さよならのキスしよう

滝川 七央

第1話 ステンレス・スティール

 自分の家と自分の居場所がイコールな人間って、ラッキーだと思う。

 あたしもそうだったはずなんだけど。すでに過去形。それでも、他に行くところがない以上、家と呼ばれるスペースに帰るしかしょうがない。ホームじゃなくて、ハウスに。

 だけど、どうしてもどうしても帰りたくない時は、どうすればいいんだろう。

いい大人なら、山奥でもない限り一晩やそこら泊まるところくらい、どうにでもなるだろう。あたしの場合はそうはいかない。制服姿の高校生が行ける場所なんて、夜の繁華街じゃゼロに近い。

 二学期が始まって一週間。昼間の厳しい残暑を引きずるように、湿ったぬるい空気が首筋にまとわりつく九月の金曜日。その日あたしは、初めて知らない男に自分から声をかけた。


「家のひと、いないの?」

 こんなこと、慣れてるって口調で言ったつもりだったけれど、思いつめた表情をしていたのかもしれない。ベッドに腰掛けたあたしを、彼は少し面倒くさそうな顔で見下ろした。

「ひとりぐらし……とか?」

 あたしは声が震えたりしないように気をつけながら、今度は笑顔を作って訊いてみた。

 Tシャツを脱ぐ手を止めて、彼があたしを見つめる。その目から感情を読み取るのは難しかった。

「おしゃべりしにきたわけじゃないんだろ」

 低い声でそう言うと、彼はあたしに覆いかぶさるようにして手を伸ばしてきた。あたしは思わず、飛び上がる勢いでよけてしまった。あっけにとられたような彼と、無言で見つめ合う。彼は、伸ばした手をゆっくりと、ベッドサイドのスタンドランプのスィッチに置いた。ステンドガラスのランプシェードにオレンジの灯りが透ける。

「これ、つけようとしただけだよ」

 勘違いした自分が恥ずかしくて、頬に血が上った。彼は何も言わずに部屋の電気を消した。あたしたちのシルエットが、ほの暗い部屋の壁に浮かび上がる。彼が近づいてきて、今度こそあたしはじっとしていた。唇が近づき、あたしはきつく目を閉じた。その姿勢のまま数秒が過ぎ、恐る恐る目を開けると、超至近距離で目が合った。

「あんた、処女?」

「違う」

 即答したつもりだったけど、ビミョーなができてしまった。彼は体を離して立ち上がった。

「ボクシングでもするみたいに歯くいしばってるから。キスもしたことないのかと思ってさ」

 睨みつけるあたしの視線をはたき落すように、彼はTシャツを脱ぎ捨てた。社会人には見えない。あたしよりせいぜい三つ四つ上くらいだろう。なのにこの人には、まるで世界の果てを見てしまったような、深くて暗い影が纏わり付いている。

 彼は目にかかる前髪をうっとうしそうに払った。

「けど、別にどうでも」

 ジーンズのベルトに手をかけ、言い捨てる。

「出せりゃいいから。さっさと脱いで」

 その口調に、体感温度が二度は下がった。両手がかじかんだように、ブラウスのボタンがうまく外せない。そんなあたしと対照的に、彼は腕時計をするりと外した。

「その時計」

 思わず声が大きくなった。

「見せて」

 彼はちょっと驚いたように瞬きしたけれど、黙って時計を渡してくれた。あたしはブルーの文字盤に型押しされたアルファベットを凝視する。

 やっぱり同じだ。北浦きたうらの時計の名前と。

「ジラル……ド……?」

「ジラール・ペルゴ」

 彼が教えてくれた。難しい綴り。

「欲しいの?」

 あたしは首を振った。

「クラスの子が……同じような時計してるから」

「ヘぇ、高校生がGPか。金持ちのボンだな」

 そう言う自分も、大学生くらいのくせに。あたしは呟きを呑込んで、手の中の時計をじっと見つめた。文字盤は違うけれど、全体のフォルムが北浦の時計と似ている。カジュアルなデザインなのに、素人目にもどこか優雅さが感じられた。たぶん十万やそこらで買える代物じゃないだろう。そっと撫でながら、北浦の長い指先を思い出す。その手首を飾るステンレス・スティールの光。メタリックな銀。媚びない色が、北浦にとても似合っていた。

「欲しかったらやるよ」

 あたしは顔を上げて彼を見た。彼もあたしを見ていたけれど、その目は何も映していないようだった。ステンレス・スティールのように冷たく、無機質だ。

「やるよ」

 彼がもう一度言った。あたしは、時計を彼に返した。

「あたしには似合わないから」

 少し笑ってみせた。だけど、これから始まることへの不安と緊張が、笑顔とは言えない表情にさせていたかもしれない。彼は脱いだ服の上に投げるように時計を置くと、あたしの隣に来て肩を抱いた。触れられて両肩が小さく跳ねる。彼は気にするそぶりもなく、ささやくように言った。

「シャワー、先にどうぞ」

 その後のことは、なんだかもう一人の自分が体験したことみたいに、つかみどころがない。

 金属みたいに、ひんやりとした感触を想像したけれど、行為そのものはやさしかった。そして、彼はなぜか、唇には一切触れようとしなかった。

 朝、先に目を覚ましたあたしは、ベッドの中で、しばらく彼の寝顔を見ていた。彼は、恐い夢の続きに怯えるみたいに体を丸め、シーツの中にうずくまるようにして眠っていた。無防備に閉じられたその瞳から、なぜだか今にも涙が流れ落ちそうで、あたしは目をそらすことができなかった。ひとりぼっちの小さな子供みたいだ。起きている時の彼とギャップが有り過ぎる。

 彼が起きたのは、十時を少し回った頃だった。

「送ってくよ」

「大丈夫」

 制服のタイを結んで、あたしはベッドから立ち上がった。体がだるく熱っぽい。両脚のつけ根がヤワになって、ぎこちない歩き方になる。初めてだったことを裏付けるようで悔しくて、脚もとに力を入れた。

「駅まで遠いし、この辺知らないだろ」

 そっけなく言って、彼は車のキーを探し始めた。あたしは手持無沙汰な気持ちで、広いリビングを見回した。センスが良くて、高価そうなインテリア。昨夜も思ったけれど、大きな家だ。高級(おそらく)ブランドの時計を、あっさりと「やるよ」なんて言えるのも、ほんのちょっと納得かも。

 ふと、大理石のテーブルの隅に置かれた郵便物に目が留まった。一番上は、区役所なんかの公共機関で使われる薄茶の封筒。

椎名しいな卓也たくや

 宛名に書かれた漢字を、あたしは声に出して言った。同時に彼が封筒の束を掴み取った。

「俺のことが知りたくなった……ってワケじゃないよな?」

 もし、そうだったとしても、迷惑だ。はっきりと顔に書いてある。

「ごめんなさい」

 あたしは素直に謝った。彼は何も言わず郵便の束をソファに投げると、車のキーをかざし、玄関の方へ顎先を向けた。あたしは鞄を手にして後に続いた。

「結婚……してるの?」

 スニーカーを脚につっかけて、彼が振り返った。あたしが動かないから、玄関の前で見つめ合う格好になる。

「ごめんなさい。けど……郵便の中に百合ゆりって宛名がちらっと見えたから……」

 口ごもったあたしを、かれは昨夜と同じ感情の宿らない目で見ていた。

「結婚してるのに、こんなこと、できるの?」

 誘ったのは、あたしだ。自分のことを棚上げにしているのは百も承知で、訊かずにはいられなかった。侮蔑の言葉を投げられることを覚悟したけれど、彼は静かに言った。

「姉貴だよ」

 あたしは目を瞬いた。

「おねぇ……さん?」

 彼は頷くと、もういいだろというように、玄関の扉を開けた。あたしは急いでローファーに足を入れる。

「お姉さん、どこか出かけてるの?」

 食い下がりながら、あたしはそんな自分にちょっとびっくりしていた。彼に奥さんがいないことに安心して、口も軽くなったのかもしれない。例え一晩でも、不倫だけは絶対にごめんだ。虫酸が走る。

「かもな」 

 いかにも面倒くさそうに、彼はガレージに止めてあったBMWのドアに手をかけると、ルーフ越しにあたしを見て言った。

「そろそろ、黙って」

 車の中では、見事に無言だった。彼はまるで、横にいるあたしが見えないみたいにフロントガラスに視線を固定していたし、あたしはずっと窓の外を飛び去っていく知らない街並みに顔を向けていた。そうしながら時々、彼の手首で九月の陽光を弾く銀の時計を、そっと気づかれないように盗み見た。

 最寄駅のひとつ手前あたりで、車を止めてもらった。

 土曜日の昼前の駅周辺は、人通りが多く、強くなり始めた陽射しの中、誰もが色濃い残暑にうんざりしているように、眉間に皺を刻んでいた。コンビニの前に何人かで座り込んでいる同年代のギャルとチャラ男達は、何が楽しいのか、やたらと大声で笑っていた。周りに知っている顔がいないかと少し緊張しながら、あたしはシートベルトを外した。

「どうもありがとう」

 彼は軽く顎を引いた。ドアを閉めながら、お互い、名前も言い合ってなかったと、改めて気づいた。あたしは偶然、彼の名前を知ったけれど、彼はあたしの名前を訊こうとしないし、たぶん、知りたいとも思っていない。きっと、それでいいんだろう。

 あたしは彼の方を見ずに、駅に向かって歩き出そうとした。車のウィンドウが降り、助手席側から彼が顔を出した。彼は、まだばか笑いしているギャル達に視線を向けた。

「男と寝ることを、何も考えずに楽しめるんなら、昨日みたいなこともありだろうけど」

 そう言って、あたしに振り返った。

「思いっきり自分を安売りしながら、胸の内じゃケナゲに好きなヤツのこと思ったりとか、どっかで自分守りたいんだったら、もうこんなことなしにしなよ」

 頬が熱くなって、自分が赤面するのが分かった。

「よけいな……」

「お世話だろうけど」

 冷ややかな目で彼は続けた。

「まともじゃない連中は、いくらでもいるんだ。俺がもう少しイカレた男だったら、あんた今、冷たくなって後ろのトランクに積まれてるかもしれないよ」

「まさか」

 失笑してやろうと思ったけれど、熱くなった頬の筋肉がうまく動かない。

「自分が明日もあたりまえに生きてるなんて、単純に信じるなよ」

 彼は斜めからすくい上げるようにしてあたしを見た。

「人は、突然死んじまう。あんたが考えてるより、たぶん、ずっと簡単に」

 車の脇に突っ立ったままのあたしの背中に、誰かが軽くぶつかる。あら、ごめんなさい。太ったおばさんが謝りながら、そっちが邪魔なのよ、という視線を投げて行き過ぎる。

「まぁ、だから、どうだって」

 彼は、シートにもたれて短い息を吐いた。

「やることやった俺が言うことじゃないけど」

 ウィンドウを閉じて、左手を軽く挙げる。手首にジラール・ペルゴ。北浦とよく似た時計。遠ざかっていく青いBMW。あたしは唇を噛んで、バーバリーチェックのシャツが良く似合う、椎名卓也の背中を見送った。


 家に着くまでの約二十分間、あたしは日射病にならない程度にゆっくり歩いた。いわゆる初体験っていうものに対する感慨みたいなものを、自分の中に探そうとするけれど、知らない土地の乾いた風景を眺めるみたいに、からっぽな気分だった。そこには誰もいないし、風も通らない。好きな人とだったら、全然違う感じになったんだろうか。思った途端、笑ってしまった。ばかばかしい。

 ふと、あたしは足を止めた。ひとつだけ、不思議なことがある。どうして彼は、唇には触れなかったんだろう。少し考えて、あたしはまたすぐに歩き出した。今さら知りようがないし、それもまた、初体験なんてものと一緒で、どうでもいいことだ。

 ひとつ深呼吸してから、玄関の扉を開けた。家に帰る時に緊張するようになったのは、いつごろからだろう。昼間なのに薄暗いリビング。カウンターキッチンの奥の、ステンレスのシンクには、洗いものが残ったままだ。汚れがこびりついて、くすんでいる。前は、ママが毎日きれいに磨いていた。重曹で洗うのがコツなのよ。ピカピカのシンクを撫でながら、得意げに笑うママ。ひとさし指で擦ると、きゅっと清潔な音がしたステンレス・スティール。ママがおいしい料理を作ってくれる場所。あの頃ここは、確かにホームだった。

 二階から、言い争う声が聞こえた。ママたちの部屋だ。もっとも、ほとんどがママの涙まじりの声だけど。あの人は、きっといつものだんまりなんだろう。

 さっさと部屋に入りたいけれど、今、二階に行くのはためらわれた。迷っていると、階段を降りてくる脚音がした。

深音みね、帰ってたのか」

 あたしは黙って頷く。パパの方こそ。

「昨日はどこに行ってたんだ」

 パパは疲れた顔で、頬をさすった。うっすらと無精ひげが生えている。

「……友達の家。ママにはメールしたけど」

「そうか」

 ため息交じりの声。うわの空だね。

「帰ってこないと心配するからな」

 あなたに言われたくないんですけど。ほら、もう気持ちは玄関に向かってる。早く帰りたいんだよね、彼女が待ってるスィートホームに。だいたい、どこに行ってるとか、心配するなら、昨日の時点でしょ? 心なんて、ここにはとっくにないくせに。そういう噓が、相手をもっと傷つけるってこと、考えもしないんだね。きっと、ママも今、同じ気持ちで泣いているんだろう。

「今日はもう行くよ。また来るから……ママを頼む」

 あたしの目を見ずにそう言うと、パパは玄関に向かった。靴を履きかけて、振り返る。パパは財布から一万円札を出して、あたしに渡した。

「手切れ金にしたら安いよね」

 パパが何とも言えない表情であたしを見つめる。

「冗談よ」

 お金を受け取って、あたしは靴べらを渡してあげた。屈み込んだ背中を見ていると、ひどく凶暴な気持ちが湧き上がってきた。

 椎名卓也に言われるまでもなく、自分がどんなにバカなことをしたのか、よくわかっていた。それでもあたしは、自分のことを思いきり粗末に扱ってみたかった。そして、夫としてだけじゃなく、父親の役割さえもさっさと放棄しようとしているこの人に、面と向かって言ってやりたかった。

 パパ、あたし、昨日知らない男に抱かれてたんだよ。けっこうヒドいヤツっぽい。でも、パパよりは、たぶんずっとマシ。

 何て言うだろう。怒るかな、それとも、泣く? 

 衝動が唇を開かせようとするけれど、あたしは言わない。怒りも泣きもされないことが怖いから。一方通行の思いは、みじめで情けない。二階にいるママのことを考えた。

「何か、言ったか?」

 パパが振り向いて訊いた。あたしは黙って首と手を振った。


 ボールを手に、転がるように教室を飛び出していく。バスケ部の男子たちだ。三年間さんざんやってきて、引退してもまだ飽きたりないらしい。昼休みの一分も惜しんでコートにまっしぐら。まだこんなに暑いのに、よくやる。冷ややかに見つめる自分の中に、少しの羨望が混ざっていることを自覚する。白いシャツに包まれた男子の背中は、いつも初夏の風を含んでいるように軽く見える。

吉野よしの

 窓際の席でぼんやりと頬杖をついていたあたしは、名前を呼ばれて振り返った。一瞬、心臓が跳ねる。北浦雪正きたうらゆきまさが立っていた。

「津田先生が、放課後、進路指導室に来いって」

「わかった。ありがと」

 答えながら、北浦の手首に目が行く。ジラール・ペルゴ。椎名卓也がGPって言ってたっけ。銀のステンレス・スティール。ママが磨いていたキッチンと同じ色。あたしにとっての幸福の色。

「深音、志望校変えるの?」

 北浦と入れ違いに詩織しおりが来て言った。

「……大学、行かないかも」

「え! なんでなんでっ? なんかあったの?」

 両親が離婚したら、あたしはママと暮らすことになるだろう。いきなり母子家庭になったら、大学の学費どころじゃないかもしれない。

「なんか、やりたいこと見つからないし」

「そんなの、あたしだって同じだよ。行く大学である程度将来が決まるとか、理屈はわかっても、いまいちぴんとこないし」

 詩織はあたしの向かいに座って腕組みした。その肩越し、北浦が友達と笑いあっている。どんなことを話してるんだろう。詩織が、ふと思いついたように言った。

「けど、ちゃんと道を決めてるヤツだっているんだよねぇ。バスケ部の誰かがさ、大学から特待推薦がきたとかなんとか」

「へえ、そうなんだ」

 適当な相槌を打ちながら、つい目が北浦を追いかけてしまいそうになる。詩織が後ろに視線を向けてから、前のめりに顔を近づけてきた。

「北浦もそうだよね」

「何が?」

 いきなり名前を出されて、わずかに声が裏返ってしまった。詩織は特に突っ込まず、声を落とした。

「卒業したら、ドイツにピアノ留学するらしいね。あ、オーストリアだったかな」

 ドイツだよ。心の中で呟いた。北浦がピアノを弾けることは、みんな知っていた。去年の文化祭で、演奏したからだ。もっとも、バンドを組んだ友達に頼まれて、即席でキーボードを担当しただけで、クラシックの腕前は披露されていない。だけど、インパクトは充分だったみたいで、ファンがけっこうできたらしい。確かにかっこよかった。 

「すごいよねー。才能あるっていいなー」

 羨ましげに言って、詩織はもう一度ちらと北浦に視線を投げる。

「でも、そんなに才能あるのに、なんで、普通の高校に来たんだろ? そんな人たちって、音大付属とかに行きそうだよね」

 それはあたしも思っていた。

「そうだね……訊いてみたら?」 

「うーん、北浦って、ちょっと近寄り難い系じゃない? 人あたりはいいんだけど、ソフトにクールっていうか、大人っていうか」

「まぁ、そうかもね」

 詩織の視線に便乗して、あたしは北浦を見た。ソフトにクールか。うまいこと言うね。

「深音って好きなひといないの?」

 覗き込むように訊かれて、少し慌てた。

「なんで?」

「クラスの男子にキョーミなさそうだし。彼氏ほしがってる感じもしないから。あたしの彼氏の友達が、女の子紹介してほしいって言ってるんだけど」

「ごめん、パス」

 詩織は残念そうにのけぞり、小さく唇を尖らせる。

「そおいうとこは、深音もクールだね」

 そんなんじゃない。たぶん、臆病なだけだ。自分以外の人間のことで頭がいっぱいになって、感情を左右されて、うまくいっている時はよくても、もしも相手が冷めてしまったら、捨てられることに怯えて、他のことなんてどうでもよくなって。恋愛は、自分を侵略する。居心地の悪い異物だ。あたしは臆病かもしれない。それでも、毅然と立っていたい。

 予鈴がなって、皆が教室に戻り始めた。英語の先生は本鈴の前にやって来る。詩織は、「好きな人できたら教えてよ」と言って、自分の席に戻って行った。


 突き抜けるような青空に、あたしは目を細めた。すっと刷いたような薄い雲が、いい感じのアクセントになっている。これ以上ないくらいの体育祭日和だ。

 三年はさすがに控えめだけれど、一、二年は思いきり派手な看板を掲げて、各ブロックごとの応援合戦に興じていた。

 大綱引きに参加した後はもう出番もないので、あたしはクラスごとの観覧席に座って、プログラムが消化されていくのを待った。隣で詩織が、日焼け止めを塗ってくれば良かったとブツブツ言っている。

 クラブ対抗リレーが始まった。体育祭の花形競技のひとつだ。ひときわ大きな歓声が上がる。うちのクラスでも運動部の連中が、スターよろしくポーズを決めて、後輩たちの声援に応えていた。

「あれ、工藤くどう、走らないの?」

 椅子の上に立ち上がって声を張り上げているバスケ部の男子に、詩織が訊いた。

「おお、高校ラストイヤーは、騎馬戦にすべてをかけようと思ってさ。やっぱ、この身長を活かさないと」

 そう言って工藤はグラウンドの部員に向かって叫んだ。

「ようへーいっ! 決めたれよっ!」

 声を張り上げる工藤を見ながら、プログラムを開いた。あたしも男同士なら、こんなふうに目いっぱい応援できただろうか。

 クラブ対抗リレーのあとは、二百メートル走だった。準備地点に向かう列の中に北浦がいる。ピアノ三昧でやってきたのなら、運動は苦手かもしれないと考えた。去年の体育祭のことは覚えていない。クラスも違ったし、何より、なんとも思っていなかった。一年前の気持ちと、こんなに変わってしまっている自分の気持ちにとまどう。やっぱり、異物だ。あたしの心はあたしのものなのに、こんなに侵略されている。

 北浦がスタートラインに着いた。周りの空気がほんの少し薄くなる。ピストルの音が、耳の奥で打ち上げ花火みたいに響いた。すらりと伸びたしなやかな手脚が、白いトラックを駆け抜けていく。その姿にあたしは釘付けになった。北浦は、陸上部といっても通りそうなくらいにきれいなフォームで、ゴールテープを切った。

「すごーい、北浦!」

 詩織が拍手した。

 早くなった鼓動を静めるようにあたしは胸を押さえた。

「しっかし北浦、ピアノも運動もなんて、デキスギくんじゃん。あれ、深音、顔赤くない?」

「……ちょっと、のぼせたかな」

「北浦がかっこいいから、恋したとか」

 詩織がいたずらっぽく笑う。

「何言ってんの」

 慌てて否定して、さらに頬が熱くなる。

「冗談、冗談。そういえば、北浦ってさ、文化祭執行委員から、ピアノのソロ演奏頼まれたらしいよ。なんか、プログラムのアンケートでリクエストがけっこうあったみたいで」

「へえ……」

 グラウンドは障害物競争で盛り上がっている。観覧席から笑い声が飛ぶ。

「でも、断ったらしいね。執行委員の子が、嘆いてた。ほんと、残念だよねー。あたしも、ちょっと聴いてみたかったな」

 なんだか頭がぼぉっとして息苦しい。ドキドキしたせいだと思ったけれど、それだけじゃなさそうだ。もともと貧血気味のあたしは、日差しに弱い。詩織を心配させないように、あたしは冷や汗を拭って立ち上がった。

「ここ、暑すぎる。ちょっと日陰に入っとくね」

「大丈夫? また貧血?」

「平気平気」

 あたしは明るい声で笑ってみせた。保健室に行くと言えば、きっと一緒に来てくれる。最後の体育祭の邪魔はしたくない。

 校舎の中は人影がないぶん、ひんやりとしていた。グラウンドのざわめきが、実際の距離以上に遠く感じる。木漏れ日が揺れる渡り廊下を歩いていると、なんだか外国のリゾートホテルにいるような、ひどく場違いな錯覚を覚えた。文科系だと思っていた北浦の、思いがけない部分をみたせいかもしれない。思うと同時に苦笑する。思いがけないも何も、北浦のこと、ほとんど何にも知らないくせに。

 保健室の扉を開けると、先生はいなかった。だけど他の人間がいた。あたしは戸口で固まった。

「先生、いないよ」

 北浦が薬品ケースの扉に手をかけて言った。左頬に血が滲んでいる。言葉が出てこなくて、あたしは黙って頷いた。あんまりびっくりしたせいか、気分の悪さが治まってしまった。その代り、動悸が激しい。

「具合悪いんなら、先生呼んでこようか?」

 今度は首を横に振った。

「大丈夫、ちょっと休めばよくなるから」

 北浦は引出しを探って、絆創膏を取り出した。

「その傷、どうしたの?」

 遠慮がちに訊くと、傷口に指を当て、北浦は困ったように笑った。

「障害物の準備やってるやつとぶつかってさ。ハシゴがささくれてたんだよ。たいしたことないけど、目立つみたいだから」

「指でなくてよかったね」

 北浦があたしの顔をじっと見つめた。

「意外だな」

「なにが?」

「他人にあんまり興味なさそうに見えたから」

 あたしは黙ってしまった。あたしの方こそ、意外だったからだ。北浦があたしをそんなふうに見ていたことに対してじゃなく、例えどんな意味にしろ、あたしを見ていたということ自体に。けれど北浦は、あたしが怒ったと思ったようで、すまなさそうな表情で首筋をかいた。

「ごめん、よけいなこと言ったよな」

「べつに……いいけど」

「横にならなくていいのか?」

 あたしが頷くと、北浦は先生用の椅子を差し出してくれた。そして自分は丸い補助椅子に座り、絆創膏を袋から出した。傷に貼ろうとして鏡がいることに気づいたようで、北浦は立ち上がろうとした。

「貸して」

 とっさに手を出した自分が信じられなかった。北浦は一瞬面食らったような顔をしたけれど、すぐに絆創膏を渡した。手が震えないように気をつけながら、あたしは北浦のニキビひとつない頬に絆創膏を貼った。たぶん、十七年の人生で、一番緊張した。

「ありがとう」

「あたしも、意外だった」

 椅子に座り直してあたしは言った。なにが? 北浦が目で問いかける。

「ピアノにかじりついてる音楽オタクかと思ってたのに、スポーツもできるんだ」

「音楽オタクか」

 北浦が吹き出した。屈託のない笑顔を、今、あたしだけが見てる。先生、お願い。まだ帰ってこないで。

「まっ白な雪のごとく高潔で、正しく在れ」

「え?」

「父方のじいちゃんが、俺の名前つける時に込めた願い。実家が剣道場で、ずっと指南やってたんだけど、もういかにも無骨一本って感じでさ。なんせ、尊敬するのが乃木希助だから」

「へえ、ラスト・サムライだね」

 話の方向が見えなくて、あたしは歴史の教科書に載っていた乃木大将の顔を思い浮かべた。

「男子たるもの文武両道って、子供の頃からとにかく運動やらされてたから」

 なるほど、納得した。だけど、もしも北浦が運動神経に恵まれていなかったら、けっこうしんどい子供時代になっていたかもしれない。

 グラウンドから、途切れ途切れにアナウスンスが流れて来た。どうやら午前の部が終わるらしい。北浦は、左手首を見る仕草をして、途中で止めた。つい、いつものくせで、という感じだった。

「今日は、時計してないんだね」

 言った途端、しまったと思ったけれど遅かった。北浦は、かすかなとまどいのようなものを浮かべてあたしを見た。

「あ、知り合いが同じ時計してて……それで目についたから」

 自分でもウンザリするくらいしどろもどろな言い訳だった。北浦は特に不審がった様子もなく、そうか、と言った。

「運動する時は外してる。大事なやつだから」

 これくらいのことで、あたしが自分に気があると思うほど、北浦はうぬぼれやじゃないだろう。だけど、小さな石ころくらいの波紋はできたかもしれない。それとも、そんなふうに心配するあたしこそがうぬぼれてるんだろうか。

「あー、やっと昼メシだな」

 北浦はごく普通の調子でつぶやくと、立ち上がって伸びをした。そして、保健室を出て行きかけて足を止めた。

「気分はどう?」

「もう全然平気」

 笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。北浦は、にっこり笑って「そりゃよかった」と言った。


 体育祭のすぐあとには中間テストが待ち構えていた。推薦入試組にとっては、最後の内申点になる。

 あたしは結局、公募の推薦枠から外してもらった。受験するのなら、来年の一般入試になるけれど、今のママに進路の相談なんかできるわけもなく、まだ就職か進学かも未定のまま宙ぶらりん状態で、担任と進路指導の先生を悩ませていた。

「成績も下がってるし、とにかく、早く進路を絞って、進学なら志望校対策を始めないと。いいか、今日にでも、親御さんとちゃんと相談するんだぞ」

 テスト後の面談で、担任は噛んで含めるようにそう言うと、進路調査用紙を押し付けた。席に戻って成績表を見直し、あたしはため息をついた。さりげなく、右斜め前方に目をやる。ひとつ隔てた席に北浦が座っている。左手首にいつものGP。体育祭以来、北浦とは口を聞いていない。いつもの日常といえば、それまでだけれど。

 北浦は面談でどんなことを言われているんだろう。いろいろな手続きや海外生活の諸注意についてとか? 斜めから見る北浦の横顔は、鼻筋から顎のラインがとてもきれいだった。きっと、ドイツの女の子達にもてるんだろうなと思う。来年の今頃、いいや、五ヶ月後には、北浦はこの国にいない。日付変更線の向こうだ。北浦が、袖口を引いて腕時計を見た。あたしは携帯の時計を確認する。十一時十八分。数秒の誤差はあっても、北浦の時計も同じ時間だろう。だけど、もうすぐあたしと北浦の時計は、同じ瞬間に違う時を刻む。朝や夜が別々にやってきて、過去と未来の境目がずれる。

 足場がぐらつくような、こころもとなさを覚えた。すぐそこにいるはずの北浦の背中が、スコープの向こうみたいに遠く感じる。あたしは白紙の進路調査用紙をぼんやりと見つめた。

 なりたい未来なんて、ひとつも思い浮かばない。

 家に帰ると、ママがリビングのソファに座っていた。青白い顔に疲れが滲んでいる。ふっくらと柔らかかった輪郭は痩せて尖り、いつのまにか、ひどく消耗してすり減ってしまったような印象だ。あたしはひとつ息をついて、ママの向かいに座った。鞄から進路調査用紙を出して、テーブルに置く。

「あのね、ママ」

 その時、インターホンが鳴った。

「あの人よ」

 抑揚のない声でママが言う。

「さっき、電話があったの」

 パパはあたしを見て、気まずそうな表情をした。それでも、意を決したように、書類袋から出した薄い紙を、あたしの進路調査用紙の上に広げた。ドラマで良く見る緑色の枠と文字。

「サインしてくれないか」

 そう言って、パパは頭を下げた。離婚届の「夫」の欄には、パパの署名と印鑑が押されてある。

「いやです」

 ママが空を見据えて言った。声が、電波の悪い場所での携帯みたいにひび割れている。

「頼む」

 パパがもう一度頭を下げる。ママの隣であたしは、ひどく客観的な気分だった。あたしを含めた三人の、笑えるくらい出来の悪い寸劇を、もうひとりのあたしが観客として観ている。

「いやよ、絶対に離婚しません」

 ママが肩を震わせて唇を噛んだ。陳腐なセリフだ。

「本当に申し訳ないと思ってる」

 どうしようもない大根役者のパパ。離婚届の下に追いやられて、気づいてももらえないあたしの進路だけが、インチキ芝居の中で、唯一のリアルだった。

 ママは離婚届を両手でクシャクシャにし、パパに向かって投げつけた。パパは膝の上で両手を組み、俯いたまま動かなかった。やがて顔を上げたパパは、ソファからゆっくりと立ち上がり、カーペットに膝を折った。そして、両手をついて頭を下げた。隣でママが息を呑むのがわかる。あたしは絶望的な気分で目を閉じる。こめかみが痛んで目の奥がチカチカした。

「情けない……プライドのかけらもないの?」

 侮蔑を込めてママが言い放つ。

「それはママも同じでしょ! 」

 このことであたしが声を上げたのは初めてだった。二人の視線があたしに集まる。

「若い女にハマって、そのために土下座する父親と、そんな男にミジメったらしくしがみつく母親……あんたたち見てると吐き気がする」

 ママが怯えたような目であたしを見ている。もう止めろと、頭の一部で信号が出ているのに、あたしの感情は暴走してしまう。

「最悪な親。そんな連中の血が流れてるあたしも、サイテー」

(どっかで自分守りたいんだったら、もうこんなことなしにしなよ)

 椎名卓也の声が、耳の奥で蘇った。笑わせないでよ。

「こんな自分のこと、大事に思ったり、自信持てたりできるわけないっ」

 最後は、自分でもわけがわからず、まるでただっこみたいに声を張り上げていた。パパの視線を感じるけれど、目を合わせなかった。ママの顔は、これ以上見ていられなかった。たまらなくなって、あたしはそのまま家を飛び出した。

 駅まで走って、改札の前で立ち止まる。荒い呼吸を繰り返しながら、路線図を見つめた。行くところなんて、どこにもない。ぼんやりと突っ立ったままのあたしの横を、行き先を持つ人達が通り過ぎて行った。あたしは財布から小銭を出して、ここから五つ離れた駅の切符を買った。北浦が住んでいる街だ。何かの折りに耳に挟んだことがあった。

 北浦に会いたかった。ただ会いたくてたまらなかった。

 帰宅のラッシュ時にさしかかって、車内はかなり混んでいた。あたしは扉の前に立ち、外を飛び去っていく街並みを眺めた。いつのまにか、秋がすっかり深まりを見せている。街路樹がとりどりに衣替えを済ませ、夜は日一日と足音を早めていた。群青を帯びたガラスの向こうに、ママの顔が浮かんだ。夫に裏切られ、一人娘からひどい言葉をぶつけられたママの顔。あたしは、もしかしたら、パパ以上にママを傷つけたのかもしれない。

 特急電車が止まる大きな駅は、大勢の人で賑わっていた。スーツや制服の間を抜けて、タクシー乗り場とバス停があるロータリー側の改札を出た。勢いのまま、こんなところまで来たけれど、闇雲に歩き回っても、北浦に会えるわけじゃない。冷静になれば、自分の短絡さにため息が出てきた。

 どうしていいかわからずに、あたしはとりあえず、ロータリーを挟んだビルの二階にあるドーナツ店に入った。ドーナツとカフェオレをトレイに載せて、窓際の席に座った。会える確率は少ないし、会えたからと言って、何ができるわけじゃない。意味のないことを百も承知で、あたしは帰るために席を立つことができなかった。意味のあることだけを選んで生きていけたら、人生はもっと気楽になるんだろうか。 壁に掛かった時計を見た。八時二十分。北浦のGPの針も、同じ数字を差しているだろう。今は、まだ。

 窓の外に顔を戻して、あたしは思わず立ち上がった。改札口から北浦が出て来たからだ。トレイを返却口に返し、慌てて外に出た。北浦は駅に連結したショッピングセンターに入って行った。制服で左肩にカーキ色のリュックをかけている。ピアノの帰りだろうか。エスカレーターに乗った彼とできるだけ距離をとって、あたしは後をつけた。北浦は三階で降りると、目の前の大きな書店に入った。音楽関係のコーナーに行き、クラシックの棚の前で立ち止まる。あたしは少し離れた場所に据えられた料理やファッション誌のスペースから、彼の横顔を盗み見た。北浦は音楽を聴いているらしく、イヤホンをしていた。棚から薄くて大きな本を取り、ぱらぱらと捲る。表紙に「B」の文字が見えた。ベートーベンの楽譜だろうか。同じ種類の本を何冊か見て棚に戻すと、北浦はこっちに向かって来た。あたしは隣の人の陰に隠れるようにして、手にしたカモフラージュ用の「簡単漬物ライフ」に顔を埋めた。北浦は文庫本の新刊コーナーに行き、平積みされている一冊を手に取った。それから、レジに並んだ。その隙にあたしは彼が選んだ本を確認しに行った。外国のミステリー小説だった。

 ショッピングセンターを出て、北浦は、ドーナツ店のあるビルに沿った通りを、住宅街に向かって歩いていた。約三メートルの距離を取り、あたしはそっと後ろをついて行った。

 途中、北浦はコンビニに寄った。あたしは表の街路樹に身を寄せて、ガラス越しに中を窺った。北浦はボテトチップスを二袋と、ペプシのニリットルを持って、レジに行った。並ぶ前にイヤホンを外すのを見て、なんだかホッとした。いかにも北浦らしい。

 ミステリー小説。ボテトチップス。ペプシ。ほんの少しだけ、北浦の好きなものがわかった。店を出て、北浦はイヤホンをつけた。どんな音楽が好きなんだろう。それも知りたい。歩きながら、北浦が腕時計を覗く。大きな手。ピアノの鍵盤がよく似合う長い指。細身のシルエット。広い肩。少しだけそっけない話し方。アビシニアンみたいな目。まっすぐ前を見て歩く背中。あたしがいることに、気づきもしない。もうすぐ、遠くに行ってしまうのに。

 こっちを向いてほしいと思った。笑った顔がみたい。見つめられたい。そばにいてほしい。

 大好きだ。

 胸がつまって、涙があふれた。鼻の奥が、つんと痛い。寂しさも悲しみも、きっとある。だけど、もっとよくわからない、せっぱつまった想いが胸の奥から押し寄せて、心が行き場を失くしてしまう。苦しくて、痛い。伝えられない言葉がいっぱい積もって、あたしの目からこぼれ落ちる。両手で拭っても追いつかなくて、北浦の後ろ姿がぼやけた。

 夜で良かった。あたしは小さく鼻をすすりながら、離れていく北浦の背中を見つめた。

 四つ角になった左奥の家の前で、北浦は止まった。門の向こう、開いた玄関の扉から、女の人の声が聞こえる。お母さんだろう。扉が閉まってから、あたしは引き寄せられるように家に近づいて行った。通りかかったふうを装いながら、裏手に回る。垣根越し、庭に面した大きな窓が見えた。暖かそうな灯りが灯っている。北浦は今、夕食の席についているんだろうか。きっと、きれいに磨かれたキッチンで、お母さんがおいしいご飯を作ってくれているんだろう。

 垣根の金木犀が風に揺れる。涙が乾いた後の頬に、オレンジの花びらが触れて行った。柔らかい香りをそっと吸い込んで、あたしは来た道を戻り始めた。

 あたしの居場所は、どこにもない。


 ホームルームが終わって、担任が教室を出て行くと、詩織はダッシュで出入り口に向かった。

「席取っとくねっ」

 駅前に開店したパンケーキ専門店がやたらおいしいらしく、今、女子の間で大人気だった。学校帰りに行こうと思っても、すぐに満席になってしまう。詩織が店に走って席を確保すると言うので、あたしは彼女の鞄を持って追いかけることになった。詩織は大の甘党なのだ。

 鞄に教科書を詰め込み、あたしは急いで立ち上がった。その拍子に、何か落とした。振り向くと、北浦が拾ってくれるところだった。彼が持っている本を見て、思わず、あ、と声が出た。ブックカバーが外れている。

「ありがと」

 差し出された本を受け取って、鞄に放り込んだ。じわりと汗が滲む。

「猫、好きなんだな」

 北浦が言った。猫? とっさに意味がわからなかったけれど、布製のブックカバーにつけられた、猫のモチーフのことだと気づいた。凝った造りで、ブックカバーにしては高かったけれど、すらりとしたシルエットがアビシニアンみたいで、とても気に入っていた。

「うん」

 北浦の唇に浮かんだ意味ありげな微笑が気になったけれど、彼の視点が本じゃなくブックカバーの猫に行ったことに安心した途端、

「その本」

 北浦があたしの目を見て言った。

「俺も今、読んでるんだ」

「え、そうなんだ」

 もちろん、知っている。あの日、北浦が買った本だ。だから、同じのを買った。悪さがばれた子供みたいに、心拍数が上がった。

「ミステリー、好き?」

「うん、まぁね」

 あたしは歯切れの悪い返事をした。本当はあまり興味のないジャンルだ。ちゃんと読むのは初めてだった。だけど、この本は意外とおもしろくて、結構熱心に読んでいた。ちょっと主人公が屈折しているけれど。

「主人公、カッコイいいよな」

 北浦が言った。

「……あたしはキライ」

 北浦が、へぇ、という顔をした。

「なんで? いいヤツだと思うけど」

 あたしは北浦の目をまっすぐ見た。なぜだか、挑むような気持ちになっていた。

「カードで勝負する時、ライバルを本気にさせるために、心の中をつついたりするところが、読んでて嫌な気がしたから。どんなにいいヤツでも、他人の心をそんなふうに扱うような人間はキライ。あたしは、自分の心をそんなふうにいじられたくないって思う。それが好きな相手でも」

 言ってしまってから、後悔した。顔が赤くなりそうで、あたしは目をそらしてうつむいた。

「おもしろいな」

 顔を上げると、北浦が笑っていた。

「その発想、おもしろいと思う」

「そうかな」

 あの時、後ろをついていきながら、こっちを向いてほしいと、あんなに思っていたのに、本当に笑顔を向けられると、どうしていいかわからない。あたしは唇を噛んだ。

「その作者の本、何冊か持ってるから、良かったら貸そうか」

 とっさに返事ができなかった。うれしさが込み上げてきた。だけど、あたしは首を振った。

「これから進路のことで慌ただしいし、三月までに返せないかもしれないから」

 一瞬、北浦はハッとするような表情をした。それから、真顔になり、すっと目を伏せた。

「そうか、そうだよな」

 そして、じゃな、と言って、教室を出て行った。

 パンケーキを充分に堪能して、そのまま駅で詩織と別れた。

 いつものことだけれど、家に帰る時間になると、心と足取りが重くなる。家に近づくにつれて、じわじわと負荷がかかって行く。

 あれから、パパは家に帰って来ないし、あたしはママとひと言も口をきいていない。心のどこかで、ママに謝りたいと思っている自分を意識していたけれど、同じくらいの比重で、プライドを忘れたみじめな姿をゆるせないと嫌悪しているのも、まぎれもない本音だった。あんなママを見ていると、誰かに好意を寄せることが、たまらなく怖くなってくる。そのうえ、一方通行の想いなんて、この上なく滑稽だ。

 そう思うそばから、北浦のことを考えている自分がいる。あんな言い方せずに、素直に「読みたい」と言えば良かったんだろうか。

 嫌なやつと思われたかもしれない。

 吊革を持つあたしの前に、同い年くらいのカップルが座っていた。近くの私立高校の制服だ。彼女が彼氏の肩に頭を寄せて眠っている。彼氏は鞄からウォークマンを取り出し、ぎこちない動作でイヤホンをつけた。彼女を起こさないように気遣っているのがわかる。無防備な寝顔で寄り添う彼女。あたしは窓ガラスに映る自分に訊いてみる。さっき、北浦の前で、あたしはどんな表情をしてた?

 電車を降りて家に向かう途中、ママを見た。知らない女の人と、少し距離をとって歩いている。強張ったママの顔を見て、その人がパパの相手だと直感した。体に冷たいものが走る。家まで来たんだろうか。パパと離婚してほしいって言いに? 二人は黙ったまま、駅の方に向かった。あたしはその後をつけて、来た道を戻った。最近、尾行ばかりしている気がする。

 ママ達は、駅前の大きなカフェレストランに入った。少し遅れてあたしも入る。

「いらっしゃいませ」。声が大きいウェイターを睨みたくなった。あたしは髪で顔を隠すようにして、うつむき加減に歩いた。ママ達が座った席と、大きな観葉植物とついたてを挟んだ隣りに腰を降ろした。ここなら、いざという時、すぐにママを止められる。まさか刃物を振り回すなんて思ってもいないけれど、あたしは、ママが相手の前で感情的になったり、取り乱したりしないか心配だった。

 水を運んできたウェイターに小声でコーヒーを注文し、あたしはパキラの葉越しに聞き耳を立てた。同時にパパの相手を観察する。三十くらいだろうか。美人と言えないこともない。でも、ママの方がもっと美人だ。思いつめたようにうつむく顔を見て、なんてバカなんだろう、この人、と思った。いい大人のくせして、パパみたいな中年のおじさんにひっかかって、もうそんなに残されていない若さをムダ使いしてる。こんな人のために、ママがこれ以上貶められるのは、耐えがたかった。あたしは水の入ったグラスを強く握った。今すぐこの水をひっかけてやりたい。そしてママの手を引っ張って、ここを出ていけたら。

 立ち上がりかけた時、コーヒーが運ばれてきた。ママ達は飲み物には手をつけず、向かい合っていたけれど、相手が口を開こうとしないので、ママが口火を切った。

「お話って何かしら」

 相手は少し肩先を震わせ、それから意を決したように顔を上げた。

「ご主人と……別れて頂けませんか」

 あたしは聞こえないようにため息をついた。みんな、うんざりするくらい陳腐なセリフを連発する。もっとも、こういう展開自体が、安物の二時間ドラマみたいなものだけど。

 それでも、その後が、予想と違った。

「あなたには関係ないわ」

 ママが相手の目を見据えて、きっぱりと言い放った。少しのブレもない、よく通る声だった。

「関係……ない?」

 相手は、言葉の意味が理解できないみたいに僅かに首を傾け、目を細めた。

「これは、私と主人の間の問題なの。そこにあなたは存在してない。主人が他に心を移して、そして私がどうするか、それ以上でも以下でもない」

 相手は、何も言わなかった。言えなかったという方が正しいかもしれない。気おされていたんだと思う。だって、あたしもそうだったから。ぴんと背筋を伸ばして、よどみない口調で話すママの堂々とした姿は、気品すら感じさせた。冷めてしまった愛情にすがりつこうとするみじめさはみじんもなく、誇り高い女の人の姿だった。

「これが恋人同士なら、三角関係ということになるけど、私たちは夫婦で、子供もいて、負うべき責任もちゃんとある。今、私はそのことから逃げているかもしれないけど、それもあなたには関係ないこと。私に何か言う権利があるのは、ひとりだけ」

 ママは一人分のコーヒー代をテーブルに置いて立ち上がった。相手は、ただ黙ってママを見上げていた。

「今度、家に来たら許さないから。あそこは今、私と娘の家なのよ」

 ママが店を出て行っても、相手の人は、毒気を抜かれたように座り込んでいた。冷めてしまったコーヒーを味わうように飲んでから、あたしは外に出た。ママの姿はもうなかった。湿り気を含んだ十一月の冷たい風が、五月の薫風みたいに心地よく感じられて、あたしは深呼吸した。吐き出す息と一緒に笑いがこぼれる。あたしは両手で胸を押さえて、ケラケラ笑った。道行く人が、奇異な視線を投げて通り過ぎる。見られたってかまわない。久しぶりに、思いきり笑ってる気がした。

 植木の陰に隠れたあたしの前を通り過ぎるママの横顔は、きれいだった。

 あれは、お芝居だったかもしれない。精一杯の見栄だったのかも。今頃、家でまた未練たっぷりのママに戻っているかもしれない。でもママは、人生の中で大事な芝居を、ちゃんと演じた。かっこいい女優だった。たとえ嘘でも、たぶん真実以上の、とても上等な嘘をついた。たったひとりの観客として、あたしは胸の中で盛大な拍手を送った。いい気分だった。

 やるじゃん、ママ。


 年が明けた一月半ば、初雪が降った。例年に比べて、遅いらしい。大きさも小粒で、一時間もしないうちにやんでしまった。それでも天気は回復せず、グレーの大きな雨雲が、校舎の上に、でんと居座っていた。

 三学期に入ってから、三年はほとんど自由登校みたいな空気になっていたけれど、あたしは結局一般入試組に入ったし、家にいるのも気づまりで、毎日登校していた。北浦も、進路はとうに決まっているにもかかわらず、学校を休むことはなかった。

 放課後、職員室の前を通りかかった時、北浦に呼び止められた。段ボール箱をふたつ抱えた北浦は、一緒にいた音楽の先生に言った。

「吉野に手伝ってもらうから大丈夫。それ、渡して」

 そしてあたしに顔を向けた。

「悪いけど、音楽室まで」

「いいけど……」

 先生は「ごめんね。助かるわ」と、申し訳なさそうに、段ボールをよこした。

大きさの割に、軽かった。北浦の方が大変そうだ。階段を上がりながら、訊いた。

「大丈夫? これ軽いから、そっちのひとつと交換しようか」

「余裕。でもサンキュー」

 あたしが一段下にいるから、北浦は横顔で笑ってみせた。夏の朝みたいな笑顔だ。

 ここが階段じゃなかったら、ゆっくり肩を並べて歩けたのに。でも、音楽室が一番上でよかった。

 音楽室の奥にある準備室に段ボールを置くと、あたしは一息ついた。軽いと言っても、四階まで持ってくるのは、両腕にけっこうくる。北浦は平気そうだった。

「さすがだね」

「ピアノも、腕の筋トレみたいなもんだからな」

 北浦は音楽室に視線を向けた。

「今日は、ブラバン早く終わったみたいだな」

 ふたりだけだと思うと、落ち着かない気分になって、あたしは、床の段ボールを見た。

「何が入ってるの?」

「音楽史関係の本とか、楽譜、CD……」

「へぇ、楽譜」

 あたしは段ボールを開いて、楽譜らしい本を取り出した。「ベートーベン ソナタ集」と書いてある。パラパラ捲って、所狭しとひしめきあうおたまじゃくしの羅列に、ため息が出た。北浦が横から覗き込んでくる。緊張を悟られないように、あたしは明るい口調で訊いてみた。

「こんなの、弾けるの?」

 北浦は苦笑した。

「そうか、あたりまえだよね。留学するんだもんね」

「その本くらいなら大丈夫だけど。弾けない曲もあるよ」

 北浦は、掃除用のロッカーから眼鏡ふきに似た布とプラスチックの容器を出して、音楽室に行った。オニキスのような光沢を纏ったグランドピアノが、黒板の横で場違いな存在感を放っていた。スタインウェイ。世界に名だたる逸品だそうだ。校長と楽器メーカーの社長が知り合いで、特別貸与されているらしい。値段は、高級外車並みだと聞いた。そのうえ借り物だから、扱いもそれ相応で、いつもブラスバンド部の活動が終わったあと、事務員が音楽室の外から特別な鍵をかけに来ることになっている。

 北浦がプラスチック容器のふたを開け、中の液をピアノの上にゆっくりとかけた。それから布で丁寧に磨き始める。

「ピアノって、そうやって乾拭きするんだね」

 北浦は手を動かしながら頷いた。

「ピアノは湿気を嫌うから。濡れた布はNGなんだ」

 荷物は運び終わったし、さっさと出て行ったほうがいいんじゃないかと思いながら、あたしは、とても大切なものを扱うように動く北浦の長い指と真剣な横顔を見つめていた。なんとなく、あたしがここにいることを、北浦は嫌がっていないように感じられた。

「掃除当番でもないのに、感心だね」

 声をかけると、北浦は手を止めて窓枠に布を置き、そっとピアノの蓋を開けた。

「スタインウェイ、知ってる?」

 あたしは頷いた。

「一年の時、選択で音楽取ってたから」

 そう言えば、北浦はいなかった気がする。考えが顔に出たのか、「俺は体育だったから」と北浦が言った。

「ウチにも一応、グランドピアノは置いてもらってるけど、スタインウェイなんて、一般家庭じゃまず無理だからな」

 そして北浦は右手の人差し指で、右端の鍵盤を叩いた。高く透き通った音の波紋が空気を震わせる。流れ星が去った後のように、静かな余韻が尾をひいた。

「音が全然違う。特に高音が」

 わかる気がした。

「時々、弾かせてもらってる。大きな声じゃ言えないけどな」

 そう言って、北浦はいたずらっぽく笑った。それから、三つの指で和音を響かせた。重なりあった音が深く重厚だ。なのに透明さは消えない。

「深音」

 いきなり名前を呼ばれて、心臓が止まるかと思った。北浦はピアノの蓋を閉め、あたしを見た。

「深い音って書くんだろ。ピアノみたいな名前だと思ってさ。両親が音楽関係とか?」

 まだ大きく波打っている鼓動をなんとかなだめて、あたしは窓際を向いた。

「全然。名前の由来って、そういえば聞いたことなかった」

「今日、聞いてみれば?」

 あたしは首を振った。

「うちの両親、今、それどころじゃないの。あたしの名前の由来なんて、忘れてるんじゃないかな」

 父親の浮気。離婚に応じない母親。一番仲がいい詩織にも一切言わずにいた家のことを、あたしは北浦に話した。なぜだろう。聞いてほしかったから。それしかない。一番本音をいえない相手と、誰よりも、本当の部分でつながりたいと願っている。

 母親のことを傷つけてしまい、そのままどうしても謝ることができないのだとあたしは言った。

「顔を見たら、なんか、いろんな感情がミックスになって、口を開くのが怖くなる。また、ひどいこと言っちゃうんじゃないかって」

 北浦は黙ったまま、ピアノの前の席に座り、隣にどうぞ、と目で促した。あたしは素直に従った。一メートル弱の距離をおいて向かい合う格好になる。外はすっかり日が落ちていた。廊下側に面したグラウンドからは時々サッカー部や野球部の掛け声がかすかに聞こえるだけで、校舎の中はしんとしている。こんな時間に、四階の端の音楽室を通りかかる人間はそういないだろう。

 北浦は手首からGPを外し、机の上に置いた。初めて近くでゆっくり見る。椎名卓也の物とやっぱり良く似ている。こっちの文字盤はシルバーだけど。

「これ、じいちゃんの形見なんだ」と北浦は言った。

「話しただろ。俺の名付け親」

 覚えてる。乃木大将のファンで、筋金入りの武骨者。北浦の話したことは、どんな小さなことでも、忘れていない。

「俺、三つ下の妹がいるんだけど、生まれた時けっこう病弱で、大変だったんだ。今はすっかり元気だけどね。でも当時は両親がかかりきりになってたから、俺は近くのじいちゃん家にあずけられて、ほとんどそこで大きくなったみたいなもんでさ。まあ、すぐ近所で両親もしょっちゅう来てたから、寂しいとかはほとんどなかったけど。俺は初めての孫で男だったから、とにかく期待が大きかったみたいで、じいちゃん、俺に対して気合い入りまくってたんだ」

 手の甲で頬杖をつき、北浦は少しぼんやりとした表情になった。昔を思い出しているのかもしれない。

「剣道はもちろん、空手に水泳、勉強や礼儀作法についても厳しかった。見かねた親父がよく文句言ってたよ。武家の跡取りでも育てるつもりかって。けど、俺を預けてるっていう弱みがあるから、あんまり強く出れなかったんだろうな」

 言葉を切って、北浦は時計を見つめた。

「おじいさんのこと、好きだったんだね」

 北浦は驚いたように顔を上げた。

「なんとなく……前に保健室でちょっと話してくれた時、おじいさんのこと大事に思ってるように感じたから。その時計も、おじいさんに貰ったのかなって思ってた」

 あたしは少し口ごもった。

「形見とは……思わなかったけど」

「うん、好きだった」

 北浦は、噛みしめるように言った。

「頑固で融通きかないとこも、バカ正直にまっすぐなとこも、たまに『子供か』ってつっこみたくなるところも、なんだかんだ言って、ばあちゃんに優しいところも。イライラして、めちゃくちゃ腹立ったりすることもあったけど、やっぱり好きだった」

「わかる気がする」

 あたしも同じだと思った。ママのことを好きかと訊かれれば、やっぱり頷いてしまう。

「だから、申し訳ないと思った」

 北浦は両手の指を組んで目を伏せた。

「ピアノに夢中になった時。剣道よりも何よりも、ピアノを弾いてたいと思った時。どんなにガッカリさせるか、わかってたから」

「でも、それは」

 思わず身を乗り出してしまった。北浦が、わかってるというように小さく笑う。

「じいちゃんも、ちゃんとそう思ってくれてたと思う。ただ、感情をうまく表せない人だから。それから俺も、今よりもっともっとガキだったから。その時は、そりゃあぶつかった」

 途切れた言葉の合間に、北浦のほんの微かな吐息が流れた。

「それからずっと、じいちゃんは、俺がピアノに入れ込むことに、いい顔しなかった。昔の人間だし、今で言うとモロ体育会系だから。俺が家に戻ってからも、進路のことでもめたよ。両親は俺に音大附属を進めたけど、じいちゃんは、男が音大附属なんかに行っても潰しがきかない。高校は普通科に行けってね。俺はどこでもピアノが弾ければよかったから、別に音大附属には執着がなかった。大学からでも充分だと思ったからな。それでじいちゃんが安心するんならって、普通科に来た。でも、その後も結局冷戦状態のままで。俺も意地になってたから、剣道も辞めて、ピアノに没頭した。じいちゃんにも行かなかったし、呼ばれることもなかった」

 北浦が少し俯いた。伏せた目元にまつ毛の影が揺れる。とても綺麗なシルエットだ。

「一年の時、じいちゃんは死んだ。急な心臓の発作で倒れたんだ。すぐ病院に運ばれて、一時は意識も回復したんだけど、結局そのまま。俺はその日、ピアノコンクールの本選に行ってて、知らされたのは帰ってからだった。じいちゃんが、俺には知らせるなって言ってたんだ。それから、じいちゃんがずっと大事にしてた時計を渡された。俺にって、病院でばあちゃんに頼んだらしい。『雪正、ピアノ頑張れ』、それが最期の言葉だったって聞いた」

 銀のGPがあたしと北浦の間で時を刻んでいた。長い時間、大切にされてきたもの。大切な人に受け継がれたもの。あたしは窓の外を見上げた。四角く切り取られた空の隅、ステンレス・スティールのかけらが、厚い雲の間にひっかかっている。新月が近いんだろう。

 恋愛だけじゃなく、誰かを好きになることは、だから苦しい。その人の嫌なところ、憎いと思うところも、全部ひっくるめて好きだと思うから。もしも傷つけてしまったら、自分も同じだけ、もしかしたらそれ以上に傷つく。

「伝えたいと思うことは、ちゃんと言った方がいい。それができる間に」

 手首にGPを通して、北浦が言った。

「吉野は、まだ間に合うだろ」

 優しい笑顔だった。こんな風に笑われたら、素直になること以外、世の中に大事なことなんかないように思えてしまう。

「北浦」

 呼びかける声が、少しかしこまってしまった。大好きな人の名前は、口にするだけで幸せな痛みが走る。

 そして、大好きな人に呼ばれた自分の名前はあんなに素敵に響くってこと、今日まで知らなかった。

「ピアノの曲で、一番好きな曲を教えて」

「好きな曲? なんで?」

「言いたいことをうまく言えそうにない時、さっきの北浦の言葉と一緒に、背中を押してもらうBGMにしようかと思って。弾みがつくでしょ」

 本当は、何か今日の想い出になるものが欲しかった。北浦の好きなものを、ひとつでも多く知りたかった。北浦は考える素振りをしたけれど、すぐに口を開いた。

「月光」

「月光? 誰の曲?」

「ベートーベンのピアノソナタ。やっぱりこれだな。そうだ。CDがあったんじゃないか」

 北浦は準備室に入り、CDを探し出した。すぐに見つかったけれど、傷があるようだった。

「ちゃんと聴けるかな」

 CDラジカセにセットして、北浦はヘッドフォンをつけた。待ってる間、あたしは何気なく音楽室の戸口から外を覗いた。事務員が廊下の向こうからやって来る。外からカギをかけに来たのだ。魔がさすって、こういうことを言うんだろうか。その表現が適切かどうかわからないけれど、考えるより早く体が動いた。あたしは急いで準備室に戻ると、ヘッドフォンをつけて背中を向けている北浦に気づかれないように、そっとドアを閉めた。息を殺して、扉の向こうに神経を集中する。すぐに事務員の声が聞こえた。「また電気消し忘れとるなぁ」。鍵をかける音が扉越しに伝わった。北浦はまったく気づかず、音楽に聞き入っている。事務員が去った気配を確認して、あたしは呼吸を整えた。

 信じられないくらい大胆なことをした。後先考えないにもほどがある。自分でもあきれたけれど、後悔はなかった。きっと、もうこんな時間は二度と訪れない。誰に何と言われようと、今だけは北浦と一緒にいたかった。あたしは北浦に見えないように、ポケットから携帯を出し、すばやく電源を切った。

「ダメだな。他の曲は聞けるのに、よりによって、『月光』のとこで音が割れてる」

 ヘッドフォンを外して北浦が振り返った。

「そうなんだ。残念」

 あたしは声が裏返らないように気をつけて言った。北浦は立ち上がって伸びをすると、「寒いな」と言って腕をさすった。それから、準備室の扉を開けて、電気が消えていることに驚いた声を出した。

「あれ、なんで?」

 北浦は戸口の近くにある電気のスィッチを入れた。部屋が明るくなる。そして、何か思い当たったような顔で、入り口の戸を引いた。もちろん、開くはずがない。

「閉まってる」

「ウソでしょ」

 あたしは白々しい声を上げた。ごめん、北浦。

 北浦は後ろの戸口に駆け寄って、そこの鍵も確かめると、ため息をついた。

「俺らが準備室にいる間に、誰もいないと思って閉めたんだろうな。まいった」

 立ち止まったまま、何かを思案するように少しの間うつむいていた北浦は、ゆっくりと顔を上げてあたしを見た。

「携帯、持ってる?」

 あたしは首を振った。上着のポケットの中の携帯が、ずっしりと重くなった気がした。

「俺も、持ってない」

 がっかりした顔をしながら、あたしは神様に感謝した。北浦は髪をかきながら、廊下に目を向けた。

「何時かわからないけど、夜に事務員の見回りがあるはずなんだ。それまで待つしかないな。運が良けりゃ、誰か通りかかるかもしれないし」

「しかたないね」

 渋々といった調子で、あたしは言った。北浦は戻ってきて、ピアノの椅子に腰かけた。

「ね、ピアノ弾いてくれない?」

 思わず言ってしまった。北浦が面食らった顔をする。

「今?」

「そう。『月光』がCDで聞けないんなら、弾いてほしい。北浦のピアノ聞いてみたい」

 けっこうなリクエストがあったのに、北浦は文化祭で弾かなかった。それを思い出して、やっぱりダメかと思った。だけど、北浦は時計を外して上着のポケットに入れると、椅子の高さを調節した。そして、壊れ物を扱うように、そっとスタインウェイの蓋を開けた。

 北浦の指先から生まれる音に誘われて、夜が染み入るように部屋の中に流れ込んできた。長い指が鍵盤の上をしなやかに滑り、深くて重みのある低音の鎖が、あたしの五感を音だけの世界に繋ぐ。そっと撫でているようにしか見えないのに、北浦の両手は、あたしの胸に信じられないくらい美しい音を刻んでいく。曲の解釈なんてわからない。ただ、恐いくらいに冴え渡った月の光のように、静かで悲しくて、激しい音の一筋一筋が、この部屋に満たされた夜の中で、あたしに降り注ぐだけだった。

 曲が終わって、北浦が鍵盤から指を放した時、まるで、ひとつの魂がふたつに分けられてしまったような切なさが、あたしの中をすり抜けていった。汗で濡れた前髪をかきあげ、北浦があたしを見た。呆けたように見つめ返したあたしは、我に帰って手を叩いた。思いっきり叩いた。怪我してもいいと思えるくらい、力一杯、長い拍手を送った。どれだけ喝采を送っても、どんなに言葉を尽くしても、この気持ちを正解に伝えることなんてできない。

 北浦は、少し照れくさそうに、でも、にっこりと笑った。何度でも恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。

「よかった……すごく。何て言ったらいいか……」

 言葉と胸が詰まった。

「ありがとう」

 あたしの言葉に、北浦はまた笑った。

「俺のセリフだろ」

「でも、ありがとう。ホントに……ありがとう」

 ふいに涙がこぼれた。あたしは慌てて、顔をこすった。

「コーフンして、汗かいた。暑いね、何か、さっきまで寒かったのに。暑い。北浦も、汗かいて……」

 しどろもどろになりながら、あたしは上着を脱いだ。その拍子に、ポケットの携帯が落ちた。

 絶望的な音がした。

 床に転がった携帯を、あたし達は、黙って見つめた。永遠みたいな沈黙だった。

「携帯、持ってたのか」

 北浦が言った。ごまかしようがない。あたしはきつく目を閉じた。

「ごめん、ウソ、ついたの」

 あたしは頭を下げた。北浦は返事をしなかった。黙ったまま、北浦は上着のポケットに手を入れた。そして、手にした自分の携帯をあたしに見せた。一瞬、意味がわからなかった。あたしは北浦の手の中の携帯をじっと見て、顔を上げた。

「俺も、ウソついた」

 また、永遠のような、だけど、さっきとは全然違う沈黙。

「吉野」

 北浦が、一歩、前に出た。同時に、入り口で鍵を外す音がした。勢いよく扉が開く。

「あれっ?」

 同じクラスの工藤が、戸口で目を丸くした。

「工藤、どうしたんだ」

 北浦が落ち着いた声で言った。

「俺が訊きたいよ」

 工藤は、北浦からあたしに視線を向けた。

「先生に頼まれて、荷物運んできたんだけど、準備室でCD聞いてたら、うっかり鍵閉められたんだよ」

「マジで? どんくせー」

「工藤は?」

「バスケ部に顔出してたんだよ。帰ろうとしたら、ロッカーの鍵なくてさ。今日、ここの掃除当番だったから、見にきて……お、あったあった」

 工藤は、黒板のチョーク置き場にあったロッカーの鍵を取った。それから、もう一度、あたし達に目を向けた。

「もしかして、オジャマだった? 俺、もう行くから」

 そう言って工藤は北浦に音楽室の鍵を渡そうとした。あたしが何か言う前に北浦が口を開いた。

「俺らも出るよ。助かった」

 北浦は半分開いた窓のカーテンを閉めようとして、「雨、降ってるのか」と言った。見ると、小雨程度に降っていた。

「俺も体育館出て気づいたんだ。じゃな。鍵、頼む」

 工藤はさっさと走って行った。あたし達も廊下に出て、北浦が鍵を閉めた。

 ふたりで黙って長い廊下を歩く。二階の職員室前で北浦は立ち止まった。

「傘、持ってる?」

 折りたたみが鞄に入っている。あたしが頷くと、北浦は鍵をかざして職員室を見た。

「これ、返してくる。何か聞かれるかもしれないし、先行って」

「わかった……」

 傘を持ってるのかと、あたしも訊こうとしたけれど、北浦はすぐに背を向けて行ってしまった。なんだか、避けられているような気がした。理由はわからない。避けられるとしたら、どうしてか知りたいけれど、それ以上に知りたいことがある。だけど、こっちを見ようともしないそっけない背中に、さっきの携帯の意味なんて、訊けるはずもなかった。


 雨はあれから強くなったけれど、夜中にはすっかり止んだ。雨上がりの空は空気が洗い流されたように澄んで、冬の星座が夜を彩っていた。あたしはベランダから、ヤスリできれいに整えられた爪のような細い月を見つめた。目にしみるような銀色の光が北浦のGPと重なる。

 今日のことを、あたしは何度も思い返していた。どうして、北浦は、携帯を持っていないふりをしたのか。考える度に、自分に都合のいい答えに行き着きそうになるのを、あたしは懸命に押し留めた。そんなはずないと、自分に言い聞かせる。期待して、失望するのが怖かった。恋愛は異物だ。どんなに心を浸食されても、あたしは勘違いや惨めな思いはしたくなかった。

 冷たい空気を深く吸い込んで、堂々巡りの思いを振り払う。また月を見上げた。

ベートーベンのピアノソナタは、静かで激しい夜の曲だった。本当に『月光』という名前がぴったりだった。去年の文化祭の演奏は、キーボードだったし、クラシックじゃなかったから、北浦のピアノをちゃんと聴いたのは、今日が初めてだ。もちろん、好きな人の演奏は、それだけで胸が震える。だけど、それを差し引いたとしても、北浦のピアノは、すごいと思った。まったくの素人の耳でも、その才能の片鱗に触れることはできる。いつか北浦は、大勢の人から大きな拍手を送られるようになる気がする。そんな北浦のピアノを、あたしは独り占めすることができた。例え、ソナタ一曲分でも、今日のことはあたしの一生の宝物だ。これから先、もしかしたら青い目の誰かが、北浦の隣でその何倍もの時間、彼のピアノを自分だけのものにすることができたとしても。

 自分を納得させるそばから、悲しい気持ちが追いついてくる。あたしはベランダの窓を閉めた。ベッドに入って、電気を消す。夜で満たされた部屋の中、北浦の声が耳に蘇る。『吉野』。あの時、北浦は何を言おうとしたんだろう。


 あの日以来、二度目の雪は、卒業式にやってきた。

 保護者席には、ママの姿だけがあった。式が終わると、保護者は皆、先に帰る。ママも、あたしに「おめでとう」とだけ言って、帰って行った。少し顔が青白かった。あたしは、まだママにごめんと言えていない。

 校庭で、北浦が何人かの下級生に囲まれていた。遠目だけど、泣いている子も見えた。詩織はクラブの後輩達から送別セレモニーを受けている。クラスの子達と何枚か写真を撮った後、あたしは中庭に出た。音楽室の窓を見上げると、淡雪がまつげの上に降りてきた。吐き出す白い息と雪が三月の空気に溶ける。

 音楽室で過ごした日から、約一か月半が過ぎていたけれど、あたしと北浦は何もなかったように、必要以上の会話は交わしていない。あたしの中であの時間は、もうずっと前の出来事のように感じられた。訊きたかったことも、心の奥底では伝えたいと思っていたことも、このまま消化不良の想い出として風化されていくんだろうか。

「吉野」

 一瞬、空耳かと思った。あの日から、何度も耳の奥でリピートした声が、よりリアルに聞こえたのかと。恐る恐る振り返った先に、北浦が立っていた。あたしは何も言えず、北浦を見つめた。北浦はゆっくりとあたしに近づいてきて、あの日よりずっと近い場所で止まった。

「まだ、帰ってなかったんだな」

「……北浦こそ」

 言葉が途切れて、あたしたちは、どちらからともなく、歩き出した。

 もう一度ふたりになれる時が来るなんて、思ってもいなかった。一緒に肩を並べて歩いていると、訊きたかったことも伝えたいはずのことも喉元でせき止められて、あたしは右側を歩く北浦の手首のGPをただ見つめた。

「大学、受かったんだろ? おめでとう」

 裏門に向かいながら、北浦が言った。

「ありがとう」

 笑顔で言われて、あたしも、笑うことができた。

「いつ……」発つの、と聞きかけてやめた。聞いてしまったら、その日一日、きっと落ち着いていられない。あたしは質問を変えた。

「ドイツの、何ていうところに行くの?」

「シュトゥットガルト。きれいな街だよ。クリスマスの頃、すごく賑わうらしい」

 校内に残っている卒業生も、そろそろまばらになっていた。あたし達は学校を出て、駅への道の途中にある公園を通った。沈丁花の植え込みの前で、北浦が脚を止めた。

「いつだったか、クラスにピアノみたいな名前の子がいるって知って、その時、初めて吉野に目がいったんだ」

 そう言って、北浦は前髪の雪をはらった。

「なんとなくだけど、クラスの連中がはしゃいだりしてるのを、一歩下がった場所から見てるような印象だった」

 北浦の言葉に、あたしはただ驚いていた。

「それっていつ頃?」

 北浦が少し首を傾ける。

「夏前くらい……だったかな。それから学校の帰りに、ここで吉野を見かけたことがあったんだ。ちょうどこの茂みの辺りから、野良猫が出てきて吉野に寄っていった。あの時、きつく追っ払っただろ。覚えてる?」

 あたしは頷いた。最悪だ。そんなところを見られていたなんて。

「正直、いい感じはしなかった」

 ちょっとからかうような微笑を浮かべて、北浦はあたしを見た。

「でも、次の日、中村が猫の虐待の話をしてただろ」

 野良猫がひどい殺されかたをした事件が続き、動物好きの詩織がひどく腹を立てていた。犯人は、キャットフードで猫をおびき寄せていたらしい。

「あの時、吉野はこう言った。『野良は、人間なんか信用しちゃいけない』。それを聞いて、わかった。きつく追っ払ったのは、野良猫を守るためだって」

 優しい笑顔に、胸がふさがれる。あたしは北浦から目をそらせてうつむいた。

「伝えたいことは、それができるうちに伝えた方がいいって、言ってくれたよね?」

 顔を上げたあたしを、北浦はまっすぐ見返した。

「あの時、音楽室で、あたしはもうひとつウソをついたの」

 北浦がわずかに目を細める。やっぱり、アビシニアンみたいだ。

「事務員さんが鍵をかけに来たの、あたし知ってた。わざと準備室に隠れたの」

 北浦は何も言わず、表情も動かなかった。あたしは勇気が折れてしまわないように、マフラーの端を強く握った。

「ごめんね、北浦のこと騙しても、そうせずにいられなかったんだ。卒業したら、もう会えなくなるから、少しでも一緒にいたかった……」

 視界に膜がかかって、北浦の顔が二重にぼやける。目の奥が熱くて、凍えた頬がヒリヒリした。

「北浦のこと、好きだから」

 頬から唇を伝って、しょっぱい味が広がる。鼻水まで出てるんじゃないかと、マフラーを引き上げようとしたあたしの両手を、北浦がつかんだ。冷たい指先は、そのままあたしの心に触れる。動けなくしてしまう。ふたりの間にいくつもの雪が降りてきて、それが地面に落ちる前に、北浦の目の中に滲んだあたしが見えた。

 唇が重なったのは、ほんの一瞬だった。初めて触れる誰かの唇は、キスとはいえないくらいの微かな風だった。だけどその風は、他のどんなものより強くあたしの心を揺さぶった。瞬間、あたし達は確かにつながった。ただ体だけを重ね合わせるよりも、ずっと深いところで彼を感じることができた。

 唇が離れて、あたし達は目を伏せた。お互いの顔を見ることができない。

「俺も同じだよ。もうすぐ会えなくなると思うと、あの時、一緒にいたかった」

 沈黙を挟んで、北浦が低い声で行った。

「もうすぐ会えなくなると思うと……あの時、言えなくなった」

 視界がきかなくなって、あたしはまたうつむいた。落ちたしずくが、スニーカーの先にウォータークラウンみたいな跡をつける。もう会えないことが寂しくて、さよならが悲しくて、好きだと思う気持ちが痛くて、たぶんそれと同じくらい、幸せだった。

 ためらいがちに伸ばされた北浦の手が、そっとあたしの頬に触れた。

「吉野が、好きだ」

 あたしは目を閉じて彼の声を胸に刻む。あたしにとっては、この声こそが、ピアノのように深い。


 家に帰ると、ママがリビングのソファーでうたた寝していた。パパは、もちろんいない。

 キッチンは、相変わらず汚れて、ステンレスはくすんでいる。マフラーを取って、あたしはそっとママの肩を揺らした。

「ママ」

 ママが気だるそうに目を開ける。あたしはママの傍らに跪く格好で訊いた。

「ママ、パパと結婚したこと、後悔してる?」

 ママは、何も言わず、あたしの目を見返した。あたしは、答えをじっと待つ。やがて、ママはかすれた声で、でも、はっきりと言った。

「してない」

 あたしの目を見て繰り返す。

「してない。だって、パパと結婚してなかったら、深音は生まれてないじゃない」

 あたしは、ママにもたれかかった。ママの手があたしの髪をなでる。

「あの時、ひどいこと言ってごめんなさい」

 深い息がもれる。ようやく、言えた。

「本気じゃなかったの」

 ママは優しく笑ってくれた。

「あたし、今日、大好きな人に好きって言ってもらえたんだ」

 ママが体を起こし、あたしは隣に座った。

「で、失恋したの」

「もう?」

「うん、だって、もう会えないから」

 あたしは北浦の笑顔を思い浮かべた。暖かかった唇と、あたしにくれた言葉のすべてを。

「でも、あたしも、後悔してないから、ちっとも」

 ママの目を見てあたしは言った。

「ママ、あたし、いるよ。ママには、あたしがついてるから」

 ママは何も言わなかったけれど、大きく頷いてくれた。あたしは、床に置いた薬局の袋を持つと、勢いをつけて立ち上がった。

「よし、ママ、掃除しよっ」

 きょとんとした表情のママに、袋から出したものを見せた。

「重曹、買ってきた。キッチン、ピカピカにしようよ。前みたいに。ううん、前よりもっと」

 ママは何か言いたげにあたしをじっと見つめたけれど、花が咲いたように、笑顔になった。それから、パンと手を叩いて立ち上がった。

「よしっ。やろうか」

「やった!」

 あたしは急いで制服の上着を脱ぐと、エプロンをつけた。背筋を伸ばしてキッチンに経つママの後ろ姿を見るのは、すごく久しぶりのような気がした。それだけで、キッチンが明るくなった気がする。重曹を容器に入れて、あたしは腕まくりをした。思いきりピカピカに磨いてやろう。北浦のGP以上にきれいなステンレス・スティールに。

 ママが、重曹をしみこませたスポンジを、慣れた手つきでシンクに滑らせる。さすが。あたしはそれを見習いながら、ふと思いついたことを訊いてみた。

「ね、あたしの名前の由来って、何だったの?」

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