小さな娼婦編 第58話
お風呂は、色々な意味でめくるめく感じだった。
なんともいえない気だるさを感じながら、ベッドに倒れ込む。疲れているが心地よく、雷砂は満足げな吐息を漏らして目を閉じた。
そんな雷砂を追うように、誰かがその横に潜り込んでくる。
いう事を聞かない瞼を何とかこじ開けて片目を開けて見れば、銀色の髪の美しい歌姫の顔が間近に見えた。
微笑むリインが雷砂の頬を撫で、髪を撫でる。
そんな優しい愛撫に目を細め、雷砂も口元に笑みを刻んだ。
近付いてきた唇を目を閉じて受け止め、そのままうとうとと眠りかけてしまう。
だがすぐに、きしりとベッドが沈んで雷砂の意識を覚醒させた。
ふわりと香るのはセイラの匂い。
唇にそっと触れた柔らかな感触に、目を開けようと思うのだが、思うようにいかない。
手を伸ばすと、セイラが手をつないでくれた。それに対抗するように、もう片方の手もぎゅっと握られる。
ただそれだけのことで、心が温かくなるから不思議だ。
雷砂はふにゃりと口元を緩め、少しずつ眠りの淵へと降りていく。
そんな雷砂を、そっくりな顔の、だが雰囲気はまるで違う双子の姉妹が優しく見守る。三人で眠るにはいささか狭いベッドで、寄り添いあいながら。
大好きな人に挟まれて眠りながら、雷砂は夢を見る。
それはずっと昔に忘れてしまった過去の夢。懐かしくて愛おしく、だけど少しだけ切ないーそんな夢だった。
明るい光に意識が覚醒して目を開ける。自分は誰かの腕に抱かれている様だった。
セイラかな?そう思って見上げれば、上から見下ろすのはどこかで見たことのあるような、そんな顔の女性。
黒い髪は肩の辺りで切りそろえられ、ちょっと勝ち気そうな瞳の美しい人。
なんだかとても懐かしくて、気がつけば涙をこぼしていた。
彼女は驚いたような顔をして、少し焦ったように雷砂の体を優しく揺らす。
それでも泣きやまない雷砂を前に、困った顔をする彼女の瞳の色が、黒でないことに気づく。
見ようによっては黒にも見える、深い深い青。夜の闇を凝縮したようなその瞳の色には、見覚えがあった。
(……オレの目と、同じ色だ)
そう思った瞬間、場面が切り替わった。
気がつけば、雷砂は壁に捕まるようにして立っていた。
妙に体がぐらぐらして安定せず、雷砂は必死に壁にしがみつく。
そんな雷砂を、遠くから見守る人がいる。さっきの女性だ。
彼女は離れた場所から雷砂を呼ぶ。こっちよ、いらっしゃい、と。
雷砂はどうしても、彼女の傍に行きたかった。
だから、必死になって歩き始める。
壁から手を離すのは怖かったが、それよりも彼女の傍に行きたい気持ちの方がずっと強かったから。
一生懸命にバランスをとりながら歩く。
一歩、また一歩と足を踏み出して。少しずつ近づく彼女の姿をすがるように見つめながら。
近付いてくる雷砂に向かって、彼女は微笑み手を伸ばす。
その手に少しでも早く触れようと手を伸ばしてバランスを崩した雷砂を、彼女は掬うようにして抱き上げた。よく頑張ったわね、雷砂、とそんな優しい言葉と共に。
こみ上げる幸福感に胸が詰まる。
セイラを想う気持ちとも、リインを想う気持ちとも少し違う。
あえて言うなら、シンファへ抱く気持ちが一番近いのかもしれない。そう思った瞬間、はっとした。
自分と同じ瞳を持つ人。この人はー。
そこまで考えた瞬間、再び場面が切り替わった。
照りつける太陽に青い空。どこまでも続く砂浜に打ち寄せる波。
雷砂は、見覚えのない光景を前に、それが海と言うものだと、なぜか知っている。
歩くのがだいぶ達者になった雷砂は何の躊躇もなく砂浜に足を踏み出し、素足の裏を焼く熱さに泣き声をあげてその人にすがる。
その人は笑いながら雷砂を抱き上げ、涙で濡れた頬を優しく手の平でぬぐってくれた。
自分と同じ色の瞳をじっと見ながら思う。この人の傍にいれば安心だ、と。
何の根拠もなく、だが心からそう信じていた。
「おかあたん?」
舌足らずな言葉で問えば、
「なぁに?」
と優しい声を返してくれる。
自分の母親はこんな顔をしていたのか、そんな事を思いながら、また泣きたくなって母の胸にすがる。
この人と自分はどうして別れなくてはならなかったのだろう。
この人の傍に、もっとずっといたかったのに、と思いながら。
自分はこんなにも母が大好きで、自分には母しかいなかったのに。
こみ上げる思いのまま、涙をこぼす。
そんな雷砂を、母は優しく見守っていた。
そしてまた場面は移り変わる。
気がつけば、雷砂は家の中に一人で座っていた。
いや、一人じゃない。傍らに誰かいる。
そっと見上げると、黒い髪の15歳くらいの女の子が、雷砂に寄り添うように座っていた。
彼女は泣きそうな顔ですぐ目の前の閉じられたままのふすまを睨んでいた。
そんな彼女の顔を見上げながら、少しだけお母さんに似ている、と雷砂は思う。
親族、なのだろうか。自分の姉というには、少し年が離れている気がするのだ。
そんな事を思っていると、不意にふすまが開いた。
出てきたのは老人と言ってもいいくらい年齢の白衣を着た男。
少女ははじかれたように立ち上がり、その男に向かってなにか問いかけている。
彼は柔和そうな顔を曇らせたまま首を左右に振り、ちらりと雷砂を見た。とてもいたましいものを見るように。
少女が雷砂を振り返る。
悲しそうな瞳が雷砂を見つめ、彼女は小さな背中をそっと押した。ふすまの向こうへ行くよう、促すように。
促されるまま、薄暗い、部屋の中へ入る。
そこに、お母さんがいた。
布団にくるまり、目を閉じたまま動かない母の姿に、心臓が締め付けられた。
駆け寄り、枕元へペタンと座る。
震える手を伸ばして少しやせてしまった頬に触れると、暖かな体温が伝わってきて泣きたいくらいにほっとした。
彼女が生きている、そのことが嬉しくて。
だが、動かない。目を開けてくれない。
「おかあ、さん?」
母を、呼ぶ。
すると、すぅっと彼女の目が開いて、その目が枕元の雷砂を認めて優しく細められた。
「雷砂」
かすれた声で、雷砂の名前を紡ぐ。
彼女は微笑み、雷砂の頬を撫でた。
「愛してるわ、雷砂」
彼女の言葉に頷く。
こぼれそうな涙を、必死にこらえて。泣けば母が悲しむと、そのことを痛いくらいに分かっていたから。
「あなたが生まれてきてくれて、私は幸せだった。そのことだけは、忘れないで……」
頬に当てられた母の手を両手で必死に掴む。彼女がいってしまわないように。
だけど、別れの時は唐突に訪れた。
彼女の瞳がふっと虚空を見つめ、光を失う。そしてその手から力が抜け落ちた。
支えきれず、落ちていく彼女の手を目で追う。
雷砂の頬を涙が伝い落ち、母の手の行方を見届けるのと同時に、意識が覚醒した。
その瞬間、アレサとその母親を、何であんなに助けてあげたいと思ったのか、その理由が分かった気がした。
朝日の中、目を開けると目の前にはセイラの顔。
驚いたように見上げれば、彼女は心配そうに雷砂を見つめ返す。
その手が優しく雷砂の頬を撫でる。雷砂の頬を伝う涙を拭うように。
夢の中の母親と、同じ様な仕草で。
雷砂は彼女の手を頬に押し当てて、目を閉じた。
そして覚醒の瞬間に、頭に浮かんだ事を反芻する。
自分がなぜ、あれ程までにアレサとその母親の事に関わったのか、という事。
もちろん、一度関わったものを途中で見捨てられないという思いもあっただろう。
だが、それより何より、きっと雷砂は見たかったのだ。
病気の母親の病が治り、アレサと母親が幸せに暮らす、その姿を。
自分が得られなかった幸せを、見てみたいと思った。無意識の内に。
「悲しい、夢をみたの?」
その問いかけに、雷砂は微笑み首を振る。悲しいだけの夢じゃなかった。むしろー
「幸せな、夢だったよ。泣きたくなるくらい、幸せな」
「そう」
セイラは微笑み、雷砂の頬を両手で包み込む。
愛しくて仕方がないと、その手の平から伝わる彼女の想いに、雷砂は目の眩むような幸せを感じた。
そんな雷砂を見つめ、
「なら、良かったわ」
言いながら、雷砂の唇に優しいキス。
そしてそのまま雷砂を抱きしめた。
「まだ、起きるには早いわ。もう少しだけ、眠りましょう?」
彼女の言葉に促され、目を、閉じる。
彼女の体温は暖かで、その胸の鼓動は穏やかだ。
セイラの命の音に耳をすませながら、徐々に眠りに落ちていく。
眠りに落ちる瞬間、背中にぴとりとくっついてきた柔らかな感触に雷砂は唇を柔らかくカーブさせた。
前と後ろから伝わる、大切な人のぬくもり。
それを感じながら眠りにつく、それはとても幸せで得難い時間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます