娘と鴉

夢月七海

娘と鴉

 とある小さな町に、場違いなほど立派な屋敷が立っていた。

 屋敷の主である夫婦は、彼等の代で始めた毛織物で大きな成功を収め、財を成していた。


 夫婦の間に子供はいなかったために、遠い親戚の十歳の娘を引き取っていた。

 サリアという名のその娘は、夫婦から冷たくあしらわれることはなかったが、元々貧しい農家の出身だったために環境の変化に戸惑い、優しい性格のため夫婦にいつも気を遣っており、現在の生活にどこか居心地の悪さを感じていた。


 娘が屋敷に来て一年後、屋敷の庭の大きな木に、鴉が巣を作った。夫婦も召使いたちも気味悪がって、巣を壊そうとしたが、唯一サリアだけがそれに反対した。

 動物の好きなサリアは、嫌われ者の鴉でも、卵のまま殺してしまうのは酷すぎると思ったからだった。珍しいサリアのわがままに、周りの大人たちも留飲を下げてくれて、鴉の親子は生命の危機を免れた。


 それからサリアは、毎日のように鴉の巣の様子を見に行った。彼女は非常に熱心で、生まれてきた三羽の子鴉や二羽の親鴉にも名前を付けるほどだった。

 三番目に生まれた、フリッツという名前を付けられた子鴉は、いつも小さく弱々しい鳴き声で、特にサリアから気にかけられていた。

 フリッツは、左の翼に白い羽が数枚混じっていて、変わっていると他の鴉からいじめられるのではないのかと、サリアは心配でたまらなかった。


 よって鴉たちが生れてから三十日以上経った、ある晴れた朝に、フリッツが初めて巣を離れて飛び立ったときは、サリアは両手を叩いて涙を流して喜んだ。


「フリッツーー! おめでとーー!!」


 サリアは涙を流しながらも満面の笑みで、時折よろめきながらも力強く羽ばたいて、山へ向かっていくフリッツの姿に、大きく何度も手を振った。


「カア! カア!」


 段々と遠ざかるフリッツの姿はそれに応えるように、大声で鳴いてくれた。

 それを聞いて、やっとサリアは手を下げた。耳の奥では、フリッツの鳴き声がまだ響いていた。














 ……それから早、五年の年月が過ぎた。


 サリアは、絹のような美しい金色の長い髪の、純白のドレスの似合う女性に成長していた。しかしその琥珀色の眼は、憂いに沈んだままである。

 彼女は花嫁衣装に身を包み、一階の部屋の窓辺に椅子を置いて座っていた。朗らかな春の日差しが、部屋に降り注いでいる。ベールを被ったサリアの視界と同じように、彼女の頭の中も、ぼんやりと靄がかかったかのように白かった。


 屋敷中の召使いたちが、忙しなく行き来していた。彼らの中に、笑顔を浮かべている者は誰一人いない。それに対して、サリアの周りだけはひっそりと静かで、時間に置いていかれたかのようだった。


 昨年、町外れに建っていた夫婦の工場が、大嵐によって壊滅状態になっていた。夫婦は工場再建の資金を、とある領主に相談した。

 領主は資金を喜んで出すと言った。その代わりに、自分に夫婦の娘を差し出せと言ってきた。


 領主について、街中では悪い噂しか流れていなかった。身分の低いものを見下しているが、女癖が悪くて、毎晩娼館通いをしていることは、非常に有名だった。


 領主と一度しか顔を合わせていないサリアも、彼に対しての第一印象は、最悪なものだった。領主はサリアと三十歳近く年が離れていたが、それを感じさせないほど若々しく、体つきもたくましいもので、清潔で高価なスーツが気品を感じさせた。

 しかし、彼と共に屋敷を訪れた従者は、酷く痩せていた上に継ぎ接ぎだらけのシャツとズボンで、始終領主の顔色を窺うようにおどおどとしていたのが目についた。

 サリアは彼が、領主にどのような扱いを受けているのかを、一目で分かってしまった。


 サリアと領主は、テーブルを挟んで向かい合って他愛のない話をした。滅多に人を嫌わないサリアだが、胸の奥からせり上がってくる嫌悪感はどうしようもなかった。背中を冷や汗が流れるのを誤魔化す様に、笑っていた。

 今さら、この結婚を断ろうなんて、無理のある話だということも、夫婦が断腸の思いでサリアを送り出そうとしていることも、彼女にはよく分かっていた。


 しかし、縁談をうまく進めようと領主に頭を下げている二人を見ていると、育ての親である彼らとの時間が、無意味なものだったのではないのかという疑問が生じてしまった。

 サリアは、自分のことしか考えていない事に悲しくなり、未だに気を遣っている自分に虚しくなり、ただただ自分を押し殺して口を噤んだまま、式の日を迎えた。


 静かな日ね、とサリアは窓の外を眺めながら思う。

 時折、音もなく風が吹いて、サリアが毎日世話していた、木々や草花を撫でていくだけだ。庭中の植物が、手を振って別れを惜しんでいるようにも見える。


 お嬢様、と声をかけられて、サリアは振り返る。侍女の一人が傍らに立っていて、頭を下げていた。

 お迎えの馬車が来ました、と侍女は続けた。


「ありがとう」


 そう答えて、サリアは微笑む。それが諦めの笑みだということは、ベールの中にいる彼女一人だけが、気付いていた。

 玄関から外に出ると、門の前に止められた馬車の御者と屋敷へ手伝いに来ていた領主の従者の会話が、耳に届いた。


「教会の前で鴉が居座っていてな」

「それは縁起が悪いな」

「しかも、なんか変わったやつで、羽の一部が白かったんだ」

「それで、追っ払ったのか?」

「もちろん。石投げて地面に落として、みんなでぼこぼこにしてやったわ」


 御者は、自慢げに話した。……庭を歩くサリアが、はっと息を飲んだことにも気づかずに。


 それを聞いて、従者は眉を顰めた。


「けど、死骸をそのままにしていたら、領主様が怒るんじゃあ……」

「さっき、森の中に捨てたから、大丈夫だって。まだ息はあったみたいだけど、時間の問題だろうな」


 ……フリッツだ。サリアは、その話を聞いて、すぐさま五年前に庭を巣立っていった、小鴉の姿を思い浮かべていた。

 なぜ、山に飛び立っていったフリッツが、森の中の教会に現れたのかは分からない。でも、もしも、私を心配して現れたのならば……。


 サリアは、あの小さな鴉の安否を思い、静かに涙を流した。幸い、顔を覆ったベールのお陰で、彼女の涙は周りの召使いたちには見られなかった。


 ――フリッツ、どうか、どうか、無事でいて……。


 自分の所為で、友が死にかけているというのに、助けに行くことすら叶わず、その無事をただただ祈ることしかできないこの状況を歯痒く感じながら、サリアはゆっくりと馬車に乗り込んだ。





















 馬車は町を横断し、森の中の道をしばらく走った。その間中、サリアは黙って泣き続けた。同乗していた、屋敷の侍女と領主の従者、御者も話しかけてこなかった。

 教会の前にたどり着いた時、サリアの涙はすっかり枯れていた。


 サリアは馬車を降りる。辺りは異常な程にしんとしていた。

 いや、実際には鳥の声や人々の話し声がしていたのだろうが、深く沈んだサリアの心までに入ってこなかった。

 何の感慨も抱かない胸の内のまま、サリアは階段を上がった。目の前の、教会の扉が大きく開かれる。


 教会の中は、人々で埋め尽くされていた。貴族達、彼等に召し使える者たち、豪華な楽団、神父と修道女たち、そして、サリアの立つ入り口から、赤い絨毯で直線に結んだ壇上に立つ、タキシード姿の領主。

 皆、一律に笑顔で手を叩いていた。それが、不気味でたまらなかった。


 サリアは壇上に向かって、ゆっくりと歩き始めた。拍手の音も、楽団の奏でる清らかな旋律さえも、今の彼女には届かない。

 これからの事を考えたり、今までのことを思い返したりする力さえ、泣き疲れたサリアには残っていなかった。

 ただ、歪な祝福を一身に受けて、領主の元へと歩を進めるだけだった。


 そしてとうとう、サリアは壇上に上がり、領主と向き合っていた。ステンドグラスから、春の光が色とりどりに惜しみなく降り注いでいる。

 神父が、何か喋っている。ただ、その言葉は形を成さずに、周りの空気を震わせただけだ。サリアは、神父に聞き返された時にだけ、とってつけた様に頷いた。


 不意に、サリアの顔にかかっていたベールがめくられた。彼女の世界は、再び色彩に埋め尽くされる。

 目の前には、領主の顔があった。その、笑みの形に細められた目の奥、黒い瞳はどんよりと濁ったまま、サリアを捕らえる。

 何も感じないはずの心の中を、恐怖がナイフのように、すっと刺し込んできて、サリアは思わず声をあげそうになった。


 その時だった。出入口上の硝子が、割れる音がしたのは。


 サリアは反射的に、出入り口を見ると、背中に真っ黒な羽を生やした男が、窓を蹴破った所だった。

 ばらばらと音を立ててガラスの破片が落ちる中、男はすうっと教会の天井近くを飛び、階段を挟んでサリアの前に降り立った。


 彼は、大昔に流行した黒死病を防ぐための、鳥の顔のような布製の茶色い仮面を付けていた。目元は色眼鏡が嵌められていて、表情は窺い知れない。

 黒い帽子を被っているが、短い黒髪をしているようだ。背の高く、真っ黒なスーツを着たその引き締まった体で、侵入者は男だということが辛うじて分かった。


 突然の出来事に、人々は言葉を失っていた。領主に至っては腰が抜けて、立てなくなっていた。

 サリアも驚き、両手で口を覆い、微かに震えていた。しかし、男の巨大な左の翼に、白い羽が何本か混じっているのを見つけると、震えはぴたりと止まった。


 男が、階段を挟んでサリアの目の前で、膝を立てて座り、白い手袋をはめた手を差し出した。仮面の色眼鏡越しの瞳で見上げられても、サリアは恐怖心を抱かなかった。


「……フリッツ?」


 彼は、こくんと頷いた。

 それだけで十分だった。サリアは、安堵した顔で階段を降り、彼の手を取った。


 フリッツだという男は、サリアの手を握ると自分の方へ抱き寄せた。そして、彼女をぎゅっと抱え込む。

 教会内の人々は、未だにこの状況を呑みこめずに、黙り込んだまま二人を見つめていた。領主も腰が抜けたまま微動だにせず、ばっと大きく羽を広げたフリッツを眺めるだけだった。


 対して、サリアの心は穏やかだった。体全体に伝わって来るフリッツの温もりや、胸に耳を当てると聞こえる鼓動をいつまでも感じていたかった。

 フリッツが、地面を蹴って飛び上がると、翼を力強く一振りした。二人の体が、宙に浮かぶ。


「お、おい」


 その時になってやっと我に返った領主が、声を上げたがもう遅い。

 サリアを抱きしめたフリッツは、壇上の彼よりも遙か頭上に舞い上がり、ステンドグラスに向かって羽ばたいていた。

 領主はぎりりと奥歯を嚙むと、壁側でぼんやりと突っ立っている私兵に向かって命令を出した。


「撃て! 撃てい!」


 だが、命令は遅過ぎた。私兵たちが前に出て、マケット銃に弾を込めようとする間に、フリッツは一蹴りでステンドグラスを粉々に砕いてしまった。その時、体は横にして、サリアを庇っていた。


 すぐさまフリッツは外に飛び出し、教会よりも高く飛び上がっていた。教会の方から、何発かの銃声が聞こえたが、何一つ彼らには当たらなかった。


 春の無邪気な風が、二人の横を駆け抜けていく。新鮮な木々の緑が眼下に広がり、水色の空の中には柔らかな雲がゆっくりと流れている。

 それよりもずっと西の方には、サリアの暮らしていた町の家々が、ごちゃごちゃと並んでいる。


 初めて空を飛んだ心地よさに、サリアは身を任せていた。

 勿論彼女の中にも、なぜフリッツが人間の姿をして教会に現れたのかという疑問が、芽生えていた。


 だが、それは今はどうでもいいものだった。

 フリッツが生きている事だけが、いまこうして彼の体温が自分に伝わってくるだけでも、幸せだった。


 フリッツは大きく旋回して、彼が巣立ちの時に向かって言った山の方へと飛んでいた。彼の手を取った時から、サリアの覚悟は決まっていた。 

 だから口答えなどしなかったが、一つだけどうしても伝えたいことがあった。


「フリッツ、ありがとう」

「……」


 彼は何も答えなかった。恥ずかしがっているのかもしれないと、仮面に隠されたフリッツの顔を見上げながら、サリアはぼんやりとそう思った。

 風が、二人の髪を靡かせていく。静寂の中でも、フリッツの羽の音は、はっきりと響いていた。




















 しばらく飛んでいると、山の中腹に建つ石造りの塔が見えてきた。それは変わった形の塔で、屋上部分には煙突がついてあり、上から見ると鍵穴に似た形をしているようだった。

 硝子の無い一番上の窓に、フリッツは降り立った。そして、塔の内側にサリアを下してあげた。


 外見とは想像がつかないが、塔の中は小さな家のようになっていた。真ん中には木のテーブルと向かい合うように椅子が二つ置いてあった。

 窓から左手側には暖炉が、右手側には一人用のベッドが、向かいには小さな台所が置かれていることに、サリアは驚いた。水道は通っていないため、どこからか水を持ってきて使うようだ。

 長い間使われていなかったのか、家具は埃を被っていた。しかし、絨毯や布団は比較的新しい。


「ここは、フリッツが見つけたの?」


 サリアの問いに、窓辺に佇んでいたフリッツは大きく頷いた。


「ちゃんと掃除したら、ずっと快適になりそうね」


 サリアがそう言って笑いかけると、フリッツは気恥ずかしそうにそっぽを向いた。

 仮面を付けたままではあったが、困った様子で後ろ頭を掻いていた。


 塔の中をぐるりと一周しながら、置かれている小物を見ていく。花瓶や小さな植木鉢があちこちに飾られている。

 ただ全て中身が空だったり、花が枯れていたりするのが寂しく思えた。

 ベッド横の箪笥の中は、色とりどりのドレスで詰まっていた。服は大丈夫そうだと、サリアはほっと胸を撫で下ろす。


 箪笥ともうひとつ、気になっていた暖炉の横の扉を、サリアは開けてみた。そこには風呂桶と、トイレが入っていた。塔の外から見えた出っ張りは、ここだったようだ。

 トイレは横に置かれた小さな桶で、水を流すらしい。風呂は暖炉で温めたお湯を使うらしい。


「ねえ、他にも部屋があるの?」


 サリアが振り返ってそう尋ねると、フリッツは頷き、台所とベッドの間へと歩き出した。

 彼が立ち止まった前には、石畳の床の中で唯一板張りになっている箇所があった。横幅の大きなその板には、よく見ると取っ手がついている。


 フリッツが力を込めてそれを上げると、下の階に続く梯子が見えた。下の階は少し薄暗かったが、フリッツが迷わずそれを降りていく。

 サリアは不安そうに見守っていたが、下に着いた彼が手招きすると、恐る恐る降りてみた。


 下の部屋は、上と同じ個所に窓がついてあり、その向かいにはベッドと机が、窓の右側には天井ほどの大きさで本がぎっしりっと詰められた棚、その反対側にも本棚と箪笥が置かれていた。

 小物が少なく、カーペットすら敷いておらず、上の階よりも物寂しい印象を受けた。上よりも太陽の光があまり入っていないのも、要因の一つだろう。


 サリアは部屋の真ん中で、辺りをぐるりと見回した後で、まだ同じ場所に立っているフリッツを見た。


「上の部屋も素敵だけど、ここも静かで落ち着くね。フリッツは、どっちの部屋がいい?」


 フリッツは迷わず、この部屋を指差した。


「じゃあ、私が上の部屋ね。料理も私が担当するし、丁度いいかもね。屋敷に来てからは包丁を握ったことが無いから、六年ぶりかあ……。あ、でも大丈夫、小さい頃は毎日かあさんの手伝いしていたから、腕に自信はあるんだ」


 これからの生活を想像して、わくわくしながら明るい声で話すサリアに対して、仮面を付けたままのフリッツは気まずそうに顔を反らした。


「……フリッツ、どうしたの?」


 表情が見えなくても彼の変化を敏感に察知したサリアは、顔を覗き込むように身をかがめて尋ねた。

 勿論、色眼鏡越しの眼からは感情を読み取る事は出来ない。


 フリッツは無言で歩き出し、上からの出入り口とは反対側の場所に向かった。そこもまた別の出入り口のようで、板張りになっている。

 フリッツはその板の取っ手を持ち上げて開けて屈み込み、不安げな顔で立っているサリアを見据えて、その下を手で示した。


「何があるの?」


 フリッツの隣に並んだサリアは、腰を曲げてそこの下を覗き込んだ。彼の息遣いが荒くなっているのが、耳についた。


 下には、塔の芯と壁に挟まれた階段が続いていた。その階段は出入り口から四五段目から崩れて降りられなくなっているのが、薄暗くとも判別出来た。

 確かに、この階段では、外から登って入る事は出来ない。もしも領主がここを見つけ出しても、侵入することは不可能だろう。

 しかしそれは同時に、サリアが一人だけでは外に出られないということも意味していた。フリッツはその事実を彼女に示したかったようだ。


 サリアをフリッツが見上げ、小首を傾げた。息はまだ荒い。

 外に出られなくとも、自分と共に暮らしていくのかと、訊き返しているかのようだった。

 それを充分に理解した上で、サリアは彼に微笑みかけた。優しく、波風を立たないほど穏やかな笑みだった


「心配しないで、フリッツ。確かにお父さんとお母さんや、屋敷のみんなと会えなくなるのはさみしいけれど、結婚が決定した時から、その覚悟はできていたわ。それに……自由になっても、私に帰る場所なんてないのよ」


 そういったサリアの顔に、一瞬だけ悲しみの影が差した。だが、何度も首を振ってそれを振り払うと、真っ直ぐにフリッツの顔を仮面越しに直視した。


「でも、今は未来の事を考えると、楽しみでしょうがないの。あなたが無事だったこと、再び出会えたこと、あの場から逃げ出せたこと、そしてこれからあなたと一緒に居られること……これ以上望むのは、贅沢なくらいに、幸せなの」


 声を弾ませ淀みなく話すサリアを、フリッツは立ち上がってじっと見ていた。サリアは、すぐさま彼の手を、ぎゅうと握った。

 少し驚いた様子のフリッツに対して、サリアは春の陽気のような笑顔を見せてくれた。


「フリッツこれから、よろしくね」
































 この日から、サリアとフリッツの二人きりの生活が始まった。


 サリアは主に料理を担当し、翼のあるフリッツが外へ出て、食べ物を持ってきてくれる。掃除や洗濯は、二人で行っていた。

 台所には調理器具や食器が揃っており、食べ物もフリッツが木の実や山菜を取ってきてくれて、不自由することはなかった。水は屋上に貯水用の甕があり、そこに雨水や川から汲んできた水を集めて使った。


 初めは気付かなかったが、最上階の天井にも板張りの部分があり、屋上に出る事が出来た。

 しかし、二つの間をつなぐ縄梯子や、屋上に置かれた水を下すための滑車の仕掛けは長年の風雨に曝されてぼろぼろになっている。それらも、空を飛べるフリッツにはあまり関係の無い事であったが。


 生活はつつがなく続いた。意外なことに、式から七日以上経っても領主からの追手が来ることもなかった。

 諦めてくれたのならばいいのだが、まだここが見つかっていないだけなのかもしれないと、フリッツが警戒を解くことはなかった。だが、塔の周りに近づく人間すらいなかった。


 フリッツとは正反対に、サリアはのんびりとしていた。昼間は下の階にあった本を読み、フリッツに頼んで持ってきてもらった野花の世話に精を出し、箪笥の中から出てきた布を縫い合わせてキルトを作っていた。

 屋敷にいた頃は、庭に水を撒く以外は、中々好きなことをさせてくれなかった。針が危ないからと裁縫道具を触らせてもらえず、台所に入ることさえ許されなかった。


 あれがお父さんとお母さんの愛情だったから仕方ないけど、とサリアは縫物の手を止めて、窓の外を見た。

 窓辺に椅子を置いて、時々春の山を眺めながら自分の時間を過ごすのが、サリアの日課になっていた。


 今の生活を、サリアは心から楽しんでいた。屋敷での生活よりも、心地よさを感じていた。こうしていると、生家にいた頃に母の手伝いをすることが、幼い自分はとても好きだったことを思い出す。

 育ての親への感謝を忘れたわけではなかったが、貴族のような派手な暮らしよりも、慎ましかなこの生活が性に合ってるのだと思い、サリアは一人で笑ってしまった。


 夕方の足跡が聞こえてきた頃、遠くの空に鳥よりも大きな影が見えてきた。間違いなく、フリッツだ。

 わずかな白色も混じった黒い翼を優雅に広げ、仮面を付けた顔は窓の方を向いており、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。


 サリアは、窓辺の椅子をテーブルへ戻して、フリッツが滞りなくは入れるようにと整える。

 そうしている間にフリッツは窓枠に降り立っていた。


「おかえりなさい」


 笑顔で迎えるサリアに、フリッツは黙って頷いた。そして、手に持っていた籠を差し出す。その中は、山菜や木の実でいっぱいになっていた。


「すぐにご飯を用意するから、もうちょっと待っててね」


 やはりフリッツは、黙って頷くだけだ。表情も仮面で窺い知れない。

 サリアは台所に向かい、フリッツはテーブルに座って、そこに置いてあった読みかけの本を開いた。サリアは水を貯めておいた桶で山菜を洗う。

 ゆったりと穏やかで静かな時間が流れている。サリアはそれがたまらなく愛おしかった。


 しかし、心配事が全くない訳でもなかった。フリッツがなぜ人間の姿になったのかも気になっていたが、それ以上に再会してから数日たった今でも、フリッツの声を一度も聞いたことが無かったことだった。

 火にかけた鍋を混ぜながら、「ねえ、フリッツ」と彼に声をかけてみた。椅子に座ったまま振り返った彼と、仮面越しに目があった。


「あなたって、その……喋れないの?」


 少し悩んだ末に、真正面から尋ねることしか出来ず、急に気まずさを感じて、サリアは目を反らした。

 しかし、フリッツはそんな彼女を見つめたまま、大きく頷いた。見えないはずの視線が、ちりちりとサリアの肌を焦がすようだ。


 やっぱりそうだったんだ、とサリアは鍋を混ぜながら思う。程よく食材が混ざっていて、完成はもうすぐだ。

 フリッツが喋れないことに、確かに多少の不便さを感じたが、今までと同じように意思疎通すれば大丈夫だろう。


 それとは別に湧き上がる不安は、なぜフリッツがそうなってしまったのかとういうことだった。普通の鴉だったころは、親兄弟と同じように鳴いていたのに。

 そのままサリアは、自分の不安を口にしていた。フリッツを見る事が出来ずに、目線を鍋へと逃がしたまま。自然と声は小さくなっていた。


「もしかしてフリッツが喋れないのは、私を助けようと教会に行って、殴られたりしたから?」


 途端に、がたんと椅子が倒れる音がした。驚いて振り返ると、フリッツが立ち上がっていた。彼は悲しそうに肩を落として、大きく首を振った。


「違うの?」


 フリッツは微かに頷くと、下を向いたまま、踵を返して、足早に下の階に降りていった。

 変な事を言って怒らせてしまったのかもしれないと、残されたサリアは鍋を混ぜるのも忘れて、呆然と立っていた。ぐつぐつと煮立った鍋の中ではいくつもの泡が浮かんでは割れていく。


 しばらくしてフリッツが、サリアには見覚えの無い丸めた羊皮紙を持って戻ってきた。しっとりと上質なその紙を、フリッツに手渡され、サリアは小首を傾げながらそれを開いてみた。

 そこには、インクで書かれた文字が並んでいた。サリアはそれを目でなぞる。


『契約書

 汝、鴉のフリッツは、悪魔との契約によりて、言葉を代償に大切な人を守る姿を得んことを、ここに記す。

          契約者 フリッツ     カーディナル・スタンダール』


 フリッツの名前の横には、擦り付けられたかのような血痕が残っていた。共に記された「カーディナル・スタンダール」という名前に聞き覚えはなかったが、フリッツが契約した悪魔の事で間違いないだろう。

 サリアは知らなかった事実に青ざめて、フリッツを見上げた。


「悪魔と契約したの? 大丈夫?」


 フリッツは、それに対して頷くだけだ。

 詳しい経緯は不明だが、この契約によって、フリッツは鴉の姿から今の姿になったということが分かった。言葉を使うことが出来ないのも、サリアの所為ではなかった。


 しかし、それによってサリアにまた別の心配事が芽生えていた。


「本当に、大丈夫なの? 騙されて、言葉以外のものも、奪われたりしてない?」


 珍しく声を荒げて、身を乗り出したサリアの両手を、フリッツは突然ぎゅっと握りしめた。白い手袋から、彼の体温が伝わり、サリアの頬を赤く染めた。

 フリッツが顔を近付ける。仮面の嘴が、サリアに当たりそうだった。糸が黄ばんだ縫い目や色眼鏡に写って反射した光も、よく見える。


 赤い顔をしたサリアを、フリッツの真剣な眼差しは射抜いていた。言葉がなくとも、彼の言いたいことは伝わっていた。


「…大丈夫なのね」


 フリッツは頷いた途端、サリアを抱き締めた。あまりに突然で、更に若い男性に強く抱き締められた事の無いサリアは、「ひゃっ!」と声を上げて、頭の中の沸点を超えて真っ白になってしまった。

 それでも嬉しくて、高鳴る自分の鼓動を聞きながら、サリアは契約書が皺になるのも構わずに、フリッツの高い背中に手を回そうとした時――


「あっ! お鍋、お鍋!」


 鍋が噴きこぼれる音で、サリアは我に返った。

 サリアを放したフリッツが、慌てて流し台の水の桶を持ってきて、焚き木にかけて火を消した。


 落ち着きを取り戻した鍋だったが、口の周りに吹きこぼした白い泡がまだ残っている。サリアは苦笑を浮かべながら、お玉で少なくなってしまった鍋の中をかき混ぜた。


「ごめんね、フリッツ。片手間でするような話じゃなかったね」


 フリッツは首をぶんぶん振って否定し、サリアが差し出した契約書を受け取った。

 そんな彼の様子が可愛らしくて、サリアはくすりと笑っていた。今、フリッツとの距離が縮まったように感じられた。


 やっぱり思い切って聞いてみてよかったと、サリアは思う。一緒に暮らしていると言っても、自分もフリッツも遠慮しがちで、本音で話すことなど殆どなかった。

 フリッツが喋れなくても、仮面で表情が分からなくても、心から通じ合えることが出来るのだと、サリアは確信した。白くなっていた鍋も、混ぜていくうちにやっと元の色を取り戻していった。


 鼻腔をくすぐる匂いに、フリッツの腹の虫がくうと鳴く。すると彼は、恥ずかしそうに、おなかを抑えた。

 サリアはふふっと笑みを零しながら、二つのお椀にスープをよそう。


「おまたせ。ちょっと味が落ちちゃったと思うけど」


 フリッツは、それでも構わないというふうに首を振る。

 フリッツが受け取ったお椀は、お盆の上に載せられる。その上に、パンと山菜のサラダも載せられた。

 それを持って、フリッツはサリアに背を向ける。


「……きょうも下で食べるの?」


 サリアの問いに、フリッツは一瞬足を止めた。嫌な沈黙の後、一度だけ音もなく頷く。去っていくその背中は、今まで見た事ないほど寂しそうなものだった。

 サリアはため息を一つついて、自分の食事が並んだテーブルの前に座った。


 彼女が気になっていたことのもう一つは、フリッツが今まで一度もあの仮面を外したことが無かったことだった。食事もサリアと別々に食べ、風呂上がりも仮面を付けている。

 このことも、いつかちゃんと聞いてみるべきだろうか、とサリアは一人考える。あれほど仮面を外したがらないのは、きちんとした理由がある筈だ。それはきっと、悪魔との契約よりも、明かしにくい秘密で……。


 今日のように訊いてみれば、意外とあっさり話してくれるのかもしれないが、もしもそれによってフリッツを酷く傷つけてしまったらという恐れも根強くあった。 心が通じ合えるのだとしても、二人の間にまだ立ち入れない領域が残っていることも、確かだった。


 千切ったパンを口に入れて、よく噛んでみる。ただそれだけをしているのに、なぜだかとても惨めな気持ちになった。

 素顔のフリッツと一緒に、笑い合いながら食事がしたい。今までの生活で満足していたはずなのに、フリッツの気持ちも考えずにそんなことを願ってしまうなんて、自分勝手にもほどがある。

 そう思っても、鼻の奥がつんとして、気を抜けば涙が零れそうになる。それを誤魔化すように、サリアは必死にスプーンを動かした。


「いつか、一緒に食べられるようになるかな……」


 知らずに落とした本音が、スープに水面を作って、消えていった。
















 フリッツが言葉を喋れない理由を知った後も、二人の生活は変わりなく進んだ。フリッツが外から食べ物を持ってきてくれて、サリアが食事を作り、別々に食べる。


 食事の後は上の階に戻ってきたフリッツは風呂に入ったり、サリアと交替して食器を洗ったりする。

 しばらくは各々自分の時間を過ごしてから眠りにつくのだが、ある日フリッツが上に来ると、サリアは椅子を窓辺において、外を眺めていた。


 室内は殆どの蝋燭が消されていて、薄暗い。どうしたのだろうとフリッツが首を捻りながら近づくと、足音に気が付いたサリアが振り返って微笑みかけた。


「さっき、外で流れ星が見えたから、もしかしたら流星群が見えるかなって思ってね」


 肩にストールをのせて、熱い紅茶で暖を取りながら、サリアはフリッツの疑問に答えてくれた。彼女は夜ほどの濃さのある青いドレスを着ていた。

 対してフリッツは、いつものように黒いスーツをきっちりと着こなしている。白い手袋も外していない。彼は塔の中でも、服装を着崩したことはなかった。

 フリッツも椅子を持ってきて、サリアの正面に座った。


 外には、動物も鳥も寝静まった山と、その上に白い光の星々が浮かんでいた。サリアのいた町よりも、生家の村で見たよりも、ずっと星が光っているように見えた。

 真っ黒で奥行きの無い空に散らばった砂粒ほどの星達は、ちかちかと一生懸命に瞬いている。二人は塔の中からそれらを見上げながら、星が流れるのを今か今かと待ち望んでいた。


「……明日は晴れそうね」


 サリアの言葉に、フリッツが頷く。本当は紅茶を飲みたいかどうかを聞きたかったが、きっと彼は断るだろうと思い、全く思ってもいない言葉が口をついていた。


 冷たい夜風がそよそよと塔に入ってくる。春とはいえ、夜になると気温が低い日が続いている。ストールや膝掛けも持っていないフリッツが、一瞬身震いした。

 暖炉まで消しちゃったのはまずかったかなあ……と、サリアは横を見て考える。もう一度火をつけ直そうと、席を立った時だった。


 フリッツが、サリアのドレスの裾を引っ張った。どうしたのだろうと振り向くと、立上って窓の外を指差すフリッツと、夜空を音も無く流れる幾つもの星達が見えた。


「あっ……」


 サリアは思わず声を上げた。

 星は、銀色の軌跡を刻みながら、夜空を一瞬で駆けていく。瞬きする間も惜しくて、サリアはその場で立ったまま、流れては消える星々を眺めていた。


 フリッツも窓辺に手をのせたまま立っているが、地面にいるときは畳んでいる背中の羽が、今にも飛び立ちそうにぱたぱたと小さく開いたり閉じたりしている。すると、彼は急に窓辺に片足をのせた。


「えっ! フリッツ!?」


 驚きの声を上げるサリアの方に顔を向けて、フリッツは片手を差し伸べた。式場にサリアを迎えに来た、あの日のようだった。

 サリアは目を丸くしたまま、フリッツを見上げた。


「誘ってくれるの?」


 もちろん! と言う代わりに、フリッツは大きく頷いた。サリアはそんな彼が仮面の中で、笑っているような気がして、自身も柔らかな笑みを浮かべた。

 そして、彼の手をぎゅっと握りしめる。


 フリッツはサリアを抱き上げると、体の向きを変えた。そして、窓枠を蹴って宙にふわりと浮き上がった。

 星が降る空に向かって、フリッツは高度を上げていく。時折下から吹く風に身を預けて、山の眠りを妨げないようにと静かに飛んでいく。月と星の光が、大きな翼の影を木々の上に落としていた。


 流れ星は、地球の丸みをなぞるかのような軌跡を描いている。星と一緒に夜を旅しているかのようだと、サリアはフリッツの腕に身を預けながら思う。


「綺麗ね」


 サリアは無意識に、心からの称賛を呟いていた。

 フリッツから無音の肯定が届く。


 今まで、このように夜空をじっくりと見た事の無かったサリアは、飽きることなく空を見つめていた。星の色には白や赤や青があること、流れ星の軌跡にもそれぞれ色があることをしっかり目に焼き付け、夜空がゆっくりと動いていることも体全体で感じながら、サリアは空の旅を楽しんでいた。


 この生活で、知らなかったものや見たことないものに、たくさん出会うことが出来た。それのすべて、フリッツが与えてくれたものだと思い、サリアの心は感謝の気持ちでいっぱいになる。


「フリッツ、知ってる? 流れ星に願い事をしたら、それは叶うんだって」


 いつの日かどこかで聞いた噂話を、サリアはフリッツに話していた。見上げたフリッツの顔は、仮面の嘴が影に覆われていて威圧感もあるものだったが、サリアはそれが寧ろ頼もしく感じた。


「あっ! ほら、あれ!」


 サリアは、視界いっぱいを横切る流れ星を、指でなぞっていた。そうしながら、心の中で願い事を唱える。

 これからもフリッツと一緒にいられますようにと。子供のような、無邪気な願いを。


 その時、サリアを抱くフリッツの腕に力が入った。ばさりと、大きな羽ばたきの音が耳を触る。


 きっとフリッツも願い事をしたのだろう。それは私と同じものだったらいいな。

 サリアはそんなことを考えながら、消えてしまった流れ星の向う側を眺めて、フリッツの手を包み込み、彼の微かな温もりを感じ取っていた。






















 翌朝、いつもよりも遅く起きてしまったサリアは、急いで朝食の準備をしていた。


 スープを煮込んで、全ての料理が出来上がり、やっとサリアは一息つけた。だが、普段ならばサリアと同じ頃に起きてくるはずのフリッツが登ってこない。

 昨晩は空の散歩を長くしてから眠ったのだから、今日の寝坊は仕方のない事だと、サリアはあまり気にしていなかった。

 しかしふと、塔から戻ってきたフリッツが、少し寒そうにしていたことを思い出す。


 もしもフリッツが風邪をひいて、熱を出していたらどうしようかと考えだしてしまい、サリアは気が気ではなくなっていた。

 そして、思い切ってフリッツを起こしに行くことにした。


 サリアが梯子を下りていくと、下の階の窓には雨戸が嵌められていて、いつにも増して暗くなっていた。そして段々と、ベッドの上で布団にくるまり眠っている影が視界に入ってきた。


「フリッツ?」


 声をかけてみるが、彼の様子は変わらない。もう一度近付きながら名前を呼んでみたが、結果は同じだった。


 サリアはベッドのすぐ横に辿り着いた。フリッツは壁の方を向いて、熟睡しているようだった。

 何も考えずに、サリアはフリッツの顔を覗き込む。顔色を窺って、病気かどうかを見定める、ごく当たり前の行為として。


 直後、サリアははっと息を呑んだ。フリッツは、いつもの仮面を被ったまま眠っていた。

 表情をのせることを拒んだその仮面の、色眼鏡の部分を見つめても薄暗い中では分からない。茶色い皮は、その艶を失っていたが、嘴を模した部分は人を拒むような冷たさを未だ保っている。

 横になってぼさぼさと乱れたフリッツの黒い短髪や、安心しきった寝姿の無防備さを、仮面は際立たせていた。


 サリアは寝ているにもかかわらず素顔を隠そうとするフリッツの横顔に戸惑い、立ち尽くしていた。

 普通ならば、このままそっとして自分の部屋に戻るべきだろうが、サリアはなかなかその場を動けなかった。


 まだ、フリッツが風邪をひいているのかもしれないという疑いが、微かにだが心の中に残っていた。シャツ越しの腕を触って温度を確かめてみるが、それだけではよく分からない。

 一度起こしてみることも考えたが、何事もなかった場合はゆっくり寝ていたところを邪魔したようで、申し訳なく思えた。


 フリッツは咳をしたりや鼻をすすっていたりする様子もなく、ただの思い違いかもしれないとサリアは半歩下がった。

 だが、その時、苦しそうなフリッツの息遣いが聞こえた。熱を出しているのかもしれないと、サリアは咄嗟に仮面から伸びて後頭部で結ばれた紐に手を向けた。そして、するりとその蝶々結びをほどいていた。


 ぱたりと、仮面が前に倒れる。その時初めて、サリアはフリッツの顔を見た。

 フリッツの顔には、あちらこちらに青痣がついていた。痣は紫色に変色し始めていたが、今でも生々しさが残っている。左の瞼には瘤のあとが残っている。


 サリアは、それを見た瞬間に心が抉られるような痛みを感じ、安易にフリッツの顔に触れようとした。その手は、小さく震えていて、彼女の動揺を素直に示している。喉がごくりと生唾を呑んだ。


 その時、ゆっくりとフリッツの瞼が開いた。サリアは驚き、手を止めることしか出来ない。

 半分に開いたフリッツの眼は、最初にすぐ前に取れた仮面があることを認めた。その瞬間に目ははっと見開かれ、真っ黒な瞳がすっと動いてサリアの顔を捕らえた。


 しばし、二人は驚愕の表情のまま見つめ合った。永遠のような一瞬が流れた。

 フリッツはがばりと起き上がった。あまりに突然の出来事に、サリアは思わず伸ばしていた手を引っ込める。


「フリッツ、待って!」


 サリアが制止する声も聞かずに、ベッドから降りたフリッツは早足で窓に向かう。黒い羽を大きく広げて、離陸体制を整えていた。


 サリアは混乱しながらも、彼を引き留めようと立ち上がり、走りだそうとした。しかし、ドレスの裾に足が取られ、その場に転んでしまった。

 乱暴に雨戸を取って窓枠に乗ったフリッツは、痣だらけのその顔を、心配そうにサリアに向けた。

 しかし、立上ろうとするサリアを見ると、悲しそうな顔になり、それを彼女に隠すように前を向くと、窓枠を蹴って飛び上がった。


「フリッツ……」


 サリアが再び立ち上がった時にはすでに遅く、フリッツの影が空高く舞い上がり、山の方に消えていくのを、泣き出しそうな顔で見送ることしか出来なかった。




















 窓の外では、夕方の足音が聞こえてきた。しかし、まだフリッツは帰ってこない。


 サリアは最上階に戻り、放心状態で椅子に座っていた。まだ食事を摂っていなかったが、そんなことは気にならない。


 今までずっと、フリッツの事を考えていた。なぜ彼が、頑なに仮面を被り続けていたのかは、その時になってやっと分かりかけていた。

 フリッツはきっと、単純に自分の痣だらけの顔が恥ずかしくて隠していたのではないのだろう。

 彼はいつも、サリアの事を気にかけていた。そして、サリアの事もよく知っていた。


 だから、鴉の時に領主の従者に殴られて出来た痣を見たサリアは、自分自身を責めるのだろうと、フリッツは考えたのかもしれない。事実、フリッツが教会で殴られたことを知ったサリアは、馬車の中で私の所為だと思って涙を流していた。


 なんて私は浅はかだったのだろう。テーブルの木目を見るとは無しに眺めながら、サリアは思った。私は領主から解放した喜びで自分のことしか考えてなく、フリッツの気持ちを知ろうとしなかった。

 フリッツが喋れない秘密に触れた夜、昨晩の流星の中の散歩などを通して、二人の距離は確かに縮まっていると思っていた。それ以前に大きな壁で隔たれていることを見て見ぬふりして。


 このままフリッツは、塔に戻ってこないのかもしれない。それも仕方のない事だと、サリアは半分諦めていた。

 しかし、それでも―――――


「……一度、ちゃんと謝らなくちゃ」


 その呟きと共に、サリアの瞳に光が戻った。

 今朝の非礼を謝り、自分の本心をフリッツに伝えたい。それが、サリアが何時間もかけて見つけ出した、自身が本当にやりたいことだった。


 だが、塔から下へ降りる階段は壊れてしまっている。そこでサリアが思いついたのが、塔中の衣服を集めて繋げ、地面に降りるための縄にすることだった。

 まずはこの部屋の服からと、サリアが意思の固い目で立ち上がった時、窓からばさばさという大きな羽音がした。


 窓枠を乗り越えて、帰ってきたフリッツは、まだ気まずそうに目を背けたまま、サリアの方に歩み寄ってくる。

 それでも、今まで仮面で隠し続けていたその顔を、そのまま曝し続けていた。


 サリアは彼の姿を見た時から、涙が溢れ出しそうになっていた。

 しかし、今は泣く前に伝えなくてはいけない事があると、涙をぐっとこらえて、サリアもフリッツの元へと一歩踏み出す。


 サリアはフリッツと正面から向き合った。改めて見るとフリッツは、黒目勝ちの眼で幼い印象を与える顔立ちをしている。

 サリアは一度、深呼吸をして頭を下げた。


「ごめんなさい!」


 するとフリッツは、慌ててサリアの肩を掴んだ。目を丸くしてフリッツを見詰めるサリアに、彼も涙目になりながらぶんぶんと頭を振る。まるで、謝らなくてもいいと言っているように。


 ぎゅっと肩を抱くフリッツの手を、サリアは優しく解いてあげて下ろした。今度は、サリアがフリッツの手を力強く握る。


「私のこと、許さなくても、ここから追い出しても構わない。でも、その前に、私の、本当の気持ちを聞いてほしいの」


 謝って、すぐに許して、そんな関係のままでは、前に進めない事を、サリアは気付いていた。フリッツも、そんな彼女の意思を汲み取り、口を固く結んだままこくりと頷く。


「フリッツの素顔のこと、何でフリッツが仮面をしているのかを、私はあまり深く考えてこなかった。いつか、時間が解決してくれるだろうって、楽観的に見ていた。だから……あの時も、あなたが熱を出しているのかもって気になって、仮面を外してしまったの」


 罪悪感から、目を反らしそうになるのをぐっと堪えて、サリアは言葉を紡ぐ。フリッツの黒い瞳は、静かに揺れていた。


「あなたはきっと、私がこの痣を見た時に、自分を責めてしまうだろうと思って、これを隠し続けていたのね? 今までの私なら、そうだった。でも、今は違うの」


 サリアは一度言葉を区切り、何かを覚悟したように息を吸って、一気に喋った。


「あの時の、周りに流されて自分の言葉も伝えようとしなかった私と、今なら正面から向き合える。その強さを、今の私は持ってるの。ただ、後悔するだけじゃあだめってことも分かってる。……それにね、」


 急に気恥ずかしくなったサリアは、ちょっとだけ気恥ずかしそうに笑った。

 フリッツはきょとんとした顔で首を傾げる。


「ずっと前から、素顔のあなたと食事をしたり、何気ない事で笑い合ったりしたいって、そう思っていたの。だから今の私は、過去よりも現在、未来の方がずっと大事なの。あなたと一緒に過ごす、ささやかで幸せな時間が」


 それを聞いたフリッツは、急に顔を真っ赤にして、片手で目元を覆った。

 サリアは思わずくすりと笑みを零す。


 普段仮面を付けている姿とは全く違う、フリッツの初心な反応がサリアには可笑しかった。

 仮面を付けていないフリッツの、様々な反応を見てみたいとサリアは思っていたが、仮面を勝手に取った立場で、そんなことを考えるのは過ぎた願いのように感じられた。


 突如不安に襲われたサリアは、眉を下げてフリッツに尋ねる。


「フリッツ、顔に触ってもいい?」


 フリッツは目元を覆っていた手を下げて、小さく頷いた。

 サリアはフリッツの左頬、一番大きな痣に向けて手を伸ばす。そっと、彼女の右腕がフリッツの輪郭に触れる。

 彼は一度目を瞬かせた。サリアは、フリッツの痣を親指で撫でながら、弱々しく微笑んだ。


「こんなのすごく我が侭だと思うけど……私はフリッツと一緒にいたいの。あなたは、どう?」


 フリッツは、頷く代わりにサリアを強く抱き締めた。

 サリアは、驚きながらも、彼を抱き返す。


「ありがとう、フリッツ」


 そう呟いたサリアの眼に、一筋の涙が零れた。フリッツの胸に当てた耳には、彼の心臓の音が届けられる。


 フリッツが生きていてくれて本当に良かった。あの日と同じ温もりを感じながら、サリアはそう思った。

 人になったフリッツの、高い背格好も、真っ黒な瞳も、巨大な翼も、一言も喋れない口も、痣だらけの顔も、全てが愛おしくてたまらなかった。


 しばらく抱き合った後、誰ともなく二人は手をほどく。


「ねえ、おなか空いたでしょ? 一緒に食べましょう」


 サリアが微笑みを湛えながら言うと、フリッツもそれに応えて笑った。


 穏やかで静かで、何も変哲もないが、幸福に満ちた日々。それが続くことを一身に信じながら、二人は二人だけの食卓の準備を始めた。


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