第11話 愚痴酒は魔に狙われる

愚痴酒は魔に狙われる(1)


 私の勤め先では数年おきの配置換えが普通だったが、私個人の場合は引越し無しのした異動が妙に多かった。あまりに使えなくてたらい回しにされた可能性は大いにあるが、引き取り手があっただけマシだったと思っている。


 特に就職四年目は、職場で大きな組織改編があったため、人集めに動員される格好で二度も異動する羽目になった。


 正月休みが明けて新しい組織が正式に発足し、たらい回し要員の私もようやく落ち着き場所を得たと思った。しかし、できたての職場は「ほやほや」どころか「ドロドロ」の環境だった。

 新組織の人員は当然ながら他機関からの寄せ集めなので、職場の中は恐ろしく無秩序で、縦にも横にも人のつながりがほとんどできていない。業務区分さえ曖昧で、常に部署間で仕事を押し付け合っている。そして、何より嫌だったのは、早くも深刻な派閥争いが発生していたことだった。


 組織で働く者たちの重大な関心事は、ヒト・モノ・カネの三つである。これらの話には皆が群がり、オイシイ話は己の派閥で独占しようと暗躍し、実入りのない案件は派閥外の人間に押し付けようと画策する。

 まだ勢力図が固まっていない新設組織においては、なおさらその傾向が顕著に見られた。


 そういうセコい工作に熱心な連中は見ていて実に不快なのだが、不幸なことに、新しい職場で私の直属の上司となった人間はまさにこの「セコい」タイプだった。


 派閥内の人間が持ってくる仕事を最優先し、そうでないものはギリギリまで放置する。夜は常に遅くまで職場に居残り、オイシイ話を探して各部署を巡回しては根回しに余念がない。

 そして、ゲットしたオイシイ話は決して派閥外の人間と共有しない。派閥外に当該案件の本来の担当者がいても、全く無視してコトをすすめようとする。おかげで、一つの案件を処理するたびに「俺は聞いていない!」と騒ぐ人間が出てきて、必ず揉めた。非効率なことこの上ない。


 さらに不幸だったのは、この上司の配下にいた四人の部下のうち、三人が彼の敵視する勢力に属していたことだった。正確には、上司だけが露骨な派閥意識にとらわれ、当の部下たちは淡々と上下関係を受け入れていたのだが、上司がこの調子ではメンバー間にチームワークが生まれるはずもない。

 全く、彼をクソ上司と言わずして何と言おう。


 四人目の部下である私はさらに複雑な立場に置かれた。クソ上司は己の手駒が欲しかったのか、敵対勢力に属する部下三人を冷淡に扱う一方、己がオイシイと思う仕事には必ず私を関わらせた。私をダシにして主導権を握るためである。当該案件が先の三人の担当範囲であっても、彼らを無視して私に仕事を振ってきた。

 無視されるほうは当然面白くない。しかも、この三人は皆、私より十歳以上は年上のベテランだった。彼らからすれば、クソ上司お気に入りの若造が、先輩陣を蔑ろにして場を引っ掻き回しているように見えただろう。


 とにかく、やりにくい。助け合う雰囲気がないどころか、ちょっとした相談すらできない。みんなで飲みに行こうという話など全く出ない。酒好きな私にとっては実に不毛の職場だ。


 私が悶々としている前で、クソ上司は頻繁に事務所内外の「派閥の飲み会」に出かけた。「オイシイ話」を探すためだ。

 神聖な酒の席をそのような目的に利用するとはけしからん。あんのクソ上司、絶対に成敗してやる。酒の恨みは怖いのだ。


 実のところ、その「派閥飲み会」に私も一度だけ連れて行かれたことがある。クソ上司は「若い奴を俺サマの人脈につなげてやった」などと思っていたようだが、こちらはそんな胡散うさん臭いネットワークに興味はない。実に迷惑な話だ。

 その胡散臭い会合で、気心知れた仲間たちに囲まれたクソ上司は、臭い日本酒をちびちびと飲みながら、敵対派閥との戦いの日々を盛大に語った。


『奴らはウマイ話を自分たちだけで進めようとして、こちらと情報共有しようとしない。しっかり監視していないと、トップまで話が上がってから「俺は聞いていない!」と言わされる羽目になる……』


 それって、アンタ自身が毎日やってることじゃないのか。


 私はクソ上司の言う「敵対勢力」の人間ともパシリとして関わることがたびたびあったが、彼らは決して秘密主義ではなかったし、クソ上司に関わる仕事にも普通に協力してくれた。「敵」のほうがよほどだ。


 私は、心の中で「けっ」と悪態をつきながら、クソ上司のお猪口ちょこに臭い日本酒を注いだ。勤続五年目ともなれば、偽の愛想笑いを浮かべて情報収集を試みるくらいのブラックな芸は身に付いているのだ。


の人たちって、そんなにつき合いづらいんですか?」

「僕ぁ嫌いだね。人を小バカにしやがって……」


 クソ上司の話は新人時代にさかのぼった。彼の敵対勢力には高卒の「たたき上げ」タイプが多いのだが、大学を卒業した彼は、最初の職場で数年間この「たたき上げ」に子分のように使われた。異動後に成績優秀と認められ出世の階段を上がったが、いまだに新人時代の待遇が忘れられないらしい。


 当時のクソ上司は四十代後半。彼は四半世紀近くも昔のことを根に持っているのか。相当な粘着質だ。

 そもそも、経験豊かな高卒の先輩陣からすれば、新人は学歴に関係なくおバカに見えて当然だろう。クソ上司はいいトシこいてそんなことも知らんのか。それに、今の職場にいるのは彼を子分扱いした人間とは無関係の者ばかりだろうに、それを勝手に敵視するとは、性格がセコイにもほどがある。

 

 酒の力は恐ろしい。ちびちびペースの日本酒でこうも人間の程度が晒されるとは。このクソ上司、正真正銘のクソだ。何が何でも成敗する!


 ……と「倍返し」的なものを誓ったが、クソ上司は今や勤続二十年以上の古ダヌキだ。勤続五年前後の私が正面から戦いを挑んでも勝ち目はない。



 日々溜息をつきながらひと月半ほど勤務していると、ある日、事務所の片隅で同じようにため息をつきつつ残業するおじさんの姿が目に留まった。特にイケメンでもない四角顔のおじさんは、ひとりパソコンをいじっていた。

 パソコンの左側には缶ビールがひとつ。忙しい部署で「事務所宴会」をやった経験は幾度となくあったが、一人ぽつんと自席に座り仕事をしながらビールを飲むという構図は初めて見た。


 彼とは同じ課ながらほとんど言葉も交わしたことがなかったのだが、あまりにサミシイ空気を漂わせているので、たまらず「お疲れ様です」と声を掛けた。


 おじさんは力ない笑顔を向けてきた。聞けば、今日は同期会に出るはずだったのが、管理職同士の争いが原因で日程的に厳しい調整作業がほぼやり直しになってしまい、飲み会どころではなくなったのだという。


同士で前もってきちんと意思疎通しててくれれば、こっちも計画的にやれるのにねえ……」


 彼がぽろっとこぼした愚痴に、私は首を縦に大きく振った。派閥間の秘密主義が横行し、進む話もひっくり返されて、被害を受けるのはいつも下々の者ばかりだ。

 おまけに、残業してもわずかな手当てしか出ない。


 私は、周囲を見回し、クソ上司とその一派が近くにいないことを確認すると、四角顔のおじさんに愚痴の十倍返しをしてしまった。おじさんは嫌な顔一つせず私の話を聞いてくれた。

 そして、机の上の缶ビールを指さして「これ、もう一本あるけど、時間あるならちょっと飲んでく?」と言った。


「ちょうど僕も一休みしようと思ってたトコなんだよ」

「ありがたくお言葉に甘えさせていだたきます」


 私は空いていた席を拝借し、彼のポケットマネーで購入された缶ビールを飲んだ。

 やっと日々の悩みを話せる人に出会えて、嬉しかった。何の変哲もない缶ビールが命の水のように感じた。



 以来、私は残業して一区切りつく時間帯になると、持参で四角顔のおじさんの所へちょくちょく顔を出すようになった。彼以外の人間が残っていることも多かったが、そんな日は場にいる一同で愚痴大会が繰り広げられた。皆、立場の上下に関わらず、抱えるストレスは同じだったのである。

 このミニ事務所宴会のおかげで、私は精神的にずいぶん救われた。次の異動の時期がくるまであのクソ上司の下で何とか生き延びていけそうだ。


 ……と思っていたが、それは儚い願いだった。四角顔のおじさんと彼の同僚たちは、そろってクソ上司が敵視する側に属していたからだ。


 彼ら自身には派閥意識などほとんどなく、私がクソ上司の部下であることは承知の上で「愚痴大会」に混ぜてくれていたのだが、クソ上司のほうは極めて了見の狭い人間だった。「手駒」だと思っていた私が敵対勢力と酒を酌み交わしていると知って、見過ごすことはできなかったのである。




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