第8話 水割りは太古のロマン

水割りは太古のロマン


 物価の高い都心に勤めていた当時の私の最大の悩みと言えば、飲み代が半端なく高くつくことだった。


 仕事量がさほど多くない部署に勤務していた時は、ほぼ自炊生活を送っていたため、食費はひと月あたり二万円ほどだったのだが、月の飲み代は食費以上にかかっていた。


 これでも、飲みに行くのは週一ペースである。都心では、外でちょっと飲み食いするだけですぐに五、六千円はとんでしまうのだ。終電を逃すと、日中より二割も高いタクシー代まで必要になる。

 人事異動に伴う歓送迎会が集中する三月、四月などは、真面目に破産寸前だった。



 都心特有の物価の高さは、時に、金銭とは別の面でも重大な問題を招くことがあった。


 ある年の春、遠方から異動してきて間もない上司を囲んで歓迎の席が設けられた。

 新任上司と部下たちはすぐに打ち解け合い、和やかな雰囲気で酒を酌み交わした。宴もたけなわの頃合いに、通勤圏ギリギリのエリアに住むその上司は、終電が無くなるからと言って先に席を立った。そして、「じゃ、皆さんはごゆっくり。僕の分は、これで払っといてくれる?」と言って、五千円札を置いて去って行った。

 彼を見送った我々は、テーブルの上に残っていたものを食べ尽くし、「二次会はどうする?」などと話しながら、さてお会計、と総額を確認した。

 単純に頭割りにしたところ、一人当たりの飲食代は七千円近くだった。


 当然ながら、私を含め部下一同は、「あんのクソ上司、ふざけんじゃねえ」と怒り心頭。

 翌日から、職場の人間関係は非常に悪くなってしまった。


 おそらく中央勤務が初めてだったのであろう新任上司が「都心の相場」を知らなかったのは致し方ないことなのだが、「長」の肩書きを持つ者は、ああいう場面ではやはり万札を出しておいたほうが無難というものである。



 酒代を節約し、人間関係に影響を及ぼすような不幸な「事故」を無くすには、一体どうしたらよいか。


 その解決方法の一つが「事務所宴会」だった。


 夕食時も家に帰れず残業三昧の連中が、「一区切りついたところで一息入れようか」というタイミングで、コーヒーではなく、ビールを飲む。一人、二人、と缶ビールを開け始め、やがて周囲から、タブを引き起こす「プシュッ」という音が連続して聞こえてくる。

 一足遅れて下っ端の私もプシュッとやるのだが、その頃にはすでに大半が飲んでいるので、全く気兼ねする必要はない。


 職場にはちゃんと冷蔵庫もあり、そこに缶ビールを備蓄することは公然の秘密となっていた。


 職場でアルコールとは何事か、と思われるかもしれないが、忙しい部署では外に飲みに行く時間すらほとんど取れないので、この「事務所宴会」は非常に便利だった。残業代もろくに出ない環境だったこともあり、当時の管理者は概してこのような事態を黙認する傾向にあったように思う。


 いや、酒好きなボスがいる所では、むしろ率先して「事務所宴会」が行われた。

 それなりの時間になると、ボスも下っ端も缶ビール片手に応接スペースにごそごそと集いだし、仕事の話から下世話な話まで、実にざっくばらんに話し合う。出入り自由で、若い者が先に帰っても文句をいう人間はいない。

 喫煙者が集う「タバコ部屋」のような雰囲気なので、日時を決めて店で飲むよりよほど気楽だ。


 ただし、「事務所宴会」に参加しながら所要の仕事が終わっていないなどという不始末をやらかすと、周囲からの信用を一気に失うので、業務と宴会の両立には細心の注意を払わなければならなかった。



 とある日の昼休みのことだった。仲の良いおじさんから、「今日、夜に宴会やるから、つまみ買っといて」と頼まれ、上司から巻き上げたらしい数千円を渡された。

 何でも、南極観測船が日本に帰港し南極の氷が関係各所に配られたとのことで、私のいる事務所もその「おすそ分け」にあずかったのだと言う。


 うわあ、南極の氷でオン・ザ・ロックですか。そりゃあカッコいい!


 私は早速、職場の敷地内にある売店に向かった。新人の時は、「あんたの好きなつまみを買ってこい」と言われたのを真に受け、チョコレートとクッキーのみを大量に買い込むという大ボケをやらかしたが、さすがに同じ過ちを繰り返すほど愚かではない。低予算な事務所宴会の定番つまみである「乾きもの」を購入し、準備万端に整えた。


 午後の仕事を速攻で片付けて、七時頃から部屋のメンバーが応接スペースに集い出す。人数分のコップを用意し、「乾きもの」をテーブルに広げると、いよいよ南極の氷がお披露目となった。


 水道水を凍らせて作る氷に比べると、南極産の氷はずいぶん白いような気がする。透明な部分がほとんどないのだ。 


 さて、肝心のアルコールはどうするんだ、と思ったら、誰がどこに隠し持っていたのか、ウイスキーの瓶が登場した。

 ウイスキー初心者だった私は、ロックで飲む自信はなかったので、少し薄めの水割りでいただくことにした。


 適度な大きさに砕かれている南極の氷を、平凡なデザインのガラスのコップに入れる。上から、琥珀色の液体を注ぎ、さらに水を入れる。

 すると、コップの中から、なにやら不思議な音が聞こえてきた。


 ぴちぴちぴちぴち……

 ぷちぷちぷちぷち……


 炭酸飲料をコップに注いだ時の音に比べると、かなり大きい。しかし、作ったばかりの熱い麦茶に投じた氷が割れる時の「ピシッ」という破裂音に比べると、ずいぶん小さく、優しい音だ。


 なぜこんな音がするんだろう。


 思わずそんなことを呟くと、私の隣で己のコップに耳を寄せていたおじさんが、「それはね……」と語り出した。



 南極の氷って、真っ白だろう?

 あれは、雪の白さなんだよ。

 雪が固まってできたものなんだ。


 南極は寒いから雪が融けない。

 先に降った雪の上に、新しい雪が

 どんどんどんどん、降り積もる。


 下の方の雪は、上の雪の重みで

 ぎゅうっと圧縮されていく。

 そして、徐々に氷に変化するんだ。


 雪が白いのはなぜだと思う?

 空気をたくさん含んでいるからだよ。

 空気をたくさん含んだ細かい氷の粒は、

 すべての光を乱反射させる。それが、

 僕たちの目には「白」に見えるんだ。

 透明な氷がかき氷になると白くなるだろ?

 あれと同じだよ。


 南極に降った雪は、空気を含んだまま

 ゆっくりゆっくり、圧縮されていく。

 雪のように真っ白なまま、

 空気を一緒に閉じ込めたまま、

 何千年も、何万年もかけて、

 氷になるんだ……。



 なんと壮大な話だろう。つまり、今コップの中にある氷は、何万年も昔のものということなのか。



 そうだよ。

 この氷も、氷の中の空気も、

 何万年も昔のものなんだ。


 上から常温のアルコールや水を入れると、

 温められた氷の中の空気が一気に膨張して、

 氷が融けるより先に、弾けてしまう。

 その時に、この音がするんだ。



 ぴちぴちぴちぴち……

 ぷちぷちぷちぷち……



 僕たちは今、何万年もの太古の音を、

 聞いているんだね……。



 なんと小さくて壮大な音だろう。何万年もの、太古のロマン。


 場にいた一同は、うっとりと耳を澄ませ、白い氷が奏でる音楽を堪能した。そして、静かに乾杯をした。

 コップを口元に寄せると、太古の音がさらによく聞こえる。


 ぴちぴちぴちぴち……

 ぷちぷちぷちぷち……


 音に導かれるように、コップの中の氷を見つめた。不思議なほどに真っ白な氷。


 その表面に、なにやら黄色っぽい小さな斑点があるのに気付いた。なんだろう。ウイスキーかな? しかし、琥珀色にしては黄味が強い。ウイスキーというよりはビールに近い色だ。


 私が氷の上の斑点を凝視していると、南極の氷のうんちくを披露してくれたおじさんが、ひょこっと覗き込んできた。


「何それ? ペンギンのおしっこ?」


 太古のロマンは三秒で弾け飛んでしまった。




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