嵐が立ち上がると、後の三人も続いた。

「嵐っ」

 私はとっさに彼の腕を取った。振り払われて、もう一度掴む。

「離せよっ」

 嵐はそんなに背が高くない。ほとんど私と同じくらいだが、腕っぷしでは到底かなわない。それでも私は必死にしがみついた。

「しつけーな!」

「絶対離さないからっ。ぶん殴るなら殴れっ」

 全身の力を両腕に集めて、私は嵐を引き止めた。しがみつくというより、ぶら下がっている状態かもしれない。周囲の視線が集中しているのは分かったが、なりふり構ってはいられなかった。

「せっかく来たんじゃない。体育祭も出なかったのに。卒業アルバム見た時、寂しくなるよ。これ以上、自分の足跡消したらダメだってっ」

「イミわかんねーし」

 急に腕が軽くなる。嵐が体の力を抜いて、大きく息をついた。

「分かったから離せって。どんだけバカ力だよ。女か、マジで」

 恐る恐る腕を離すと、嵐は鬱陶しそうに私を一瞥してからクラスの席に向かい、一番後ろの開いているイスに座った。そしてふてくされたように通路側に足を投げ出し、寝る態勢に入った。それを見ていた後の三人は、お互い顔を見合わせ、渋々といった感じで、それぞれのクラス席に散って行った。

「三国先生、やりますねぇ」

 相模先生が感心したように言った。

「ホントに。私達の出る幕ありませんでしたね」

 一組の担任に苦笑され、今更ながら、恥ずかしさに赤面した。逃げるようにその場を離れ、遠目に嵐の様子を窺った。本当に眠っているのか、動く気配がない。舞台の演目にも少しは目を向けてほしいが、そこは妥協した。

 しばらく経つと、さっきのひとりがクラス席を離れ、嵐の席までやって来た。気になってそっと近寄って見る。嵐は話しかけられても「眠い」と言って顔を上げなかった。不機嫌な嵐に相手はあきらめて、おとなしく自分の席に帰って行った。

 自分のクラスの演目になっても嵐は無反応だったけれど、立ち歩くことも騒ぐこともせず、ただじっとしていた。


 短い冬休みが終わり、三学期が始まって一週間が過ぎても、嵐は登校して来なかった。始業式の日に一応、母親から体調が悪い旨の連絡はあったが、学年主任の和田先生を始め、たぶん誰も信じていない。

 昼休み、私はたまりかねて嵐の家に電話をかけた。電話に出た嵐の継母から話を聞いて、私は思わずイスから立ち上がった。

「帰ってないって……家出ってことですか?」

 声も大きくなっていたらしい。職員室の皆の視線が集まる。

 家出ではない、と継母は言った。一度、嵐から、友達の家にいると電話が入ったらしい。冬休みの終わり頃から帰っていないということだった。

「友達って、誰ですか? 家は?」

「さぁ……」

 さぁって! 思わず怒鳴りそうになるのを、ぐっとこらえた。これじゃ、頼りないというより無責任だ。机の電話を切ってすぐ、私は携帯を持って廊下に出た。人気のない階段脇に行き、嵐の番号にかける。呼び出し音が続くけれど、繋がらない。

 しつこくかけ続け、ようやく声がした。

「ストーカーかよ」

 うんざりしたように嵐が言った。

「今、どこにいるの?」

「知り合いの先輩ンとこ」

「ずっと? 寝泊まりしてるの?」

「ひとり暮らしだから」

「なんで家に帰らないの?」

「ウザい。親父もあの女も」

 感情が読めない淡々とした口調だった。廊下を通りかかる生徒達に背を向け、私は声を低くした。

「じゃあ、そこから学校に来なさい」

「遠いからムリ」

「遠いって、どこ?」

 無言。

「もうすぐ三年でしょ。このままじゃ高校に行けないよ。まだ、間に合う。遅れてる教科は、先生が教えるから。とにかく学校に来て」

「切るよ」

「待って! 会って話そう。今日の放課後、そうだ、嵐の家の近くに神社があったよね。あそこで五時、五時に待ってるから」

「勝手に決めんなよ」

 抗議の声を無視して私は続けた。

「待ってるからね」

 返事をせずに嵐は電話を切った。

 放課後、急いで後片付けを済ませ、四時半には学校を出た。午前中、申し訳程度に降った雪は影を潜め、低く重い雲が空を覆っている。手袋を持ってくればよかった。歩きながら、指先を擦り合わせた。鼻の頭が冷たくて、マフラーをずり上げる。

 十五分前には神社についた。いかにも地域の氏神様という感じだ。こじんまりとしているが、よく手入れされていた。鳥居をくぐった両脇に桜が数本植えられている。春にはミニチュア並木が出来上がるんだろう。

 神頼みで済ませる気はないが、社に向かって手を合わせた。

 嵐は来るだろうか?  

 絶対来る。

 きっと来る。

 来てくれると思う。

 来てほしい。

 雨粒が頬を滑り、私はうつむけていた顔を上げた。すっかり日が落ちた境内には、私の他に人影ひとつない。暗がりの中、神社の常夜灯を頼りに携帯で時間を確認する。七時半。足先の感覚は、とうになくなっていた。強くなってきた雨を避けて、社のわずかな軒下に移動した。

「待ち人来たらず、か」

 おみくじが結ばれている木に目をやりながら、もう一度携帯を出した。手がかじかんで、上手くタッチできない。長いコールの後、繋がった。

「嵐?」

 沈黙を挟んで、声がした。

「もしかして、まだ待ってるとか?」

「言ったでしょ。会って話そうって」

「俺、行くなんて言ったっけ?」

 冬の外気より冷たい声だった。

「……とにかく来て。来てくれるまで、ここで待ってるから」

「さっさと帰れよ」

「ちょっ……切らないでっ」

 途切れた電話を見つめて、ため息をついた。もう一度かけようかと思ったけれど、きっと出てはくれないだろう。それでも、ここで帰るわけにはいかない。

 手に吐きかけた息が白い。寒さに身震いした時、こっちに向かって来る人影に気づいた。嵐じゃない。制服を来た男の子だ。たぶん高校生だろう。少し警戒して身構えた私に、彼は自分の傘を差し掛けた。

「傘、使ってください」

 私は驚いて彼を見上げた。とても背の高い男の子だ。

「あなたが濡れちゃうわ」

 戸惑いながら、私は遠慮した。

「大丈夫。頑丈だから」

 そう言った彼を見て、不思議と警戒心がきれいに消えた。本人は笑ったつもりだろうけど、目の奥がどしゃ降りに見えた。その目が、継母に酷い言葉を投げつけた時に見せた嵐のそれと重なった。やり切れない悲しさをしまい込んでいるような目だと思った。

「……大丈夫そうには見えないけど」

 私の言葉に彼は一瞬、虚をつかれたような表情をした。そして何も言わず、押しつけるように傘を渡すと、雨の中を走って行ってしまった。後ろ姿をあっけにとられて見送った私は、手に握らされた傘を見つめた。

 彼の事情なんてもちろん知らない。ただ、つらい何かに押しつぶされそうになりながらも、他人のことを考えてしまうような、ぶっきらぼうな優しさは見てとれた。すらりとした長身にまだ少年のラインが残っていたが、広い肩や大きな手は、やっぱり中学生とは全然違う。

 嵐は、どんな高校生になるんだろう。

 傘を肩先で抑え、腹筋が痛むほど両手に息を吐きかけた。

 高校に行かせなくちゃ。何が何でも。

 近づいてきたエンジン音に、私は顔を上げた。鳥居の向こうでバイクが止まる。その後ろに乗っている人間が、ヘルメットを取った。

「嵐!」

「雨の中、ごくろーさん」

 手を降る嵐に駆け寄ろうとして、冷えきった足先がもつれた。

 転倒した私を見て、運転していた少年が笑った。

「ダサッ」

 座り込んだまま、見上げる私を、嵐は黙って見ていた。雨がその表情をぼやけさせる。嵐はヘルメットを被り、前の少年を促した。

「嵐っ」

 私が立ち上がるより先に、バイクはエンジンを響かせ走り去った。

 視線の先に、高校生が渡してくれた傘が転がっている。立ち上がろうとして、手と膝から血が出ていることに気づいた。ストッキングも破れている。私はその場にまた座り込んだ。スカートの裾を握りしめた両手に、涙がこぼれ落ちて行く。

 情けなくて惨めだった。今すぐ、家に帰りたい。

 どれくらい時間が経ったのか、軒先で立ちつくしていた私は携帯を出して時間を確認した。ちょうど九時を回ったところだった。その時携帯が鳴り出し、着信相手を見て、飛びつくように電話に出た。

「まだいるの?」

 あきれるような声が漏れる。

「嵐が来るまで待ってる」

 長い沈黙が流れ、私はじっと軒先を伝う雨音を聞いていた。

「明日」

 ようやく声が届いた。

「学校行くよ」

 私は携帯を両手で握り直した。

「ホント?」

「ホント。だから、早く帰れ」

 それだけ言うと、嵐は電話を切った。


 完全に発熱してる。トイレの鏡を見ながら、自分の額に手を当てた。心なしか、頬も赤い気がする。

 あれからすぐ帰宅しておとなしく寝たけれど、やっぱり一月の雨は甘くなかった。それでも、早退なんてできない。私は軽く両頬を叩き、気合いを入れた。

 国語の教材を持って自分のクラスに向かう。体は重いけれど、気持ちは軽かった。教室に入ってすぐ、廊下側の一番前の席に目をやった。目が合っても、嵐はいつもの仏頂面で、ニコリともしない。だけど今はそれで満足だった。喉の痛みを抑えながら、私は教科書を読み始めた。

 授業が半分ほど進んだ頃、体のだるさと頭の重さが等加速度運動を始めて、立っているのもつらくなってきた。

「先生、顔青いよ。具合悪いんじゃないの?」

 教卓前に座っている女生徒が、心配そうに声をかけてきた。

「あ……平気平気。ちょっと風邪気味で」

 言いながら、黒板の文字を消そうと背伸びした時、視界が回った。黒板消しが転がり、私はずり落ちるように教卓の影で膝を折った。

「先生! 大丈夫っ」

 女子達が駆け寄って来る。鉛を詰め込まれたような頭をなんとか持ち上げ、私は声を出した。

「大丈夫……。ごめん、理沙、ちょっと肩貸してくれる?」

 目の前で覗き込んでくる背の高い女子に頼んだ。理沙は頷いて、私の額にそっと触った。

「先生、すごく熱あるよ! 保健室行こっ」

 理沙に寄りかかるようにして立ち上がり、ざわめいている教室を見回した。

「みんな、ごめん。ちょっと自習しててくれる? 委員長、申し訳ないけど、二組か四組の先生に事情説明して……後、頼んでいいかな? ホント、ごめん」

 保健室について来てくれると言う女子達を席につかせ、私は理沙と教室を出た。戸口で嵐と目が合った。嵐は無表情で、じっと私を見つめていた。

 保健室のベッドに入るなり、気を失うように眠ってしまった。目を開けた時、嵐の顔がぼんやり見えた。

 クリアになってくる視界の中で確かめる。やっぱり現実の嵐だった。

「なんで……」

 ここにいるのか訊いたつもりだったが、喉の痛みで語尾が掠れて、最後は息だけが出た。嵐はベッド脇の丸イスに腰掛けていた。

「昨日のせいだろ。メチャクチャだな、あんた」

 怒ったように嵐が言った。実際、恐い顔をしている。

「けど、そのおかげで、嵐がやっと学校に来てくれた」

 笑いかけると、嵐は下を向いた。

「今、何時……?」

 時計を見ようと首を動かした私は、頭痛に顔をしかめた。

「三時間目の休み時間」

 どうやら二時間近く寝ていたらしい。焦ったけれど、ぐっすり眠ったせいか、熱は少し下がったようだった。

 保健室の扉が開き、女医の先生が入って来た。

「あ、目が覚めました?」 

 嵐の横に立ち、私の顔を覗き込む。

「気分は?」

「大丈夫です。どうもすみませんでした」

「少し顔色が戻りましたね。でも、まだ休んでたほうがいいですよ。もともと貧血気味でしょう。疲れもたまってるみたいだし、過度のストレスは禁物ですよ。はい、熱計って」

 私が体温計を受け取ると、嵐は立ち上がった。

「ありがとう」

「別に」

 そっけなく言って、出て行こうとする。

「嵐」

 扉に手を掛けた彼を呼び止めた。

「高校、行くよね? 一緒に、勉強しよ」

 嵐は振り返って私を見たけれど、首を縦にも横にも振らず、保健室を出て行った。


「どうか、お願いします」

 クラス分けと担任決めの会議の席で頭を下げる私に、和田先生は渋い顔をした。

「三国先生の熱意は分かりますけどね。まだお若いし、何より女性には、あの森本は荷が重いんじゃないですか。なめられてると言えば失礼ですが」

 私は口元を引き結んだ。

「確かに、威厳があるとは思っていませんし、甘いと見られる先生もいらっしゃるでしょう。それでも、お願いします。もう一年、森本を受け持たせてください。今、あの子を放り出すような真似はできないんです。いえ、しちゃいけないんです」

「三国先生、生徒は森本だけじゃありませんよ。受験を控えた三年の担任になって、卒業生を送り出すことが、どれだけ大変か」

「分かってます。他の生徒をおろそかにするつもりは、まったくありません」

 くいさがる私に和田先生は尚も何か言おうとしたが、相模先生がそれを遮った。

「その森本ですが、最近、学校に来るようになってますよね。まぁ、遅刻早退はありますけど。それでも、以前に比べて大きな進歩ですよ。これは、いわゆる三国先生の指導のたまものってやつでしょう?」

「僕もそう思います」

 武田先生が後を受けた。

「去年の担任として言わせてもらえれば、最近の森本を見てると、荒れる前に戻ったとは言えませんが、ほんの少し角が取れたようには感じます」

 二人にそう言われ、和田先生はまだ心配気な表情を見せながらも、何とか、私が嵐の担任を持つことを了承してくれた。先生達にお礼を言いながら、安心すると同時に私は自分を奮い立たせた。卒業まで、担任として、嵐やクラスの生徒達に伝えなければいけない大切なことは何なのか。心してかからなくてはいけない。

 会議が終わり、皆が出て行った部屋に残った私は、嵐にメールを送った。

『三年も、晴れてキミの担任となりました。

嵐が卒業するまでつきまとってやるから、覚悟しとくように』

 最近、嵐は学校に来るようになっているので、久しぶりの送信だ。一方通行なのに変わりはないが。

 送ってすぐ、メールの着信音が鳴った。嵐からだ。私は目を疑った。急いで受信ボックスを開く。

『メーワク』

 嵐からの初めての返信は、そのひと言だけだった。私は誰もいない会議室で、声を立てて笑った。


 五月。最初の中間テストが終わり、採点に取りかかっていた私は、嵐の答案を前に頭を抱えたくなった。

 ひどいのは国語に限ったことじゃない。他の教科の先生達からも、現状では高校進学は果てしなく難しいと、ありがたくないお墨付きを頂いている。学校に出て来るようになったのはいいが、授業中はほとんど寝ているし、遅刻も多い。学科同様、内申点も地盤沈下だ。

 なんとかしないと。

 今日も、廊下側の一番後ろの席で、机に貼り付くようにして眠っている嵐を見ながら、内心でため息をついた。

「先生、まだ読むの?」

 委員長に言われて、慌てて教科書に目を戻す。

「あ、はい。そこまでで。ありがと」

 私は教卓に両手をつき、クラスの皆を見た。

「えーと、この小説の主人公は、自分が両親の本当の子供じゃないと知って、ひどいショックを受けたというわけね。しかも、母親の本当の子供と名乗る人間まで現れて、頭の中はもう、混乱どころじゃないでしょう」

「血は水より濃いっていうもんね。そりゃあ、ホントの子供がいいっしょ」

 女生徒のひとりが言った。

「うーん、そうともいえないんじゃないかな」

「なんで?」

「確かに、水より血のほうが濃い。それは事実だよね。じゃあ、真実はどうなんだろう?」

 私は黒板に『事実』『真実』と書いた。

「この違い、分かる人、いる?」

 誰も手を上げなかった。

「難しいよねぇ。先生もよく分からないな。ただ、何かの本で読んで、なるほどって思った言葉があるんだけど。『事実の中に嘘はない。でも、嘘の中にも真実はある』」

 いつから起きていたのか、嵐が顔を上げてこっちを見ていた。

「例えば、相手のことを思ってついた嘘の中には、ちゃんと真実があるんじゃないか、とか。親子も、実の親でもひどい親はいるし、血縁以外での絆だっていくらでもある。だから、血より濃い水っていう事実じゃないことの中に、この主人公が自分なりのどんな真実を探すのかが、後半のクライマックスに向けて重要になってくるよね」

 そこまで話した時、チャイムが鳴った。

「じゃあ、次の授業までに、各自ノートに、簡単でいいから、自分が思う事実と真実の違いを書いて来て」

 ブーイングをかわして、私は教室を出た。後ろの扉の前で、省吾に呼び止められた。嵐の隣の席の子だ。見ると、嵐はまた寝ていた。省吾は運動が苦手で引っ込み思案なところがあるが、勉強熱心で、県でもトップの進学校を目指していた。最近、成績が伸び悩んでいて、そのことに対する相談だった。

「高尾台は……今のままじゃ、ちょっと厳しいかな。塾の先生は何て言ってる?」

 三年になって、塾は辞めたと省吾は言った。省吾の家は母子家庭だ。塾代のために母親が残業を増やすのが心配で、合格圏内に入ったと嘘をついて辞めたらしい。

「相手のためについた嘘だね」

 私は、優しくてがんばり屋の省吾の顔を見つめた。

「分かった。先生も、いい参考書とか調べとく。国語は、とにかく論文がんばって。今の入試は、文章力があれば有利になるから。何でもいいから、できるだけ作文書いて持ってきて。添削するから。分からないとこあったら、いつでも連絡ちょうだい」

 省吾はやっと笑顔を見せた。

「自習時間も無駄にしないこと。そういうのの積み重ねが大きいんだからね」

 大きく頷く省吾の向こうで、嵐は同じ姿勢のまま眠っていた。省吾の半分でもやる気になってくれたら。嵐を横目で睨んで、私は省吾を激励した。

 武田先生が午後から用事で出かけることになり、私は頼まれた数学のプリントを持って三組に向かった。自習になったことを説明し、課題を配った。他のクラスでの授業があるので、すぐに行かなければいけない。

「内申点に反映されるから、ちゃんとやって、必ず提出すること」

 念を押して、教室を出る。廊下を曲がる時、他のクラスにいる嵐の友達が二人、後ろの扉から入っていくのが見えた。自習の邪魔になるので注意しようと廊下を引き返したが、すぐに扉が開いて、嵐と後の二人が出てきた。

「嵐、どこ行くの」

「トイレ。長いよ」

 引き止めようとした私は、足を止めた。

 もしかして。

 自分の考えがおそらく外れてはいないだろうと思いながら、私は嵐の背中を見送った。

 梅雨が終わりに近づいた頃、警察から学校に連絡があった。ショッピングセンターで友達と喫煙していた嵐が、地域巡回の警官に見つかり、警察署まで連れて行かれたということだった。

 学校に残っていた私は、和田先生と警察署に飛んで行った。

 二階の少年課に案内されると、嵐は奥の机の前に座らされていた。他校の友達も一緒だと聞いていたが、姿は見えなかった。担当警察官の説明によると、喫煙していたのは嵐だけだそうで、後の二人は注意のみで帰されたらしい。

「普段吸ってるとしても、こちらとしては、現行犯しか引っ張れませんからね」

 担当警察官はそう言って苦笑した。

「申し訳ありませんでした」

 私と和田先生は揃って頭を下げた。嵐はいつもの仏頂面で黙り込んでいた。蛍光灯の灯りの下で、顔色が少し青白く見えた。

「お母さんが迎えに来るそうですよ」

 担当警察官がそう言った時、嵐の継母が姿を見せた。彼女は私達の前を素通りし、まっすぐ嵐のところに行った。そして、その頬を張った。

 嵐は何も言わなかった。頬が赤くなっていたが、表情ひとつ変えなかった。対照的に継母は目に涙を溜め、唇を震わせていた。

「どうすればいいの?」

 感情がひび割れたような声だった。

「あたしが母親なのが、そんなに気に入らないの?」

「あんたは母親じゃない」

 間髪入れずに嵐が言った。正面から継母を見つめ放たれたその声は淀みなく透明で、厳かな響きすら感じさせた。この日、警察署で嵐が発した言葉らしい言葉は、それだけだった。

 一緒に帰るのを嵐が断固として拒否したため、継母は「後はお任せします」と言って帰ってしまった。嵐の態度を見ていると、継母が気の毒に思えないこともないが、やっぱり親としては、まだ幼い印象を拭えなかった。

 和田先生は校長への報告のため、一度学校に戻ると言うので、私が嵐を送って行くことになった。

「大丈夫ですか?」

 和田先生にしてみれば、やっぱり私は頼りない若輩者なんだろう。

「もちろんです」

 いい気はしないけれど、私はにっこり笑って見せた。

「家には帰りたくない」

 二人になった途端、嵐が言った。

「じゃあ、どうする気?」

「先輩ンとこ行く」

「それはダメ」

 警察署の前で立っている私達の前をパトカーが横切り、駐車場に入って行った。いつまでもここにいるのはまずい。私は嵐を引っ張って通りに出ると、タクシーを拾った。

 後部座席に嵐を押し込み、隣に座って行き先を告げる。

「どこ行くのさ?」

「先生の家」

 嵐は少し驚いた顔で私を見た。私は携帯で嵐の家に電話し、継母に嵐と一緒にいることを伝えた。それから家にかけ、母親に生徒をひとり連れて帰ると言った。

「そう、ちょっと事情があって。うん、もうすぐ着くと思うから。ありがと」

 電話を切って、嵐に行った。

「父親は出張中だから、母親だけ。気ぃ使う必要ないから」

 嵐は目を逸らし、窓の外に顔を向けた。

 私はひとつ息をつき、気が重い相手の番号を検索した。

 嵐を家に連れて行くと言うと、案の定、和田先生はくどくどと文句を並べ立てた。

「とにかくですね。詳しいことは明日、またご連絡しますから」

 半ば強引に電話を切り、私は鞄に携帯を放り込んだ。明日、またお説教だわ。

「ごめん」

 向こうを向いたまま、ひとりごとのように嵐が言った。一瞬、聞き間違いかと思ってしまった。

「……なんか、感動」

「何、それ」

 私は返事の代わりに小さく笑った。本当に久しぶりに、嵐の口から素直な言葉が聞けた気がした。

 家に着くと、母が夕食の支度を整えてくれていた。

 嵐は人見知りしているようで、表情は硬かったが、母に礼儀正しい挨拶をした。

「さぁ、冷めないうちに食べてちょうだい」

 食卓で、屈託なく笑いかけられ、少しほぐれたのか、嵐もぎこちない笑顔で箸をとった。

 鯖のおろし煮やなすびのおひたしといった和風のおかずは口に合うか心配だったが、嵐は美味しそうに箸を運び、母に勧められるまま、お代わりもしていた。嵐の食事の仕方はとても綺麗で、見ていて気持ちよかった。

「ごちそうさまでした。メチャうま……おいしかったです」

「ありがとう。おそまつさま。やっぱり男の子は食べっぷりがいいから、作った甲斐があるわねぇ」

 母は嬉しそうに言って、嵐のグラスに冷たい緑茶を注ぎ足した。

「先生、お母さん似だね」

 後片付けに立った母を見ながら、嵐が言った。先生、と呼ばれるのも、久しぶりだ。私は思わず嵐の顔をまじまじと見てしまった。

「何?」

「いやいや、別に。ちょっと、嵐のお家に電話してくるから。テレビでも見てて」

 嵐をリビングのソファーに座らせ、私は二階の自室に行った。珍しく嵐の父親が電話口に出てきた。継母から話を聞いていたらしく、今はこちらにいると言うと、父親は恐縮したように何度も詫びた。

「母親じゃないと言いましたか……」

 警察署でのことを伝えると、父親は大きなため息をついた。

「難しい年頃なので、いろいろな感情を自分でも持て余しているんだと思います。明日は土曜日ですし、もう少ししたら、送って行きますので」

 父親は電話口で何か言いたそうにしていたが、もう一度礼と詫びを口にすると、電話を切った。

 リビングに戻ると、嵐はソファでテレビを見ながらココアを飲んでいた。

「お父さんが電話に出られたよ」

「ふーん」

 どうでもいいといった返事が帰る。母が私の分のココアを持って来てくれ、リビングから出て行った。

「これ飲んだら、送って行くから」

 反発するかと思ったけれど、嵐は何も言わずカップに目を落とした。

「先生」

「ん?」

「今までで一番つらかったことって何?」

「友達が死んだこと」

 即答した私に、嵐は伏せていた顔を上げた。

「……いつ?」

「二年前。事故でね。先生、もともと地元じゃないから、むこうでの幼なじみ。高校の時、こっちに引っ越して、離れちゃったんだけど、それからその子も家の事情で、また比較的近くに移って来てね。といっても、その子の家は山の手だから、ご近所ってわけでもないけど。メールのやりとりしたり、たまに会ったり……」

 懐かしいと言えるには、まだ全然時間が足りない。私は最後に会った時の、彼女の泣き顔を思い浮かべた。

「ごめん、思い出させるようなこと訊いて」

 一瞬、意識を過去に飛ばしていた私は、嵐の申し訳なさそうな声で我に帰った。

「気にしなくていいよ。でも、なんで?」

 答えない嵐に、少し迷ったけれど、私は思いきって訊いた。

「嵐は?」

 視線がぶつかる。

「一番つらかったこと」

 壁に掛けられた時計の音が響くほど、重い沈黙を挟んで、先に目をそらしたのは嵐だった。

「母さんが、ホントの母親じゃなかったこと」

 意味を理解できずに、嵐を見つめる私と視線を合わせ、嵐は言った。

「今、家にいるのは、義理じゃなくて、俺を生んだ母親なんだ」

「嵐、ごめん。先生、よく分からないんだけど……」

 嵐はまたうつむき、膝の上で両手を握り合わせた。私は黙って嵐の言葉を待った。ややあって、嵐はポツリポツリと話し出した。

 嵐の父親は昔、職場の部下と不倫関係になり、やがて相手は妊娠した。彼女は親元を離れてひとり暮らしだったので、会社を辞め、周囲に内緒で出産した。そうして生まれた嵐を父親に預け、彼女は親元に帰り、その後別の相手と結婚した。嵐の母親は子供のできない体だったので、父親に頼まれ、やむなく嵐を自分の子供として育てた。

「母さんが何を考えて、どんな気持ちで俺を育ててきたのかなんて、俺には分からない。けど、俺は何の疑いもなく、ホントの親子だって思ってた。邪魔にされたり、冷たく扱われたことなんか、一回もなかった」

 けれど、去年、父親は嵐を生んだ彼女に偶然再会した。彼女が離婚してひとりだと知り、また二人は昔の関係に戻ってしまった。それを知った妻は離婚を決意し、嵐を置いて家を出た。

 それ以前から両親がうまくいっていないことは知っていたが、父親から全てを聞かされた嵐は、徹底的に反抗し、荒れた。

「それは、荒れて当然だわ」

 私はソファに深くもたれた。嵐の父親と生みの母親の身勝手さに、嫌悪感すら覚えた。

「先生がンなこと言っていいの」

 嵐は小さく笑ったけれど、その目は悲しく沈んでいた。

「俺の本当の母親は、育ててくれた母さんだけだ」

 合わせた手の指先が赤くなるほど強く握りしめ、嵐は言った。

「お母さんに……会いたくないの?」

 長い沈黙の後、嵐は顔を上げずに、消え入るような声で言った。

「会いたい」

「行けばいいじゃない」

 嵐はようやく顔を上げ、きつい目で私を見た。

「母さんは、もう俺の顔なんて、見たくないと思う。やっと、自由になれたのに」

「怖いよね。拒まれたらって思うと」

 嵐は何も言わない。私はテーブルのリモコンで冷房を切り、窓を開けた。まだ真夏に届かない季節の、涼しい夜風が流れてくる。レースカーテンだけを閉め、ソファに戻った。

「お母さんが、何を思ってたのか、どんなに苦しんだのか、もちろんそれは本人以外には理解できないことだけど、どんなふうに嵐を育てたのか、それは分かるよ」  私は、不安気な嵐に笑いかけた。

「嵐は、人の気持ちがよく分かる子だから。前に私に言ったよね。男ならぶん殴るって。でもね、女だろうと子供だろうと、殴るやつは殴るよ。嵐はどんなに怒っても、そんなことはできない。文化祭の時も、ずっと寝てたのは、舞台で一生懸命演じてるみんなの邪魔をしないように。それから、自習時間、クラスに来た友達を連れて出て行ったのは、隣の席の省吾が集中して勉強するため」

 そうでしょ、というように視線を向けると、嵐は気まずそうに目を逸らした。

「そんなふうに嵐を育ててくれたお母さんが、嵐を邪魔に思うなんて、考えられない。会いに行こう」

 私は身を乗り出した。

「明日」

「明日?」

 嵐が目を見開いた。

「土曜日だし。善は急げっていうでしょ。お母さん……今、ご実家にいるの?」

「たぶん……。秋田だよ」

「それが何? 新幹線で四、五時間もあれば行けるよ。赤道を超えるわけじゃないんだから」

 まだ困惑顔の嵐に、私はたたみかけた。

「嵐、帰ってお父さんに、お母さんの現住所を確認して。お父さんに何か言われたら、先生に電話してよ。先生が話すから」

「会いに行って、どうすんのさ」

「どうもしない。会いたいから、会いに来た。息子が母親に会うのに、それ以外に理由がいるの?」

 黙り込んだ嵐を、車で送るからと、玄関に追い立てた。

 帰り際、嵐は見送りに出た私の母に頭を下げ、お礼を行った。

「鯖のおろし煮、サイコーでした」

 車の中で、助手席の嵐に訊いた。

「おろし煮、好きなんだね」

 嵐はフロントガラスの向こうを見つめたまま言った。

「母さんが、よく作ってた。魚が嫌いな俺が喜んで食べるからって。今日の……母さんの味に似てた」

 嵐の家に着き、私は父親に挨拶をした。明日のことは自分で話すと嵐から言われていたので、すぐに辞した。継母、ではなく生みの母親は、顔を見せなかった。


 カーナビが乾いた声で進行方向を告げる。目的地まで、あと約二十分。高速を降りて県道に入ったところで、私はルームミラー越しに隣の嵐を見た。窓枠に頬杖をつき、外の景色を見ているけれど、たぶんその目には何も映っていない。小さな横顔が、幼く心細気に見えた。

「お母さん、秋田に帰ってなかったんだね」

 ハンドルを切りながら話しかけると、嵐はわずかに顎先だけで頷いた。

 嵐の母親は、隣県にアパートを借りてひとりで暮らしていた。

 突然訪ねて行った私達を見て、ひどく驚いていたが、何も言わず部屋に通してくれた。右足を少し引きずっている。電球を取り替えようとして、イスから落ちたのだと言った。

「嵐……元気だった?」

 麦茶をテーブルに置いて、嵐と向き合った母親は、小さな声で言った。その表情には戸惑いとも悲しみともつかない色が浮かんでいる。

「ごめん、会いに来たりして」

 うつむいたまま嵐が言うと、嵐の母親はかぶりを振った。

「俺の顔、もう見たくないかもしんないけど……」

 言葉を切って、嵐は細く長い息をはいた。

「今まで、ごめんって、謝りたかったから……」

「嵐……何言ってるの?」

 母親の怒りを含んだ声に、嵐は顔を上げた。

「謝らなきゃいけないことなんて、嵐はしてない」

「だって、俺はあいつの……」

「産んでくれた人のこと、そんなふうに言うのはやめなさい」

 母親にピシャリと言われ、嵐はまた下を向いた。そんな嵐を見て、母親はゆっくりとひとつため息をついた。膝の上で重ねた手を組んではほどいてを繰り返す。まるで、幾重にも絡み合った気持ちの糸をほぐしているように見えた。

「恨んだことも、憎いと思ったこともないなんて、きれいごと言うつもりはないの」

 母親の言葉に、嵐の肩が揺れた。

「嵐のことも」

 理屈では理解していても、現実に受けとめるにはあまりにもつらい言葉だ。口元を強く引き結び、母親を見つめる嵐の苦しげな瞳に、胸がしめつけられた。

「嵐に嘘つきたくないから、ほんとのことだけ言わせてほしい」

 そう言って、嵐の母親は強張った口元をふいに緩めた。泣き笑いのような曖昧な表情だった。

「でもね、嵐を育てていくうちに、いつのまにか……本当にいつのまにか、そんなこと、どうでもよくなってったのよ。だって、あんた小さい頃は体弱くて、しょっちゅう熱出すし、好き嫌いも多くて、ほら魚なんてまったく食べてくれなかったし、ほんと手がかかって……よけいなこと考えてるような余裕なかったから」

 今度ははっきりと笑顔で母親は言った。

「もうもう、ただ元気に大きくなってくれたらって、気がついたら、ここまであっという間だった」

 嵐は何も言わず、母親を見ていた。意志の強い勝ち気な瞳が思いをたたえて揺れるのに、固く握りしめた両手は動かない。

 母親は居住まいを正すように背筋を伸ばして嵐を見つめ、「今は」と言った。

「今はね、嵐を産んでくれたこと、感謝してる。嵐を今まで育てさせてくれたことにも。嵐、お母さん、ひとつも嘘ついてないよ」

 嵐の母親の目に涙が浮かんだ。

「お母さん、嵐を連れていきたかった……。でもね、転校とかいろいろ不自由な思いさせるだろうし……」

 言葉をつまらせた母親は、何度も呼吸を整えて、消え入るような声で言った。

「やっぱり、本当の母親と一緒にいるほうが、嵐のためだと思ったから」

 母親の言葉に、嵐はまたうつむいた。肩先が小さく震えている。

「お母さん」

 私はたまらず口を開いた。目元を押さえていた母親が私に顔を向けた。

「ご実家の秋田に帰らず、こんな近くにおひとりで暮らしてらっしゃるのは、森本くんのことが心配だったからでしょう?」

 母親は涙を拭った。

「嵐が本当のお母さんとうまくやれて、幸せそうにしているのを確かめるまでは、と思ってました……」

「俺、やっぱりホントの母親がいい」

 嵐が顔を上げて、きっぱりと言った。

「だから、母さんトコに来た」

「嵐……」

「俺、頑張って勉強するから。俺がちゃんと高校受かったら、また一緒に暮らしてもいい?」

 嵐の母親の返事は声にならなかった。

「いいよね? 母さん」

 濡れた目の嵐に問いかけられ、母親は泣きながら何度も大きく頷いた。

 帰る時、玄関ドアの前で、嵐は母親を振り返って言った。

「俺、背伸びただろ」

 嵐の母親は私より小柄だったので、嵐のほうが十センチほど高かった。嵐は母親の右足を指さして、照れくさそうに笑いかけた。

「もう怪我しなくていいよ。これから、電球は俺が替えるから」


 教室の扉を開けようとした私は、かけられた声に振り返り、思わず口をあけてしまった。

「おはよって言ってんだけど」

 嵐が少し不機嫌な声を出した。

「おはよう……」

「何ジロジロ見てんのさ」

「その髪、似合うよ。絶対、そっちの方がいい」

 嵐は、黒く戻した髪を無造作にかき上げ、「フン」という顔をした。

「これで、内申点も問題ない?」

「甘い。これからでしょ」

「せこいなぁ」

 教室に入った嵐を、クラスメイト達が驚いたように見ていた。

 金髪をやめただけじゃなく、最近の嵐は、本当に変わり始めていた。欠席はもちろん、遅刻もほとんどしなくなり、授業も真面目に聞くようになっている。

 お昼前、資料を運んでいる時に、一階の技術室の前を通りかかった。三組の授業だったので、私はそっと中を覗いてみた。廊下側のテーブルで、嵐が作業をしていた。黒板に、「キーホルダー制作」と書かれている。

 嵐は真剣な表情で、自分の作品にやすりをかけていた。ちらりとみえた「M」の文字。森本の「M」か。見られていることに全く気づかず、熱心に作業に集中している嵐の姿が嬉しかった。私は教室から離れて、資料を抱え直し、額の汗を拭った。技術室に面した中庭の木から、蝉時雨が容赦なく降り注いでくる。夏休みが目の前だった。

 終業式の日、廊下で嵐に呼び止められた。

「あの時の礼、まだしてないから。なんか命令して」

 母親に会いに行った時のことを言っているのは分かったが、命令という言葉に、私は苦笑した。

「そんなのいいって。教師が生徒のためにしたことに、お礼なんていらないよ」

「それじゃ、俺の気が済まないの」

 嵐は、少しむきになったように言った。

「借りは返しておきたいから」

 詰め寄られて、私は困ってしまった。何かさせないことには、納得してくれそうもない。

「じゃあ、車洗うの手伝ってくれる?」

「そんなのでいいの?」

「けっこうタイヘンよ」

「分かった。いつ行けばいい?」

「そうね、なるべく早くお願い」

「連絡する」 

 ひらりと手を振って、嵐は友達と一緒に帰って行った。

  

 影が時間と共に濃さを増し、むせ返るような熱気に息苦しくなった。手にしたホースから流れる水が生温かい。午前中とは思えない暑さだ。

「先生。窓とか、これで拭いていいの?」

 嵐がスポンジを持ち上げて訊いてきた。頷くと、ガレージの前に出したラパンのフロントガラスを熱心に磨き始める。約束の十時ちょうどに家にやって来た嵐は、照りつける日差しの中、とても丁寧に私の車を洗ってくれた。おかげで、ひとりの時よりもかなりの早さで愛車がピカピカになっていく。

「嵐、もう充分きれいだから。ありがと」

 額の汗を拭いながらスポンジを滑らせる嵐に私は言った。

「水、流すよ」

「かして」

 嵐は私の手からホースを取り、勢いよく泡を流し始めた。最近、洗車をさぼりがちだったせいで汚れが目立ち始めていた車体が、見違えるように艶をまとって夏の光りを反射する。

 眩しさに目を細め、私は額に手をかざした。ホースを操る嵐の、タンクトップから伸びた腕がダンスをするように軽やかにしなる。日に灼けた細いうなじがどこか中性的で、まだ少年の幼さが漂う。私は、いつかの雨の日に傘を差し掛けてくれた、背の高い彼を思い出した。ぼんやりしていると、ルーフ越しに嵐と目が合った。いつのまにか、目線の高さを追い越されている。

「何、ボーっとしてんのさ」

「高校生になった嵐って、どんなかなぁって」

 いきなり水が飛んできて、私は後ろに飛び跳ねた。嵐はホースの先を指でつまみ、絞った水流を浴びせてくる。

「ちょっと! 嵐!」

「メチャメチャカッコよくなってるにきまってんじゃん!」

「今は小学生並みっ」

 なおも飛んでくる水しぶきを両手でガードしながら叫んだ。嵐は笑いながら、ホースを自分に向けて頭から水をかぶった。黒に戻った真っ直ぐな髪からしずくが滑り降りて、乾いたアスファルトに色をつける。

「大人になるよ。なるべく早く」

 少し生真面目な表情で嵐は言った。

「お母さんのために?」

 そう訊くと、嵐は曖昧な笑みを浮かべて、ホースをかたづけ始めた。

「急ぐことないよ、嵐。ゆっくりでいい。どんな大人になるか、それを決める時間も、目指す自分になるための時間も、まだまだいっぱいあるんだから」

「先生は?」

「え?」

 背中を向けて、バケツの水を排水溝に流しながら嵐が言った。

「なりたい自分がある?」

 私は黙ったまま、嵐の後ろ姿を見つめていた。返事を返さない私に、嵐が怪訝そうに振り返る。

 なりたい自分。

「先生?」

 嵐は覗き込むように私を見つめた。荒れていた時の、触れれば切れそうな鋭さが払拭されたようなその表情は柔らかく、意外に女顔だったんだと、改めて気づいた。

「あるけど、もう少し近づけないと、言えないな」

 私の言葉に、嵐は笑った。

「俺も」

 母が冷えたスイカと麦茶を運んできてくれた。嵐に昼食を一緒にと誘い、台所へ戻る。私はガレージに車を入れてから、嵐と並んで縁側に座り、スイカを食べた。

「勉強のほうはどう?」

 スイカの種を取りながら、さりげなく訊いてみた。

「ダメ。正直、わかんねーとこだらけ」

 嵐は前を向いたまま、スイカにかぶりついた。濡れた口元を手の甲で乱暴に拭う。

「今からでも、まだ大丈夫。夏休みの補習、ちゃんとおいでよ」

 横顔で頷き、嵐は器用に種を皿に落とした。

 昼食を済ませ、帰り際に、嵐はポケットから何かを取り、それを持った右手を私の前に突き出した。

「何?」

「やるよ」

 私が手の平を出すと、その上に銀色のキーホルダーが落ちてきた。「M」のモチーフ。技術の時間に嵐が作っていたやつだ。

「嵐、これ……」

「三国のMだよ」

 そっけなく言うと、嵐は背を向けて歩き出した。

「待って。車で送るよ」

「いい」

 濃い日差しの中、足早に駅へ向かう嵐に、私は大声で言った。

「嵐、ありがとう。大事にするね」

 嵐は振り返らなかった。私は、少しいびつな線を描く手の中のキーホルダーを、指先でそっとなぞった。これは、私の大切な宝物だ。


 夏休みの間、嵐は真面目に補習に顔を出し、他の先生達も感心するほどだった。それでも、今からある程度の高校を目指すには、やはりかなりの努力が必要だった。

 二学期に入ってから、私は放課後に時間を作り、教室や図書室で嵐の勉強を見た。国語以外の教科は、それぞれの担当の先生が手伝ってくれた。嵐の頑張りを見ていた先生達は快く補習を引き受けてくれたが、どうしても足りない部分は、私ができるだけ補うようにした。

 嵐の他にも補習を希望する生徒ももちろんいたけれど、大抵は塾に通っていたので、必然的に、嵐と一対一になることが多かった。嵐は、今の両親に塾に行かせてくれと頼むのは絶対に嫌なようだったし、向こうから言ってきても断っただろう。その気持ちは私にもよく分かったので、多少の無理を押してでも嵐に協力したかった。

 夏の名残りもすっかり息を潜め、受験を控えた三年生の秋が、駆け足で深まっていった。

 去年の文化祭にはまったく関わろうとしなかった嵐が、今年はどうするつもりなのか気にかかっていたけれど、その心配は杞憂に終わった。嵐は補習と並行して、文化祭の準備にもできるだけ参加するようにがんばっていた。今年は、プルタブを使った簡単なアクセサリーやインテリア作りと販売。売り上げは、すべてフェアトレードの運動に携わる団体に寄付することになった。

「森本くん、そっちにガムテープなかった?」

「あ、さっき見た」

 女子に訊かれ、手元を探す嵐に省吾が声をかける。

「嵐、ここ」

 放課後、時には指を傷つけながら、プルタブの山と格闘するクラスメート達の輪の中に、いつのまにか嵐はごく自然に溶け込んでいた。もちろん、日々の中で、それぞれのためらいや気遣いはきっとあったはずだけど、少なくとも今、省吾や他の男子、そして女子と言葉を交わす嵐の笑顔は屈託がなく、クラスメート達にも、彼を遠巻きに見ていた頃のようなぎこちなさは感じられない。

「フェアトレードなんて、今まで、言葉も知らなかった」

 プルタブの先同士を慎重に繋ぎ合わせながら、嵐が言った。

「まぁ、発展途上国に限らず、立場の弱い生産者が、取引先から不当に買い叩かれるなんて、それこそ日本でもあることだけど、発展途上国の場合は、児童就労、小さな子供達の労働問題も絡んでくるから、もっと根深いものがあるんだよね。公正取引って、言葉にすると、経済の常識みたいだけど、実際は絵にかいた餅っていうか……あ、わかる? 絵に描いた餅」

「バカにし過ぎ」

 嵐は少しふてくされたように言った。

「ごめんごめん。とにかく、現実は厳しいって話し。だからこそ、フェアトレードの為の運動や団体があるわけね」

 嵐だけでなく、周りの生徒達も、手を止めて私の話しに聞き入っていた。私は以前、テレビで見たドキュメンタリー番組のことを皆に話した。日本から遠く離れたガーナの地で、朝から晩まで、ただずっとカカオの実を採る仕事に明け暮れる七歳の少年。

「その子は、もちろん学校に行ったこともなくて、そうやって自分の一生は終わるんだろうって言ってた。そんな子達がそうやって採ったカカオの実は、チョコレートになってみんなのところに届くけど、その子達はチョコレートを食べたことも、たぶん見たこともない」

 つかのま訪れた沈黙を、皆は自分の中で咀嚼しているようだった。やがてまた、それぞれの手元の作業に集中し始める。普段は気に留めることもなく捨ててしまう小さなプルタブを、いくつもいくつも繋ぎ合わせ、別の何かに生まれ変わらせる作業を。

 視線を感じて隣を見ると、嵐がもの言いたげな目で私を見ていた。

「何?」

「別に」

 嵐は目を逸らすと、何も言わずにアクセサリー作りを再開した。

 文化祭での販売は大盛況で、思った以上の収益をフェアトレードの為に寄付することができた。嵐は自分が作ったアクセサリーが売れた時、とても嬉しそうな顔をしていたし、このことをきっかけにフェアトレードや発展途上国の児童就労に関心を持ってくれた生徒もいて、私も大きな充足感を得ることができた。

 十一月も残り少なくなった頃、放課後の図書室で、嵐に国語の文法を教えながら、私は訊いた。

「志望校は、もう決めた?」

「一応。手塚東てづかひがしにした」

 県立高校の中では、ちょうど真ん中辺りだ。今の嵐の学力では、まだ少し厳しい。それでも、四月の成績を考えれば、短い間でよくここまで追いついたと、私は改めて嵐の努力に感心した。

「そう。もうひとがんばりだね」

 私は、嵐の書いた回答欄をチェックしながら言った。

「先生は?」

 問題集に視線を落したまま、嵐が言った。

「何が?」

「来年も、三年もつの?」

 咄嗟に口ごもってしまった私に気づいているのか、そうでないのか、嵐は苦手な形容動詞の活用形の問題に苦戦している。

「先生って、英語とか数学とか、自分の担当以外の科目も教えられるからすごいよな」

 ため息混じりに嵐が言った。

「教えられるっていっても、基本的なことだけよ」

「勉強って、やってたら、ちゃんと役に立つんだな」

 顔を上げて、嵐が笑う。彼の肩の向こうで、窓ガラスが冬の到来を告げる風に小さく震えていた。

 補習を終え、職員室に戻ったところで、教頭に呼ばれた。

「例の件ですが、もう正式に返事をしても大丈夫ですか?」

 短く息を吸い、私は背筋を伸ばした。

「はい、お願いします」

 教頭は 笑顔で大きく頷いた。

「クラスのみんなには?」

「……今はまだ、みんな、進路のことで頭がいっぱいでしょうし、折を見て、と思っています」

 私の言葉に、教頭はもう一度大きく頷いた。


 終業式を明日に控えて、いつもより早い時間に図書室の閉館を告げられた。二学期の補習も今日が最後で、嵐が問題集を切りのいいページまでやってしまいたいというので、私たちは教室に移動した。

 薄暗くなった渡り廊下を無言で歩きながら、私は隣の嵐を盗み見た。今日は、なんとなく嵐の様子がおかしい。別に怒っているわけでもなさそうだが、なにかしら微妙な空気がまとわりついている。家で何かあったんだろうか。母親とケンカとか? こちらから訊いてみようか、と逡巡する。そんな私をよそに、嵐はさっさと教室に入り、席に着くと問題集を広げた。しかたなく、私も向かい合って座った。

 小説の一場面から、情景や心情を読み取る問題のところで、シャープペンシルを握る嵐の手が止まった。登場人物の心理を三十字以内で説明せよ、とある。

「この少年は、どうしてこんな態度をとったのか、どんな思いだったのか、自分にあてはめて考えてみたらどうかな」

 私が身を乗り出して抜粋された文章を指で辿ると、嵐は椅子の背にぞんざいにもたれかかり、シャープペンシルを机に転がした。

「なんか、集中力なくなってきた。ちょっと気分転換したい。音楽とか」

 補習中に嵐がそんなことを言うのは始めてだった。やっぱり、いつもと違う。私は鞄からウォークマンを取り出して、嵐に貸してあげた。

「へぇ、先生って、何聞いてんの」

 嵐は興味深そうに言うと、イヤホンをはめて再生を押した。

「サザン?」

「うん、古いアルバムだけどね。この前、テレビでサザンの特集やってたから。昔の歌、ちょっと聞いてみたいなって」

 嵐はイヤホンをしたまま、シャープペンシルを持って問題集に目を戻した。黙って問題を解いていたけれど、しばらくして、また手を止めた。ウォークマンを巻き戻して、両手で耳元を押さえる。どうやら、歌に聞き入っているらしい。

「何の歌?」

 問いかけると、嵐はイヤホンの片方を差し出した。『ラチエン通りのシスター』。私も好きな曲だ。

「気に入った?」

「まあね」

 イヤホンをはめ直し、嵐はリピートモードにして何度も繰り返し聞いていた。目は問題集に向いているので、そのまま聞かせてあげることにする。

「……先生」

「ん?」

 嵐が顔を上げて、じっと見つめてくる。

「何?」

 もの言いたげな瞳が、ふいと逸らされた。

「どうしたの? 今日、変だよ。何かあった?」

「別に」

 今度は不機嫌そうに黙り込む。私はそんな嵐を持て余し、誰もいない教室に気まずい空気が流れた。

 突然、嵐が机に突っ伏した。

「嵐? 具合悪いの?」

「悪い」

 うずくまるようにして、苦しげな声で言う。私は慌てた。

「どこか痛む?」

「ここ」

 顔を伏せたまま、嵐は左胸を押さえた。

「えっ! 心臓? 病院行く? とりあえず、保健室……」

 立ち上がった私の耳に、くぐもった笑い声が届いた。

「嘘だよ」

 嵐は私を見上げ、おかしそうに笑った。あっけにとられた私をからかうように、口笛を吹きながらイヤホンを抜き取る。ウォークマンから『ラチエン通りのシスター』が流れ出した。私はカッとなって、乱暴に停止を押した。

「ちょっと、ふざけないでっ。早く問題」

「彼氏になーりたきゃ、どう言うの?」

 私の言葉を遮るように、嵐は曲の続きを歌い出した。

「心かーら、その気持ちィ」

 ゆっくりと立ちあがり、目線を合わせてくる。真っ直ぐに突き刺さるような嵐の瞳。理由の分からない息苦しさが、喉元を圧迫した。

「嵐……勉強を」

「つれない文句は、もーぉ言うな」

 目を逸らさず、嵐はまた歌う。

「思い入れひとつで、もうもう、どーにでも……」

 小さく笑って嵐は私から目線を外した。そして、曲を口ずさみながら問題集を片づけ鞄にしまうと、こっちを見ることなく教室を出て行った。私は何も言えず、その場に突っ立ったまま、嵐の背中を見ていた。

 誰もいなくなった教室で、嵐が歌った『ラチエン通りのシスター』の最後の一節が、私の耳に残っていた。

 あなたから、いつもその気にさせる。よその誰よりも━━。

 

 呼べばすぐに会える

 でも見つめるだけで もうだめシスター

 そばにいたらそれで夢 つれないそぶりでも

 他に誰かいるの

 そうね移り気になりそう だめシスター

 胸を焦がす言葉さえ分からずにただ泣くわ

 彼氏になりたきゃどう言うの 心からその気持ち

 つれない文句はもう言うな

 思い入れひとつで もうもうどうにでもなれる

 忘れずにいつかどこかで会える

 思い出にやさしく酔える

 あなたからいつもその気にさせる よその誰よりも


 ベッドの上で携帯が振動していることに気づき、私は急いでウォークマンを止めた。

「もしもし、嵐?」

「さっきは、ごめん」

 低く沈んだ声で嵐は言った。

「別に怒ってないよ。でも……大丈夫?」

「……何が?」

「何がって……なんとなく」

 嵐が黙り込むと、唸るような風の音が聞こえてきた。

「嵐、外にいるの?」

「うん」

 私は思わずカーテンがひかれた窓を振り返った。今夜は特に冷え込みが厳しい。明日はホワイトクリスマスになるかもしれないと、ニュースの天気予報が告げていた。

「どこにいるの」

「前」

「え?」

「先生ンの前」

 上着も取らずに、私は部屋を飛び出した。

「ホントにうちの前?」

 言いながら玄関のドアを開けると、すぐ側の電柱の陰で、携帯を耳に当てた嵐が「ホント」と笑った。

「嵐……」

「ごめん、こんな時間に」

 嵐は笑みを消し、神妙な面持ちで言った。夜の中でもその顔は少し青白く、どこか思いつめているように見えた。

「受験生の自覚が足りないね、嵐。こんな寒い晩に。風邪でもひいたらどうするの」

 言った側から、私がくしゃみをしてしまった。嵐は慌てたように自分の上着を脱ぎ、私に差し出した。

「いい、いい。大丈夫」

「先生こそ自覚が足りないよ。もう若くないんだからさ」

「悪かったね」

 嵐は小さく笑った。

「嘘だって。そんなこと、思ってない」

 私の手にブルゾンを押し付けて嵐は言った。

「着てよ。一回くらい、大人の真似させて」

 少し迷ったけれど、私はブルゾンに袖を通した。

「ありがとう」

 嵐は一歩下がるようにして、私の全体を見渡し、満足そうに頷いた。それから、ふと目を伏せた。

「嵐?」

「来年、外国行くって、ホント?」

 顔を上げた嵐が、挑むように真剣な眼差しを向けてくる。無意識に背筋が伸びた。

「うん。ホント」

 嵐は、一瞬、きつく目を閉じた。

「……ガーナに行くの。南大西洋に面した州の小さな村にね、貧しい家庭の子供達のために、新しく小学校ができるの。それで、教師が足りないらしくて、文科省を通して募集があったから、いろいろ迷ったけど……行くことにした」

 吐く息が夜に白く浮かぶ。来年のクリスマスは、南半球の強い日差しの下で迎えるんだな、と考えた。

「公立の小学校は英語での授業だから、行くのは英語の教師としてだけど、いつか、日本語も教えたいって思ってる。それから……それでも学校に通えない子供達にも」

「一日中、カカオの木を切って暮らす子供達に、もっと他の世界を教えに行くの?」

 嵐の言葉に、私は大きく頷いた。

「いつから?」

「春になって、嵐達を送り出してから、すぐ行こうと思ってる。なるべく早く、現地の暮らしに慣れたいから」

 嵐は少しの間、黙って私を見つめた。痛いくらいに澄んだ冬の冷気の中、上着もなしで立ちつくす嵐のほっそりとした姿は、夜を背景にした切り絵のように見えた。私が上着を脱いで返そうとすると、嵐は穏やかな微笑を浮かべた。

「わかった。ありがとう、ホントのこと言ってくれて」

 それだけ言うと、嵐は手にしたブルゾンを着ようとせず、夜道を帰って行った。


 嵐はいつもの嵐に戻り、冬休みの間も一日も補習を休まなかった。三学期に入ってからも勉強への集中力は途切れず、さらに熱心に最後の追い込みをかけた。その結果、嵐は志望校の手塚東よりも、ワンランク上の高校に見事合格した。

 そして、今日。

 窓の外、春一番というには少し重い風に、開き始めた校庭の桜が、まるで別れを惜しむみたいに枝を揺らしている。

 がらんとした教室で、私は嵐と向き合っていた。いつもの補習のためじゃなく、この場所での最後の見送りをするために。

 卒業証書を脇に抱え、嵐がゆっくりと教室を見回す。

「お約束のリアクション」

 その言い方に笑ってしまった。

「いろんなことあったよね」

「そのセリフもお約束。なんか、サプライズないの?」

 そう言って、嵐は机に腰かけた。さっきまで、卒業生や在校生で賑やかだったグラウンドからは、もう途切れ途切れにしか声が届いてこない。

「今の嵐が、充分サプライズだって。最初は、手を焼くどころか、手に負えないって思ったのに」

「成長した?」

「うん」

 私は頷いた。体全部で頷きたいほどだった。ふいに、晴れの日の別れが伴う、日なたの香りがするような寂しさが胸を掠める。

「ホントに……嵐は、すごく大きく、強くなった。もう、お説教することなんか、何もなくなったね」

 私の言葉に、嵐は小さく笑った。いつからか、時折、ひどく大人びた表情をするようになった。嵐が立ち上がり、一歩、前に来た。ひときわ強い風が、教室の窓を震わせる。まるで春の嵐だ。

「最後に、もうひとつだけ、怒られることするよ」

 何を、と訊こうとした私の視界に、いきなり嵐の瞳が飛び込んできた。嵐が目を閉じるのが見えたのと、唇が触れたのは同時だった。瞬きよりも短い時間。何が起こったのか、認識が一歩ずれてやってきた。

 近づいた体を離し、嵐は覗き込むように私を見た。

「……嵐っ」

「ストップ」

 詰め寄ろうとした私の目の前に、嵐は手の平をかざした。

「言わないでよ。お説教なら、今度会った時に」

 あまりに無邪気な笑顔に、毒気を抜かれたように言葉が引っ込んでしまう。

「まぁ、その時は俺、ヤバいくらいカッコよくなってるから、たぶん説教なんかできないと思うけど」

「嵐、あんたねぇ……」

「この前、チョコレート食ったよ」

 突然、声のトーンが変わった。

「今までとは違う味がした。カカオの味。それって、気のせいなんかじゃないよね」

 嵐は笑顔を消して、姿勢を正した。

「先生」

 思わず、私の背筋も伸びる。

「先生が教えてくれたこと、忘れません」

 初めて見る、ひたむきで真摯な表情。口元をまっすぐ引き結び、嵐が深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

 こみあげる涙が、私の視界と言葉を奪った。

 嵐。

 嵐、私のほうこそ。

 私を、先生にしてくれてありがとう。

 必死に涙を拭っても、胸いっぱいに溢れた思いが、言葉を押し留める。

 ありがとう。そのひと言だけでも嵐に伝えようとしたけれど、桜の若木のように伸びやかな体はそれを待たずに廊下へ飛び出し、その先のどこまでも広がる未来へ向かって、振り返ることなく駆け出して行った。

 

「あの子、千尋さんの生徒?」

 暖かい別れの余韻にひとり浸っていた私は、かけられた声に驚いて振り返った。そして、教室の入口に立っている人間を見て、今度は目を疑った。

「なつかしいな。俺が初めて姉貴に会った時、ちょうどあれくらいだった」

 彼は、嵐が走って行った廊下に目をやって、静かに笑った。約二年振りに会う彼は、もうすっかり大人の顔になっていたけれど、その造作には、あの頃よりもなお強く、彼女の面差しが重なって見えた。

 私は、ゆっくり入口へと近づいた。そして彼と間近で向き合い、世界の果てに繋がるような、深く悲しいその瞳を見上げた。

「卓也くん……」

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