心の声

 それから数日後のことだった。

 セルジュの散歩を終えて戻ると、いつもはレッスンをしているはずの正臣がゆったりとソファに腰を下ろしていた。


 今日はレッスンがなかったのか。そう思って声をかけようとしたが、彼はセルジュの慌ただしい足音にも気づかない様子で、ぼんやりと庭を見ていた。

 なぜか『先生』という短い言葉が声にならない。彼の横顔を見ていると、声をかけてはいけない気がした。


 だが、尻尾を大きく振ったセルジュが駆け寄ると、彼は我にかえって「あぁ」と小さく呻いた。そして、ゆっくりと千津を見て微笑む。


「千津さん、おかえりなさい」


「……ただいま帰りました」


 歩み寄った千津は、ふとテーブルの上に置かれたエアメールに気づいた。そばにペーパーナイフも置かれていたが、開封されてはいないようだった。

 正臣が千津の視線に気づき、眉を下げた。


「昔の友人からです」


 何も訊いていないのに、彼はそう言い訳がましく言うと、さっとエアメールを手にして戸棚の引き出しにしまった。

 その背中に、千津は視線が吸い込まれていた。そこに哀愁と脆さを見たのだ。

 ところが、引き出しを閉めて振り返った目には、意外にも毅然とした強さのようなものがあった。

 それは、もしかしたらあの女性をずっと想い続けていることから生まれているのかもしれない。だから、彼はいまだに独身なのかもしれない。


「……先生」


 おそるおそる、彼女はこう問う。


「どうしたら、誰かを強く想えますか?」


 目を丸くした彼に、彼女は「あ、いえ……」と言葉を濁した。


「いえ、つまり、どうしたら普通の恋愛ができるのかなって思って」


「普通の?」


「そう、普通の幸せです。誰かを好きになって、その人も自分を好いてくれて、お互いがかけがえのない存在になって、ずっと一緒にいるだけ。でも、普通って一番難しいです」


 千津が両手を握りしめ、同時に唇を噛んだ。自分のように先の見えない体だけの関係ばかり増えていくのは何故だろう。どうしたら、正臣のように誰かを想うことができるのだろう。

 すると、彼は小さくため息をつき、こう言った。


「千津さんは、眩しすぎますね」


「眩しい?」


 今度は千津が目を丸くする番だった。


「若いってことです。四十をこえたせいかな、若さを目の当たりにすると、自分の過去と未来が残酷に見えるものですよ」


「私、なにか悪いことを訊きましたか?」


「いえいえ、ただ、僕が年をとったなと勝手にセンチメンタルになっているだけです」


 そう笑うと、彼は千津に歩み寄った。


「ちょっと辛辣かもしれないけれど、君が普通の幸せを手に入れるのは、今のままでは難しいのかな」


 俯いた千津を見下ろし、彼はこう続けた。


「千津さん、率直に言うと、君は脚より先に心を開くべきなんです」


 思わず顔を上げると、そこにはまるで兄のように微笑む正臣の顔があった。


「体で確かめる前に、心の声を聞いてください。心には声にならない声があります。流されないで、それに耳を傾けることですよ」


「心の声ですか……」


「それから、もう一つ」


 彼はにっこり微笑む。


「千津さんはとても素敵な女性だと思います」


「へ?」


 唐突に褒められ、戸惑いながらも頬を染める。正臣も少し照れ臭そうに笑った。


「千津さんは男性に求められるたびに『私なんかでいいのかって萎縮しちゃう』って言っていたでしょう?」


「は、はい」


「君はね、とても魅力的だと思います。だから、そんなふうに考える必要ないんです。僕が保証しますよ」


「あ、ありがとうございます」


 褒められることに慣れていないせいか、千津は耳まで真っ赤にし、はにかんだ。お世辞だとしても素直に嬉しく思えるのが不思議だった。

 和やかな正臣の顔つきに、今ならあの女性のことを訊けるだろうかと思ったときだった。ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。


「あ、すみません」


 慌てて画面を見た千津の顔から、ふっと笑みが消えた。


「出ないんですか?」


 画面を睨んでいた千津は、正臣の声でハッと我にかえり、電話を握りしめる。


「あ、あの……母からみたいです。それじゃ、また明日」


 咄嗟に嘘をついた。何故かはわからない。ただ、口をついて出た。

 きょとんとする正臣に背を向け、逃げるように慌ただしく玄関を出る。その手に握った携帯電話はまだ鳴り続けていた。


 画面に表示されているのは『中川拓也』という文字だった。

 最後に会った日のことが嫌でもフラッシュバックする。出るべきか躊躇っていたが、えんえんと鳴り響く着信音に、何かあったのかと気になる。家に続く小道を歩き終わり、玄関に入ったところで、とうとう指を伸ばした。


「もしもし」


 電話の向こうから、「よう」とためらいがちな声が聞こえた。久しぶりに聞く中川の声は、相変わらず柔らかい。だが、その響きには真剣なものがあった。


「話があるんだ。会えないか」


 それは、断り切れない何かを孕んだ口調だった。

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