ティミショアラ、薫って。
吾妻栄子
第一章:白ブラウスの「フランス人形」
座席の振動で、飛行機がとうとう滑走路を走り出したと知れる。
いよいよ逃げられなくなった。
私は先ほど買ったばかりの小さなテディベアをホワイトグレーのジャケットを羽織った胸にぎゅっと抱き締める。
黒のハイネックを着た首が心なしか締め付けられて感じた。
三十三歳にもなる女が飛行機の座席でぬいぐるみを抱くなんて、傍目には「この女、頭は大丈夫か」と思われるかもしれない。
そのくらいのみっともなさは、頭では分かる。
しかし、この飛行機が今、トランジット地のミュンヘンから飛び立って、本来の目的地に向かうのだと思うと、何か、どうにも逃げ出したい衝動に襲われるのだ。
ティミショアラ。
この名前を見聞きするたびに、曲がりくねった王冠や、ショコラパウダーをかけ過ぎたティラミスを想像してしまう。
むろん、どちらのイメージも語義からは外れている。
これは、ルーマニアの地名だ。
そして、私にとっては、母の故郷でもある。
このままでは、せっかくミュンヘンで見つけた可愛いテディベアの頭を潰してしまうので、ジャケットと同じホワイトグレーのチノパンの膝に置いたハンドバッグに仕舞う。
十日後に日本に帰って娘に手渡すまで、このクマちゃんには無事でいてもらわなくてはならない。
初めて母の郷里を訪れる旅は、まだ始まったばかりだ。
窓の外に見えるのが穏やかな雲の海になった。
客室乗務員に注いでもらったコーヒーを一息に飲み干すと、再びハンドバッグを探って小さなアルバムを取り出す。
私のママは綺麗な人だった。
アルバム一ページ目の写真に映るママは、着ているものこそシンプルな白ブラウスだけれど、フランス人形みたいに見える。
本当はルーマニア人なのに「フランス人形みたい」という比喩はおかしい気もする。
けれど、波打つ焦げ茶色の髪に陶器じみた滑らかに白い肌、彫り深い眼窩の奥の澄んだ薄茶色の瞳を目にすると、アンティークのフランス人形にありそうな顔形だといつも思う。
ママを知る人は、私を見ると、判で押したように「お母さんそっくりだ」と言う。
確かに鏡を見れば、母子で血の繋がりが認められる程度には似ているとも思う。
知らない人に両親と私の写真を見せても、「父親似」よりも「母親似」と答える可能性の方が高いはずだ。
でも、記憶の中のママはもちろん、写真に残るママも、娘より段違いに美人だ。
私が仮に「綺麗」とか「美人」とか言われることはあっても、それは多分、褒めてくれる人の中でも、違和感をどこかに含んでいる。
五十音順の名簿で「鈴木智子」と「田中博美」の間に「住谷(すみたに)ナディア」という文字列を目にした瞬間に覚える、ちぐはぐな感じだ。
その証拠に、「綺麗ですね」と賛辞が出る前後に決まって、「両親のどちらかが向こうの人なの?」という趣旨の質問をされる。
そして、「母親がルーマニア人」という回答を提示すると、決まって相手の顔には微妙な強張りが表れる。
同じハーフでも「アメリカ」や「フランス」は純粋な羨望や憧憬に値しても、「ルーマニア」だと、どこか不気味で不可解な感触を純日本人の中に引き起こさせるようだ。
あからさまに馬鹿にする人はむしろ少ない。
でも、「ルーマニア」という単語が出た瞬間、相手の表情に質問をしたことをうっすら悔やむような色が現れると、こちらの方でも怒りや反発ではなく、何だか申し訳ないような、薄暗い感慨に囚われる。
むろん、両親は国籍が異なるというだけで、初婚同士で恋愛結婚した夫婦であり、不倫など一般の良識に照らし合わせて後ろ指をさされる関係にあったことは一度もない。
しかし、日本社会の中では、父が日本人で母がルーマニア人だという正にその一点において、私の出自にはそこはかとなく蔭が射してしまう。
もっともこれは、ルーマニアに限らず、いわゆる東欧、旧共産主義圏にルーツを持つ人に共通して言えることかもしれない。
ただ、ロシアのように「腐っても大国」といった位置付けの国家や、あるいはブルガリアのように小国でも薔薇の咲き誇る丘でのどかにヨーグルトを作っているような牧歌的なイメージの地域ならば、まだ救いがある。
ルーマニアというと、ドラキュラことブラド・ツェペシュが跋扈していた、革命で銃殺刑にされたチャウシェスクが独裁していた、東欧の中でも特に血腥(ちなまぐさ)いイメージが付き纏う。
父によると、「ナディア」という名は、ルーマニアが輩出した「白い妖精」こと元体操金メダリストのナディア・コマネチにあやかったそうだが、この人が現役のアスリートとして活躍したのは私の生まれる前の話で、しかも、彼女は独裁政権下での抑圧生活に耐えかねて一度は亡命している。
ルーマニアが生み出した「白い妖精」にとって、祖国は決して生きやすい場所ではなかったのだ。
それに、私の世代で「ナディア」といえば、ルーマニアの「白い妖精」よりも「不思議の海のナディア」の褐色の肌に真っ直ぐな黒髪をおかっぱに切り揃えたヒロインだ(もっとも、こちらのナディアも髪や肌の色は黒くても瞳はエメラルド色だから、本当の人種は分からない)。
チャウシェスク政権崩壊後のルーマニアに関しても、ほんの数年前に日本人の女子大生がブカレストで殺されて死体遺棄された事件がメディアを騒がせたり、あるいはルーマニア人の少年が吉祥寺で強盗殺人事件を起こしたりして、暗いイメージの払拭には程遠い。
首都のブカレストは「バルカンの小パリ」とか「東欧のパリ」とか言われることもあるけれど、こうした呼び方自体が、本場のパリに対して「所詮はスケールの小さい模倣」「拙劣なエピゴーネン」という蔑視を既に含んでいる。
言語としてもルーマニア語はフランス語と同じロマンス語系で、甘く尾を引く響きが似ているけれど、前者が後者に匹敵する地位を得たことは一度もない。
そもそも「ルーマニア」という国名は「ローマ人の国」を意味しており、東欧では珍しいラテン民族の国家なのだけれど、周辺の国々から度重なる侵攻を受けており、スラヴ系に囲まれた陸の孤島めいた印象は拭えない。
現地には行かないまま日本語での情報を集めても、「ルーマニア」という国について、総体としてあまり明るいイメージは描けて来ないのだ。
それはそれとして、ママは、恐らくはルーマニアという国に好意を持たない人の目を通しても、本当に掛け値なしの、混じり気なしの「美人」という感じがする。
そして、まるで「美人薄命」という日本語に従うように若くして亡くなった。
死んだ時のママは、三十二歳。
今の私よりも、もう一つ若かった。
六歳だった私にとって、ママは入院してから、闘病生活とも言えないほどあっという間に、そして、あっけなく棺の中の人になってしまった。
後で聞かされた病名は乳癌。
窓の外に目を移すと、雲の波は先程より起伏が大きく、水色の勝った灰色の陰影が際立って見えた。
あんな様態を目にすると、雲の実体が微細な氷の粒の集まりだとはどうしても信じられなくなってくる。
ママがいなくなった当座は、自分を包んでくれた温かい存在が消えてしまったという、悲しみというより不安や恐怖めいた気持ちの方が強かった。
幼稚園や学校にいる間は平気でも、家に帰ってきて、おばあちゃんの作ってくれた夕食の味噌汁や焼き魚を食べていると、ふと「ママはもう戻ってこない」という現実が頭をもたげてきて、深く暗い穴に引きずり込まれないよう振り切るのにいつも一苦労した。
むろん、わざわざうちにやってきて炊事洗濯をしてくれるおばあちゃんに向かって「ママがいなくて寂しい」とは決して言えなかった。
そんなことを言い出せば、おばあちゃんに悲しい気持ちをうつしてしまうと子供なりに知っていたから。
おばあちゃんも、おばあちゃんの作ってくれる味噌汁や焼き魚も好きだった。
でも、ママが姿を消した後に心に開いた穴は、決して、他の誰かで埋まることはない。
おばあちゃんがうちの食器棚に木製の茶托を買い置きしたため使われることのなくなった、ママの手編みのレースのコースターは、うっかり捨てられたりしないよう、学習机の引き出しにしまった。
一番大きな雪印仕様がタタ、薔薇模様がママ、そして一房の葡萄を象(かたど)った一番小さなコースターが私のだ。
ママの生前から出番の少なかった雪の結晶のコースターは白く綺麗なままだったが、葡萄の実の方は私が間違ってオレンジジュースをこぼしたせいで半分がうっすら赤茶けていた。
窓の外で、隆起する雲の波間から、ところどころ白と緑と焦げ茶の山河が認められてくる。
今は一体、どこの上空なのだろう。
少し大きくなってからは、とにかくママは長く苦しまずに済んだのだから、本人にも周囲にも良かったのだと思おうとした。
高校に入ってすぐ、おばあちゃんが脳梗塞で倒れてそのまま一度も目を覚ますことなく息を引き取った時も、同じ理屈で自分を納得させようとした。
そうしないと、ママにも、おばあちゃんにも、一方的に寄りかかるだけで何も返せなかった自分が卑劣な寄生虫のように思えて、いたたまれなかったからだ。
口うるさくなったおばあちゃんに反発してたって、いざ自分一人で食事を作ろうとすると、調味料の何がどこに仕舞ってあるのかもまともに把握していなかったのだから。
今でも、私が一日に一食は旬の魚を焼いて出し、来客には漆塗りの茶托に載せた緑茶を振舞うのは、紛れもなくおばあちゃんの影響だ。
唐突に、窓の外全体が霞の懸かった風に灰白色に閉ざされた。
それをしおに、アルバムのママに目を戻す。
たぶん、これは亡くなった時より、もっと若い頃の写真のはずだ。
記憶にあるママはいつも長い髪を一つに纏めてアップにしていたから。
それから、自分が大人になり、結婚し、子供も生まれた。
ママの亡くなった年に近づくにつれ、遠い異邦で死病に犯され、幼い我が子を残して息絶えていかなくてはならない無念を想像すると、見舞いに来た六歳の私には最後まで笑顔で接してくれた姿に痛ましさを覚えるようになった。
同時に、あるいは自分もそうなるのではないかという恐怖の入り混じった感慨に襲われるのだ。
――もうすぐ、おうちに帰るから。
そう言って私を病室から送り出した数日後、ママは白い箱に収められた骨になって家に戻ってきた。
人は死ぬとそのまま墓石の下に埋められるのではなく、その前に焼いて骨にして、まるで高価なプレゼントのように綺麗な白い箱に入れられることをその時初めて知った。
ママはそんな風に日本式に葬られたのだ。
白ブラウスのフランス人形の姿が滲んできたので、アルバムを閉じて、自分の目も閉じる。
よりにもよってコーヒーをブラックで飲んだことを後悔したが、目を閉じていれば、直に意識は薄れてくるはずだ。
眠れなくても、少し寝たふりをしよう。
私だって、これ以上、挙動不審な乗客にはなりたくない。
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