第18話 居場所

 海里に抱きかかえられた人物を見るなり、葉那は真っ青になって立ち尽くした。

「浅海っ。どうして」

 二人の再会はまさに数年ぶり。しかしそれを喜んでいる場合ではなかった。

 海里の腕の中にあった彼女は、生気を失ったように青白い顔を見せていた。それだけではない。巫女の装束はぼろぼろに破れ、体中の至る所に切り傷やら擦り傷を負っている。まさに瀕死の状態だった。

「浅海、しっかりして。ねえ、浅海ったら」

 葉那は駆け寄ると、夢中で話しかけた。しかし当の彼女は気を失っているようで、何の返事もしてくれない。痛ましい親友の姿に目からは涙がぼろぼろと零れ落ちた。少しひんやりとした浅海の腕をぎゅっと掴み、傍にぴたりと寄り添う。

「私よ、葉那よ。浅海、ねぇ、目を開けて」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に呼び掛けていると、突然ぱぁんと乾いた音が辺りに響いた。泣き喚いていた彼女を陽が引っ叩いたのである。

「落ち着きなさい。ご自分の役目をお忘れですか」

 葉那の腕をぎゅっと掴むと、陽はきつくそう叱責した。そして頬を押さえながら呆然とする彼女に代わって、てきぱきと指示を飛ばした。

「海里様、その方を早く中に。薬師が控えております」

 その言葉に頷いて見せるわけでもなかったが、海里は一目散に示された小屋の中に飛び込んだ。陽も彼に続いて行ったため、葉那も慌てて後を追う。


 海里は室内に用意されていた寝具にそっと浅海を寝かせた。

 まるで壊れものを扱うかのような丁寧さだったが、それでも葉那は浅海の傷が広がらないかとはらはらした。その彼女の隣では陽が泣きそうな顔をしていたが、気付くものは誰もいない。

「助けてくれ」

 海里は薬師に向き直ると、床にぴたりと頭を付けてそう懇願した。その悲痛な声に、一同は思わずぎょっとする。

 彼がこんな声を出すのを誰が聞いたことがあろうか。浦での海里をよく知る薬師も、普段とは全く違う彼の態度に多少の戸惑いを見せていた。

「頼む」

 海里にもう一度そう言われ、薬師は大きく頷いて、手当てを始めた。

 時折漏れる呻き声と葉那の啜り泣きだけが聞こえる中、薬師は真剣に浅海の傷を見ていく。彼の顔が時折歪むのは、それだけ彼女の傷が深いからであろう。誰もが無言で見守る中、年若い侍女がおずおずと口を開いた。

「あの、海里様のお手当ては」

 はっと、その場にいた者全員が海里を見やる。彼もまた傷を負っていた。しかも一見しただけで浅くはないとわかるものだ。

「海里様、あなた様も傷ついておられるではありませんか」

 陽がそう言って体に触れようとしたが、海里は無言でその手を振り払った。彼女は驚いたように目を見開いたが、再度手を伸ばそうとはしなかった。その代わりに、きつく唇を噛みながら体をわずかに震えさせている。泣きたいのを必死に堪えているのだろう。

 侍女達が心配そうに互いの顔を見合わせ、再び声をかけようとしたのを葉那が制した。

「無駄よ。あの方にとっては、ご自分よりもはるかに浅海の方が大切ですから」

 彼女のその声すらも、今の海里には聞こえていなかった。


 海里の目に映るのは苦しげな浅海の姿、耳に聞こえるのは時折彼女が漏らす呻き声だけだ。彼女の顔が痛みに歪む度、海里の眉間にも深い縦皺が刻まれる。

 出来ることなら浅海の痛みを全て引き受けたいと、心底そう思った。

「首の手当てをいたしますので、少しよろしいでしょうか」

 そう言われて少し場所を空けた海里に、薬師は軽く頭を下げた。

 あとわずかでも深かったら、致命傷になったであろう大きな裂傷である。

 兵の話では、彼女が龍を切り裂いたときに負ったものらしい。彼は紅の線を痛ましそうに眺めると、丁寧に薬草を塗っていく。

「大きさの割には、大したことはありません」

 海里の顔色が更に青くなったからか、彼はそう口にした。

「不幸中の幸いでしょう。他に負っている傷に比べて、ここだけは割と浅いのです」

「助かるだろうか」

 小さく呟いた海里の声は震えていた。

 薬師は思わず手を止めて彼の顔をまじまじと見た。自身の傷が重いことも影響しているのか、海里も浅海に負けず劣らず青白い顔をしていた。

「手は尽くしました。あとはこの方の生命力次第でございます」

 言い難そうにそう告げられ、海里は視界がぐらりと揺れるのを感じた。

 頬にそっと触れてみるも、その冷たさはここまで抱いてきたときのそれと変わらない。もし、このまま彼女から温もりが消えてしまったら。そう考えると気が狂いそうだった。

 手当を終えた薬師が下がった後も、海里は浅海の傍を離れようとはしなかった。臥せる彼女とその手を握りしめていた彼は、まるでそれで一つの置物か何かと思えるほどぴくりともしない。

 今の海里には浅海が全てだった。他者の存在はもちろんのこと、自身の傷の痛みすらも感じない。実際、葉那達が暇の辞を述べたのであるが、気付くことすらなかった。


 表に出た葉那は、ぐるりと周りを見渡した。

 急ごしらえの野営の其処此処には、負傷した兵達が伏せっていて、それぞれに手当を受けている。

 怪我人の多さからも、兵達の表情の曇り具合からも、今回が勝ち戦であったとは到底思えなかった。横たわる彼らに害を与えないように注意しながら、葉那は砲がいる天蓋付きの台座を目指した。

 葉那に気付いた彼は、侍らせていた手当の娘二人を下がらせた。彼女達は素直に応じたものの、去り際には葉那にだけそれとわかるように嫌味な視線を残していく。いつものことだ。

「お怪我の具合は?」

 つかつかと傍によって見れば、彼の体にもまた、所々生々しい傷が見て取れた。あまりにも痛々しいそれらに葉那は思わず顔を顰めたが、砲は包帯をばしばしと叩いてみせた。

「おう、この通りだ」

「ご無事で何よりです」葉那は本心からそう告げた。

 手桶の縁にかけられていた布を水に浸してぎゅうっと絞る。それでまだ手当ての済んでいない傷跡を拭いてやると、白い部分は瞬く間に血と泥の混じった赤黒い色に変わった。間近で傷を見るとやはり気が滅入るものだ。葉那は気付かれないようそっと小さなため息を漏らした。

「海里はどうしている?あいつのほうが酷い手傷を負っているはずだぞ」

 されるがままになっていた砲は心配げにそう尋ねた。葉那は浅海が臥せる小屋の方を見ながら、小さく首を振ってみせる。

「追い出されてしまいましたわ。今は何を言っても聞き入れないでしょうね。いつにも増して神経を尖らせていますから」

「浅海の具合はそれほど悪いのか」

「あれほどの傷、見たことがありません」

 自分で言ったにもかかわらず、葉那は背筋に寒気を感じた。

 浅海の傷は決して浅くない。むしろ、それが命取りになるほどに深いかもしれない。最悪の事態が頭を過ぎり、葉那はぶんぶんと頭を振った。

「一体、何があったのですか」

「風見様から教えられていないのか」

 聞く間もなく叩き出されました、とつんけん答えた葉那に、砲は呆れたように苦笑いを浮かべる。

「とにかく早く小河に行ってくれと、それだけを命ぜられましたわ」

 葉那はそう告げながら、いつになく取り乱していた彼の様子を思い出した。

 一所に落ち着いていられないかのように、庁堂の中を忙しなく動き回っていた彼は、事情を説明する間も惜しいとばかりに彼女達を急かしたのである。

「相手は武項様だったとか…」

 葉那は声を潜めると、砲にだけ聞こえるようにそっと問いかけた。情報源はその辺にたむろしていた兵達である。

 その通りだ、と砲はあからさまに不機嫌な声で答えた。

「引き連れていた賊達は、おそらく浦に潰された者達の残党だろう」

「浦に対する恨みから、武項様の力になったというのですか」

「いいや、そもそも奴らには主義も主張もないのさ。もう一度返り咲くためには手段を選ばない。おおかた浦を牛耳っている海里や俺を殺せば、武項様が元の地位に戻れるとでも考えたんだろうよ」

「そうして彼に取り立ててもらおうという算段ですか」

 ああ、とだけ言うと、砲は突然黙りこくった。気分屋な彼がこうなるのは珍しいことではない。葉那は特に気にせず話を続けることにした。

「それで肝心の武項様はどちらに?」

「さあな。戦の途中であの女とまたどっかに消えちまったよ」

 吐き捨てるように言った砲に共感するように、葉那もまた表情を歪めた。 

 星涙が浦から逃亡したとき、彼女も大きな衝撃を受けたのだ。別れの言葉も何もなく突然消えた彼女には失望さえした。

 砲はぶすっとした面のまま、足元の雑草を睨みつける。

「あの方と真剣に斬り結ぶ事があろうとは思ってもみなかった。どんなに堕ちようと、武項様あっての俺だからな。けれどそんな俺の気持ちは呆気なく踏み躙られた」

「と、おっしゃいますと?」

「武項様はあの女が辰国の奴らを率いてくるなり、あっさり勝負を投げだしたんだ。そして二人で姿を消してしまった。あの二人がいなくなった途端、敵軍は総崩れだ。俺達はそこを一気に叩き潰したってわけさ。最も海里ばかりは手こずっていたけどな」

「海里様とて剣術には優れているはずでは?」

「ああ。だが相手が悪かった。あの男、確か樹と言ったか。星涙に何を吹き込まれたのか知らんが、とにかく物凄い勢いで海里に突撃してきたのさ」

「では、あの怪我は」

「ああ、その男に負わされたものだよ。あの一騎打ちは凄かった、互いに鬼気迫る勢いだった。海里があれほど感情を露にしたのは、多分、玖波を攻めた時以来だ」

 浅海と何か関係がある者だったのかもしれない。葉那は何となくそう思った。でなければ、海里が戦場で取り乱すなど考えられないからだ。

「ところで…浅海に怪我を負わせたのは誰なのでしょう」

 問うまでもなく、葉那の中にはある確信があった。けれどさすがにそれを口にする勇気はない。

「いくら戦とはいえ、女である浅海をあれほどまでに攻撃できるものでしょうか」

 彼女の体に刻まれた傷跡の中には、切傷の他に火傷のようなものも混じっていたのである。

 あんな傷、普通の人間に為せるわざではない。葉那はごくりと唾を飲み込み、砲の顔色を伺った。

「わからない。俺も海里もその場にいなかったからな。俺達が駆け付けた時は、既にその辺り一帯は火の海だったんだよ。海里はその中に浅海を見つけ、俺達が止めるのも聞かずに突っ込んでいった」

 彼は悔しそうに表情を歪めると、歯軋りしながらそう答えた。その状況が目に浮かぶようで、葉那はつい自分の肩を抱きしめる。

「そう、ですか…」

「お前はあの女の仕業と考えているのだろう」

 砲は人の悪そうな笑みを浮かべると、じろりとこちらを見た。

「俺もそう思っている。だが確証がないんだ。それに浅海の近くにいた兵達は口々に、龍の仕業だと言っているし」

 龍という一語で、葉那の脳裏にはふっと星涙の痣が浮かび上がった。

 彼女の右肩にあった黒い痣は今でもはっきりと覚えている。あれは紛れもなく龍の姿を模ったものであった。

「まるで夢物語だが、あれは確かに現実だった」

 彼の言葉が偽りなどでないことは、ぐるりと周りを見渡してみれば一目瞭然だ。 川辺にいたという兵達の一角だけ、負傷者が格段に多い。ぱっと見ただけでも彼らの傷も浅くはなさそうである。

「明日には、発たれるのですか?」

「ああ。さっさと捕虜を国府に引き渡したいからな。だが、海里やあまりに傷が重い者は置いていく。お前は?暫くここに留まるのだろう?」

 彼の問いに葉那はこくりと頷いた。出来れば浅海が目を覚ますまでは、ここにいたかった。その思いはきっと海里も同じだろう。

 だが結局は、その願いは叶えられることなく、それから十日も経たないうちに二人とも浦からの呼び出しを受けることとなってしまったのであった。


「お怪我が癒えていないのは、皆様も十分に承知しております。ですが、どうしても、とのこと。どうかお戻りください」

 静養中の海里の元に、風見から遣わされた使者は、涙ぐまん勢いでそう切に訴えてきた。その言動が若干演技がかっているのは、何としてでも引っ張って来いと厳命を受けてきたからであろう。

 海里は外の景色を眺めながら、望み薄の願いを口にしてみた。

「わかっている。だが、もうしばらく時を貰えぬものだろうか」

 当然の如く、使者は困惑の表情を浮かべた。彼はもごもごと口を動かすと、言い難そうにこう告げる。

「御命令ですので」

「だろうな」わかりきっている事だ。尋ねてみたことすら、馬鹿馬鹿しい。

「明日の朝にはここを発とう。それでいいか?」

 掠れた低い声は、普段よりも数段冷やかさを帯びていた。使者は言葉を発するのも恐ろしいと言わんばかりに、何度も大きく頷いて見せた。

 接見が終わるなり、部屋に滑り込んで来た葉那に海里はこう問い掛けた。

「浅海は?」

 もはや合言葉のようになっているこの問いを、今ほど暗い声で発したのは初めてだった。そんな様子を不審に思ったのか、彼女はわずかに眉根を寄せる。

「何かあったのですか?」

 緊張した面持ちでそう詰め寄る彼女に、下された命令が嫌でも思い出される。海里はふうと息を吐くと、自分に言い聞かせることも兼ねて、一語一語しっかりと告げた。

「明日の朝、出立する。支度をしておけ」

 意に反する決断をしなければならないせいか、口調は自然と落ち込んだそれになる。何とも言えない不快感が胃の底の方からじわじわとせり上がってきて、口中はひどく苦かった。その不味さを誤魔化そうと、海里は手元にあった水を一気に飲み干した。

「明日、ですか?」

 いつもの強気さは形を潜め、彼女は腫れ物に触るようなびくびくした口調でそう尋ねた。

 さすがに付き合いが長いだけあって、こんな時に余計な口を利くものじゃないと察しているようだ。

「ああ。浅海はどうした?」濡れた唇を指で拭いながら、再度そう尋ねる。

「まだ眠ったままです」

 予想通りの回答に気が滅入った。

 どちらにせよ、今の段階で連れていくわけにはいかない。けれどそれでも、まだ目覚めぬ浅海を置いていくことは大いなる気掛かりだった。

「お戻りには陽様をお連れ下さい」

 海里の内心を察したのか、葉那はそう告げた。

 風見の命令はそうしろというものだったが、海里には応じる気はなかった。従わなければ、おそらく立腹されるだろうがこればかりは譲れない。

「いや、お前を連れて行く。代わりに陽をここに残す」

 案の定、葉那の顔は瞬時に険しくなる。

「ここに?陽様を?」

 わざとらしくゆっくりとそう言った葉那は、正気かと言わんばかりの目で海里を見てきた。

 浅海を嫌う彼女をここに残せば、いずれ火薬に火が付くのは間違いない。だがそれでも、わざわざそんな危険を冒すような手を打つことには意味があった。

「浅海を危険に晒さぬためだ」

 海里は溜息と共にそう吐き出した。

 辰国から連れてきた巫女を手元に置き、その身を滅ぼそうとしている武項。今また同じような状況で海里がそれをすれば、世間が何と思うかは火を見るより明らかだ。

「時が来れば、あれを佐間に移す。そして佐間の姫として私の元に呼び寄せる。そのための準備を陽にさせるつもりか?」

 有無を言わせぬ口調でそう言った海里に、葉那は驚いて何の返答もできないでいるようだった。当然だろう。浅海の処遇について、もっとも危険な賭けにでようとしているのだから。

「辰国の者であると察せられれば処刑される。それを阻めば今度は私が地位を追われよう。そうならぬよう、浅海を佐間に戻すのだ。決して星涙様の再来とは言わせない」

 

 

 翌日、海里は予定よりも早く浦に到着したというのに、休む間もなく国府へと向かう羽目になった。

 息せき切って庁堂に駆けこむも、そこには下級の役人達がそわそわした様子でたむろしているだけで、風見達の姿はなかったのである。聞けば、彼らは既に国府へと発った後で、海里にもそうするように伝えを走らせていたはずということだった。

「お、おそらく、伝令が誤ったものと…」

 たまたま海里に捕まった役人は、気の毒になるほど震えながらそう答えた。海里はそんな彼を無視し、すぐさま踵を返して厩舎へ向かった。そして早馬用に鍛えられた黒馬に飛び乗って、一目散に南を目指したのだった。

 朝一番で小河を発っただけあって、日が高くなる前には国府の門前に着けたけれど、それでもやはり朝の議に間にあう時刻ではない。

 海里はいつもなら決してしない無茶を、人で賑わう通りを馬で一気に駆け抜けるという行動を選んだ。が、それは大失敗に終わった。庁堂までもうあとわずかというところで、警護の兵達に足止めをくらってしまったのである。

「そこの者、止まらぬか」

 五、六人の兵達が壁のように立ち塞がり、携えた各々の武器でこちらの行く手を阻む。何本もの槍が重なり合って檻のようになり、海里はその中に完全に閉じ込められた。

「何者だ。名を名乗れ」

 正面の髭を生やした男が野太い声でそう問い掛ける。戦の直後ということもあって、警護はおそろしく厳重だった。

 よく見れば、ここから庁堂までのあまり長くない距離に相当数の兵が置かれている。ここで無理強いをするのは、あまりに馬鹿な行動だ。海里は自分の浅はかな振舞を後悔しつつ、大きく息を吐いた。

「浦郡、中ノ海里だ。通せ」

 途端に兵達の顔色が変わった。正面の男は、しまったという顔をして気まずそうに一歩後ずさる。

「無礼を致しました。申し訳ございません。どうぞお通り下さい」

 彼がいやに丁寧にそう告げると、周りの兵達もこぞって頭を下げ、剣先を下ろした。


 戸や窓をぴっちりと締め切られた庁堂の中は、殺伐とした空気で溢れていた。近隣の郡司や造からの使者が雁首揃えており、皆それぞれに難しい顔をして呻っている。だが、上座の中央は当然空席のままだ。

「それで、これからどうなさる御積りだ?」

 七加の司、河合かわいは嫌味ったらしくそう言うと、あからさまに攻撃的な視線を風見に注いだ。

「辰国を滅ぼしたこと、それは大手柄に値しよう。けれどそもそもの標的は浦の司であろう? その相手は眼前で取り逃がした上、兵達まであんなに傷つけられて。誰が、どう責を取る?」

「そうだ。結局は何も解決していない」

「砲殿、そなたはわざわざ山奥まで奴を得に行ったのか?」

 彼に続いて、各郡の司達も口々に三臣を責める。

 武項という拠るべき柱を完全に失くした三臣は、今まで不遇を強いられてきた郡司達にとって格好の獲物だった。

 いくら武項が賢政を執ろうと、その裏で邪魔者を闇に紛れて次々と排斥してきたのは事実。まるで造に成り代わったように東国全土に幅を利かせ、事実上浦に全ての権を集めた武項への恨みは根深かった。彼の下で実際に手を動かしていた三臣への感情がどんなものかなど言うまでもない。

「風見殿。造様は何と?」

 一番末席にいた伊佐にそう問われ、風見は小さく答えた。

「一先ず私に浦の全てを預ける、と」

「ほう。ならば今後の策が決まっているのだろうな。無論、荒居への謝罪も含めて」

 河合はそう言って、隣にいた者と顔を見合わせた。二人は嘲笑を浮かべながら、一同をぐるりと見渡す。

「大事な姪御を手にかけられ、その上、御自身の二の姫も姿を消された。広野殿もさぞかし気落ちされていることだろう」

 顎を突き出して全員を見下す様な恰好の彼を、海里はつい睨みつけそうになった。

 謝罪を受けたいのはこっちの方である。娘同然の姪が度々自邸で追放者と密談していたのに気付かないとはどういう事だ。そう責めてやりたかったが、生憎、当の広野はこの場にいなかった。

 力とナミが亡くなった夜、事情を姉に打ち明けた後、茜もまた行方を眩ました。彼女の罪は公にされていないが、留まれば十中八九捕まると踏んだのであろう。おそらくは谷田と安住を頼って奈須に逃れたのであろうが、その足取りは未だ不明のままだ。陽も彼女のことはわからないと言っていた。仁義に厚い広野は、自分に降りかかった事実を受け止めきれず、心労で臥せってしまったのである。

 思いも寄らぬ場所から現れた敵にしてやられたことが、海里には悔しくて堪らなかった

 まさか、茜が、ナミが、谷田と繋がっていたとは考えもしなかった。

 何の害も無い様な娘達を巧みに操り、側面からこれだけの大打撃を与えてくるとは、さすがは策士の谷田と安住である。今回のことは、彼らの力量がまだまだ衰えていないことの証。そして同時に、三臣の未熟さを浮き彫りにするのに十分な事であった。

 悔しさに唇を噛んだ海里だったが、その思いは隣の砲も同じだったようだ。彼は俯きながら、絞り出すようにこう言った。

「広野殿にも非はある。だが今はそれを糾弾する時ではない」

「砲殿?」八里やさとの司が、目を見開いて尋ねる。

 砲は急にだんっと立ち上がると、ある人物に人差し指を突き付けた。

「そうだろう?奈須と密な関係にある、七加の司、河合殿」

 集った十数人にざわめきが走る。その中で風見だけが冷静な顔をしていた。

「前回の戦も、此度の戦も、全てお前の企みだ」

「何を、馬鹿な事を」

 そう言った河合の額には、一気に冷や汗が吹き出した。

「証拠は上がっている。奈須と手を組み、関所の警護を緩めて谷田をこちらに通していたのも、広野を陥れようと先代の造の書状を偽装したのも、全てお前のやったことだ」

「貴様。でたらめを申すな」

「河合殿。残念ですが、砲の言う通り、証拠も証人も既にこちらの手の内にございます。引き際が見苦しいのは、郡の司として情けないと思いませんか」

 風見がそう言うなり、外に控えていた数名の兵が飛び込んできた。彼らはまっすぐに河合の元に向かい、あっという間にその身を拘束した。

「図ったな」

「図ったのはあなたの方でしょう。私達は法に基づいて裁きを下すだけにございます」

 憎々しげに睨みつけてくるのを軽く受け流した風見は、爽やかな笑みと共にそう告げた。往生際悪くジタバタしながら連行されていく彼を、残された司達がぽかんと眺める。

 今回ばかりは、海里も彼らと同じ顔をしていた。こんな結果が用意されていたとは、聞かされていなかったのである。

「皆様。再度お伝えいたしますが、造様は風見様に浦を任されると仰いました。異論ございませんね?」

 砲の太い声が部屋に響くなり、全員が示し合わせたように同時に頷いた。その表情は能面のように固まっている。

 ここで下手に異議を唱えれば、遅かれ早かれ、確実に七加の司と同じ道を辿る。皆、それに恐怖を感じていたに違いない。

「先の浦の司は必ず捕え、そして相応の処罰を下しましょう。次の司が決まるまでのしばらくの間、私達三臣が欠けた穴を埋めてみせます」

 風見はそう告げると、艶っぽい微笑を浮かべた。

 武項のように漲る情熱が表に出るわけではないが、その瞳には彼以上の意志の強さが窺える。浦の平穏、そして東国の安定。それに対する彼の思いは本物だ。

 自らの綻びを指摘されることを懼れたのか、集っていた者達は退出の辞を述べると、我先にと逃げるように立ち去っていった。


「寸劇を見せるために、わざわざ私を呼びつけたのですか?」

 足音が聞こえなくなったのを充分に確認した後で、海里は呆れの溜息と共にそう尋ねた。

 浦に着くなり、屋形に戻る暇すら与えられずにここへ召集されたのだ。それなのに見せられたのは、迫真の演技でこそあれ、結末の用意された舞台。文句の一つも言ってやらねば気が済まなかった。

「寸劇とはご挨拶だな」砲が苦笑いを浮かべる。

「お前だけ仲間外れではあんまりだと思って、呼んでやったのに」

「議論にすら加えられていないのは、仲間外れではないのか?」

 平静を装うつもりが、どうしても刺々しくなる。久しぶりに味わう子供染みたこの感情は、まさかの焼きもちかもしれない。

「済まなかったね。時が惜しかったんだ」

 風見に宥めるようにそう言われ、海里は仕方なく口を噤んだ。これ以上がたがた言っては、本物の駄々になってしまう。

「このまま河合を泳がせておくと、谷田の手の者がどんどん東国に入り込んできてしまうからね。海里もきっと同意してくれると思って、勝手に進めさせてもらったよ。ところで怪我はどうだい?」

「完治まではいきませんが、まぁ何とか」

「そうか。無理をさせて悪かったね」

 無愛想に答える海里を何も気にせず、風見は微笑んだ。先程の攻撃的なそれとは違って、今のは仲間にだけ見せる親愛的なものだった。 

 彼の言う通り、もし事前に話を聞かされていたとしても海里は反対しなかっただろう。別に意を無視されているわけでもないし、無理矢理小河を発たされた部分以外は特段不満も無い。ただ、何となく胸の辺りがもやもやする。風見はそんな海里の内心を読んだのか、くすりと笑んだ。

「お前の言う通り、さっきのは寸劇だ。本番はこれからだよ」

「何の話ですか?」訝しがる海里に、今度は砲が続ける。

「数刻前に海辺の民から妙な報せを受けた。この数日、夜になると浜に見慣れぬ男女が現れるそうだ。二人とも長身で、月光に照らされる姿は言い伝えの月夜見神さながらだと。民達は満月と共に神が降り立ったと噂しているらしいらしいぞ」

「それが武項様達だと?」

「個人的には、十中八九そうだと思う」風見は強い口調で言い切った。

「始めはきた郡の浜。どうやら次第に南下しているようで、昨晩はひたし郡だった」

「となれば近いうちに、荒居や国府に現れるやもしれませんね。」

 海里の言葉にも熱が籠る。風見はこくりと頷くと、白い指を絡ませ始めた。答えを求める時の彼の癖だ。

「それでは私は久慈くじに向かいましょうか。そこから噂を追って南に下ります。砲には国府側から北上してもらいましょう」

「ありがとう」

 満足いく解答がでたことで、風見は嬉しそうにふっと笑い声を漏らした。

 やはり気心を知り尽くした間柄は楽でいい。政敵との殺伐とした遣り取りとは訳が違う。

「念のため、北や浸には兵を置いてある。お前の判断で好きに使ってくれ」

「ああ」

 海里は風見が広げた図面を指でなぞりながら、頭の中で経路を組み立てた。砲と挟み打ちを掛ければ、当然武項達は分がある海里軍との戦に応じてくるはずだ。

 敵は二人か、もしくは烏合の衆。けれど将が有能であれば、いくらこちらが大軍であろうと勝ち目は少なくなってくる。

「俺達は少数精鋭で行く。その方が身軽に動けるからな。情報収集しながら進むのであれば、逆にお前達に数がいた方がいいだろう」


「そうだ、海里。陽はまだ小河だろう?早々に荒居の屋形に帰して、必要とあれば同行してもらうと良いよ」

 砲と幾つかの細かい詰めをしている最中、風見は思いついたようにそう言った。 その時、彼の顔にほんの一瞬だけ、残念そうな色が浮かんだのは、きっと気のせいではない。

 おそらく彼は最初から陽を利用する事まで含めて計略を立てていたのだろう。それなのに海里の勝手な判断の所為で、そこに僅かな綻びが生じてしまった。だからと言ってこれが失敗につながるという懼れは無いだろうが、完璧さは失われた。完璧主義者の風見にとっては面白くないに違いない。

「出立は夜明けだ。頼んだよ」

「はい」

 海里は大きく頷き、扉の前で深々と一礼した。そしてそのまま部屋を出ようとしたのであるが、あることを思い出して、もう一度彼の方を振り返る。

「風見様、一つだけお願いがございます」


 私邸に戻ると、意外な人物が訪れていた。

 支度を改めて客間に赴くなり、先に部屋に通されていた伊佐が、がばっと頭を下げた。そのあまりに大袈裟な振る舞いに、海里は何となく気まずくなる。彼がこうして自分を待っていた理由は一つしかない。

「此度の戦で私は浅海を連れ帰りました」

 海里は覚悟を決めると、そう告げた。当然、伊佐の顔には複雑な表情が出来上がる。

「以前お伝えした通り、彼女は辰国にいました」

「ああ。砲殿から伺っている。内密にだが、浅海を連れ戻して下さったということも」

 伊佐は次の句を躊躇っているようだった。視線は不自然に床を泳ぎ、鼻息が多少荒くなっている。

 彼の言葉を待つべきか、それともこちらから打ち明けるべきか。海里の思考にも迷いが生じた。

 暫く続いた無言を破ったのは、伊佐だった。落ち着かなさげに口を開いたり閉じたりしていた彼はようやくこう告げた。

「やはり、あの、娘も…」辰国の捕虜として、処刑されるのか?

 怖ろしさに最後までは言えなかったのだろう。だが不安に満ちたその眼差しを見れば、彼の問いは容易に察せられる。海里は一旦間を置いてから、ゆっくりと答えを告げた。

「国府へは引き渡していません。彼女は小河おがわにいます」

「小河? と言うと駐屯地の?」

「ええ。傷が癒えず、まだ眠ったままですが」

 伊佐は天と地がひっくり返ったかのように驚いた顔をした。海里は思い切って胸の内を明かすことにした。

「伊佐殿。浅海を、私の妻に貰い受けたい」

「つ、妻? まさか、本気か?」

 勿論と頷いて見せた海里は、この数日で考え抜いて出した結論を一つ一つ、彼に説明した。

 浅海のこれからの行き場、風当たりが強くなるであろう彼女の護り方。そして二人で歩んでいくためにしなければならない大きな決断。全てを浅海の父親である伊佐に説いたのである。

「この地位を捨てても、いや、たとえ己の命を失ったとしても、私は二度と浅海を手放しません。だからどうかお許しください」

 海里はそう言い終えるなり、べったりと床に額づいた。

 何もかもを振り乱して、ただひたすらに願うのは結婚の許し。共に生き、共に喜び、そして彼女を自分と共に苦しませることの許しだ。

「中ノ殿、頭を上げてください」

 伊佐の静かな声で、海里はちらと彼を見上げた。そこには穏やかな父親の顔があった。

「娘が何のために東国を捨てたのか、その位、儂もわかっております」

「伊佐殿…」

「親馬鹿かもしれんが、浅海は心根の優しい娘だ。その娘が儂らを苦しめ、中ノ殿を傷つけることを知っていても尚、あの行動を選んだ。そこまでしてそなたを想う娘を今更どんな言葉で言い聞かせられましょう」

「それでは」海里はぱっと顔を上げた。伊佐は苦笑を浮かべる。

「無論、そなたと共に生きることは、平穏とは程遠いかもしれません。でも浅海もそれはきっと覚悟の上でしょう。中ノ殿、こちらこそお願い致します。娘をそなたの傍らに置いてやってください」

 海里は真っ直ぐに伊佐の目を見て、そしてもう一度深々と頭を下げた。

 ぽかぽかと温かい感情が胸一杯に満ちてくる。これでようやく舞台を整えられる。浅海を迎えに行ける。海里は床に向かって、満面の笑みを浮かべていた。



 目覚めてまず感じたのは、頬を伝う涙の冷たさだった。

 悪夢というより、むしろ未来。夢の中の浅海は傍観者だった。その場にいることの出来ない苦しみと、それを眺めることしか出来ない無力さ。ああする他なかったと言い訳しても、どんなに希っても、状況は何一つ変わってはくれなかった。

 目の前に広がる惨劇に耐えかねて悲鳴をあげた瞬間、目が覚めたのである。

「ここは?」見慣れぬ部屋に、動悸は更に高まる。

 とりあえず起きようとしたが、体は固まったように動かなかった。それでも無理に動かそうとすると、腕も肩も背も腰も身体中の至る所に痛みが走る。結局どうにもならなくて、浅海はそのまま大きく息を吐いた。

 目だけで様子を伺ってみれば、なかなかしつらえの良い寝所だった。

 壁には寸分の隙間もなく、戸枠や窓枠は歪みなくがっちりと鉄で組まれている。扉の取っ手もただ削り取っただけのそれではなくて、きちんと金物がはめ込まれていた。

 何がどうなった? 浅海はこめかみを強く押しながら、一から順に記憶を手繰り寄せた。

 最後に目にしたのは、白金を溶かしたような激しい閃光だった。光に呑まれそうになっていた星涙を追って、そこに夢中で飛び込んだような気がする。が、定かではなかった。

 戦は? 星涙は? そして海里は? 確かめたい事はたくさんあったが、こんな恰好ではその術がなかった。

 せめて立ち上がれれば。そう思ってもう一度腕に力を入れたそのとき、入口の戸が軋む音を立てた。

「あら。お気付きになったのですか?」

 入って来たのは女性だった。だが逆光で顔はわからない。彼女はまるで浅海が気付くのを期待していなかったようにそう言った。

「さすがにもう眠れませんか」

 どこか聞き覚えのあるその声には、こちらへの悪意しか含まれていない。浅海は相手を確かめようと目を細めた。

「あなたは、荒居の」

 一の姫、陽。昔の様な華やかな格好ではないにせよ、そのつんとした気の強そうな面差しは、彼女に間違いなかった。浅海に向けてくる敵意に満ちた眼差しも…。

「ええ。中ノ様から、あなたのことを任されましたので」

 彼女は嫌味っぽくそう告げると、手にしていた水や食料を枕元に置いた。一つの音も立てない丁寧な所作であるのに、なぜか粗雑に思える。

「海里、いえ、中ノ様は今どちらに?」

「とっくに浦にお戻りになられました。戦からもう何日経っているとお思いですか」

 知るわけがない。浅海はそう言い返したい気持ちをぐっと堪えた。

「では、ここは何処なのでしょうか」

「小河でございます。あなた様の郷里に近いのではありませんか?」

 彼女はぶっきらぼうにそう告げると、値踏みする様に浅海を眺めた。

 まさしく上から目線でじろじろ見られている内に、だんだん気分が悪くなってきた。元気なら跳ね起きて文句の一つでも言ってやりたかったが、どう頑張っても今は無理だ。

「お気づきになられたこと、浦に報告いたしましょう。あなた様の処遇は追ってお伝えいたします」

 陽はふんっと鼻を鳴らすと、そのままくるりと踵を返した。軽やかな裳がふわりと舞う。

「陽様、あの」まだ聞きたいことはたくさんあるのだ。

 だが、待ってという頼みはちっとも聞き入れられずに、戸はばしりと閉められてしまった。

 気分的には腕を目いっぱい伸ばして引き留めたつもりだったが、実際は指を多少伸ばしただけだったのである。

「何よ、あれ」

 次第に遠ざかる彼女の足音と裳の衣擦の音。彼女の気配が完全になくなったのを確認して、浅海は思い切り天井に毒づいた。

 まさか東国に戻って最初に会う人間が彼女であるなど考えもつかなかった。海里でも葉那でも、まして家族でもなく、一番の恋敵に会うなんて。誰かの嫌がらせとしか思えない。

 これも悪夢の続きかもしれない。そんなことを考えながら、浅海は再び瞼を閉じた。


(では、佐間…)(けれど、まだ体が…)

 いつしかまた眠ってしまった浅海は、戸の外の話し声で目を覚ました。

「早くしろと、中ノ様はそう仰ったのでしょう」

「いや、出来るだけと言っただけです。怪我はまだ癒えていないのでしょう?ならば、もう少し待った方が」

 一人は確実に陽だった。もう一人はおそらく若い男。話の内容を聞き漏らすまいと、浅海は耳をそばだてた。

「いいえ、これ以上は時の無駄です。いつまで私にこんな処で婢のような役目をさせるおつもりですか」

 彼女が憤懣露わにそう言うと、男は困ったように溜息を吐いた。

「お気持ちはわかります。けれど、これは海里様の御意思で」

「ええ、わかっております。だからこそ私も従いました。けれどもう限界です。動けないというのならば、担いでお届けしたらいかが? さっさと佐間に御戻しになった方が、御本人にしてもよろしいでしょう」

 まるで積荷のような言われ方だった。浅海への情などこれっぽっちも感じられない。彼女に比べれば、まだ菫の方が浅海を思っていてくれたかもしれない。内心でそう思っていると、突然戸ががらっと開けられた。

「お聞きになったでしょう。今後の身の振り方は、今言った通りですわ」

 起きていると知った上での暴言だったとまでは思わなかった。浅海がぽかんとしていると、彼女の後ろから見知った青年がひょこっと顔を見せる。

「あのぅ、お久しぶりです」勇は顔に苦笑いを浮かべながらそう言った。

 多少は気の許せる相手の登場に、浅海はようやくほっとした。気が緩んだせいと、懐かしさで自然と笑顔になる。

「本当に久しいこと」かれこれ五年の歳月が経っていたが、一目で彼とわかった。

「あなたも、浦に?」

「はい。今は海里様の命を受けて、こちらに」

 にこやかにそう告げる彼の横では、陽は隠しもせずに苛立った表情を見せていた。彼女にしてみれば、浅海と海里の側近である勇が親しげに話すことすら許し難いのであろう。

 彼女は無言のまま浅海のすぐそばまで来ると、不快に思えるほど礼儀正しくその場に座り込んだ。

「先程、浦から早馬が参りましたわ。あなたの処遇について」

「外でお話になられているのが聞こえましたわ。私を佐間に担いでいくとか」

 冷え冷えした陽の口調につられて、浅海のそれもつんけんしてしまう。すると、今度は彼女もそれに乗って来て、二人の会話は言い争いになりそうな勢いになった。

「お一人では動けないというのならば、そうする他ありませんでしょう」

「結構です。自力でどうにか向かいますわ。あなた様こそ、早々に荒居にお戻りになられたらいかがです?」

「言われなくても、すぐに戻ります。私はこの地の後始末を中ノ様からお任せされただけのこと。ここを引き払えば御役目は終わりですわ」

 まるで戦で出てきた塵のように言われて、浅海の頭にはかぁっと血が上った。たとえ事実であっても、隠すことなく邪魔者扱いするなどあんまりである。

 怒りに任せて起き上ろうとしたが、やはりまだ体は動かなかった。微動しかできない浅海の様子を、陽は、ふふんと言った調子で眺めた。

「お二人とも、どうぞ冷静に」

 ばちばちと視線を交える女達におろおろしながらも、勇はそう口を挟んだ。

 大きな体をこれでもかと言うほど委縮させる彼を、陽が思い切り睨みつける。勇は彼女から目を逸らすと、床に向かってこう告げた。

「とにかく海里様は、浅海様の良い様にとおっしゃっておられました。ですから、」

「今すぐに出ていきます。それでよろしいのでしょう」

 彼の言葉が終るのも待たずに、浅海はそう言った。後先なんて考えられなかった。

 自らの意思でないにせよ、陽に面倒をかけているという状況がこれ以上続くのはとても耐えられない。浅海は呆れ顔の勇にこう言い放った。

「担ごうが引き摺ろうが構わないわ。私を佐間に連れて行ってちょうだい」


 

 結局、浅海が小河を発ったのは、その翌日のことだった。

 軋む体に鞭打って、どうにか動けるようにはなったものの、一人で立って歩くことなどは到底無理で、浅海は貴人の様に輿に乗せられることで話が着いたのだ。

 それでも勇は最後まで渋っていたが、浅海と陽とで無理矢理黙らせた。意図こそ違うが、二人の望む結果は同じ。彼女はさっさと浅海を手放したがっていたし、浅海も帰れるものなら早く故郷に帰りたかった。そしてこの何もわからない状況からどうにか脱却したかった。

「佐間に行けば、きっと何かわかる」

 何の根拠もないが、浅海の中では確信だった。

 単なる愛情や親切心で、海里が浅海の居場所を移そうとしたとは考えられない。そこにはおそらく理由が、政治的な黒い策謀があるに決まっている。未だ知らぬ事実が明らかになるのであれば、政の道具に利用されようが構わなかった。

 不安げな勇に見守られながら、揺られること数刻。浅海はようやく故郷に着いた。

 だが、懐かしい祖国を目にした第一声は、自分でも信じられないものだった。

「ねぇ。本当に、ここ?」

 眼下に広がるのは見慣れぬ景色。勇達が道を間違えたのではと、本気でそう思った。

 市の通りには見たことのない店々が立ち並び、商人達の威勢のいい掛け声が飛び交っている。大勢の人々の中には、見慣れぬ顔立ちのものや、変わった服装のものも少なくない。あんなに穏やかでのんびりとしていた風土は、どこにも見られなかった。

「佐間は、今や荒居や浦に次ぐ大郡です。変な輩に目を付けられても面倒ですから、顔を隠して下さい」

 勇に簾越しにそう告げられ、浅海は言う通りにした。

「どうなっているの?」

 強く巻き過ぎたようで声がくぐもる。少しだけ布の端を引っ張って、口元には多少の余裕を持たせてから、再度同じことを問い掛けた。すると、きょどきょどする浅海が可笑しいのか、彼はからかうような目で簾の中を覗き込んできた。

「今にわかりますよ」

 市を過ぎ、田畑を過ぎ、雑木林を抜けた辺りで、胸がじんわりと熱くなってきた。いつしか瞳にも水滴が溜まっている。前方にあるのは懐かしい我が家だ。

 目立たないようにと、勇達は表門ではなく、裏木戸の方に回った。どうにか戸は潜れたが、物置小屋から先の細い通路は輿では進めそうになかった。

「歩けますか?」勇は簾を上げると、心配そうに覗き込んできた。

 支えさえあれば、多分大丈夫だろう。浅海は曖昧に頷いて見せたが、彼は少し待つようにと言って、そのままどこかへ行ってしまった。

 いくら見知った場所とは言え、気心も知れない数名の護衛と共に待たされるのは不安だ。ただひたすら彼が向かったであろう母屋の方角を見つめていると、そのうちに慌ただしい物音が聞こえてきて、どたばたとこちらに数人が駆け寄って来るのがわかった。

「浅海」「浅海様」「姫様」

 集まって来た彼らは口々にそう呼んだ。目には浅海に負けないくらいたくさんの涙を浮かべて。

「本当に、あなたなの?」

 百合はそう言いながら、そろそろと簾の中に手を伸ばして来た。

 ぐすっと鼻を啜った浅海はためらうことなくそれを捉える。そして片手で彼女の手を握りながら、もう一方で顔に巻き付けた布を剥がした。自由になった黒髪がばさりと舞う。

「はい。私です。義姉上」

「あなた、本当に。今まで…」「浅海様、よくぞ御無事で」

 言葉を詰まらせた百合に代わって、彼女のすぐ後ろにいた草がそう続けた。が、彼もまたそこで区切る。誰も彼もが懐かしかった。浅海の我慢の堰は切れ、思い切り百合に抱きつくと、そのまま幼子のようにわんわん泣いた。

 草と勇に支えられながら屋形に入った浅海の元には、ほとんど屋形中の人間全員が押し寄せてきた。皆、浅海の姿を見るなり妖でも見たかのように凍り付いたが、そのすぐあとで顔をくしゃくしゃにして喜んでくれた。知らぬ者もちらほらといたが、大抵は昔から世話になった者達で、涙線は緩みっぱなしだ。

「まさか生きておられたとは。婆は嬉しくてなりませんぞ」

 幼い頃から面倒を見てくれた彼女を、浅海は優しく抱きしめた。別れた時はまだ老人と呼ぶには相応しくなかったのに、今ではすっかり腰の曲がった老女だ。

「婆は、これでもう思い残すことはございません」

「大袈裟なことを言わないで。まだまだ元気でいてもらわないと」

「お屋形様も奥方様も、さぞお喜びになられましょう。早くお顔を見せて差し上げなされ」

 その言葉に、浅海はぐっと詰まった。これだけの騒ぎだというのに、両親はその姿を見せない。

 大きな手で父に頭を撫でてほしいのに、母の柔らかな腕で抱きしめて欲しいのに、彼らは一向に現れなかった。

 拒絶、だろうか。そう考え付いた浅海はがくっと肩の力が落ちるのを感じた。

 よくよく考えれば、両親に今更どんな顔向けが出来るだろう。佐間を捨てて、東国を去った娘を二人が手放しに喜んでくれるわけがない。父や母の冷たい目を想像して、浅海は急に怖くなってきた。

 突然黙り込んだ浅海の頭をぽんと叩くと、百合は明るい笑顔を見せた。彼女の温和な笑みで心も幾分落ち着く。彼女はゆっくりと顔を上げた浅海の手に、そっと自分のそれを重ねた。

「義父上達は今、佐間にいらっしゃらないの。御屋形様は浦に、奥方様は竹の屋形にいらっしゃるわ。遣いもやってあるし、すぐ戻られるでしょう。それに智様も、もう」

 ほら、と言った彼女は更に笑みを大きくした。と同時にその場にいた全員が一斉に目を伏せる。そんな中、浅海だけが真っ直ぐに相手を見据えた。

「どうやら、本物のようだな」智は、こちらをじろりと見下ろしながらそう言った。

「よくもまぁ、今更のこのこ顔を出せたものだ」

 大分恰幅のよくなった体を揺らしながら、部屋の真ん中にどかっと座った彼は、再会を喜ぶでもなく、煩わしげにそう言った。その偉そうな口振りもしかめっ面も、昔から寸分も変わらない。

「…私にも事情がございます」

 どうにかそう言ったが、鳩尾の辺りには、ぽっかりと穴が開いた様な気がした。

 あの時、佐間を、家族を捨てたことは事実だ。もう二度と戻るつもりも、受け入れてもらう積もりもなかった。けれど突き放された寂しさは、覚悟していても堪える。

 浅海がそれ以上言い返して来ないとわかると、彼はわざとらしそうに唸って見せた。

「風の噂で、中ノ様が大怪我を負った娘を連れ帰ったと聞いている。だが、あの方は連れ帰った女を小河に留めているそうだ。あの方がわざわざ連れ帰る女とは、どのような者だろうなぁ。浅海、お前はどう思う?」

 彼のこの試すような言い方が癇に障るのは昔からだが、今はとびきりむっとした。浅海は、挑発するかのように髪の端をなぞりながら、わざと答えを濁した。

「さぁ。私はそんな話すら存じ上げませんわ」

「暢気なものだ。こっちはお前のせいで散々振り回されたというのに」

 智はふんっと鼻を鳴らすと、傍の脇息に肘をついた。そしておもむろに主だった者以外の人払いを命じた。警護の者や侍女までも遠ざけて、残った面々にもっと近付く様に合図する。

 草が扉を閉め、席に戻るのを待って、彼はようやく口を開いた。

「先日、中ノ様から正式な申入れがあった。長年、病床にある佐間の姫君を妻として娶りたいと、な」

 意味がさっぱりわからない。怪訝そうな顔をした浅海を、彼は鼻で笑った。

「私は答えに窮したよ。何しろ我が郡には行方不明の妹以外に年頃の娘はいないからな。心当たりが全く無くて、その通りにお答えしたら、数日の内には届くだろうと告げられた」

「届くって」それではまるで荷物だ。浅海は思い切り眉をひそめた。

「事実だろう。何年も行方の知れなかった妹が、どこからともなく運ばれて来たのだから。それに中ノ様はこうも言われた。姫には夢を見る悪癖があり、今の今まで居た場所すらわからなくなる時があるが、間違いなく佐間に留まっていたことを、兄君からも言い聞かせてやって欲しい、と」

 智はそこまで言うと、大袈裟に溜息を吐いてみせた。草と勇は互いに顔を見合せて頷き、百合だけが心配そうに浅海を見つめている。

 そういうことか。浅海はようやく海里の意図を理解した。

 彼は、浅海の過去を、辰国で過ごした数年間を全て捏造するつもりなのだ。辰国の巫女であったという事実すらも消し去り、本来なら処せられるべき刑から逃そうとしているのである。

「安心しろ。お前の事情は全て聞いている。私としては不本意だが、中ノ様に意に従わないわけにはいかない。事が落ち着くまでは、ここで大人しくしているのだな」

 彼はそう言うと、見たこともない様な穏やかな眼差しを浅海に向けてきた。あまりに珍しいものを見たせいで思わず身を引いてしまったのだが、それを百合がおかしそうに笑う。

「浅海。智様はね、あの噂を、中ノ様が戦場から娘を連れ帰ったという話を聞いてから、ずっと気が気でなかったのよ。もしかしたら浅海かもしれないって」

 彼は、おい、と横から口を挟んだが、照れているのは見え見えだ。

 どうやら、丸くなったのは体だけじゃないらしい。素直な兄は気味が悪かったが、浅海の顔は嬉しさに緩んでいた。

「私はただ、中ノ様の命にだな」「はい、はい」

 むきになって否定しようとする彼を、百合が宥める。夫婦の会話もすっかり板についていた。

「この郡がこんなに大きくなれたのも、全てあの方のお陰ですものね」

「その通りだ。市のあの活気を見ただろう。中ノ様が大陸からもたらされた技や道具をどんどん持ち込んでくれたおかげで、佐間は国府に次ぐ技術を手に入れたのだ」

 智は興奮気味にそう言った。百合もその隣でにこにこ頷いている。

「とにかく、佐間の今があるのは全て中ノ様のお陰だ。ここでは彼の言い付けは絶対、お前もそれは肝に銘じておけ。いいな」

 鼻息荒くそう告げた兄に逆らうのも気が引けて、浅海は素直に頷いた。


 体がそれなりに自由に動くようになってから数日が経っていたが、浅海はまだ部屋で鬱々としていた。智は怪我が完治していないというもっともらしい理由を盾に、浅海をほとんど軟禁状態にしていたのである。会えるのは彼が許したほんの数名だけだったが、その中には百合や草と、そしてようやく再会の叶った両親も含まれていた。

 それぞれ馬を飛ばして戻って来た伊佐と阿木は、浅海を見るなり、泣き崩れた。 別れた頃より少しばかり老けこんでいた彼らは、目元にくしゃくしゃの皺を浮かべながら、夢中で飛び付いた浅海を受け止めてくれた。

 勝手をした娘を咎めることもなく、ただぎゅうっと抱きしめてくれたのである。あんなに素直に甘えたのは、幼い頃以来だ。甘えついでにその晩は母の隣で眠ることにしたのだったが、よっぽど気が休まったのか、久しぶりに悪夢に魘されなかった。

 見慣れた景色と親しい人々に囲まれて暮らす毎日。ここでは誰もが優しくて、浅海を傷つけるものは何もない。昔と変わらぬ温かな幸せは、次第に浅海を現実から引き離そうとしていた。

 辰国のみんなは? 星涙は?

 案ずる回数も、自分では気付かない内に次第に減ってしまっていた。海里の思惑通り、暗くて冷たい記憶は少しずつ奥底に封印されようとしていたのである。

 

 窓から外を見れば、空は快晴だった。白く輝く太陽は青空の中央に高々と在って、こんな狭い空間に閉じこもっているのは、何だか勿体ない気がした。まだ癒えてない傷口は多少痛んだが、歩けない程じゃない。昼前のこの時刻なら、見張り役の草も屋形の見回りに出ているはずだ。

 簡単に布で顔を隠した浅海は、廊下に人の気配がないことを確認して、こっそり部屋を抜け出した。

 別にどこに行きたいわけでもなかったが、誰かに見咎められるのは面倒である。背で戸を閉めながら、浅海は最適な経路を考えた。

 前庭には当然門兵がいるだろう。かと言って、北門に抜けるためのごちゃごちゃした通路には、下働きの者達が詰めている。色々と考えて、一番人気のなさそうな、母屋の西側から続く厩舎への廊の裏を抜けることにした。結果、この読みは大成功だった。

 浅海は途中誰にも会うことなく、屋形の囲を抜け出して、小さな林の中にある川縁に辿りついた。

 変な緊張感からは解放されたものの、まだ鼓動はばくばくしている。少しでも楽になろうと、背後の大木に背を預けると、ごつごつとした木皮の感覚が薄い布越しに伝わって来た。地下から水を吸い上げる轟々という音に引き寄せられるように、浅海は後頭部を幹に押しあてた。

 すると不意に川下の納屋の方から話声が聞こえて来た。

「しかし、三臣の方々は相も変らず、冷酷非情なものだよ」

 やたらと尖ったその口調には、聞き覚えがあった。

 さっと身を隠した浅海は、相手に気付かれぬようそっと様子を伺ってみる。やはり思ったとおりだ。

 昔から智の腰巾着だった男。葉那にいじめられては泣きべそをかいていたような情けない奴なのに、陰口だけは大きくて、いつかは浅海を妻にしてみせると言っていた男である。

 つまらない過去を思い出したせいで、一気に気分が悪くなってしまった。

「昨日裁きにかけられた娘を見たか? まだまだ若い娘だというのに、嘆かわしいことよ。」

 顔見知りの方の男は用心深く辺りの様子を伺うと、わずかに声を低めてこう言った。するともう一人の男も小さく頷いてみせる。

「あぁ、あれは並大抵の女ではなかったな。あれほどのべっぴんを処刑しようとは、造様も勿体無いことをされる」

「造様の本意なわけがなかろう。あれは風見様と中ノ様の強行だよ」

 なるほどと言って手をぽんと叩いた男に、見知った方の男がわざとらしくため息をついてみせる。

「造様もその側近も生かしておいて妾にでもしたかったのだろうが、あの二人が決して許しを出さなかったのさ」

「どうして?女一人くらい助けたって別に構わんだろう」

「それは無理な話さ。ここだけの話、あの娘は星涙様の妹御らしい」

「嘘でしょう」

 星涙の妹、それはつまり菫のことだ。男があまりにもあっさりとそう言ったため、浅海は思わず声を出してしまった。しかし幸運にも、話に興じる彼らには届かなかったようである。

「道理で美しいわけだ。それじゃ待てよ。あの娘と一緒に引き摺られていった、兄ってのも星涙様の縁の者かい?」

「そうだ。そっちは弟だとよ」

「そうだったのか。随分酷い扱いだったと思ったが、それじゃ仕方あるまいな」

「あの兄妹の裁きは、風見様達が全権を任されていたらしいからな」

 顔見知りの方の男が、訳知り顔で腕を組みながらうんうんと頷いてみせる。

「冷酷な男だよ、中ノ様は。何か恨みでもあるのではと思うほど、徹底的にあの男を責め立てただろう? 既に気力もなくした相手によくもあそこまで辛く当たれるものだ」

 二人はそれからもしばらく会話を続けていたが、もう何も耳に入ってこなかった。そればかりか、浅海は男達が離れていったのも気がつかなかった。

 

 辺りが暗い朱に染まり影が大きく伸び始めたというのに、まだ動くことが出来ないでいた。完全に人気がなくなったその場で、浅海は一人、力なくしゃがみ込んでいたのである。

 樹が、菫が、皆が、処刑される。浅海を孤独から救ってくれた者達を、むざむざ死なせることになるのだ。それも海里の手で。

「嫌よ」

 罪悪感という言葉にまとめるには重すぎる感情に襲われ、浅海はそのまま頭を抱えてうずくまった。

 強い寒気に全身を襲われ、胃の奥からせり上がってくる吐き気にめまいがしてくる。戦で経験した修羅場の光景が脳裏を駆け廻り、その狭間で皆の笑顔が赤と黒で無惨に染められていく。そして目の前に砂嵐が巻き起こったかと思うと、浅海の思考はそこで途切れた。


 うっすらと開けた目に映った気がしたのは、やたらと低い天井と心配顔をした樹だった。朦朧とする意識の中、浅海は思わず手を伸ばして彼の名を呼ぼうとしたが、出来なかった。声が喉に張り付いてしまったように、ちっとも出てこないのである。

 何も言わない浅海に、樹の表情は次第に悲しげなものに変わっていき、そしてついには亡霊のように青白い姿になってしまった。浅海は必死に彼の手をとろうとするが、するりと擦り抜けてしまう。

「ごめんなさい。どんな償いでもするわ。だから許してちょうだい」

 涙ながらに何度も謝罪を繰り返すも、彼は悲しげな眼でこちらを見詰めるばかりである。

 もう一度、許してと告げる。そうして浅海が泣き崩れたと同時に、周りの空間が激しく揺れた。まるで薄氷が割れるように、一瞬の内に足場を失くし、浅海は暗い穴の中に落ちて行った。


「…み、あさみ、浅海ってば」

「…義姉上」

 薄ぼんやりとした視界には、心配そうに上から見つめる百合が映った。

 今度こそ本当に意識を取り戻したようである。浅海はきちんと布団を被って、自室に横たわっていた。

「浅海。あぁ、良かった」

 百合は安堵したようにそう言うと、温かい手で冷え切った浅海のそれを包む。

 どれだけの時間をあの木の根元で過ごしたのかはわからなかったが、指は白さを通り越して紫に近いような色をしていた。百合はほぐす様にそんな浅海の手を撫でてくれた。

「もう、この子は勝手に抜け出して、もし何かあったらどうする積りなの」

「ごめんなさい」

 ゆっくりと体を起こしながら、浅海はそう謝罪した。そして、そこで初めて兄がいる事に気が付いた。彼は百合のすぐ後ろで、般若の様な顔をしている。

「申し開きがあれば聞いてやらんこともない」

 智は不機嫌極まりない口調でそう言ったが、浅海には何の効果も無い。叱られるという意識はあったものの、彼のこんな態度は珍しくなくて、特に気にならないのだ。浅海は逆に彼を見据えた。

「聞きたいことがあるの」

 切にそう訴えた妹に、二人は怪訝そうな顔でお互いを見合った。智は眉をひそめ、百合も少し動揺を見せた。おそらく、浅海が言わんとしていることの察しが付いているのだろう。

「…国府で何が起きているの?」

 散々躊躇った後で、浅海はやっとそう問うた。たったこれだけのことを言うのに、口を開いたり閉じたりした所為で、口内はからからに乾いてしまった。

 本当は海里のことや、裁きのことも聞きたかったのだが、出来なかった。それを口にすれば、嫌な予感が現実のもとになりそうで怖かったのである。

 国府、海里、裁き。文字にすれば何でもない言葉の羅列なのに、今の浅海にはその全てにおぞましい意味が込められているように思えた。

 辰国の者達が連れられて行った先の国府で、浦の為政者としての海里が、皆を処刑するために裁きを下している。考えただけで寒気に襲われ、浅海は自分の体を抱きしめた。

「勝手な振舞をしたお前が、何処で何の情報を得たのかは知らんが」

 顎に手を当てて視線を天井へと移した智は、そこまで言うと疲れたように息をついた。話を逸らそうとするときの癖は、昔のままのようである。

「特段変わったことはない。いつもと同じだ」

「情け容赦の無い裁きが、いつものことなの?」

 浅海は言葉を濁そうとしている智に食って掛かった。このままでは、のらりくらりとかわされるか、逆上してこの場から逃れられるかのどちらかだ。そうなる前に是が非でも答えを引き出さなければならない。

「兄上。どうかお話し下さいませ」

 そう言って床から身を乗り出すと、彼は胡坐をかいている左膝に肘をつき、今度は床を見つめ出した。百合はどうしたものかと兄妹を交互に見遣っている。戸口に控えていた草も、弱り切った顔をしていた。皆、何かの真実を知っていて、それを浅海に隠そうとしている。


「何が知りたいんだい?」

 縋る様な訴えに寄せられた答えは、智からでも百合からでもなかった。

 予期せぬその声は、その場にいた全員の動きを止めるだけの効果があって、兄達はもちろん浅海も体を固くした。かちかちに固まった首を少しずつ回して、浅海はやっとのことで戸口を見た。

 そこにいたのは、すらりとした体躯に高位を示す黒の衣を纏って、悠然と壁に寄り掛かる男、風見だった。昔と少しも変わらない端正な彼の顔を、浅海は穴のあくほど見つめる。

「これは風見様。何時いらっしゃったのですか?」

 ようやく絞り出したのであろう兄の声は、ひどく裏返っていた。けれど風見はそれを気にも留めず、軽やかに答える。

「つい先程です。勝手に上がらせてもらった非礼は詫びましょう」

 彼の言葉に、兄夫婦はぶんぶんと首を横に振ってみせた。風見は大袈裟なその態度に軽く苦笑を漏らすと、顔にかかった前髪をさらりと払った。まさしく女顔負けの仕草だ。

 部屋に足を踏み入れた彼は、そのまま真っ直ぐ進んできて、浅海の前で片膝をついた。すぐ近くに彼の強烈な気配を感じて、浅海の体はより一層強張る。

「無事で良かった。本当に」

 風見は目を細めて、吐き出すようにそう言った。

 星明かりの下に見たのと寸分違わない彼の表情に、心臓はばくばくと音を立てた。

「海里からお前を連れ帰ったと聞いた時、私は複雑な思いだった。生きていてくれたという安堵と、過去の過ちへの罪悪感。どちらにせよ、会わせる顔は無かった」

 返す言葉が出ない。

 何を言えば良いのだろう。何が言えるだろう。

 今の今まで頭に在った三臣への責めの文句は、再会の衝撃で全部どこかに消えてしまった。

「お前の望みはおおよそ察しが付く。国府へ行きたいのだろう?」

 淡々と告げる彼に浅海は小さく頷いた。すると風見はその漆黒の瞳に柔らかな光を浮かべた。

「現時点での結論を言っておく。辰国の者達の裁きは粗方終えた。ほとんどは国府や各郡で奴として組み入れるが、中には極刑を免れぬ者もいる」

 あなた達がそうさせたのではありませんか。自分ではそう言ったつもりだった。

だが、声にはならなくて、浅海は潤んだ瞳を彼に向けたまま唇を噛んだ。

「国長の原矢、軍の将である火明。そして星涙様の弟である樹という青年。彼らの刑は数日後に荒居の浜で執り行う」

「荒居ですか?」

 何も言えぬまま風見を見つめる浅海に代わって、智が驚いたように問う。

「しかし、慣例ならば」

「智殿。悪いが外してくれないか?」

 口調こそは静かだが、絶対的な命令だった。

 一瞬、風見の威圧感に呑まれて固まった智であったが、我を取り戻すなり、百合を伴ってそそくさと部屋を出て行った。

「これで邪魔は入らない。浅海、少し深い話をしようか」

 戸がぴたりと閉まっているのを確認して、風見はそう言った。そしてこちらが見惚れてしまいそうになるほど綺麗な笑みを浮かべた。

 色白な頬にはらりとかかった黒髪のせいで、一見するとたおやかな女性のようにも見えるが、その瞳の奥にくっきりと映る冷たい黒色が、彼の本性を露わしていた。

「風見様。私は、」

 言わなくていい。風見は首を横に振って、そう浅海の言葉を遮った。

「あんな誓いはとっくに無効だ。それを決めた本人はもう浦にいない」

 けれど、と言い淀む浅海に、彼はすっと目を細める。

「あれは新月の夜だったね。忘れもしないよ。丈を刺した短剣を両手で握り締めながら震えるお前に、この国からの追放を無理に言って聞かせた」

「逃亡先に辰国を示したのも、風見様でございました。あなた様はこうなることまで」

「まさか。さすがにこうなるなんて予測不能だ。第一、武項様がああなってしまうなど、思いもしなかったからね。私はただ、念には念を入れただけさ」

 風見はそこで言葉を切ると、片方の口角を不敵に釣り上げた。

「浅海、一つ言っておこう。お前を辰国に行かせたのは私の独断だった。武項様も砲も海里も、行先は誰一人として知らなかった」

「何故です?」浅海は刺々しく問うたが、彼はそれをやんわりと押し返してきた。

「そうだね。良い様に言えばお前の命を護るためかな。居場所が知れれば、海里は是が非でもお前を取り戻そうとしただろう。それこそ何もかも、二人分の命を投げ出してもね。そうなれば全ては水の泡だ。浦をそして東国を完全に掌握するためには、あの時点で身軽な海里をこちら側に引き入れる必要があった」

 彼の言い分は尤もだ。が、それはあくまでも浦側の話で、海里や浅海にしてみれば政治の道具に利用されたに過ぎない。

「結果、私達は成功したよ。海里は心が壊れるほどに苦しんだけれど、その代償として絶対的な権力を手に入れた」

 言葉尻を強めた風見は、ちらと浅海の様子を伺った。何かを探る様な彼の視線と、浅海のそれが激しくぶつかる。心中が焼けるように熱かった。

 あの時、海里は確かに力を欲していた。自らの不安定な立場を強固にするような力を。それをわかっていたからこそ、浅海もすんなりと彼らの出す条件を呑んだのだ。

「だったら、それで充分のはずです」

 急速に身体に宿った熱のせいか、声は乾いていた。浅海は大きく唾を飲み込んで、続きを口にする。

「風見様や海里は既に力を得、東国を手に入れた。なのに自国を支配するに留まらず、他国までを滅ぼそうとしております。何故ですか?」

「何のためだったら、浅海は納得してくれる?」

 風見は間髪入れずに逆にそう問い返してきた。穏やかな声と同様、目尻こそ優しげに垂れているが、瞳の黒さは更に冷え冷えとした色を映している。何かを言い包め様とする時の海里と良く似ていた。

「今回の辰国攻めは、あの二人を捕縛するためだ。彼らを庇い立てした辰国の者達を許すわけにはいかない。そうじゃないかな?」

「ならば全ての責めは私にあります。星涙様をお護りすることを決め、結果として戦を引き起こしたのは私です」

「何の話かな。浅海、お前は佐間の姫君だ」

「貴方様まで御冗談をおっしゃるのですか。私は辰国の巫女でございます。兵達だって、私が連れられて来たのを見ていたはずです」

「兵にとって将の命令は絶対だ。砲が一言告げれば、それで済む」

 感情のままに涙声で責める浅海とは対照的に、風見はいたって冷静であった。彼はさらさらとした黒髪の中にその白い指を通しながら、静かに話を続ける。

「海里の思いを汲んでやれ。彼はあんなに苦しんでまで得た今の地位を失う覚悟で、お前をこうして佐間に連れ戻したんだよ」

 風見は珍しく感情論で話を進めてきた。が、そこに浅海自身の感情は含まれていない。

「私は辰国の皆に救われました。行き場のない私を生かしてくれたのは彼らです。第一、有りもしない病に仕立て上げて、この何年かを全部偽りで埋めるなんて出来るわけがありません」

「言いたいことはそれだけ?」

 いつしか怒りに満ちていた風見の声が、静かに部屋に響いた。

 彼の眉間には深い皺が刻まれ、口元は真一文字に結ばれている。きつさを一段と増した黒色の瞳から注がれる眼差しは、刃物のように尖っていた。最早、苛立ちと呼べる領域ではない。風見は本気で怒っていた。

「今更私に、いや海里に何を求める? お前の処刑も執り行えというのかい?」

 あまりの迫力に何も言えなくなった浅海は、彼から目を逸らすことも出来ないまま、硬直した。その一方で風見は凍るような冷笑を浮かべる。

「知っているだろう、海里は決してお前を誰にも渡さない。お前自身がどう思おうと、手放すつもりは更々ないんだ。その意味がわからないかい?」

 わかっている。海里が本当に強く自分を想ってくれていることも、その結果、暴挙ともいえる無謀な賭けをしようとしていることも、全部。そして彼は気付いていないだろうが、浅海自身も彼の想いに全身全霊で応えたがっていることもわかっている。

 それなのに尚も拒絶してしまうのは、辰国の皆への罪悪感に苦しむことを怖れているからだ。海里や風見を責めて、悪者にしておけば、浅海は悲しみに暮れるだけで済む。

 愛する者と共に在れる喜びと、苦しさにのた打ち回るほどの罪の意識。相反するその二つを手に入れ、それに挟まれれば、確実に引き裂かれてぼろぼろになるだろう。そうなる位ならいっそ今、皆と共に消えてしまいたかった。

「浅海。お前には、私と共に荒居に行ってもらうよ」

「……」

 そこは親しき者達の最期の場になるであろう処刑場だ。当然、行きたくはないが、風見の言葉は確実に命令だった。逆らえるわけもない。

 わかりました、とそう言う代わりに、涙がぼろぼろと零れてきた。風見はそんな浅海に心痛そうな表情を見せてくれたが、果たして本心かはわからない。

「辰国を出る時、お前は決めたはずだろう。海里と共に生き、共に苦しむ、と」

 鼻を啜りながら、こくりと頷く浅海の頭に風見はそっと手を乗せた。まるで幼い妹を相手にしているようなその仕草に、気持ちが少し落ち着いてくる。彼はそれを察したのか、聞いた事も無い様な優しい声でこう告げた。

「なら、何を迷うことがある? 海里を信じればいい」

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