02

 新しく始めたバイトはなかなか楽しかった。

 そこはカフェと呼ぶには少しけばけばとしたところがあるように感じたけれども、僕は基本的にカフェや喫茶店と呼ばれる類の店が嫌いではなかった。もっと細かく言えば、コーヒーの香りが好きだったのかもしれない。僕が京子の提案を承諾したとき、意外そうな顔をした彼女に対しても同じような説明をした。そのときの彼女の表情は、僕がその奥に隠そうとした本質を見抜いているようにも思えた。

 そう、今の僕には何よりもお金が必要だった。この慌ただしい一年の間に埋もれてしまったあの日の夢を、僕は意図せぬままに探し当ててしまった。僕がその夢を実現するためには色々な障害物があって、それを乗り越える前の、いわば前提条件としてお金が必要だったのだ。

 僕は女子高生の集団を相手に接客をし、慣れないことをするのでくたびれたが、休憩時間には図書館で借りてきた本を読んだ。僕が自慢できる数少ないことに集中力の高さを挙げることができるが、バイトの休憩時間は短く、下手に読書に集中してしまうと時間を超過してしまうので、専ら家で読んだ箇所を読み直すことに努めた。それもまた、夢の実現へと至るための一歩だった。

 バイトの内容は今までにやった中では最も易しい部類に入った。それでも、女子高生を相手に接客をするのはどうも得意ではなかった。あえて明言しておけば、僕は女性の肢体に触れたことがないわけではないが、それは女性に慣れていることを意味するものではない。女子大学生が相手なら、一人であろうと集団であろうと物怖じすることはないはずだ。だから、僕は女子高生という見えない肩書に、あるいは彼女たちが着ている――もしくは着せられている――学生服に怯えているのかもしれない。このことが示すように、僕はあまり精神の強い人間ではなく、規矩にはまった人間だといえるかもしれない。

 店は午後七時には閉店する。基本的には後片付けを済ませれば業務は終了なのだが、僕は大学の授業の関係で特別に一時間遅く出勤させてもらっていたから、その代わりに店内の清掃までやることになっていた。それはオーナーに対する親切心でもあったし、少しでも多くの時給を稼ごうという僕の目的に適ったものでもあった。オーナーは四十代後半から五十代前半くらいの女性で、店の土地は彼女の親類が所有しているものらしく、数年前にこの店を開いたのだと京子が教えてくれた。まあ、そんなことは僕にとっては大したことではなかった。女性は会話を通して細かなことまで情報を得るのだなと、何となくそんなことを考えるだけだった。それでも僕自身がそういう些細なことを話の種にすることもあって、そのおかげもあってか、僕とオーナーの関係は良好だといえた。

 バイトの人間はその日毎に一人いれば充分だから、京子と店で会うことはない。ただ、最初の頃は休みの日でも京子が様子を見に来てくれたり、用事があって近くまで来たときには店に顔を出したりしていた。だから、僕は駅までの道を並んで歩くことがたまにあった。これは嬉しくもあり、負担でもあった。ふとしたきっかけから予想していた以上に親密な仲になり、女性と一緒に歩けることは純粋に嬉しかった。しかし、京子との約束で一ヶ月間は僕が食事を奢ることになっていたが、それは昼食に限ったことではなかったのだ。


「昼食に限ると言った覚えはないわ」


 京子はそんなことを言ったが、それでも意地悪な性格をしているわけではないから、ファミレスで軽食をとったりファストフードで済ませたり、僕の財布に対する最低限の配慮はしてくれているようだった。あくまでも最低限ではあったが。

 そんな彼女は配慮をしつつも奢られることに遠慮はしておらず、僕は憎らしく感じたり好ましく感じたりした。どうして好ましく感じるかというと、そのからりとしたところが気に入ったのだろう。それに他人に食事を奢るという行為が僕を大人へと成熟させてくれるような、そんな妙な気分にさせてくれた。

 ある日のこと、店の清掃を終えた僕は一目散に帰路に就いた。京子がいないときはいつもそうしている。一日の汗を流して清潔な下着に着替えるときが幸福な気分を呼び寄せてくれるものだから、僕はその幸福めがけて自宅への道を急ぐというわけだ。この日も僕は人為的に幸福を手元に引き寄せると、二つの付箋を貼った本を取り出した。どうして二つも付箋を貼っているのかというと、さっきも言ったように外で読書をするときは家で読んだところを読み返すからだ。一つの付箋は家で読み終えたところまで、もう一つの付箋は再読したところまで。本当は借りてきた本に付箋を貼るのは申し訳ないのだが、栞を二つも挟むのは不格好だし邪魔になる。この短い期間に身につけた一つのテクニックだった。

 このときに読んでいたのは写真集だった。と言っても、思春期の少年にありがちなグラビアアイドルの写真集などではなく、異国の地の街並みを写したものだ。手にしたのはトルコの写真集で、同じアジアの国なのにここまで街並みが違うのかと漠然と考え、いやいや文化圏が違うのだから当たり前のことだなどと考えたりした。しかし、厳密には考えているという言葉は相応しくなく、「考える」と「思う」の中間、あえて定義すれば「感じる」という言葉が相応しいのだろう。

 僕は写真集を眺めながら、あることを夢想していた。自分なりの言語を持つという野望を、その達成を。僕はきっとそうしてみせるし、そうすることができるはずだ。内から湧いてくる活力は、その証明だった。

 僕は、表現者になりたいのだ。




 野崎くんの返事を聞いたとき、私は意外に思った。それは私の提案を彼が承諾したことに対してではなく、何となくそうなることが分かっていた自分自身に対する感情だ。彼は目先の利益ももちろん考えていたと思うのだけれど、どこか遠くを見据えながら私に語りかけていたような気がする。ああ、この人はそういう人だったなと、私は思い出した。

 野崎くんがどう思っていたかは分からないけれど、私たちの関係に恋愛の要素が入り込む余地はなかった。だから、年末にある男の子に告白されて付き合うようになってからも、別に野崎くんとの関係を解消する必要も彼氏に遠慮する必要もなかった。それがどうして三ヶ月も顔を合わせないことになったのか、私には分からない。多分、春になってから野崎くんと偶然再会したのと同じように、一時的な別れも偶然が重なり合った結果だったのだと思う。

 楽しいといえば楽しい、つまらないといえばつまらない、そんな三ヶ月間だった。彼氏は高校までサッカーをやっていた人で、大学に入ってからは止めてしまったようだけれど、体力があって爽やかな感じのする人だった。勉強もそれなりにできる人で、俺は推薦入試ではなく一般入試でこの大学に入ったんだと、どこか誇らしげに語ってくれたことがある。それが一日中買い物に付き合わせたときのことなのか、同じベッドで朝を迎えたときのことなのか、そこまではよく覚えていない。

 彼のことが好きだったのかそうでなかったのかと訊かれたなら、もちろん好きだったと即答できる。でも、次第に熱が冷めていくの自分でもよく分かった。元々、そこまで期待もしていなかった。彼の腕に抱かれながら、ふと野崎くんのことを思い出し、無意識に彼氏と比較したことがある。野崎くんの身体はここまで頑丈じゃないだろうなとか、ここまで女性との接し方に慣れていないだろうなとか。そういうことを考えた初めてのとき、私の身体はよく燃え上がった。その理由はそのときにはっきりと分かった。でも、それを認めてしまうのが怖いように思えて、二度三度と同じことを繰り返した。そしてやはり、野崎くんのことを考えるときは快感が増すのだった。

 ああ、私は野崎くんのことが好きなんだ。

 ようやくそのことを認められた次の日、私は三ヶ月ぶりに野崎くんと再会した。







 初めての給料日は僕が休みの日だった。だから大学の授業を終えると、途中で寄り道をしながらのんびりとバイト先に向かった。どうせ開店中に顔を出しても邪魔になるだけだ。

 給料日という言葉の響き、その軽やかさ。どんな人間であったとしても給料日と聞けば心が潤うに違いない。今の僕は給料を心待ちにする凡庸な学生なのだ。

 しかし、いくら気持ちが和らぐといっても、財布の紐が緩んではならなかった。お目当ての物は僕にはなかなか手が出ない。仕送りや春休みのバイトで貯めたお金を動員すれば、充分にお釣りの出る金額ではある。だけどもそういったやり方は僕の好みではなかったし、何となく重みが足りないような気がした。神格化する必要があると僕には思えるのだ。例えば成功者が人生の岐路に立ったときのことを語る。それは凡庸な話であってはならない。何か霊的な力が働いて、あたかも運命というものが存在するかのようにそうなったと語られなければならない。要は物事を大きくして、過去の自分を一度殺してしまわなければならないのだ。

 今の僕にできる演出は初めての給料、それだけだ。けれどもそれを買ってしまえば全てが変わる。僕が変わり、世界が変わってしまう。きっとそうなるだろうという不思議な自信があるのだ。

 ……そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかカフェの前に着いていた。ちょうど男子高校生のグループが出てきたところだった。最近は女子ばかりでなく、男子も店にやって来るようになっていた。オーナーが言うには、男の店員がいるのといないのとでは全く違うのだという話だったが、もしそれが真実であるとすれば、僕も何かしら他人の役に立っているのだと思えて嬉しくなった。店のドアを開けてレジの真後ろに掛けてある時計を見ると、午後六時五十分を過ぎたところだった。ちょうど良いタイミングだ。厨房の方から足音がして、京子が姿を現した。


「いらっしゃい。給料でしょ」

「うん」

「座って待ってて。それとも洗い物、手伝ってくれる?」

「手伝うよ。その前に水を一杯くれないかな」


 僕がテーブルの食器を流しに運び、それを京子が受け取って洗う。京子が洗い物をしている間に僕は店内を軽く掃除し、十五分もしないうちに全ては片付いた。オーナーは奥で売上の計算をしているので、僕らは全ての作業を終えるとオーナーが出てくるのを待った。別にオーナーを待つ必要はなく、一言声をかけて給料を貰って帰ることもできたが、京子が厨房に一つだけの椅子に腰掛けたので何となくそういう流れになった。


「今月はどれくらい貰えるかなあ。ねえ、野崎くんのことだから自分で計算してるんでしょ」

「してないよ。でも、ざっと予想はできてる」

「さすがね。私も毎月の額と同じくらいだろうけど、時給を上げてくれたから少しは期待できるわ」


 売上の計算はなかなか終わらなかった。いつも清掃しながら過ぎていく時間だから短く感じたが、こうして意識して待つとひどく長く感じられた。

 僕は何となく居心地が悪かった。きっと京子が気にしていることを、質問されたくなかったからだ。


「給料、何に使う?」


 僕の気持ちを知ってから知らずか、京子は望ましくない質問をしてきた。彼女はさっきまでの会話と同じように軽い笑みを浮かべていたので、そこに意地悪な感情がないように思えたが、そうではないようにも思えた。


「さあ、ね」

「……」


 僕ははぐらかそうとしたが、京子は俯いてだんまりを決め込んだ。それは意図をくじかれた様子にも思えたし、ごまかしは効かないぞと主張しているようにも思えた。

 追撃されれば逃れようはなかっただろうが、追いかけてきたのは沈黙だった。僕にとってその沈黙はあまりにも痛々しかった。


「カメラでも買おうかと思ってる」


 僕は遂に白状してしまった。京子はまたしても曖昧な態度をとったので、その心の底から絞り出した答えを聞いているのかいないのか分からなかった。


「カメラ、か。そうだったね……」


 何に対してのそうだったねなのか、僕にはピンとこなかった。ただ、僕が深淵に隠し持っていたものを掬い取られたような気がして、落ち着かない気持ちになった。

 そこへ売上計算を終えたオーナーが出てきたので、僕らが無言のうちに作り上げてしまった雰囲気をばたんと崩壊させてしまった。

 僕らは給料を受け取り、戸締まりを終えた店の前でオーナーと別れた。僕らは駅に向かう夜道を並んで歩いた。ふと、オーナーが以前話していたことを思い出した。


「京子ちゃん、いつも彼氏に迎えに来てもらってるのよ。いいわねえ、青春よねえ。野崎くんは彼女作らないの?」


 彼女というのは作るものなのだろうかと、そのとき考えたことまで覚えている。どう答えたのかは覚えていないが、僕はきっと苦笑しながらもごもごと喋ったのだろう。

 僕の中で膨らんでいく不幸な想像が、どんどん無視できない大きさになっていき、最後に破裂した。


「今日は彼氏はどうしたの」

「別れたわ」


 彼女はあっさりとそう言った。ああ、そうか、と僕は思った。


「街へ出よう」

「どうして?」

「何か奢るよ」


 僕は、予想していたよりも多かった給料のことを思い出しながらそう言った。

 そうして、夜のモラトリアムは始まった。






 小心者の僕は自分から街へ出かけることを提案しながら、その日貰った給料を持ち歩くのが何となく怖かった。どこかで落とすのではないか、どこかで盗まれるのではないかと。でも、一番怖かったのは、この絶好の機会が失われてしまうことだった。

 それで僕は街に向かって走る電車の中で、まず家電量販店に行きたいと京子に告げた。僕がいち早くカメラを手にしたいことを肌で感じたのだろう、京子はそれを承諾した。そして自分も少し行きたいところがあるからと言って、別行動を提案してきた。僕はそれを京子の親切心と受け止めて、どこか分かりやすい場所で合流することにした。驚いたことに僕らはお互いの連絡先を知らなかったので、そこで初めて交換した。

 地域随一の家電量販店はだだっ広いフロアがいくつもあって、お目当てのコーナーにたどり着くのに時間がかかった。店員が近付いて来れば場所を教えてもらおうと思ったのだけれど、誰も彼もが疲れきった顔色をしていて、すれ違ったときの挨拶もどこか元気がなかった。閉店時間が近付いていて客の姿もまばらだったために、店内放送の明るい調子とは対照的な淀んだ空気が店の中を占めていた。

 ようやくカメラコーナーを探し当てたとき、僕の視線はあるデジタル一眼レフカメラに引き寄せられた。店内の薄暗い雰囲気の中で、そのカメラが輝きを放っているのが分かり、直感的に、これだっ、と思った。お目当ての商品が他になかったわけでもないし、特別に安くもなく高くもなかったのだが、もうそれ以外のカメラを買うという選択肢は存在しなかった。展示品を手に構えると、見た目の骨太な感に反してすっぽりと手に収まった。ファインダーを覗くと、ちょうど販促用に置かれたパネルに焦点が合った。そのパネル上で笑顔を浮かべる女優と目が合い、次の瞬間にはもうその顔のことは忘却の彼方にあった。僕はあの小春という美しい女性の顔を想起していたのだ。空想の中で彼女が微笑んでいた。やはりもうこのカメラしかない! 僕の心は急激に高鳴り、いつか彼女を写真に収める日が来るに違いない、とその確信を強めるのだった。

 一体どれくらい店の中にいたのかは分からない。僕が京子と合流したのは、午後九時になろうとしているところだった。僕がカメラの入った紙袋を持って待ち合わせ場所に現れたとき、京子はすっかり待ちくたびれていたのだろうが、どこか安堵したような表情を浮かべた。


「良いものがあったみたいね」


 彼女はそれだけ言うと、僕の先に立って歩き始めた。もう食事をする店を決めてあるのだろう、そう思って僕は黙って従った。

 都会の光は夜が深まるにつれて輝きを増していくように思われた。僕はその輝きの退廃的な臭いがあまり好きではなかった。人が最初に光を手にして暗闇を切り裂いたのは、いつのことだっただろう。そう遠くはない過去のはずだ。人の生活様式はもう後戻りできないところまで変わってしまったのかもしれないが、僕にとって、それはあまりにも不自然な生活だと思えた。朝日が昇るのと同時に目覚め、夕日が沈むのと同時に眠る。それこそが清浄な生活のあり方だと思えた。けれども、今の僕にはその過ちを断罪する資格はなかった。都会の光の中にいて、取り換えのできる大多数のうちの一人でしかない。

 僕は自分の無力を、自分の潔癖を恨んだ。僕が表現者として存在できるとすれば、それは人と寄り添ってでしかあり得ない。僕は孤独に歩むにはあまりにも無力だった。

 いずれにしても、夜のモラトリアムはまだ始まったばかりだ。僕が現実に引き戻されたのは、京子が足を止めたその瞬間だった。


「ここにしましょう」


 そこは過度な装飾の中にあって、どこか質素な感じのする洋食店だった。これは安くはないぞと思いながら、京子の選択にどこか安心した。

 僕らは通りに面した席に案内された。僕がキノコの入ったクリームパスタを注文すると、京子は魚介類がたっぷり入ったパスタを注文した。僕らはいつかのときと同じように全く同一のタイミングで水を飲み、そして笑った。さっき、僕らがバイト先の厨房で醸造してしまった嫌な沈黙はどこかへ消え去ってしまい、お互いに快活な調子で話をすることができた。最初はありきたりな世間話だったけれど、すぐに関心は買ったばかりのカメラに向けられた。バッテリーがないので写真を撮ることはできなかったが、ファインダー越しに店の外を見つめた。車道に目をやれば、三台おきにタクシーが通った。歩道に視線を移すと酔っ払ったサラリーマンの一群や、こちらがドキリとさせられるくらいに足を露出した女性が通った。


「野崎くんに似合ってるわ」


 京子は静かな口調でそう言った。まごころのこもった言葉に聞こえたので、僕はカメラを構えたまま京子を見つめて礼を言った。

 それにしても、僕はどこかで表現者になりたいと京子に告げたことがあっただろうか? 僕には以前にカメラを買いたいと言った記憶さえない。それでも彼女は僕の夢を知っているかのような口ぶりだった。

 記憶を掘り返していくと、僕が京子と知り合い親しくなったきっかけに関して全く覚えていないことに気付いた。僕らはどうして、こんなところでこんな雰囲気で、同じ時間を共有しているのだろう。その不思議が僕の心を強く揺さぶった。

 思考を中断させたのは、僕らのパスタを運んできた店員だった。僕らは黙々とパスタを食べ、食後に一度だけ美味しかったねと言葉を交わし、支払いを済ませて店を出た。予想に反して支払いが少なかったことに気付いたのは、店を出てしばらくのことだった。


「ご馳走さま、ありがとう」


 それは京子から貰った、食事に関する初めての感謝だった。僕はその言葉を聞いて、もうとっくに食事を奢る義務から解放されていたことに気付いた。

 それから僕らは自宅方面の電車に乗った。方向は一緒だったけれども、僕が先に降りることになっていた。ただ、時刻を見れば既に午後十一時前の遅い時間だったので、僕は京子の家まで送っていくよと言った。京子はしばらく考え込んだ後で、こくりと頷いた。

 駅からの道を並んで歩き、彼女のアパートの自宅に招かれた段階になって、僕はようやく事の重大さを理解した。ティーバッグの紅茶を二つのマグカップに注いできたとき、僕はこれからどうなってしまうのだろうと他人事のように考えていた。どこか冷静でいられたのは、僕が京子に対して恋愛感情を持っていなかったためだと思う。たしかに京子は可愛らしく好ましかったが、その好ましさは恋愛的な意味ではなかった。決して恋人同士になることはないだろうという気軽な感情で僕は京子と接していた。このときまで京子もまたそうだったのだと思っていたが、次第に疑問符を意識せずにはいられなくなった。

 結局、僕と京子の関係が新しい展開を迎えることはなかった。紅茶を飲み終えた僕が玄関に向かうと、京子は黙ってついて来て、握手を求めた。僕らは穏やかな握手を交わして別れた。

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