■ベイビーブルー
泉谷紀子から
木暮紀子に
名前が変わっても
私は寿退社をしなかった。
単純に
仕事が好きだったのと
今までどおり
部長の傍にいたかったのと
辞める理由も
これといって
なかったわけで。
仕事が終わってから
部長と二人で
きららちゃんを迎えに行って
たまに買い物したり
外食したりもするけど
最終的には
『同じ家』に帰る。
まだまだ
部長の家に
お邪魔する、の感覚で
慣れないのだけど。
そのムズムズする感じも
嫌いじゃない。
お仏壇には
前妻·晴子さんの写真。
洋服だったり
食器だったり
この家には
晴子さんの面影が
けっこう残っている。
私は
その一つ一つを
大事に
今日も晴子さんに
挨拶をした。
よく
元カノからの
プレゼントを
全部捨てさせるとか
そういうのも
あるかと思うんだけど。
晴子さんに対しては
嫉妬みたいな感情は
まったく湧かなくて
むしろ使命感、
晴子さんの代わりに
私が頑張ります
――みたいな?
きららちゃんにとっては
大好きなママだもの、
追い出したりなんて
出来るはずないわよね。
だから。
見守っていて。
私が
新しい家族だって
認めてほしいんだ。
そんなわけで
鏡台やら何やら
私は
晴子さんのお下がりを
使わせてもらっている。
会ったことも
ないひとだけど
愛着が湧いた。
晴子さんからしたら
どうなのかしらね、
いけすかない小娘か
はたまた頼れる後輩か……
後者であると嬉しいわ。
仏壇に
新しい花を生けて
私は小さく笑った。
写真の晴子さんは
優しそうな顔で
いつもこっちを見ている。
きっと大丈夫。
ある日
OL仲間の小林ちゃんが
とんでもないことを
言い出した。
「お局様が愚痴愚痴言ってたよ~?」
「私のこと?」
「自分が結婚出来ないからひがんでるんだろうけど、気をつけろよ~」
仕事で
目立ったミスは
特にしてないんだけど
ミスなんかしようものなら
何を言われるか
わからないわね。
チャラチャラしてる
女の子たちなら
いついなくなっても
不思議ではないものね、
そんなの一々
驚かないだろうけど。
お局様の仲間みたいに
真面目仕事人間だった私が
いきなり社内結婚したから
特に怒ったりしてるのは
何となくわかる。
私が部長と結婚だなんて
真面目なふりして
やり手だ、とか
陰口叩かれてるんだろな。
しょうがないか、
私だって
びっくりしたものね。
とはいえ
会社では仕事の話しか
極力しないし
イチャイチャ
見せつけたりは
もちろんしてないわけで
そこのところ
わかってもらえないかなー。
泉谷じゃなくなったからか
社内の
おじさん連中の中には
わざと『部長夫人』とか
呼んでくるひとがいる。
確かに
部長と結婚したのだから
間違ってはいないけど
お局様たちに気を使う
私の苦労を台無しにしてる。
お局様が聞いてる前でも
悪気なんかは
さらさらなくて
ただの無神経、
セクハラですらないけど。
睨まれるのは
私なんだ。
そのうち慣れるのかな、
やっぱり
寿退社すべきだった?
居心地の悪い職場より
新しい仕事を
探すのもアリかしらね。
(――とはいえ、)
仕事中の部長を
盗み見出来るのはここだけ。
いつから恋愛感情だったか、
正直わからない。
人間として
上司として
ずっと尊敬してきた。
だから
突然プロポーズされたあの日
私は迷わず飛び付いた。
人生の中で
プロポーズされる
チャンスなんて
そうそう何度も
ないだろうし。
嫌いじゃないなら
勢いに乗っちゃえ、とか
そんなノリだったかも。
でも
意識をしたら
途端にそれが恋になって
付き合ってから好きになる
っていうパターンも
なきにしもあらずでしょ。
結婚した後で
こんなこと言うのも
なんかおかしな話だけど
私今
部長に片想いしてると思う。
それは両想いだろ、って
言われそうだけど
部長が
好きで私と
結婚したかはわからない。
ほら
きららちゃんとか
仕事のことで
都合が良かった
だけかもしれない。
「………………」
あいたたた……、
これは
思った以上に痛い。
それが本音なら
ショックすぎ。
いつから私は
そんな
おセンチなキャラに
なってしまったのよ?
ガラじゃない。
私だもの、
気になるんだったら
直接
当たって砕けるしか
ないじゃない。
会社の中では
気を使って
互いに気を張っている。
やっぱり
似た者同士だからか
暗黙のうちに
そうなっていた。
私が早起きして作った
同じお弁当を
食べているのに
「今日のお弁当どう?」とか
「明日は何が食べたい?」
そんな些細な会話さえ
シャットアウトで
黙々と食べて
仕事に戻るなんて
日常茶飯事。
これが新婚か、と
周りが肩透かしを食ってる。
それってば何か
社内恋愛がバレないように
他人のふりしてる
恋人たちみたい。
私たちは
とうに結婚した夫婦で
皆が周知の仲だというのに。
とはいえね
会社の中でだけの
私と違って
部長はいつも
遠慮をしているように
最近思うのよ。
いつまでも
『部長』と呼んでしまう
私がいけないの?
試しに
名前で呼んでみようか
ちょっと考えたら
想像以上の恥ずかしさが
込み上げてきた。
口にするだけで
これじゃあ
本人にむかって言うなんて
ハードル高いわ。
思春期の
恋する乙女じゃあるまいし
なんなのよ、これ。
(だ、ダメよ紀子。この程度のハードルはバンバン跳んでいかないと、先に進めないじゃない)
自分を叱咤激励しつつ
私は赤く染まった頬を
振り払った。
(慣れよ、慣れ。はずかしいとかそんなの最初だけだし。問題ないわ!)
そう、
私は
ハードルを
越えていかないと
このままじゃ
住み込みのお手伝いさんと
何ら変わらない。
形だけの夫婦なんて嫌。
誰に遠慮をしてるのよ、
私に?
晴子さんに?
きららちゃんに?
馬鹿にしないで!
「誠一さん?今日は家族会議しましょうね」
女の武器は笑顔。
有無を言わせぬ
絶体の笑顔で
私が話を切り出したのは
きららちゃんの
保育所からの帰り道。
名前で呼ばれて
戸惑ったのか
部長は
一瞬沈黙した。
先に反応したのは
きららちゃんだった。
「かいぎー?」
「そうそう会議。例えば『今度旅行行きたいね』とか『ゴミだし当番決めましょう』とか。家族での役割とか行事の予定を一緒に話し合おうってこと」
きららちゃんにも
わかるように
私なりに
噛み砕いた説明を
したつもり。
ふーん、って
言ってるきららちゃんが
どの程度理解したかは
謎だけど。
「……家族、会議、ね」
まだぽかんとしてた部長は
ようやくゆっくりと
思考を回し始めた。
きららちゃんの為に
丹精込めて作った
手作りハンバーグを
ジュージューと焼きながら
隣の部屋で
テレビを観ていた
きららちゃんに声をかける。
「きららちゃーん。お皿出してくれるかなー?」
きららちゃんの
いいところの一つ、
大好きな番組の途中でも
すぐに飛んでくる。
素晴らしい。
「わぁ、今日はハンバーグ!きららの大好物!」
「サラダもいっぱい食べるのよ~?お皿テーブルに並べてもらえる?」
「はーい!」
三人分の食器が
所狭しと並べられ
焼き上がったハンバーグが
誇らしげに乗った。
サラダを添えれば
豪華な
ハンバーグプレートの完成。
「あとスープカップね」
きららちゃんのカップは
かわいいくまさんが
プリントされていた。
「さ、ご飯できたわよ。パパ呼んできて」
「パパー!ご飯よー!」
隣三軒くらいまで
聞こえちゃいそうな
きららちゃんに
思わず苦笑。
ドタドタ
元気に走り回って
戻って来たときには
部長の上で肩車されてた。
「いただきまぁす!」
「はぁい。スープ熱いから気をつけてー」
余熱とはいえ
きららちゃんには
まだ熱いだろうから
一応注意。
「おいしーい。この茶色いスープ何ー?」
「オニオンスープよ」
「おにおん?変な名前ー」
ケタケタと笑ってる
きららちゃんに
私はニンマリ笑う。
「オニオンはきららちゃんがいつも嫌い嫌いって言ってる玉ねぎのことよ?」
「!!」
驚愕の眼差しで
一瞬目を見開く
きららちゃん。
どうだ、参ったか。
「でもおいしい!」
「そうだよー。玉ねぎはおいしいんだよー」
それまで
黙って見てた部長は
ついに
声をたてて笑い出した。
「紀子ママには敵わないな」
きららちゃんを間に挟めば
パパママって
呼びあう。
きららちゃんがいないと
成り立たない関係。
きららちゃんが
本格的に
大きなハンバーグを
口に含んで
舌鼓を打ってる
頃合いを見計らい
私は
ターゲットを部長に変えた。
「私もそろそろお仕事辞めようかなぁと思って」
「ん?それは構わないけど……意外だな。てっきり仕事が好きかと」
「好き嫌いで言うなら好きだけど。育児に専念するっていうのもアリかなーって」
ナイフで切り分けた
ハンバーグの一切れに
フォークを突き刺す。
「きららちゃんにも兄弟とかいたらいいかなって思うのよ」
瞬間
部長の箸先から
ぽとりと白い塊が落ちた。
ライスオンザハンバーグ。
「きららがお姉ちゃん!?」
「赤ちゃんでも生まれればねー」
「弟がいい!あ、でも妹もいい!どっちも!」
「きららちゃーん……口からハンバーグが発射されてるから」
口を拭いてあげると
またきららちゃんは
続きを食べ始める。
「名前はねぇ、きららがきめるの。お姉ちゃんだから」
「気が早いなぁ」
実際に
仕事を辞めるか否かは
とりあえず置いといて
重要なのは
こどもを作る意思が
私にはあるわよ、という
意思表示。
布石はここまで。
あとは
部長次第だもの。
愛してるのは
晴子さんだけで
私のことは母親代理か
それともちゃんと
妻として迎えてくれたのか。
白黒
はっきりしてもらわなきゃ
憂鬱は晴れないのよ。
思春期の初恋並みに
清らかな交際は
結婚した今も
手を繋ぐだけ。
キスなんて
結婚式の時に
頬にされただけ。
奥手の堅物にしたって
これはない。
確かに
きららちゃんもいるから
そういうふうに
なるのかもしれないけれど。
女として
魅力がないとでもいうわけ?
何か
事情があるなら
私には聞く権利がある。
何の覚悟もなく
同情だけで
この家に来たわけじゃない。
言いたいことは
山ほどあるけど
ぐっとしまいこんだ。
笑顔が
女の武器なのよ。
元気いっぱいの
きららちゃんに
救われつつ
部長の顔色を
盗み見る。
ぽつぽつと
食事を続けているけれど
何か自問自答で
心ここに在らず。
メッセージが伝わってるなら
じゅうぶんだわ。
あとは
部長の出方を待つだけ。
涼しい顔してるけど
私だって
勇気を出したんだから!
「とか言っても、緊張しましたわよ?」
高校以来の
親友との電話で
近況を報告した。
受話器の向こうで
くくくと
笑いを噛み殺してる
親友が
お腹を
抱えてるのがわかった。
『アンタは魔女か』
「失礼ね。こちとら干物女じゃなし、仕事も恋も真剣勝負だっての」
私がタンカを切ると
赤ちゃんの泣き声が
微かに聞こえた。
「あれ、ももちゃん起こしちゃった?」
『アンタの声まで聞こえてないって。そろそろミルクの時間なのよ』
仔猫みたいな
弱い泣き声が
ほにゃほにゃ言ってて
羨ましくなった。
「じゃあそろそろ切るね」
『うん。また続き聞かせてね』
(続き、って)
付き合いの長い親友は
さすがに遠慮がない。
あるいはママだからか。
苦笑いで電話を切って
私は自分のために
珈琲をいれた。
何だか
時が経つのって案外早い。
今でも
高校時代と
変わらない口をきく
あの親友も
ママになってる。
いつの間にか
大人になるんだなぁ。
私が親友に
『続き』の
おめでた報告をして
ママ友の仲間入りするのは
まだもっと先の話。
ただ待っていても
幸運の女神が
微笑むかはわからない。
自分が歩く一歩は
自分で決めないとね。
―――― It's about time.
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