第2章(ルヴァーンの手紙)その5

 人魚の歌を聴いたあと、人々は久しぶりの漁に出た。人魚も波間に滑り込むと、舟を漁場へ導いていくのだった。彼女が「潮を告げる者」と呼ばれていたことを私は思い出した。

 彼女をそう呼んでいた老いたる村長は隣で舟々を見送っていたが、やがて私に向き直ると事の次第を尋ねた。けれど私の話に驚くでもなく、むしろ感慨深げな様子でさえあった。それで私も思い至った。村長アギは彼女の話を聞いたことがあったのではないかと。


「わしはほんの小僧じゃった」

 私の問いかけに老いたる村長は応えた。

「あのときも小さき神はうち沈んでおられた。だが村の者はどう接すればよいのかと思いあぐねるばかりじゃった。じかに聞けばいいのにとわしは思い、思い切ってそうしてみたのじゃ。

 そのときのわしが小さき神のいわれたことを理解したとは到底いえぬ。それでも悲しんでおわす御心だけは感じられた。だからなんとかしたいと一途に思い込みはしたものの、そなたのような才なき身ゆえ、御言葉に耳傾ける以外にすべはなかった。

 それでも神は喜び給うた。かの話を初めて打ち明けたことで、御心が晴れたのがわしにさえ感じられた。小さき神の力になれたことが嬉しくて、わしは生涯お守りしようと誓ったのじゃ」

 ほんに小僧っ子じゃったことよと枯れ木のような老人は笑ったが、そのまなざしには老いさらばえた容貌には似つかわしくない光が宿っていた。それを見て私は悟った。彼は誓いを守ったのだと。異類の姫に仕える浜辺の騎士のように、その生涯を過ごしてきたのだと。口を閉ざし舟影の消えた海の彼方を見つめるアギの横顔。刻まれた歳月の跡に、その気高さに、私は深く感じ入り、思わず頭を垂れたのだった。そんな私の耳に、低くつぶやく声が聞こえた。


「……だがもはやわしも長からぬ身。そう思い、少し前から小さき神とは距離を置くようにしておった。わしがおらぬようになったとき、そのほうが少しでも悲しまれずにすむのではと思ったのじゃが、小さき神は寂しく思われたのじゃろう。たまさか顔を合わせた折など、父祖の言葉で呼びかけられるようになった。

 昔を思い出してほしい、昔のように接してほしいとの御心だったのじゃろう。思えばこたびの憂いの深さの、それも一因だったのやもしれぬ。このままわしが逝きでもすればと焦るばかりで、正直途方に暮れておった……」

 老いたる村長が再び私に向き直るのが感じられた。

「遠つ国の楽士よ。そなたのおかげで小さき神の御心を、村の者どもも知ることができた。わしの言葉などでは伝えきらぬものを皆も実感できたのじゃ。これからは多くの者どもが小さき神と、宿命の違いを超えて心通わすであろう。小さき神の御心は満たされ、この村もまたささやかなる楽園となろう。これなら後の憂いなく旅立てるというもの。まこと感謝の言葉もみつからぬ」



 夕方に戻ってきた舟はどれも豊漁で、その夜私は大変な歓待を受けた。本来の力強さを取り戻した海辺の民の姿はまぶしくさえ見えるほどだった。その席で披露された武骨ながらも生き生きとした踊りのリズムを、私はさっそく採譜した。

 そして夜半近く、私は浜辺に出て人魚に会い、数日後には村を去ることを告げた。麗しき海魔は少し寂しそうに微笑むと、あの幻妙な声でありがとうといった。あの初めての夜に聞いたのと同じその声は、けれどもう私を絶望させることはなかった。そして彼女のその様子に、私もそれまで迷っていた決心を固めることができた。


 私は人魚にアギのことを話した。話すつもりが彼にないことは承知していたが、そのままにしておけば彼の真意を知らぬまま、この異類の姫が何百年も過ごすことになると思うと、黙っていられなかったのだ。

 麗しき妖魔は涙ぐみ、小さな声で彼の名をつぶやいた。けれどすぐ、アギを悲しませてはいけないといって、微笑んでみせたのだった。そんな彼女に、私はルードの踊りのリズムを聞かせた。きっと私はここへ戻る、こんな音楽をもっとたくさん聞いてもらうつもりだからというと、彼女は嬉しそうな顔で、待っていると応えてくれた。


 最後に人魚はこういった。あと二百年もすれば自分の体内の卵も孵り、最後は自分も大洋に戻ることになる。母が自分を生んだその深みは血族の生誕の海であると同時に墓所であり、ただ一度母の顔を目にしたかけがえのない場所なのだからと。

 それでもきっと自分の仔はこの浜に戻ってくるだろう。先祖の中にも自分ほど幸せに暮らせたものはいないと思うし、自分の話を聞けば我が仔もそう思うに違いないからと。たとえ寿命が異なろうと、自分たちも人間と同じくこの海辺に世代を越えて戻ってくるのなら、種族の宿命は重なることになるのだからと。

 彼女の話を聞きながら、私は銀河を見上げていた。生きている間には見られないはずのその光景が瞼に浮かび、それが実現することを星々に祈らずにいられなかった。




 ルードでの出来事についてはいくら書いても書ききれない心地さえするが、すでにこの手紙はあまりにも長い。あとは帰国してから直接話すべきだろう。

 けれど帰りは少し時間をかけたいと思う。私はルードへと急ぐあまり、途中の町や村をすべて素通りしてしまった。それらの町や村にも、ルードの民の踊りのようなかけがえのない音楽は息づいているに違いない。そんな日々の営みから生み出された音楽を集めて広く紹介する。これが私の進むべき道だと思うのだ。

 帰り道だけでどれだけの成果が得られるのか。それも踏まえて今後のことを話し合えればと願っている。再会の日を心待ちにしている。


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                       ルヴァーン

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