第2章(ルヴァーンの手紙)その3
その後なぜルードに留まることができたのか、自分でも不思議に思う。今から思えば、私の動機の根幹は成功や名声を求めることにあった。そのための足掛かりになる技術を期待して、伝説に名高い人魚の歌に手を伸ばしたはずだった。
だがその歌はいまだ神秘の彼方に置かれたまま、その声でさえ人の身で近づけるとはとても思えぬ高みにあった。まねることすらできそうにないのだから当初の目的が果たせる見込みはなく、空しく帰国の途についていて当然だった。まして私の心は得体のしれぬ憂いに、深く閉ざされようとしていたのだから。
けれど私は諦めなかった。いや、諦められなかったのだ。あの声のあまりの麗しさは、その声で歌われるに違いない天上の歌の幻影をかいま見せ、私の魂を呪縛した。個人的な野心にすぎないものが潰え、いわばこの世ならぬ美への憧憬の虜囚と成り果てたのだ。思えば音楽そのものが目的となったあのとき、私は初めて音楽家たりえたのかもしれない。
だが、それは苦しい日々だった。幻の中にしか存在しない絶美の歌に憧れつつ、憂いに染められた心と裏腹の曲を吹き続ける無理を重ねる中、夏が過ぎるにつれ、私は疲弊していった。人魚がそんな私に関心と好意を示し続けたのはありがたくもあったが、おかげで私は容赦なく消耗させられた。彼女の声を聴くたびに、私は天上の陶酔と現世の絶望になすすべもなく引き裂かれるしかなかったのだから。
この頃の記憶は狂おしいほど甘美な絶望の道行きに他ならず、とうてい詳しく書く気になれない。それでもこの茨の道を歩んだからこそ、事態は思わぬ転換をみせたのだった。
ある日、重ね続けた無理に軋みをあげる私の心が、ついに笛の音を染め上げた。祭りの舞曲や愛の夜曲の調べが影を潜め、暗澹たる挽歌のごとき一つの旋律が浮かび上がった。もはや私の心を呑み込まんとする憂いが、とうとう形をなすに至ったのだ。
すると人魚がいった。麗妙な声に初めて驚きの色を浮かべ、それが母から伝えられた旋律によく似ていると。それが妖魔の憂いに染められた私の心が、はからずも歌の秘密の一端を探りあてた瞬間だったのだ。
それは私にとって思いもよらないことだった。なぜなら人魚の歌にまつわる言い伝えは、昔から惑わされた人間が迫る危険すら無視して聴き惚れるほど絶美のものとされており、私も誘惑の歌だろうと思いこそすれ、憂いや嘆きに満ちた挽歌など想像もしていなかったから。
だが私がそういうと、人魚はさらに驚いた様子で応えた。自分たちが歌うのは誘惑の歌などではないし、そもそも人間に向けて歌っているわけでもないと。いわれてみれば確かにそうだ。鳥も仲間に向けて鳴いているはずであって、決して人間を楽しませるつもりで鳴くのではなかろうから。
けれど鳥の歌の多くは恋の歌、それも雄から雌に向けての求愛の歌だ。ならばやはり、それは一種の誘惑の歌であるはずのもので、挽歌になるようなものではないように思えた。
私の疑問に麗しき妖魔は答えた。それは自分たちが滅びつつある種族であるからだと。そう告げた彼女の声は深い憂いに満ちていて、村を押し包む影の源がそこにあるのは明らかだった。
訳を聞いてもいいかと私が尋ねると海魔は話し始めた。彼女が長く話すのを聞くのは初めてだったが、その身にはいかなる力が宿るのか、言葉に聞いたものを想像するより早く、彼女の感覚や強い思いをじかに伝えてくることがしばしばだった。憂いを私や村人たちに伝えているのは、どうやらこの力の作用らしかった。その上かの幻妙なる声で語られるのだから、人魚という種族が直面している滅びの宿命を、耳に聞くというより夢の中で体験する心地だった。
おそらく自分たちの歌も、最初は鳥の歌のようだったのだろうと人魚はいった。遠い遠い昔、まだ彼らの力がさほど強大なものではなく、寿命も今ほど長くなかった頃は彼らにも男の仲間もいたし、女が仔を産むときに死ぬこともなかったという。卵を外敵から守るため体内で孵す種族であった彼らは、その不思議な力で親が体内の仔と語りあうことを通じ、そんな種族の歴史さえ語り継いできたのだった。
そして彼らはその力、他の生き物の感覚に働きかける力を長い年月の中で伸ばし、個体としての能力を高めていったのだ。今やその力は驚くほど遠くまで届くようになり、獲物となる魚を引き寄せることも、外敵を退けることも自在にできるようになっていた。海の中には彼らを傷つけられる生き物はいなくなり、寿命も飛躍的に伸びていったという。
それが宇宙の均衡の理に触れたのだろうと人魚はいった。海の中でも弱いものほど数が多く、強いものほど数が少ない。他の生き物に食われることがなくなったとき、自分たちの種族は自然の理をはみ出してしまい、滅びの定めに向かうことになったのだろうと哀しげにいった。いつしか男が生まれなくなり姿を消した。そして女は育ちすぎた仔を無事に産むことができなくなった。ゆえに彼らは数を増やすことができなくなり、事故や病で仔を産む前に死ぬものが出るごとに、じわじわと数を減らし続けてきたという。この広い海の中、あまりにも数が減少した彼らは、もはや仲間と出会うことすら絶えて久しいのだと。母の死と引きかえに生まれてから自らが仔を産むことで死ぬまでの間、千年もの歳月を外界で過ごすにもかかわらず。
今や彼らの一生は、五百年ごとに区切られているという。母の体内で孵化し、対話の中で母から学ぶ五百年。母の死により外界に生み出され、孤独にさらされて生きる五百年。そして自らの体内の卵が孵り、我が仔に語りかけて過ごす最後の五百年。その二番目の孤独の五百年こそ、彼らが歌う時期なのだという。そして彼女も産み落とされておよそ三百年。ちょうどその時期を迎えていたのだった。
だから彼らにとって、歌は呼びかけなのだという。どこにいるのか、そもそもいるのかもわからない仲間に向けてあげずにいられぬ、我が身を苛む孤独への訴えと自分を産んで死んだ母や祖先たちへの哀惜がないまぜになった、届くことなき挽歌たらざるをえないものなのだと。それは孤独と絶望に耐えかねた悲鳴でさえあるはずのものが、種族の持って生まれた能力や習性、ひいては世代を重ねる中で培われた美意識や想念の変化までもが溶け合うことで、歌の形に練磨され美化されているにすぎないのだと。
そして彼女はこういった。そんなふうに孤独に生きていくのが耐えられなかったから、自分は人間に近づいたのだと。何世代か前の祖先にもそんなものがいたそうだが、その人魚は人間に声をかけるには至らぬまま、仔を宿し大洋へと還っていったという。彼女も長い間海辺で様子を窺いながら、なかなか接触することができずにいた。漁師たちが交わす言葉を舟の真下で聞き覚えるに至ってさえ、きっかけがつかめずにいたという。けれども津波の到来のおかげで、彼女はきっかけをつかむことができた。だから歌を歌わずにいられないほど孤独ではないし、そのことにとても感謝しているといっていた。
とはいえここで暮らした二百年の間、完全に満たされていたわけでなかったとも彼女はいった。人間の寿命がこれほど短いとは予想していなかったので、ここへ来た当時の村人たちがこんなに早くいなくなるとは思いもしなかったというのだった。種族として上り坂にある人間族は、個体としてはとても儚い存在だった。しょせん自分とは違うのだ、異なる宿命に生きるものなのだとの思いを胸の奥に押し隠していたところに長寿と繁栄を願われて、ただただ悲しくなってしまったのだと麗しき妖魔は打ち明けたのだった。
それが憂いの正体だったのだ。話だけ聞けば人間でもうら若い乙女などにありがちな、他愛もない憂愁に過ぎないものとすら思えそうなことだった。けれどもそれが千年を生きる人魚の憂いであるがゆえに、これほど深い翳りとして感じられるものになっているのは明らかだった。彼女の話を聞いている間も、その麗しい声が、そして神秘の力がその心を伝えてやまず、私の魂は数百年を大海原で漂い過ごしたものの絶望的な孤愁にまともに晒されていたのだから。
いまや私は人魚の歌が惑わしの歌と伝えられた理由を悟った。彼らが種族の滅びにさえ思いを馳せて歌うとしたら、人間の身で受け止められるものになどなるはずがなかった。たとえ舟が波に呑まれずとも剥き出しの心は大海のごとき孤愁に沈み、魂は岩に打ち寄せられた舟底さながらに砕けるほかなかっただろう。己が手を出そうとしていたものがなんだったかを知り、私は身震いを禁じ得なかった。
そして同時に、私は深く恥じ入った。胸破るようにして歌わずにいられぬ人魚に対し、はたして私にはそれほどまでに歌いあげたいものがあっただろうかと。あふれるばかりの心の思いをその身に可能な手段を駆使して歌い上げる彼らから、手段だけまねて私は一体どうするつもりだったのかと。己の浅はかさがただただ恥ずかしかった。
だがそんな私の心にも、いまや一つの思いが宿っていた。
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