水魔の村編 第20話
昔々、小さな村の傍らの小さな森に、1人の異形が住み着いた。
西の大陸の異界の門の向こう側ー魔界と呼ばれる世界から、彼は1人逃げてきたのだ。
許されぬ、罪を背負って。
水魔と呼ばれる種族の青年は、水の近くでなければ暮らしていけない身体だった。
幸い、その小さな森には大きくは無いけれど綺麗な泉があり、彼はそこを終の住処とする事に決めた。
追われるように飛び出してきた魔界には、水魔族が暮らす大きな湖があり、そこはとても美しく住み心地もいい場所だったけれど、もう二度と戻ることは叶わない。
親や兄弟にも、生きている間に会うことは叶わないだろう。
だが仕方がないのだ、と彼は小さな泉にその身を漂わせながら自分に言い聞かせる。
殺されてもおかしくないだけの罪を犯した。
尽きるはずだった命を、親しい人達が尽力してくれたおかげでなんとか繋ぐことが出来た。
己の身をもう故郷に置くことは出来なくても、そのことだけは感謝し続けなければいけない。
ひっそりと、命を繋ぎながら。静かに静かに、他人に迷惑をかけないように生き続けながら。
しばらくの間は、平穏な時が続いた。
森の奥にある泉だからか、人が訪れることもなく、青年は時折水を飲みにやってくる動物達と交流を深めながら、穏やかに過ごしていた。
ある時、ずいぶん長い期間雨が降らない事が続いた。
数年に一度あるかないかの大日照りに、人々はとても苦しんだ。
だが、森の泉はいつもと変わらず、美しい水をたたえ続けた。
それは、青年の水魔の力のなせる術。
青年も、森の中の動物達も、豊かな水に守られて、外の苦しみに気づくことなく過ごしていた。
そんなある日。森に小さな闖入者が現れた。
それは1人の幼い少女。
近くの村に住む、まだあどけない顔をした少女は、渇きに耐え兼ね水を求めて森に入り込んだようだった。
少女の目に映る森の様子は、外とは違ってみずみずしい緑と生命にあふれていた。
何の警戒もなく、熱に浮かされたような足取りで、少女は道なき道を行く。
彼女が水魔の住む泉へとたどり着くことが出来たのは、奇跡といっても過言ではなかっただろう。
それは、もしかしたら運命だったのかもしれない。
森が開け、目の前に広がった光景に目を見開き、少女は己が目を疑った。
泉を清らかに満たす水は涸れる気配すら感じさせず、豊かで美しい。
思わず歓声をあげ、泉へ駆け寄る少女。
だが、その足がぴたりと止まった。
それは何故か。水面に浮かぶ、異形の姿が目に入ったからだ。
少女は目を見開き、彼を見つめた。
彼もまた、少女を見ていた。少し哀しそうな色の瞳で。
人とは違うその姿に最初は驚きはしたものの、不思議と嫌悪感は無かった。
怖いという思いも、なぜだか浮かび上がってこない。
少女は呆然と目の前の異形を見つめながら、ただ一言、
「きれい・・・・・・」
と呟いた。
その呟きが、青年の耳を打つ。その素直な思いの込められた響きに、青年は宝石の様な水色の目を見開いた。
嫌悪の目で見られ、恐れられ、嫌われると思っていたのに、そうはならなかった事に、思わず安堵の吐息がもれた。
それから改めて、まじまじと少女を見つめる。
「お前は、私が怖くないのか?」
「あなたは、神様ですか?」
2人の声が、そっと重なった。
神かと問われた青年は、首を傾げて少し考える。
己が神などで無いことは自分自身がよく知っていた。
だが、彼ら人間よりも強い力を持つことは確かだ。
こうして泉に人が訪れ、自分の存在がしれてしまうのならば、悪しき存在と思われるよりも、善き存在として関わっていく方がいいだろう。ならばー。
「神ではないが、それなりの力を持つ者ではある。お前は、何か願いがあるのか?」
少女は目を見開いて彼を見上げていた。
「お願いを聞いてくれるんですか?」
「私に出来ることなら、な」
純朴な輝きを灯す少女の瞳をのぞき込みながら、彼はかすかに笑みを浮かべた。
「じゃあ、雨を降らせてくれませんか?」
「雨を?」
その願いを叶えるのはそう難しくはなかった。なにしろ彼は水魔なのだ。
水魔とは、魔族の中でも特に水に関しての能力に特化した一族であり、少々準備は必要なものの、雨を呼ぶことは彼の能力の範囲内だった。
青年は、期待に満ちた瞳で見上げてくる少女を見つめ、重々しく頷いてみせた。そして、
「いいだろう。雨を降らせてやる」
少女の希望を叶える言葉を告げた。
途端に幼い顔がぱっと輝き、
「本当ですか?神様」
嬉しそうな声をあげる。
その様子が妙に可愛らしく思え、青年は口元を綻ばせた。そして少女に告げる。
「ああ。私は嘘はつかない。その代わり、お前は今日から私の巫女となれ」
と。
それは青年が、1人の少女を己と人とを繋ぐ架け橋とする事に決めた瞬間だった。
自分がここに居ることがばれてしまった以上、どんな形にしろ人との交流は避けられない。
自分の存在をあくまで隠し通すなら、目の前の少女を殺してしまえばいいのかもしれないが、彼はそうしたくなかった。
無垢で無邪気な目の前の存在が、何とも言えず気に入っていた。
それに、動物とだけ交流する生活には、もう飽きてもいた。
彼は1人、泉で生活しながら、誰かと言葉を交わすことを恋しく思っていたのかもしれない。
言葉を話し、その返事に耳を澄ますーそれは単純だけれども、とても楽しい事でもあった。
「巫女、ですか?」
少女がきょとんと首を傾げる。青年は再び頷き、
「ああ。私の言葉を人々に伝える者が必要だからな」
そんなもっともらしい理由を少女に告げる。
少女は生真面目に頷いて、
「私は、神様の言葉を村の皆に伝えればいいんですね」
真剣な顔で青年を見上げた。その顔を見下ろしながら、青年は満足そうに微笑む。
青年の美醜の感覚からすると、少し物足りない容貌ではあるが、言葉を交わせば交わすほど愛着がわき、可愛らしく見えてくるから不思議だ。
今や、目の前の少女ほど愛らしい存在は無いように思えてしまうほど。
余程他人との交流に飢えていたのだなと、そんなことを思い、青年は柔らかな眼差しで少女を見つめた。
「ああ、そうだ。お前には私と村人の架け橋となって貰いたい」
「はい!頑張ります」
「名は、なんというのだ?」
「ユンといいます」
「ユン、か。良い名だな」
「ありがとうございます、神様」
「その、神様というのはやめろ。私は神とは違うのだから」
「でも、じゃあ、なんとお呼びすれば?」
苦笑混じりに諭すと、困ったように問い返され、青年は少し考えた末、
「私は水魔という種族なのだ。だから、水魔と呼んでくれればいい」
なんの捻りもなく、そう答えた。
「わかりました。では水魔様、と」
微笑んだ少女の頬に、青年の指先がそっと触れる。彼女の拒絶を恐れるように、おずおずと。
だが、少女はその触れ合いを拒絶することなく、むしろ嬉しそうに少しはにかんだ表情で青年の顔を見上げた。
彼はほっとしたように微笑み、
「では、村に戻って伝えろ。明日の日が昇る頃、雨を降らせる。明後日、雨がやんだらユンは巫女としてここへ戻ってこい」
優しい声音でそう告げた。
彼の言葉に頷いて、ユンは森の中へ消えていく。名残惜しそうに、何度も何度も彼の方を振り返りながら。
こうして、水魔族の青年は1人の理解者を得た。
彼はもう、孤独ではなくなった。
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