第17話 涼羽ちゃんは私だけの
「涼羽ちゃん…涼羽ちゃあん…」
「…くすっ…柊さん…ずいぶん甘えんぼさんだね」
今時主流のシステムキッチンと比べると、かなり懐古的(ノスタルジック)な台所と呼べる場所。
平成と呼ばれるこの時代より遡る、昭和と呼ばれる時代背景を思い出させるその場所。
その場所で、一組の男女が待ち望んだ逢瀬の時のように抱きしめ合っている。
ただし、一組の『男女』というには、その光景は非常に目を疑うものがあるのだが。
まず、母親に甘える幼子のようにべったりと甘えている美少女。
年齢は今年で十八歳と、大人の仲間入り一歩手前とも呼べるもの。
だが、今はその年齢に不相応な幼げな雰囲気に満ち溢れている。
もともとが童顔で、年齢よりは幼い感じなのだが、今はそれ以上に幼げな雰囲気が、彼女から満ち溢れている。
そんな美少女を慈しむように、包み込むように優しく抱きしめ、頭をなでなでしているもう一人の人物。
スラックスを履いていることから、男であることが伺えるのだが…
――――この人物が、この組み合わせを『男女』と呼んでいいものかどうかを非常にあやふやなものとさせてしまっている原因となっている――――
年齢は、目いっぱい甘えてくる美少女、柊 美鈴と同じ今年十八歳なのだが…
首の後ろで一括りにされている、肩の下まで伸びている、艶やかで烏の濡れ羽のような漆黒の髪。
女子の平均より少し高い程度の、男子としてはかなり小柄な身長。
ゆるやかな坂を描く、丸みを帯びた小さく細い肩。
女子のようにくびれて、しかも非常に細い腰。
大きめでむっちりとした感じの臀部。
すでにこれだけでも、問題の人物が男であることに疑いを持たせるものとなっている。
そして、何よりも、その顔が、男とは思えない造りとなってしまっている。
細く、優しげな印象の眉。
少し目尻が下がってやや垂れ気味の、上等の宝石のような大きくぱっちりとした目と瞳。
くっきりとした二重瞼に、その下の目を護る、遠目から見ても分かるくらいに長い睫毛。
小さくツンとした感じだが、筋が通って形のいい鼻。
艶やかで、うっすらと桜に色づいた、柔らかな感じの唇。
それらの土台となる、小さく丸みを帯びた幼げな輪郭。
…と、普通に見れば十人中十人とも美少女だと賞賛するような顔立ちなのだ。
普段はその眉や目尻も不機嫌そうに吊り上がり…
唇も固く閉ざされて、山を描くように両端が下げられ…
さらには、その顔自体の造詣をあやふやにしか映らなくさせる、野暮ったく長めの前髪。
そういった要素に加え、無機質で無表情、さらには人を寄せ付けない刃のような研ぎ澄まされた雰囲気。
それらが、せっかくの美少女な容姿を目立たなくさせるものとなっている。
そのため、問題の彼――――高宮 涼羽――――の本来の魅力に気づく者はまずいないのだが…
今は、そんな険な部分が全て取り除かれ、その美少女然とした魅力が全て出てきてしまっている。
そのため、どこからどう見てもとびっきりの美少女にしか見えない状態なのだ。
そんな美少女顔の男の娘な彼に、これまた美少女がべったりと甘えている光景。
普通に見れば、美少女同士がゆりゆりしているという、その属性持ちの人間には耐えられないであろう光景が、この台所で現在進行形で展開されている。
「…美鈴」
「え?」
「柊さんなんて呼ぶの、や」
「え?ええ?」
「美鈴って、名前で呼んで」
先程から涼羽に甘えっぱなしの美鈴から、さらにおねだりが飛び出す。
今度は、自分のことを名前で呼んで欲しい、と。
同年代の女の子の名前を気安く呼ぶ、ということなど当然経験することもなかった涼羽。
これには、さすがに困った表情が浮かんでくる。
「え?でも…女の子の名前を気安く呼ぶなんて…」
「お願い、涼羽ちゃん…」
「う…」
鼻と鼻がくっつきそうになるようなべったりとした距離で、上目遣いに涼羽を覗き込み、懇願するようにおねだりを続ける美鈴。
怜悧冷徹に見えて、実はお願いされると断れない涼羽にとっては防ぎようのない攻撃。
まして、自身がその包容力で包み込むべき(と認識してしまっている)対象が相手。
これには、涼羽も首を横に振るわけにはいかなくなってくる。
涼羽との距離感をとにかくなくしたい美鈴。
自分も名前で呼んでいるのだから、涼羽にも自分のことを名前で呼んで欲しい。
そんな想いに満ち溢れた、真っ直ぐな懇願。
美鈴の方は涼羽に何の断りもなしに勝手に呼び始め、なし崩しにそれで通してしまっていることなど、ないったらないのだ。
そんなことなど、どうでもいいことなのだ。
「涼羽ちゃん…お願い…」
とうとうそのくりっとした大きな瞳から、涙が滲み出し始めている。
これはもう、反則だ。
――――涼羽にとって、これはもう捨て置くことなどできないのだから――――
そんな甘えん坊のクラスメイトの涙を止めるべく、涼羽はその決意を行動に表す。
「わ、分かったから…泣かないで。ね?み…美鈴ちゃん?」
さすがに抵抗感はあったものの、それを使命感でねじ伏せ…
少し戸惑いながらも、彼女の望み通りに名前で呼んであげることを成し遂げた。
傍から見れば、実にそれだけのことなのだが、当の美鈴の反応は…
「!!涼羽ちゃん…えへへ♪」
その目に涙が滲み始め、曇りに曇っていた表情が、一瞬でぱあっと晴れ渡った。
造詣美的な可愛らしさだけではない…
幼い子供なら誰もが持っている…
先に生まれた者がそれを見れば思うであろう、『護ってあげたい』という思い。
そんな、庇護欲を誘う純粋で幼げな可愛らしさ。
そんな可愛らしさが、美鈴から満ち溢れていた。
「涼羽ちゃ~ん♪だあい好き♪」
涼羽に名前で呼んでもらえたのがよほど嬉しかったのか…
べったりと抱きついたまま、涼羽の頬に自分の頬を擦り付けてくる。
そんな美鈴が可愛らしく、見ていて微笑ましいのか…
「ふふ…はいはい」
その慈愛の女神のような笑顔を彼女に向け、優しく頭を撫で続ける。
今年で十八歳になるという、年頃の男女の雰囲気とはまるで違う…
まさに母と幼い娘のような、ほのぼのとした微笑ましい雰囲気。
それでいいのか、というツッコミをしてくれる存在がこの場にいるはずもなく。
むしろ、そんなツッコミ自体が無粋だと言えるこの雰囲気。
そんな和やかな雰囲気に満ち溢れている、今の二人。
当人達は、幸せそうな笑顔をお互いに向けているのだから、いいのではないだろうか。
「さ、美鈴ちゃん」
「?なあに?」
「そろそろ始めよっか」
「?なにを?」
「美鈴ちゃんが大好きな、料理を…ね?」
「!!うん!!」
そう。
今日この日、美鈴がこの高宮家に来た目的。
それを当人である美鈴が忘れていても、涼羽の方は忘れていなかった。
言い換えれば、美鈴にそれを忘れさせてしまうくらい、涼羽が美鈴をとろとろに甘やかしてしまっていた、とも言えるのだが…
その目的を思い出させてくれる一言に、美鈴の顔にまた、とびっきりの笑顔が浮かぶ。
それを見て、涼羽の顔にも、また慈愛に満ちた笑顔が浮かんでくる。
「そろそろ作らないと、晩御飯が遅くなっちゃうし、羽月を待たせちゃうしね」
今は兄である涼羽の部屋で夢の世界に飛び立っている妹、羽月。
その羽月のことを思って、浮かんでくる涼羽の笑顔。
今は妹、羽月に美味しく食べてもらえることが嬉しくて…
常に鼻歌交じりの笑顔で料理に勤しんでいる涼羽。
妹、羽月もまた、そんな涼羽が大好きで、常にべったりと甘えてくる状態。
そんな羽月が今、一番好きなのは…
涼羽にべったりと抱きつくこと。
涼羽の胸に顔を埋めて甘えること。
涼羽のおっぱいをちゅうちゅうすること。
涼羽になでなでされること。
…と、とにかく涼羽とべったりできること、涼羽に甘えられることが好きな状態。
もう今では一人で寝ることができず、常に涼羽の布団に潜り込んで涼羽にべったりしながらでないと眠れないほど。
そんな羽月に対しても、困った顔をしながら、お小言を言いながら…
それでも、とびっきりの慈愛と包容力で妹を受け入れ、目いっぱい甘やかしてしまう涼羽。
もちろん、妹におっぱいをちゅうちゅうされていることなど、誰にも知られたくないことに変わりはないのだが。
それでも、目いっぱいの笑顔で喜んでくれる羽月が可愛くて、決して拒むことなどできない今の涼羽なのであった。
「む~~~~っ…」
羽月の名前が涼羽の口から飛び出すと、それまでご機嫌だった美鈴が急に頬を膨らませて不機嫌になる。
不機嫌になりながらも、涼羽の華奢な身体をよりぎゅうっと抱きしめてくる。
「?どうしたの?美鈴ちゃん?」
「や」
「え?」
「今は、私だけの涼羽ちゃんなの」
「え?」
「今は、羽月ちゃんのことは言わないで」
「な、なんで?」
「だって、羽月ちゃんずるいもん」
「??」
「だって、お家にいたらいつだってこんな風に涼羽ちゃんに甘えられるから…」
「……」
「今は、私だけを見ててほしいの」
非常に子供っぽく、唇をやや尖らせながら自分の想いを言葉に、音にする美鈴。
そうしながらも、涼羽を決して離さないという意思表示のように、涼羽の身体をぎゅうっと抱きしめる。
涼羽の慈愛と包容力、そして母親としての母性本能を知ってしまった今の美鈴は、涼羽のそれら全てを自分だけに向けて欲しいと思うようになっている。
だからこそ、それらを無条件で目いっぱい向けてもらえる羽月が羨ましくてたまらないのだ。
そして、涼羽自身がそんな嬉しそうな表情で羽月のことを思うのが、許せないのだ。
要は、妹という立場を最大限に活かして涼羽に目いっぱい甘えられる羽月に対する嫉妬。
そして、涼羽を自分だけのものにしたいという、独占欲。
下の弟妹ができた途端に、両親の愛情がそちらに偏ってしまうような…
そんなもどかしくてやるせない想い…
それに似たような想いを、美鈴は今感じてしまっている。
そして、その想いが美鈴のヤキモチをより増長させることとなってしまっている。
だから、せめて今だけでもその慈愛を自分だけに向けていて欲しい…
そんな想いからの、美鈴の行動。
それを本能的に感じ取った涼羽は…
「ごめんね、美鈴ちゃん」
ふんわりとした優しい口調での謝罪。
それと同時に、優しく頭を撫でて美鈴をなだめようとする。
「ふあっ…涼羽ちゃん?」
「美鈴ちゃんがどうでもいい、なんてことはないから、ね?」
「え?」
「美鈴ちゃんがどうでもよかったら、こんな風なこと絶対にしてないから」
「……」
「だから、機嫌なおして?こんなことでいいなら、いくらでもしてあげるから」
「…ほんと?」
「うん、ほんと」
「…嬉しい」
「それに、羽月はこういうところで変に不器用で、一緒に料理させられないから…」
「……」
「だから、美鈴ちゃんだけだよ?一緒に料理する、っていうのは」
「…嬉しい」
「だから、一緒に料理しよう?分からないところは、俺が教えてあげるから…ね?」
「…うん!」
その慈愛を決して偏らせず、平等に接していこうとする涼羽。
そうして自分にも惜しみなくその慈愛を向けてくれる涼羽がたまらなく好きになっていく。
もうとっくに骨抜きにされているのに、さらに自分を骨抜きにしていく。
そうして、自分をとろっとろに甘やかしてくれる目の前のクラスメイト。
美鈴は、幸せいっぱいの満ち足りた笑顔を涼羽に向ける。
そして、大好きな涼羽と一緒に大好きな料理をできることを、心から楽しみにするのだった。
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