第56話 可愛い

 ああ、金曜日だ、なんか一週間あっという間だったなぁ。なんて思いながら、あたしは完全にルーティン化した洗濯物干しをしてたんだよ。神崎さんの鼻歌を聞きながらさ。

 なんでこの人、お料理してる時いつも鼻歌混じりなんだろう。やっぱ好きなのかな、お料理。


「神崎さん、その曲、何?」

「モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第2楽章です。快活な第1楽章に比べてこちらはまったりと静かな朝の情景にピッタリでしょう?」

「ん~……なんか聴いた事あるような気がする曲だね」

「聴いたことが無い人なんて多分いませんよ。とても有名ですから」


 すいませんね、作曲者も知りませんでしたよ。


「朝って言えばさ、朝って言う曲あったよね。音楽の時間に聴かされた記憶があるよ、殆ど寝てたけど」

「グリーグのペール・ギュント第一組曲の『朝の気分』でしょう。第4幕の前奏曲でアレグレット・パストラーレで始まり、山々の合間から顔を出す太陽や、森の清々しい朝の空気を見事に表現していますね」


 クラシックの話は嬉しそうに語るなぁ。好きなんだなぁ、クラシック。あたしにはアゼルバイジャン語にしか聞こえないけどさ。

 でもなんかさ、嬉しそうに語ってる時の神崎さんてなんか可愛い。城代主任が言ってた『可愛い』って、こんな感じの事なのかな。


 なーんて思ってたらさ、洗濯物の中から昨夜のTシャツとジャージが出て来たんだよ。そうなんだ、昨日の朝「一体いつ着てんだこれ?」と思ったTシャツとジャージ、夜中のランニングの時に着てたんだ。毎日走ってたのかな? ぜんっぜん気付かなかったけど。

 それにしてもさ、昨日カッコ良かったよなぁ。スーツのイメージしかなかったけど、なんか変にセクシーだったよ。走って来たばっかだったから、ちょっと赤い顔しててさ、汗かいててさ、呼吸も乱れててさ、ミョーにエロかったよ。うーん……神崎さんにエロいって言葉、似合わねー! マジ似合わねー。

 なんてあたしが考えてるなど露知らず、神崎さんはいつものようにあたしを呼ぶんだよ。


「山田さん、朝食ができましたよ」

「はーい」


 くっ……今日も胃の腑をぎゅーぎゅーと絞り上げるような出汁の香りに、あたしの唾液腺は早くもフル稼働なんだよ。


「ん? 今日のお魚なーに?」

「鯖です」

「すっご……まだジュウジュウ言ってるよ」

「鯖は脂が多いですからね。ジューシーですよ」


 いつものようにお寺さんみたく手を合わせてさ、食べ始めたんだけどさ。毎日ほんと幸せなんだよ。ほんとこの人、嫁に欲しいよ。嫁が伊賀忍者ってのも悪くないよ。


「あふっ……ひゃば、おいひー! 脂が滴ってるぅ~!」

「ゆっくり食べて下さい、火傷しますよ」

「はふはふ……ほえ、ほの、ふひやひっほいのは?」

「これですか、白滝と春菊と白葱と椎茸と厚揚げを甘めに醤油で煮たんですよ。仰る通り、牛肉の入らないすき焼きですね」


 朝からすき焼きー! しかも肉の代わりに厚揚げかー! ヘルシーだよ!


「こっちは何?」

「鱈と茸をレンジで蒸して、おろしだれをかけただけですよ」

「っくうぅ~! おろしだれ! 堪らんわ。こっちは?」

「なめことオクラとモロヘイヤと鶏ささみを出汁と味醂と醤油で味付けしたものです。これもレンジであっという間ですよ」


 美味しい。美味しすぎる。唾液と胃液が無尽蔵に分泌されてるのが自分でわかる。なんか……ヤバい、また涙腺崩壊しそう。


「山田さん? ダメですからね。今日はあの道は通りませんよ?」


 わかってるって。わかってるんだけど……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る