④醒ヶ井小春について
そんな薄っぺらい女でも、消えた後は広かった。
寝室や台所と言ったあの女の縄張りは
近い感覚を
物心付いてからずっと隠れていた壁が
体積はあの女より本棚のほうがずっと上だ。
でも借りてきたネコのように、意味もなく部屋中を見回す回数は、食卓のハシが一膳減った後のほうが遥かに多かった。
太陽が沈み、夜が家を囲むと、広くなった部分に今まではなかった影が出来る。新顔の暗闇から吹き込む隙間風は、梅雨時とは思えないほど寒々しかった。
真冬のように着込んだ小春は、否応なく押し入れに向かう。汗ばんでいるのに
圧縮袋から羽毛布団を出し、頭から
でも震えが止まらない。
喉の渇きに
温もりを分け与えてもらおうと、小春は横にあるはずの布団へ手を伸ばす。
待ち受けていたのは慣れ親しんだ体温ではなく、
貼り替えたばかりの畳。
隣に布団が敷かれているなら、味わうはずがない手触りだ。
お部屋が広くなった分、遠くへ行っちゃったのかな?
小春は甲羅にした布団から頭を出し、常夜灯の下を捜してみる。畳の目を数えるようにしながら、最果ての
布団の中で凍えていた夜から、現実に意識の焦点を戻し、小春は改めて投げ掛けてみる。
なぜ佳世の一生を台無しにすると判っていながら、独りで生きていけないようにした?
誰にも聞かれないように忍び泣く八歳の小春が、鼻水を
誰かに置いて行かれて、今日より広い景色を見るのは二度と嫌――。
胸の寒さに追い立てられるまま、温もりを捜す夜には戻りたくない――。
そう、一七歳になった泣き虫が知恵を絞ってみても、それ以外に答えはない。
佳世は絶対に小春を捨てない。
いや、捨てられない。
恋愛にまで口出しするお節介ぶりに嫌気が差しても、甲斐甲斐しく世話を焼くのは小春だけだ。他人とまともに会話を交わせない佳世には、お金を払って誰かを雇うことも出来ない。
一〇年近い管理は気持ちどころか、衣食住に関わる行為にまで依存の根を張ってしまった。最低限日常生活に必要な力さえ奪い取ることで、小春はまんまと自分を捨てられない誰かを作り上げたのだ。
佳世が独断で志望校を決めた時、小春は圧倒される以上に罵声を浴びせそうになった。
私が受からないのは理解しているはずだ!
脳裏に
自分を置いて家を出た母親を思い返す度、胸を焼く
醜い奴だ。
自分自身のおぞましい本性に気付いた瞬間、講義が寝息が教室中の音が小春を非難する声に変わる。まるで状況を理解出来ない小春が辺りを見回してみれば、クラスメイトや熊谷先生、更にはグラウンドを走る生徒たちまでもが、自分に白い目を向けていた。
違う! 絶対違う!
小春は胸の中で連呼しながら、教科書で顔を隠し、皆の視線を遮る。
自分は管理なんかしてない。
ただ、佳世の悲しむ顔が見たくなかっただけ。
友達に笑顔でいて欲しいと願うことの、どこがいけない?
自分が魚を渡したことで、生けすに立ち尽くしていた佳世が笑みを浮かべられた。それで充分ではないか。
未来に何が待ち受けているにしても、今すぐ被害を受ける話ではない。明日のことは明日考えればいい。今まで問題は起きなかった。これからもうまくいくに決まっている。
自分を鼓舞した小春は、悪びれもせずにスマホを
全部、奴のせいだ。奴が的外れな思い付きを口にしなければ、佳世が生けすで見せた笑顔に疑問符など付けなかった。
小春の身体を壊したのも奴だ。
髪型をどうこう言われただけで顔を赤らめる? 一七年間正常に動いてきた醒ヶ井小春が、不良品になってしまった。
「おい、醒ヶ井。醒ヶ井小春」
糾弾の大合唱だった教室に、小春の名を呼ぶ声が交じる。
慣れ親しんだ五〇音の並びに合わせて、小春は小春自身に宣言する。
そう、自分は醒ヶ井小春だ。あの女とは違う。
甘ったるい声を耳に侵入させたのは、去り際の「バイバイ」が最後。目から侵入する写真は、アルバムごと燃えるゴミに出した。馬鹿のようにローテしていたハンバーグも、小二以来食べていない。
あの女に毒された血は、大分薄まっているはずだ。髪型に触れられた程度で興奮したりはしない。一〇年近く時を共有した相手を、ポイ捨てする人間にはならない。
二度と佳世に近付くな!
はっきりと梅宮改に宣告する。
それでおしまいだ。
今後一切、小春は奴に近付かない。佳世も奴には近付かせない。この先もずっと、小春は佳世を守り続ける。世界中に
「醒ヶ井! 醒ヶ井小春!」
苛立たしそうな一回を皮切りに、ルーチンワーク的に名前を呼ぶだけだった声が怒号に変わる。乱暴に肩を揺すられた小春は、辛抱
「だから梅宮が!」
視線にありったけの憎しみを込め、小春は怒号の
目の前でぽかんと口を空けていたのは、教壇に立っているはずの熊谷先生だった。
見たくないと
スポンジボブばりに目を見開いたクラスメイトたちが、自分を凝視していた。
人体と言う人体が硬直し、動いているのは秒針のみ。
居心地の悪い静寂の中、校庭の掛け声だけが楽しげに響き渡っている。
目を白黒させているのは、佳世も例外ではない。
なんで春ちゃんの口から梅宮くんの名前が出るの?
「今、何ページだ?」
「えっと……」
熊谷先生に尋問された小春は、返事を濁らせながら教科書をパラパラしてみる。
案の定、答えの浮かぶ気配はない。
正直、授業中なのも忘れかけていた。
「梅宮もいいが、授業もちゃんと聞かないとな」
イヤミったらしく注意すると、熊谷先生は丸めた教科書で小春の脳天を叩く。
「放課後、職員室に来い」
出頭命令を受けた小春は、「……はい」と佳世の音読より小さな声で答える。頷くついでに
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます