第2話 初めてのバーは危険な香り

初めてのバーは危険な香り(1)


 前の話にも書いたが、私は童顔である。しかも背が低いときている。さらにファッションに興味なしとくれば、見た目は間違いなくショボくなり、実年齢より十歳近くは下に見られる運命となる。

 五十代の女性が「十歳は若く見える」と言われるのなら、心の中で密かに喜びをかみしめるかもしれない。しかし、実社会に出て間もない学部卒の人間が「十歳若く見える」ということは、二十二マイナス十、すなわち小学六年生のような背格好に見えるという意味になる。


 社会人になると、童顔で嬉しいことなど一つもない。


 まず、全くデキる人間には見られない。実際デキはよろしくないので、見かけと中身が一致しているという意味では問題はないのだが、見るからにデキなさそうな奴に仕事を任せてくれる奇特な人はそうそういない。故に、経験を積むチャンスがなかなか巡ってこないのである。

 甘やかしてくれる親切な人はいたが、そんな状況では、デキる面構えの同期に後れを取るばかりだ。


 第二に、童顔は交渉事に極めて不利だ。背が低ければなおさらだ。顔を合わせたばかりの相手に、理由のない優越感を与えてしまう。「御しやすい」という印象を持たれやすいのだ。

 この問題は、ビジネスのみならず、人生のあらゆる場面で悪影響を及ぼす。言いなりになって当然と思われるから、先方と「ギブアンドテイク」の関係に持ち込むまで一苦労する。相手の言に反論すると、生意気だと敵意を向けられることさえある。


 幸い、経験年数の浅い者が折衝案件で主導権を握ることはまずないので、仕事で致命的な問題を抱えたことはなかったが、職場の中の男女関係に関しては、少々不愉快な出来事がいくつかあった。


 しかし、これらのことは、私にとってさほど重大な問題ではなかった。第三の、そして最も由々しきディスアドバンテージは、アルコールが全く飲めない人間だと周囲に誤解されることだった。



 働き始めて間もなく、職場の面々が「歓迎会」なるものを開いてくれた。ところが、一応は場の「主役」であるはずの私に、誰もビールを注いでくれない。

 黙っていると、上司が私の顔を見て、「ああ、〇〇さん、オレンジジュースがいいかな?」と言う。すると、間髪入れずに瓶のオレンジジュースが出てくる。仕方なくそれをグラスに頂戴すると、飲み終わる頃には、すでにウーロン茶が私のためにオーダーされている。


 男社会の業界だったせいか、冴えない童顔の女性新人に、みんな実に温かく接してくれた。至れり尽くせりの歓迎ぶりに、「ワシも酒が飲みたいんじゃ!」と叫ぶわけには行かず、帰り道に一人コンビニで缶ビールを買ったのは、なんとも寂しい思い出である。



 そんなみすぼらしい新人も、五月病の時期をクリアすると職場環境にもだいぶ慣れた。上司や先輩陣は極めてアットホームな人たちだったので、初めは一生懸命かぶっていたはずの私の「猫」は、早々にどこかへ消え失せてしまった。


 梅雨前の汗ばむほど天気の良いある日、私は職場の面々と部内の食堂で昼食を共にしていた。

 暑くなってくると、おじさん達は「ビヤガーデンにいつ繰り出すか」という話をせずにはいられないらしい。常に幹事役の先輩が「一席設けようか」と言い出したので、私は今が好機とばかりに、さりげない自己アピールを試みた。


「ビヤガーデン、楽しそうですね。まだ行ったことないので、是非行きたいです」


 その時までビヤガーデンに行ったことがなかったのは本当である。当時は、こってり甘いドイツワインにハマっていたからだ。

 ワインに比べれば、ビールは「大好物」というほどではなかった。しかし、ここで大事なのは、飲むアルコールの種類ではない。酒は好きだ、と伝えることが重要なのだ。


 同席の面々は、はっとした顔で一斉に私を見、そして一斉に破顔一笑した。どうやら、彼らは彼らなりに、「小学生のように見える新人」を酒の席に誘ってよいものかと気を遣っていたらしい。先輩の一人が、「あれ、酒飲むの? 歓迎会の時、飲んでなかったじゃん?」と尋ねるので、「飲ませろとは言えなかった」と素直に言ったら、一同は一斉に爆笑した。

 この「カミングアウト」のおかげか、その後は人間関係がよりスムーズになり、先輩陣とも安心してものを言い合えるようになった。


 しかし、後から考えると、私のアピールは少々足りなかった。一人の邪悪な人間に誤解を与えてしまったのである。




 アルコールは嫌いじゃない、という私の「カミングアウト」を、に解釈してくれたのは、同じ部署の同じチームに属し、私より六、七歳ほど年上、当時三十手前の独身男だった。


 中肉中背、顔は普通、年の割に頭髪が薄めなのがやや気の毒な風貌の彼は、すまし顔でよく喋る奴だった。

 実のところ、私は彼と数回話した時点で、早々にネガティブな印象を抱いていた。イケメンじゃないとか、髪が薄いとか、そんな外見的な理由ではない。「女慣れしている」という雰囲気を醸しているのが、妙に気になったのだ。


 ある日、件の男は廊下で私に声をかけてきた。


「お酒、嫌いじゃないんだってね。行きつけのバーがあるんだけどさ、ちょっと行ってみない? この辺りの飲み屋とか、あまり知らないだろ?」


 先入観を裏切らない、不愉快な「上から」目線。やはり、私の目に狂いはなかった。こいつはクソ男で決まりだ。


 しかし、無下に断って、後で職場の人間関係がギスギスするのも困る。不幸にして、デキの悪い新人は後腐れのない断り方を知らなかった。


 適当にごまかす言葉はないかと迷っていると、すでに顔見知りとなっていた先輩A女史が、我々二人のそばを颯爽と歩き過ぎていった。そのとたん、仕事では全く要領の悪い新人の頭に、電光石火のごとく悪の企みが閃いた。


「あのう、一人じゃ緊張しちゃうので、先輩のAさんとか、誘っていいですか?」


 A女史がアルコールをたしなむかどうかは定かではなかったが、取りあえず第三者の名前を出せばこの場面を切り抜けられるかもしれない。もし、三人で飲もうかという話になってA女史が断ってきたら、自分がそれを理由に断っても、そうそうカドは立たないだろう。

 問題は、まずクソ男の側が第三者を入れることに同意するかどうかだが……。


 一瞬の懸念は全くの杞憂で、彼は私の提案をあっさりと承諾した。「二人とも俺がごちそうしてやるから」なんて言ってきた。

 なあんだ、間抜けな新人に酒を飲ませて酔ったところを×××……、という魂胆じゃなかったんだ。ちょっと自意識過剰だったか。恥ずかしい。


 とっさに引き合いに出したA女史は、いわゆるクールビューティで背丈も標準的な女性だった。誰が見ても私なんかよりよっぽど見目麗しい。あ、もしかしたら、クソ男は初めから私が彼女の名前を出すことを読んでいたのか。奴の本当の狙いは彼女で、私はただのダシというところか。

 まあ、この際ダシでも何でもいい。後からクソ男に「やっぱA女史と二人で行くことにしたからごめんな」って言われても、別に構わない。奴とサシで飲みに行って面倒なことになるよりずっとマシだ。


 と、ぐるぐる考えた後、ふと、次のミッションがあることに気が付いた。当の先輩A女史に、「クソ男と一緒にバーに行ってください」とお願いしなければならない。


 A女史は、先も書いた通り、あまり表情の出ないところが実に都会的な美人系で、中身もとても落ち着いていた。先輩といっても年は私と一歳しか違わないのだが、まさに雲泥の差というやつである。

 彼女とは仕事で接する機会がそれなりにあり、数回ほどランチを共にしたこともあったので、私のほうは勝手に親近感を抱いていたが、先方が間抜けな新人をどんな目で見ているのかは分からない。


 気後れしないわけではなかったが、緊急事態に陥った人間は、思っていた以上に勇気が出るものである。


 課業時間中にも関わらず彼女の部署まで出向いた私は、クソ男の名前を挙げ、状況を話した。すると、彼女は「ふうん」と形の良い鼻先でかすかに笑った。そして、冷や汗をかく私に、ひとつ質問をした。


「〇〇さん、飲めるほう?」


 アルコールは弱くない旨を答えると、クールなA女史は同行を快諾してくれた。



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