第2話;嘘
「小百合ちゃん、知らないの?」
自販機前での会話のように、腰を下ろして彼女と目線を合わせる。
「妖精さんはね、無茶をする子とは仲良くしてくれないんだよ?妖精さんの挨拶はね、『お昼に遊びに来てね』って言う意味で、『夕方になって遊びに来てね』って意味じゃないんだ。小百合ちゃん、子供は晩、外で遊んで良い?良くないよね?妖精さんは、そんな子とは会ってくれないよ?」
傍からすれば馬鹿に思える言葉も、彼女には効果的かと思った。
「嘘~!妖精さんはおやつが食べたいはずだから、何時に行っても…怒らないよ…。」
子供は皆、素直なのだ。反論するその声は、明らかに自信が欠けていた。
「あ~!知らないんだ?妖精さんはおやつが食べたいんじゃなくて、小百合ちゃんに会いたいだけなんだよ?でもそれは、お昼のお話。その方がお互いの顔がちゃんと見えるでしょ?夜になったら顔も見えないよ?」
下るものがあれば上がるものがある。自信に満ちた僕は更に揺さ振りを掛けた。
「………う~~ん。」
遂に彼女が口を尖らせた。そこで止めの言葉を叩き込む。2つの、僕なりの必殺技だ。
「実はね…お兄ちゃんも前の家で、妖精さんに会ってたんだ。」
1つ目は彼女から一目置いてもらい、僕に従わせる嘘だ。僕の話に間違いはないと思わせたかった。
「本当!?本当に、妖精さんに会った事があるの!?」
狙いは的中し、彼女の瞳孔は確実に開いた。口も大きく開けて、息を止めていた。衝撃の告白(嘘)に、大きく反応したのだ。
…その時の僕は、『よっしゃ!引っ掛かった!』としか思わなかった。
「勿論!しょっちゅう会ってたよ。僕が知ってる妖精さんも、蒼い光で挨拶してくれたよ。」
「…!」
「でもね…妖精さんがある日突然、会ってくれなくなったんだ。僕が妖精さんに会いたくて会いたくて、遅い時間に妖精さんに会いに行ったんだ。そしたらね、妖精さんが怒って、『夜に外で遊ぶ子は大嫌い!』って…。それから妖精さんは、僕と会ってくれなくなったんだ。」
興奮していた彼女は、妖精に会えなくなった理由(嘘)を聞いて悲しそうな表情を浮かべた。
そこに付け入る。
「小百合ちゃんも、妖精さんに嫌われたくないでしょ?」
飴と鞭の法則だ。下を向く彼女に、慰めるように語り掛けた。
彼女は少し考えた後、ゆっくりと首を縦に振ってくれた。その仕草は可愛く、無邪気だった。
「だから小百合ちゃん、約束して?夕方になったら家に帰ろう。さもないと、妖精さんが怒っちゃうよ。」
「分かった!小百合、約束する!夕方になったら家に帰る!」
「!ありがとう!」
遂に約束をもらえた。ほっとする。これまでの疲れが一気に圧し掛かって、疲労感にも覆われた。でも後は山に登って妖精を探す振りをし、夕方になったら山から下りて来れば良いのだ。
…それだけだった。それだけで満足すれば良かったものを、僕は先ほど思い付いた2つ目の必殺技を出してしまった。
「それにね、晩になったらこの山には…ドラゴンが出るよ?初めて見る山だけど、僕には分かるんだ。この山には、必ずドラゴンがいる。そしたら小百合ちゃん、怖いでしょ?」
昔から使われている教育方法だ。近寄ってはいけない場所には、お化けや妖怪が出ると教えられた。そうする事で親が目を放した隙でも、子供は怖がってその場所には近寄らない。川辺の河童、山の天狗などは、こう言った類のしつけから生まれた産物だ。僕はそう考えている。
だから彼女にはドラゴンをぶつけてみたのだが…
「ドラゴン?何それ??」
「……。」
彼女には少々早かったか?妖精、小人、鬼…それぐらいが知っている生き物なのかも…。
だから僕は、ドラゴンがどんな生き物なのかを教える事にした。出来るだけ恐ろしい姿で伝えたかった。
「ドラゴンはね、日本語で竜。トカゲやヘビみたいな体だけど、蝙蝠みたいな羽で空を飛んで、口から火を吐くんだよ!?物凄い大きな生き物で、小百合ちゃんなんかは一口で食べられちゃうよ!?」
「!!!」
『食べられる』…。この言葉がトラウマにならない事を願った。それほど彼女は驚きを見せた。
「そんなに怖い生き物が、この山にいるの!?」
「ああ、いるはずだよ(当然嘘)。これだけ大きい山なら、ドラゴンは住んでるね。ドラゴンは、昼間は寝ていて安心なんだ。でも晩になると目を覚まして、人間の子供を探しては食べてしまう、それはそれは恐ろしい生き物なんだよ。」
「どうしよう!それじゃ、妖精さんが危ない!」
「………。」
彼女の正義感がどれ程なのかは知らないけど、間違った方向に気が向きそうなので、もう1つ嘘をついて軌道修正を試みた。
「あっ、妖精さんなら大丈夫。ドラゴンには妖精さんが見えないから、食べられないよ。」
彼女はほっとした表情を見せたけど、ドラゴンを怖がっている様子だ。…責任を感じる。
「大丈夫!夕方までならドラゴンは出ないから!それまでは、一緒に妖精さんを探そう。でも夕方になったら、家に帰るよ。良いね?」
「………。うん!」
彼女が大きく相槌を打つ。ここまでドラゴンを信じて怖がるなら、最初っから『山にはドラゴンがいるから入っちゃ駄目!』と言い聞かせれば良かったのかも知れない。
ともあれ僕は彼女と、山へ登る事にした。
(どうかマンションの人達が、僕らを見て勘違いしませんように…。僕は誘拐犯や、性犯罪者じゃありません!ロリコンでもありません!)
オーバーな考えかも知れないけど、最近の世の中はそんな視線で人を見ている。
「あそこが、妖精さんが挨拶してくれた場所だね?」
山の入り口に立ち、ほぼ真っ直ぐに続く散歩道の先を指差す。それに彼女が大きく頷く。
「……。それじゃ…行こうか?」
僕は様々な緊張を味わいながら山頂へと登り始めた。
道中では、余り会話は交わせなかった。彼女が本気モードに入ったのだ。目標を見失わないように、妖精がいつ現れても大丈夫なように、ただただ山頂だけを見つめていた。道は緩やかな坂だった。階段がある時には、登る前に注意を促した。でも、それ以外の事は聞いてくれそうにない。彼女が、突然駆け足にならない事を祈るばかりだ。
日が暮れ始めた。結局、妖精なんて見つからない。
頂上までは足を運べた。そこは広場になっていて、多少の遊戯具やベンチがあり、公衆トイレも設置されていた。ここまでの散歩道の両脇には僕の腰、彼女の頭ぐらいの高さに外灯が並んでいた。思った以上に、設備がしっかりした山だ。広場からは僕らのマンションが見えた。でも向こうからは高い木々が邪魔をして、道中にあった外灯は見えないはずだ。しかし広場にも、高い位置に設置された数個の外灯がある。…彼女は多分これを、妖精の挨拶と思ったのだろう。
それを確認した後、僕は冒険を切り上げる為に先程の演技に戻った。
「うぁ!もう夕方だ!小百合ちゃん、約束通り家に帰ろう。さもないと、ドラゴンが出て来るよ!?」
すると彼女の顔は、妖精に会えなかった残念、まだ探したいという思い、ドラゴンへの恐怖と言う、3つの感情が絶妙に混ざった表情になった。実に、子供は表現が豊かで素直だ。それでも彼女は、僕の言葉に従ってくれた。僕はついた嘘の重さを反省しながらも、昔の親達の賢明さを知った。
帰り道に差し掛かると同時に、両脇の外灯が灯り始めた。それに照らされる彼女は寂しそうに見えた。先程とは違い、今度は足下を見て歩いていた。
彼女を眺めながら思う。彼女は、本当に小学5年生なのだろうか?それとも見た目通り、小学校低学年程の年齢ではないのだろうか?意外と考えがしっかりしている反面、考えが定まる前に始まる駆け足…。僕の嘘に騙されない賢明さ、しかし、妖精やドラゴンを信じる素直さ…。僕は、彼女の歳ぐらいの子をよく知らないから、それが何とも不思議で愛おしくも思えた。
自分の足で山を降りた彼女を連れてマンションに戻る。空はすっかり暗くなっていた。
彼女を、家まで送るべきか迷った。こんな時間に両親に会ったら、酷く怒られそうな気がする。いや、確実に怒られるだろう。それでもエレベーターに乗り、17階で降りる。
まだ決心も着かないのに、強制的な決断を迫られた。1711号…彼女の家の前で、僕よりも10歳程年上に見える、すらりと細い女性が立っていた。間違いなく母親だ。
「お母さん、ただいま~!」
そっちへ向かってなり、この場で即平謝りをするなりする前に、小百合ちゃんが母親の方へ走りながら話し掛ける。僕は覚悟を決めた。慣れている。彼女の母親よりも年上の女性に、学校では毎日のように怒鳴られ、家では毎日打たれている…。しかし今日ほどの緊張は、これまでに味わった事がない。下手したら訴えられる。弁解も難しい…。
「今日も妖精さん、見つからなかったの~!」
僕の緊張も知らない彼女が母親の太ももを抱き締め、甘えと疲れを見せる。
「あらあら、残念だったわね?妖精さんは、きっと忙しかったのよ。また会いに行きましょうね?」
母親は優しく彼女の髪を撫で、背中のリュックを解いてあげた。
「……。」
僕はただ突っ立っていた。
この時の心境はどうだったんだろう?怒られる事を覚悟していたのか、それでびくびくしていたのか、呆然としていたのか…?若しくは、母親に怒りを覚えていたのだろうか…?考えてみれば、こんな時間まで子供を放ったらかしにする親は酷い。そして、家にいるくらいなら一緒に妖精を探してあげれば良かったのにと、その薄情さに苛立った。玄関の外で心配して待っている事も愛情だけど、こんな事態になる前に、母親としてするべき事があるだろう。
僕がどんな顔をしていたのかは分からない。でも母親は、僕の視線と存在に気付いた。
「あのお兄ちゃんがね、一緒に山に行ってくれたの!」
小百合ちゃんがマイペースにも、今日の出来事を報告する。僕は咄嗟に…頭を下げた。挨拶のつもりだった。さっきまでの勢いは既に消えていた。
「…今日はありがとうございました。…あなたは…」
母親が弱々しく尋ねる。
「あっ…今日、越して来ました1811号の者です。井上博之と言います。小百合ちゃんに誘われまして、今日一日、あっ、いや…3時間だけ!一緒に山で…妖精を探してました。…済みません。」
本当なら、僕はここで怒るべきだ。誰かも分からない人間に娘を預けるなんて…。だけど僕は、母親に頭を下げて謝った。強く出られないタイプなのだ。
そこで母親が表情を変えて腰を下ろし、我が子と目線を合わせた。
「小百合!あれほど言ったでしょ?山に行く時は、知ってる人と行きなさいって!あなたはまだ、博之さんの事を知らないでしょ?なのにどうして一緒に山へ行ったの!?何かあったらどうするの!?」
弱々しい姿の母親が、荒々しく我が子を叱る。小百合ちゃんが、反省した顔で下を向いた。
「済みません。そう言う意味ではなくて…。この子が無用心なのを、叱りたかっただけなのです。」
『何かあったら』と言う言葉が失礼だと思ったのか、母親が怒った顔を解いて僕に謝る。
(いやいや…。無用心を叱る前に、自分が娘の相手をしてあげれば良いのに…。)
僕はそう思った。…この時はまだ、彼女の事情を知らなかったのだ。
「お母さん。今日は、お外に出ても良いの?」
「あなたが帰って来ないから、心配してお外で待ってたんでしょ?いつも言ってるでしょ!?夕方までには戻って来なさいって!」
2人の会話が理解出来なかった。ただ母親は我が子を心配していて、夕方までには帰ると言う約束で小百合ちゃんを山へ向かわせた事は理解した。
「小百合の面倒、本当に有難う御座います。ここでは何ですので、どうぞ中にお入り下さい。」
午後からの出来事全てが把握出来ないままに、小百合ちゃんの誘いもあって、僕は彼女達の家へお邪魔する事にした。お茶を頂き、母親から改めてお礼とお詫びを受け、話も色々と聞かされた。
彼女には持病があって、外に出歩く事も難しいらしい。だから小百合ちゃんが山に向かう時は近所の人に協力を得て同行してもらい、遊びに行ったとしても、夕方までには家に帰る事を約束させていた。どうやら妖精探しは今日に始まった事ではないようで、この棟に住む人達は、何度も小百合ちゃんと山へ登っているようだ。母親を叱り付ける前に事情を聞かされてほっとした。彼女を叱らずに済んだ。…出来もしないのに、そんな事を考える。
「どうして今日は、こんなに遅くなったの!?」
そして母親が、遅い帰宅の理由を問い質す。
「だって…今日は絶対に妖精さんに会いたかったんだもん!それにお兄ちゃんが、夕方までは山で探しても良いって言ってくれたもん!」
「…!?」
小百合ちゃんの返事は、僕を悪者に仕立てるものだった。慌てふためいた顔で彼女を見る。彼女は、してやったりな顔を見せていた。
(それならそうと、何故教えてくれなかった?小百合ちゃん!)
何も言わなかったのは、幼い子供が故の罪無き所業だったのか?それとも巧妙な罠だったのか?僕は決して、夕方までには帰らなければならない彼女を、無理に夕方まで山で歩かせた訳じゃない。僕は彼女に幾つかの嘘をついたけど、この仕打ちはその嘘を全部足しても余るくらいだ。
「小百合が、色々とご迷惑を掛けたようで…。」
『そんな約束は知らなかった』と弁解するより先に、母親が頭を下げる。
「あっ、いや!」
「ねぇ、お母さん?あの山にはね、ドラゴンって言う、怖い生き物がいるんだって!夜になると、人を食べちゃうんだよ!?でもね、ドラゴンには妖精さんが見えないから、妖精さんは安心なんだ!」
恐縮する僕が頭を上げさせようとすると、これまた小百合ちゃんが横槍を突いてきた。
僕の嘘と自分の仕打ちを比べるかのように、彼女は僕が教えた話を母親に報告した。
「小百合、それは違うわよ…。」
すると母親は僕の話を否定した。いるはずもないドラゴンを否定したのだ。そこで僕は耳を尖らせた。そして続くであろう、彼女の言葉を待った。こう言った類の空想話に対して、母親はどう対応するのだろうか?ドラゴンの話を否定する彼女は、妖精のおやつを作っているのだ。
「ドラゴンはね…大体は、火山って言う山にしかいないのよ。火山じゃない山には、ドラゴンは住みたくないの。海や砂漠に住むドラゴンもいるけど、それでもドラゴンは、人が住む場所にはいないの。だから安心して。あの山にドラゴンはいないから。妖精さんも大丈夫よ。」
「……。」
我が子に語り掛ける母親の表情は真剣そのものだった。タイトスーツに黒縁眼鏡を掛け、タクトのような棒と出席簿を持ち、悪い事をした生徒を叱る女教師のように厳粛で圧迫感ある声で、小百合ちゃんにそう言い聞かせた。
僕は…先ずは深呼吸をした。そして今日の出来事を整理しようと試みた。
(ええっと……。何なんだ?この世界観は!?越して来たこの町、このマンションには…幻想の生物が存在すると言うのか?僕は今までとは違う世界に越して来たのか?)
母親の話と今日の出来事を考えると、そう信じてしまいかねない。これ以上2人の世界に踏み込めない僕は、ただただ笑ってこの場をやり過ごすしかなかった。
「!!ぐっ!」
すると突然、母親が胸を掴んで悲痛な表情を浮かべた。彼女には持病がある。
「お母さん、早く布団で寝て!病気が、また悪くなっちゃう!」
小百合ちゃんが母親に近付き、彼女を寝床へ連れて行こうとする。腕を捕まれた母親は申し訳なさそうな顔で僕に会釈し、痛みを我慢しながらゆっくりと歩き始めた。
2人が向かったのは、小百合ちゃんの部屋だと思っていた部屋だった。どうやら2人の寝室のようだ。
「……。」
寝室に入る母親の後を追う事も出来ず、ただただ2人の様子を心配そうに見るしかなかった。これまでの人生で、初対面の人とこれほどの場面を過ごした事がない。苦しんでいる人の前で、僕は呆然とするだけだった。行動力がなく、まだまだ若いと痛感させられた。
数分経って、小百合ちゃんが部屋から戻って来た。
「ご免ね、お兄ちゃん。お母さんが、今日のお礼を言いたいって…。呼んでるから、来て?」
彼女は僕を寝室へ誘うけど、流石に部屋には入れない。扉越しに大きな声で話す事にした。
「今日は何か…済みませんでした。ご心配をお掛けしました。僕、もう家に帰ります。ありがとうございました。」
少し開いた扉の向こうから母親の声が聞こえる。でも内容は聞き取れない。僕はその声を止めるべく、もう少し大きな声を出した。
「お母さん、無理はなさらずに!また今度、体調が良い時にでも挨拶に来ます。今日は失礼します。本当に済みませんでした!」
それだけ言い残し、小百合ちゃんに玄関まで案内してもらった。
「お兄ちゃん、今日はありがとう!また今度、妖精さんを探しに行こうね!?」
玄関の扉を開けた僕に、小百合ちゃんが元気な声でそう話す。僕は、彼女を軽く睨んでみた。『さっきは何故、門限の話で嘘をついたんだい?』そんな顔で彼女を見たけど、小百合ちゃんには詫びる感もなく、無邪気に笑っていた。僕はその笑顔に、全面降伏するしかなかった。だから明るく、こう返事した。
「そうだね。今度また妖精さんが挨拶をくれたら、その時は僕を誘ってね?もう1度一緒に、妖精さんに会いに行こう!」
笑顔に負けて言い放った言葉だったけど、意外と本気だった。僕も妖精に会いたかったのか、それとも彼女の相手をして遊ぶ事が楽しいからなのかは分からない。今の時点で、今日起きた出来事の全てが把握出来ないのだ。
小百合ちゃんに手を振って扉を閉め、鍵を掛ける音がするまでを確認してからエレベーターに向かう。
その間に色々と考えた。彼女の夢を叶える為にも偽物の妖精を作り、彼女に披露しようか…?偽物の妖精は、山の何処に仕掛けよう?妖精は人形?それとも、友達に協力してもらって変装?そんなに大きな妖精では彼女が幻滅するかも…。だけど、いつまでも探してばかりでは彼女が可哀想だ。今日の出来事も把握出来ないままに、そんなアイデアを思い浮かべた。幻想の生物は存在する、しないではなく、彼女の喜ぶ顔が見たかった。心はウキウキしていた。妹が出来たような嬉しさもある。
「ねぇ、お兄ちゃん!」
「?」
エレベーターに向かって、4、5歩歩いた時だ。背後でもう1度鍵の音が聞こえて、扉が開く音も聞こえた。振り返ると、小百合ちゃんが顔だけを覗かせていた。
「ドラゴンには会えないのかな?お母さんは火山にしかいないって言ってたけど、お兄ちゃんは、あの山にいるって思うんでしょ?少し怖いけど昼間は寝てるんだったら、お昼にドラゴンを探しに行かない?約束!それじゃ、お休みなさい!今日はありがとう!」
そして扉は再び閉じられ、鍵を掛ける音も聞こえた。
「……。」
先程考えた作戦は中止だ。それが通じたところで、次に待つのはドラゴンだ。彼女には悪いけど、『探しても探しても見つからない作戦』を貫こう。
エレベーターに乗り、新しい実家へと向かう。すると僕の家の前にも、1人の女性が立っていた。今度は見慣れた顔の中年女性だ。
「博之!ジュース買って来るって言って、いつまで帰って来ないの!何時だと思ってんの!?」
…年上の女性に叱られる事には慣れている。だけど、これまで一番叱られてきた自分の母親には、未だに慣れる事がない。
「ご免なさい…。」
平謝りした。今日の出来事を説明しても、到底信じてくれそうにない。例え説明出来る事情がある時でも、僕は平謝りをする。うちの母親は暴力的なのだ。言い訳は通じないし、したところで倍になって返ってくる。180センチ程の僕が、150センチ程しかない母親に打たれるのはそろそろ御免だ。
平謝りした上で、両の頬に5発のビンタを食らった僕は部屋へ戻り、まだ運んだだけの荷物を整理し始めた。
ふと外に目線が向き、窓を開けて裏山を眺める。肌寒い風が部屋に流れ込んで来た。山はそれ程高くなく、『丘』と捉える事も出来た。だけど分類では山になるらしい。この辺の地域全体が丘であり、そこに更に小高い丘がある為だろう。それが目の前の山である。2つの丘の高さを合計すると、標高で言えば山として分類されるのだ。…つまりは緑を刈り取られたここ一帯の姿を、僕らが山として見ていないだけなのである。
山の頂上は僕の目線より下にあった。散歩道にある外灯は予想通り見えないけど、広場にある外灯の明りは確認出来た。あれを見て、小百合ちゃんは妖精の挨拶と勘違いしたのだろう。
(いや…外灯の明りは毎日、定位置で灯っている。流石にそれを妖精の挨拶とは思わないか…。)
彼女が見た光とは、広場とは違う場所で灯ったものだったのだろうか?それとも同じ場所で花火みたいに誰かが灯した、突拍子な光だったのだろうか?花火なら蒼い光もあり得る。
荷物を解く事も忘れ、山を眺め続けていた。妖精の挨拶と言われる光を探していた。
(…何故だろう?僕は彼女達の話を、信じているのだろうか…?)
我に返り、そんな自分が情けなくも、少しだけ可愛くも思えた。
「!?」
その時、山頂とは違う場所で、2回、3回と点滅する蒼い光を確認した。
(……。いや、まさか…。疲れてるんだ。見間違いか、さっき推理した花火か何かだ。)
僕はベッドに横になり、何も考えないように努めた。だけどそれは無理な注文だ。
(…整理し切れない。明日また考えよう。)
果たして明日までに、今日の事が整理出来るだろうか…?初めて来た町、新しい家と環境、そして新し過ぎる、下の階に住む親子…。妖精やドラゴンの存在…(いや、ドラゴンは僕の罪だ…)。小百合ちゃんとの約束…。これからどうやって彼女と付き合っていけば良いのだろう…?考えるべき内容が、一気に山盛りになった。
(新学期…。とにかく、新学期までには頭の中を整理しよう…。)
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