第22話 2012年

2012年8月21日(火)  天気:晴れ 最高気温:34℃


 朝起きて、ぼんやりと歯磨きをしながら、テレビで晴れが続く週間天気予報を見て、夏休みをとらないような女になってしまったら、私はこの世界から消えてしまう。お盆前に受注した案件も一段落したので、今日から夏休みをとることにした。

 アンジーに電話をかけようとしたが、彼女が電話に出なかった場合、折り返しの電話を待つ時間がもったいなく思えた。私は今、1分1秒でも早く、眩い日差しが降り注ぐ夏休みに突入したかったのである。

 久しぶりに京子ちゃんに会いたいとも思ったが、まだ子供が小さいから、倒れるような暑さの中を連れ回すわけにはいかない。


 3時間半後。私は伊豆にある土肥温泉に行くことを決めた。行き先を決めるのにこんなに時間がかかるのなら、アンジーに電話をしておけばよかったと後悔した。今から出発すれば、夕暮れには間に合うだろうから、それで心の中のイライラを処理するように努めた。

 土肥温泉にある民宿『魚々々』は、20代の若い夫婦が営んでいた。中はモダンな雰囲気にリフォームされていて、ロビーには海外の雑誌など、センスの良い本が並んでいた。

 今日は時間がなかったので、地魚をこれでもかと使ったボリュームたっぷりの夕食をいただいた。あまりに美味しかったので、お腹一杯でお酒が飲めなくなるほど食べ過ぎてしまった。まあ、明日は朝が早いので、そのほうが都合がいい。そういうことにしよう。




2012年8月22日(火)  天気:晴れのち曇り 最高気温:31.5℃


 支度を整えると、私は4時半に宿を出て、近くの漁港へと向かった。既に、2人の釣り人がいた。私は堤防の先にポイントを定めると、今晩の夕食を釣ることにした。

 急に夏休みになり、どこに行こうか迷いに迷った結果、釣れなかったら夕食はカップラーメンという、“本気の釣りプラン”が気に入り、『魚々々』を予約したのだ。

 温泉宿にて自分で釣った魚で一杯やる、想像しただけで「クーッ」と声が出てきそうだ。


 魚は人間の欲望に敏感なのだろうか。1匹も釣れないまま日は昇り、もう間もなく12時になろうとしている。こんなことになるのなら、カップラーメンの種類を確認しておくべきだった。大盛りのカップラーメンだろうか。キムチ味噌味はあるのだろうか。ご当地ラーメンだったりはしないだろうか。


魚のことを忘れ、2個食べてもいいのだろうかと、カップラーメンのことばかり考えていたら、浮きが沈み、大物がヒットした。竿が大きくしなり、私はこの獲物を逃すまいと、必死にリールを巻いた。そして、プチっと糸が切れ、私の夕食は海の彼方へ消えて行った。


 糸を緩めて、長期戦に持ち込むべきだった。しかし、私の頭の中は、この大物と一緒にビールと日本酒を思いっきり飲むことで一杯だった。完全に冷静さを失っていた。涙が出てきた。私の恋愛はいつもこんな感じだ。夏休みに土肥温泉に来て、これまでの恋愛を思い出すことになるとは夢にも思っていなかった。私の心に火がついた。絶対に釣ってやる。他の釣り人たちが帰った中、私はひたすら釣りを続けた。


「楽しいですね」

「すみません」

 夜釣り用の釣り具を『魚々々』に借りに行ったら、女将の明子さんが「私も一緒にやらせてください」と言って、釣りについてきてくれた。先ほど腕時計を見たら、22時を過ぎていたので、それからはもう時計を見ないことにした。

 明子さんは黙って釣りに集中していて、たまに私が顔を窺うと、

「頑張りましょう」

と笑顔で言ってくれた。

 明子さんは私より7、8歳は若いはずなのに、人間として実に素晴らしい完成度だった。こんな女性と結婚した男性は幸せになれるのだろう。なぜだか私は、宿の大将の光男さんに嫉妬した。


 日焼けでヒリヒリとする痛みに耐えながら温泉に入り、5分ほど軽く泣いてから、食事をする広間に行くと、明子さんがカップヌードルの醤油味を運んできてくれた。

 一口すするとこれぞカップラーメンという味が体中に染みわたる。日付はとっくに変わっていて、私は33歳になっていた。広間で食事をしている宿泊客は私しかいない。カップラーメンをすする音が心地よく広間に響き渡る。明子さんが私の食べる様子を笑いながら見てくれているおかげだ。

 明子さんは私の健闘を称えてくれて、

「何かお魚をお出ししますよ」

とは一言も口に出さなかった。私に同情することなく、釣れなかったら夕食はカップラーメンのみという約束通り、カップラーメンを黙々と食べている私を愉快そうに見ていた。

「ごちそうさまでした」

 ここ数年で最も美しい“ごちそうさま”だった気がする。自然と合掌もしていたし、空になったカップラーメンの容器に向かってお辞儀もしていた。北海道で食べた『味噌雷神』のラーメンに負けないほどおいしく感じた。いい一日だった。

 部屋に戻り、豆電球のあかりをぼんやりと見ていると、ノックもしないで光男さんが部屋に入って来た。豆電球のあかりが消され、私はあがらうことなく光男さんに抱かれた。なんとなくだが、これは明子さんから私への誕生日プレゼントのように思えた。彼女なら、それができるからだ。



2012年8月23日(木)  天気:晴れ


 もっと富士山に近づきたくなったので、私はお世話になった明子さんと光男さんにお礼を告げると、『魚々々』を後にして、バスに揺られて富士山5合目までやって来た。

 当然、近づきすぎて富士山は見えない。しかも、気温が15度しかなく、ノースリーブにショートパンツの恰好だと自らに罰を与えているようなものだった。それでも、せっかく来たのだからと、無謀にも頂上を目指して見ることにした。なんだか私の恋愛に似ている。

頭の中の話題を変えようと思い、ハリウッド映画『アベンジャーズ』のキャッチコピー“日本よ、これが映画だ”について、改めて考察してみる。富士山6合目を過ぎても、見下されているようで嫌なコピーだが、どれほど凄い映画なのか見たくなる優秀なコピーだという結論に達する。

 そんなことを考えていたら、ふと『2012』という映画のことを思い出した。古代マヤ人が2012年に人類が滅亡すると予想したことを具現化した映画だ。1999年に人類が滅亡すると予言した人もいたが、その時には何も起きなかった。今回はどうだろうか。もしかしたら、30秒後に富士山が噴火をするかもしれない。ここでそんな心配をしているのは私くらいだろうが、その可能性はゼロではない。

 引き返そうかとも思ったが、滅多に来ることもないので、引き続き行き交う人たちの冷ややかな視線を浴びながら、頂上を目指すことにした。33歳になったが、体力はそれほど落ちていなかった。もちろん、誕生日を迎えたばかりだから、急激に体力が落ちているわけがないのだが、独り身で迎える30代の誕生日の精神的なダメージは決して軽いものではない。

段々、体が熱くなってきたので、この格好で正解だったのだと自分に言い聞かせてみる。思っていたよりも、心はその言い分をすんなりと受け入れてくれたのだが、

 「くしゅん」

と体が拒絶反応を示した。やはりこの格好で登山は無謀過ぎたか。それでも歩みを止めることができず、山頂に向かって登って行くと、静かにしていてほしかった携帯電話がブルブルと体を震わせる。かかってきた番号を見ると、案の定、ひいきにしてもらっているクライアントからの電話だった。富士山7合目間近で、私の短い夏休みは強制終了となった。

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