決別
その日の夕方、セルジュの散歩の時間になっても、正臣の姿は見えなかった。
「お前の飼い主はどこに行ったんだろうね」
足元でセルジュが「くぅん」と鳴く。
散歩を済ませ、餌をあげたあとで、いつもより長めにブラッシングをした。時間稼ぎをするようにのらりくらりとブラシをかける千津を、セルジュが不思議そうに見ている。しかし、七時半になっても、正臣は帰らなかった。
「もしかして、先生に避けられてるのかな?」
そう問いかけてみても、ぴたりと寄り添って寝そべるセルジュは、とろんとした目でまどろむばかりだ。
千津はおずおずとグノシエンヌのCDに歩み寄った。躊躇しながらも、ケースを開く。
「あれっ」
思わず声が漏れた。あの写真がなくなっていたのだ。
「どうして……」
正臣は何を思って写真を取り出したのか。どこにしまったのだろう。
一気に心が重くなった。このまま帰るのを待って、一目だけでも顔が見たかった。なのに、途端に臆病になる。CDを元に戻し、玄関を出た。
外は既に暗く、遠くから犬の遠吠えが聞こえてきた。朝にはあんなに輝いてみえた小道は、漆黒の闇のようだ。足を踏み出すのが怖くなる。
「疲れるなぁ」
玄関の前で鍵を開けながら、思わず呟いた。気持ちの浮き沈みが激しく、頭痛までしてきた。
「どうして落ち着いた生活にならないかな。厄年かな」
そう呟いてみたものの、すぐに鼻で笑う。恋とは本来そういうもので、今までの自分が恋らしい恋もしていなかったのだ。
そのとき、背後で物音がして「千津」と名を呼ばれた。
「えっ」
玄関先に路駐していた車から降りてきたのは、中川だった。
「俺、ライター忘れてなかった?」
「えっ、なかったよ」
「本当に?」
「うん」
「もう一回探してみてもらえる?」
「なかったってば。そんなに大事なライターなの?」
首をかしげると、中川が「あはは」と笑い出し、千津の頭を乱暴に撫でた。
「うわっ、ちょっと! なにすんのよ」
「だって鈍いんだもん。そんなの会いに来た口実に決まってるだろ。中に入れてよ」
耳まで赤くなりながら、辺りが暗くてよかったと思った。
中川がふっと正臣の家を横目で見やる。
「で、なんでお前は大家さんの家から出てきたの?」
一瞬、言葉に詰まった。
「えっと、仕事が見つかるまで、家賃の代わりにペットシッターと家事手伝いをさせてもらってるの」
「大家さんってこの前の人? 独身なの?」
「うん」
中川は怪訝そうな顔になった。
「怪しくない?」
「どうして?」
ムッとした千津に、中川が言い返す。
「だって、親戚でもなんでもないんだろ? なんでそんなによくしてくれるの?」
朝食まで格安で用意してくれているとは言えない雰囲気だ。千津は心の中で『そんなの私が知りたいわ』とぼやく。どうして自分にここまでよくしてくれたのか、思えばきちんと聞いたことがなかった。
「わかんないけど、ちゃんとした人よ」
「なら、いいけどさ。でもあんまり無防備に男の家に出入りするのって心配だからさ」
「やめて!」
思わずカッとなった。
「先生は礼儀正しいし、とってもいい人よ。そんな目で見ないでくれる? それに私が誰の家に出入りしようと自由でしょ?」
正臣を悪く言われたことで、自分でも驚くほど頭にきていた。中川の嫉妬も感じていた。それでも、心配してくれる気持ちは本当なのかもしれない。しかし、まるで自分に節操がないと責められているような気がして不愉快だった。
「ごめん」
慌てて謝り、中川がためらいながら切り出す。
「あのさ、お前、もしかして……」
そう言いかけたときだ。正臣の車が駐車場に入ってきた。正臣は車から降りると、後部座席のバイオリンケースや荷物を降ろして玄関へ運び出した。
中川も千津も気まずそうに押し黙っていると、不意に正臣が垣根越しに声をかけてきた。
「こんばんは」
弾かれたように千津が「こんばんは」と返し、中川が小さく会釈をした。正臣も会釈を返し、目を細めて「千津さん」と、名を呼んだ。
「は、はい」
正臣は大きく膨らんだ買い物袋を軽く掲げ、微笑んだ。
「千津さんのクッションを買ってきましたよ」
「クッション? ですか?」
「えぇ。うちでは少しでも寛いで過ごしてほしいですからね」
そう言いながら、彼が中川を射るように見据えた。正臣の双眸に浮かんでいるものを見たとき、千津は溢れ出る喜びに胸元を押さえた。
正臣は嫉妬していた。穏やかな声と笑みの影に、中川への敵対心が見えた。
「今日、演奏会でお菓子をいただいたんです。一緒にいかがですか? 夕食は済みました?」
「えっ、はい。あ、いえ、まだです」
しどろもどろに答えた千津に、正臣が笑いをこらえて言う。
「じゃあ、あとで。待ってますね」
中川の口元がわずかに引き締まった。そこには明らかな牽制の響きがあった。
千津は初めて会った頃、正臣を男として見ていなかった自分が信じられなかった。今こうして中川に敵対心を燃やす姿は、紛れもなく一人の男だ。
そして正臣にそうさせたのが自分であることが彼女の心を震わせた。
正臣は返事を待たずに玄関の向こうへ消えていく。扉が閉まると、中川はぽつりと呟いた。
「置いてけぼりにされた気分だな」
「えっ?」
「うすうす気づいていたんだ。お前の中にもう誰かの影があるって。だってなんだか会社にいた頃より顔つきが晴れ晴れしててさ。単に仕事をやめたからだと思いたかったけど、やっぱり違ったんだよな」
中川は乾いた笑いを漏らした。
「あのとき、ホテルでお前を名前で呼べたら、何か違っていたのかな。今更だけどさ、本当、俺たちってどこまでもタイミングが合わない運命だよな。嫌になるよ」
「ごめん、私……」
「いいよ、何も言わないで。あの大家さんが好きなんだろう?」
こくりと頷くと、「そうか」と微笑まれた。
「この前会ったとき、すごくいい顔してた。憑き物が取れたっていうのかな。もし、それがあの人のおかげだっていうなら、俺は何も言わない。でももう迷うなよ。今度ふらふらしたら、俺が連れ去るからな」
中川は千津を引き寄せ、きつく抱きしめた。か細い肩に顔を埋め、祈るように囁く。
「俺、どこで何を間違えたんだろ。こんなに惜しいのに」
すうっと千津の頬を涙が流れた。
「きっと私たち、初めから間違えていたのよ」
「そうかな。でもさ、終わり方は正しいよな。俺とじゃなくても、幸せになれよ」
「……ありがとう」
「礼なんか言うなよ。泣けてくるだろ」
中川が情けない声になった。そしてぐっと千津を突き放すと、くしゃっと顔を歪ませて笑った。
「じゃあな」
中川が足早に車に戻っていく。千津はその車が走り去るのを黙って見ていた。
自分のためにポワロのDVDを選んでくれた姿を想像し、胸が締め付けられた。
「五匹の子豚、か」
千津、正臣、中川、涼子、そしてグノシエンヌの影。五人の恋模様が絡まって、そして今、ほどけていく音がする。
千津は小道を戻り、正臣の家の前に立った。深呼吸し、ドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。
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