出発の日
出発の日になった。
チヒロのことで落ち込んでいた僕は朝からずっと、うなだれたままだった。車の後部座席に押し込められている間に、父があわただしく荷物を運びこみ、母は祖父母となにやら話しこんでいる。
「よし、じゃあ行こう」
父の声がする。
助手席に乗り込む寸前、母が祖父に「じゃあ、お父さん、あとはお願いね」と言った。祖父は無言で大きく頷いたのだが、僕にはそれがやたらと頼もしく見えた。
車庫から車がゆっくりと動き出し、祖母が「オーライ、オーライ」と手招きしている。
僕は窓から神社のほうを見た。その途端、思わず声を上げそうになる。神社の石段の前にあの子が立って、こちらをじっと見ているのだ。
車を止めて……そう口にしようとした瞬間、エンジン音が響いてみるみるうちに彼女が遠ざかる。慌てて後部座席からリアガラスをのぞくと、彼女が僕を追いかけて走り出した。何かを叫んでいるが、聞こえはしなかった。僕はそのとき、初めて胸がえぐられるような感覚を知った。
だが、すぐにそれも塀の向こうに消えてしまった。車はあっという間に曲がり角にさしかかったのだ。
「千尋、ちゃんとシートベルトをしなさい」
父の声に、涙をこらえて座りなおす。
僕は両親に『道を戻って欲しい』と言い出せないほど、小心者だった。それに、あの子にまた「ばいばい」とさよならを告げられるのが、もう嫌だったのだ。
あのときチヒロが「ばいばい」ではなく「またね」と言ってくれたなら、僕は父に車を止めるように懇願できただろうか。言えることはひとつ。僕には自分の唇を噛みしめる以外には、何もできなかったということだった。
やがて、母は僕にこう教えてくれた。あの子の痣はすぐに消えるし、もう二度とできることはないだろう、と。
「また会えるわよ。元気を出して」
母はそう言って、僕の頭をそっと撫でてくれた。
だが、その後、一年もしないうちにチヒロの屋敷はなくなって、大きな空き地になってしまった。なにがあったのか訊いても、誰もが苦々しげに黙りこみ、母は僕の髪を撫でるばかりだった。
勘のいい僕は、なにか不幸なことがあり、そしてそれは子どもに聞かせるのはよくない話なのだろうと察してしまった。だって、母が僕を撫でるのは、決まって慰めるときだからだ。
夏休みに祖父の家へ行くたび、僕は神社で待ち続けた。ある年は三日間。またある年は二日間。ずっと神社の拝殿に座り、彼女が石段を駆け登ってくるのを待つ。けれど、チヒロは姿を見せず、毎年石段を上がってきたのは、僕を迎えにきた母親だけだった。
チヒロと過ごしたのはほんのわずかの時間だ。なのに、僕の心に決して消えない痣を残した。
毎年、僕は迎えに来た母にこう言うのだ。まるで自分に言い聞かせるように。
「チヒロを待ってるって約束したんだよ」
僕が泣くことは、もうなかった。あの車の中で誓ったんだ。次に泣くのは、チヒロとまた会えたらにしようと。
そして訊くんだ。あれから、あやとりを誰かから習ったかどうか。あのとき僕を追いかけて走ってきてくれた手の中に、あの紐があったのかいってね。
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