無知性の凱歌 Revised 1
宮沢弘
1: 始まりと終わり
第1話 1−1: 第0日
西暦1990年、あるいはそれ以前から、概念としては言われていたことがある。その言葉が現われたのは、始めは虚構においてだった。当時を生きていた人にとってはずいぶん時間が経ってから、動物愛護団体がその言葉を蘇らせた。またしばらく時間が経ってから、人権団体がその言葉を使い始めた。
その段階になり、2/3人権、ともかくそういう言葉が知られるようになった。
そう言われるようになり、人々は怒りを現わした。それは、ただその言葉が使われた歴史によるものだったのだろう。動物に対して言われた言葉であったし、虚構においてもそうであったのだから。1/1人権以外など存在しない。人々はそう主張した。
「では」ある政治家が口を開いた。「何であれ障碍がある方々は1/1人権を行使できているだろうか?」
「その」ある人が言った。「1/1人権という言い方自体が差別するものだ」
「確かに」その政治家は言った。「そうかもしれない」
「やはり」ある人が言った。「そういう意図ではないか」
「違う!」その政治家は言った。「現実がそうなのだ。それを、もっとましな現実に」
「それみろ」ある人が言った。「差別が前提にあるではないか」
「それについては」その政治家は言った「現実がそうなのだ。だから、もっとましな現実に。それとも、その前提がなければ、あなたは困るのか?」
そして、その政治家を問い質す者はいなくなった。「その前提がなければ、あなたは困るのか?」と言われれば、「そうではない」と答えるしかない。もちろん、それが少しでもましな現実であるからであり、そうでなければ差別意識を持つと思われるだろうからだ。
これは、誤った判断ではないし、愚かな判断でもない。1/1人権という概念を受け入れ、8/9人権という概念も受け入れることが、第一歩だった。
では…… 9/8人権は存在しないのか。
2/3人権という概念を受け入れるということは、3/2人権という概念も、少なくともその概念がありうることは受け入れることに繋がる。なぜ1/1が上限でなければならないのか。
問題はそこだった。
権力を持つ者、富豪、そういう者は1/1を越える人権を持つのか。それとも聖職者や人徳のある者は1/1を越える人権を持つのか。そして、指標の一つでしかないが、知能指数が高く、認識する世界が広い者は1/1を越える人権を持つのか。持つわけがない。
だが、現実に権力や當は影響を及ぼす。認識が広い者は、そうとはわからずとも行為に影響が現われる。
ならば、どうするか。人々は考えた。だが、その概念を受け入れないという選択以外は、存在しなかった。1/1を上限とするしか選択はなかった。受け入れるのであれば、7/8人権も受け入れるしかないのだから。
そうして、人権正規化法が成立した。指標の一つとして、知能指数をμ± 1/2σに納める。
補助脳は、それも可能だった。ノイズを乗せ、判断を鈍らせることも。
電子工学、生物学、情報工学、遺伝子工学が、そのような補助脳を可能にしていた。生まれるとともに、補助脳の種が頭蓋に埋め込まれた。
正規化された人権が確保された。
そして、私がその処置を受ける最後の人間となった。私が最後になったのは、ただ必要だったからだった。技術を確立した者だから。少なくとも最後の一人だから。
これから処置に向かう。
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