甘×恋クレイジーズ

枕崎 純之助

第一章 ブレイン・クラッキング

第1話 異界貿易士の少年

「ちょっとぉ! 頼んでた物と違うじゃない!」


 そう言って客の女が投げつけたブラジャーを両手で受け取ると酒々井しすい甘太郎あまたろうは内心でため息をついた。

 東京都内。

 都庁にほど近い新宿区のさかり場にある劇場げきじょうひかえ室にて、顧客こきゃくの女に注文の品をとどけた甘太郎あまたろうは、その場で箱を開けて中身をチェックした女から文句を言われていた。


「カタログはご覧になられましたか? ご注文いただいたのは確かにこの『媚薬びやくアロマ香るブラ』で間違いないかと」


 甘太郎あまたろうがそう説明をすると女は不機嫌そうにプイッとそっぽを向く。

 女は商売用の赤いガードルにけたスリップ姿というあられもない格好で、男の甘太郎あまたろうを前にしてもまるでおくすることなく、肌を惜しげもなくさらしていた。

 この4月に18歳になったばかりの甘太郎あまたろうにとって刺激の強い光景だったが、彼は気負きおいを表に出さぬよう、女が投げた藤色ふじいろのブラジャーを丁寧ていねいりたたんだ。

 最近、常連じょうれんになりつつあるこの女は注文のたびに何かしら甘太郎あまたろう文句もんくをつける。 

 それでも彼女が甘太郎あまたろうからの買い物を続けるのは、彼が毎度何を言われようとも懇切丁寧こんせつていねいに対応してきたからだった。


「このカタログ見にくいのよ。こっちのデザインかと思ったじゃない」


 女はそう言うと注文品のブラジャーが掲載けいさいされているカタログのページを指差した。

 どうやら彼女はとなりのデザインのものと間違まちがえて注文をしてしまったようだった。


(やれやれ。ようするに見間違みまちがえか)


 そうした心の声を完全に胸の内に封印ふういんして甘太郎あまたろうは女に同調どうちょうした。


「そうですね。確かにその通りだと思います。発行元に改善かいぜんするように言っておきます」


 すでに30を超えている自身の年齢をかくそうとするかのように若作りの化粧けしょうほどこしたその女は、ガードルのわきからのぞく太ももをさらして足を組み替えた。

 男としては目のやり場に困る光景だが、商売人としてナメられるわけにはいかない甘太郎あまたろうは目をそらすことも視線をおよがせることもなくじっと女の話に耳をかたむける。


「せっかく魔界で流行りゅうこう媚薬びやく効果で客の食いつきを良くしようとしたのに、これじゃあ明日の舞台ぶたいで客から巻き上げられないじゃない」


 不満ふまんべる女に甘太郎あまたろう真摯しんしな表情を取りつくろってうなづくと、彼女が期待しているであろう解決策かいけつさくを口にする。


「すぐに商品をお取り替えします」


「ほんとに?」


 女は甘太郎あまたろうの言葉にパッと表情を変えて身を乗り出した。

 待ってましたとばかりにそう言う彼女に甘太郎あまたろういやな顔ひとつせずにおだやかな笑顔で応じた。


「ええ。こちらとしてもこのまま手をこまねいているわけにはいきません。守谷もりや様にはぜひともご満足まんぞくいただける商品をご購入こうにゅういただきたいですからね」


 そう言うと甘太郎あまたろうは一枚の紙とペンをわたす。


「とりあえずこの返品書類にサインを」


 それを受け取ると守谷もりやばれた女は嬉々ききとした表情をかべ、ペン先もかろやかにサッサと書面にサインをする。


「分かってるじゃない。それでこそあなたをんだ甲斐かいがあるわよ」


 甘太郎あまたろうは女が間違まちがって注文した藤色ふじいろのブラジャーを箱にしまい込むと、それをわきのテーブルに置いた。

 そして彼はひかえ室のかべに手を当てる。

 するとそのかべ突如とつじょとして大皿ほどの大きさのあなが開いた。

 あなの向こう側には漆黒しっこくの空間が広がっている。

 甘太郎あまたろうわきに置かれたブラジャーの入った箱を手にすると、それをあなの中に差し入れた。

 そして入れ替わりにあなの中から別の箱を取り出してそれを再びわきのテーブルに置くと、あな凝視ぎょうしする。

 すると見る見るうちにあな収縮しゅうしゅくして、ものの数秒ですっかり消えてしまった。

 まるで今の光景が現実ではなかったかのように、ひかえ室は元の姿を取りもどしている。


「こちらでいかがですか?」


 そう言って甘太郎あまたろうが差し出した新たな箱を、女は満足そうに受け取り、中身を取り出した。

 彼女は甘太郎あまたろうかべあなを開ける一部始終いちぶしじゅうを見ていたのだが、そのことは一切いっさい気にする様子もなく、箱の中身を確かめるのに夢中むちゅうになっている。

 中から現れたのはあざやかな紫色むらさきいろのブラジャーだった。


「これよこれ!」


 そう言って女はそれを自分の胸にあてがうと、チラッと甘太郎あまたろうを見上げた。

 その目に蟲惑的こわくてきな光が宿やどる。


「つけるところ……見る?」


 そう言うと女は胸元をキュッと寄せて上目遣うわめづかいをしてみせた。


「ねぇ。あんたさぁ。そろそろ私のお客にならない? ね? あんたにはいつもサービスしてもらってるから私もサービスするわよ。ギブアンドテイクも悪くないでしょ?」


 そう言いながら甘太郎あまたろうににじり寄る女の目がつやっぽくうるんでいる。


(……それでこれからも色々とサービスしろってことか)


 女の視線の裏にある打算ださんを読み取りながらも、甘太郎あまたろう愛想あいそう笑いをかべてこれをかわした。


「まいりましたね。夢みたいなお話ですけど、僕まだ未成年ですし、法令順守ほうれいじゅんしゅあきないのモットーですから」


 その落ち着いた口調ほどの余裕よゆうは彼の心にない。

 何と言っても甘太郎あまたろうは年頃の男子であり、目の前の女の肢体したいは目にどくだった。


(もう帰りたい。今すぐ帰りたい)


 甘太郎あまたろうは心の叫びが口をついて出ないよう必死にこらえ、女から次の言葉が出る前に丁寧ていねいにお辞儀じぎをした。


「もう少し大人になったらお世話になりますよ。では。またごひいきに」


「あんもう! ……まあいいわ。その時はサービスするわよ。じゃあね~」


 すっかり上機嫌じょうきげんになった女に見送られ、甘太郎あまたろうは部屋を後にした。


(ふぃ~。カンベンしてもらいたいぜ。マジで)


 甘太郎あまたろうはジトッとした冷や汗が背中ににじむのを感じながら、けたドレスを身にまとった仕事終わりの女たちが幾人いくにんも行き廊下ろうかを足早に立ち去っていく。

 化粧けしょうやら香水こうすいやらの強い香りが充満じゅうまんした劇場げきじょう裏口うらぐちから外に出た甘太郎あまたろうは、後ろ手に閉めたドアに背中をつけて寄りかかると、ビルの谷間からのぞく都会の空を見上げた。

 そして夜明けの白々とした空に向かって、先ほどより臓腑ぞうふの奥に押しとどめ続けてきた深いため息を解放するようにき出した。


「はぁ~……きっついなぁ」


 排気はいきガスくさ歓楽街かんらくがいの空気がこの時ばかりはまるで高原のそよ風のように感じられる。

 深く息を吸い込むと甘太郎あまたろうは手にした伝票に目を落とした。

 そこには今回の注文内容が記されている。


「これも仕事。辛抱しんぼうしないとな」


 そう言うとそれをポケットにしまい込み、夜が明け始めたばかりの、人の姿もまばらな歓楽街かんらくがいの中を通り抜けて、甘太郎あまたろうは始発電車に乗るために新宿駅へと向かった。

 彼、酒々井しすい甘太郎あまたろうの販売する製品はこの世のものではない。

 本日の顧客こきゃくである先ほどの女も人の姿すがたでこの世界に生きているものの、人とは似て非なる存在だった。

 世俗的せぞくてきな言い方をすれば悪魔とか魔族などと便宜的べんぎてきばれる存在ではあるが、一言で言えば彼らは皆、異なる世界からこの世界にうつり住んだ異界の者たちだった。

 天界やら魔界やらと呼ばれる異界の製品を取り寄せてこの世界で販売し、その逆にこちらの製品を異界に輸出する。

 こうした輸出入を異界貿易いかいぼうえきと呼び、それを取り扱う能力の持ち主を異界貿易士いかいぼうえきしと呼ぶ。

 甘太郎あまたろう異界貿易士いかいぼうえきしとしての商売を始めておよそ2年。

 経験を着々と積み重ねている甘太郎あまたろうのもとに、今までにない大きな仕事が舞い込んできたのはつい先日のことだった。

 二つ返事で快諾かいだくした甘太郎あまたろうはいよいよ今日、その依頼人と初顔はつかお合わせの日をむかえていた。

 大きな運命のうねりが自分を飲み込もうとしていることを、この時の甘太郎あまたろうはまだ知らない。

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