パクリとオマージュの境界線

 パクリもオマージュも他者のデザインを用いる点では同一です。用いた時には連絡するのが筋でしょう。ただ今更アガサ・クリスティや太宰治に使用許可を貰うわけには行きませんから、オマージュを作る時にはわかりやすくしなければ盗用と思われてしまうのかもしれませんね。

 

 例えば登場人物が殆ど喋らないで物語が進行し、最後の最後で長台詞で心の内を爆発させる小説を書いたとします。これ何を模倣したか直ぐにわかりますか?正解はチャールズ・チャップリンの『独裁者』です。

 この映画が好きなので何度も見ました。誰かがこんな小説を書いたら「オマージュかな。」と思いますが、映画を観た事が無い人にとっては新しいデザインとなり、書いた人のデザインとなります。


 オマージュである。と後書や奥付で説明するのはどうでしょう?

「お前ら知らないだろうから教えてやるよ」と高圧的に感じる人に配慮すると書かない方が良いです。

 しかし、書かないでいると「明記するのが社会的常識」と考える人の反感を買います。


 インターネットの様に不特定多数の目がつく場所では常にオリジナルで在り続けるのが一番です。でも思考とは過去から脈々と繋がって構成されるものですから、厳密なオリジナルは存在しない。


 多数派だと思って用いた知識が少数派であり、問題が現れた時に境界線が見えてくる。それを怖れるから最近の言論は「でしょう。」という曖昧な言葉で終わるのでしょう。かくいう私もこうして逃げたいと思います。

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