拝啓 闇の中から光が見えた(最終パート)
ドモンは気乗りしないまま、慈善病院の門をくぐった。
いずれにしろ、カタはつけておきたかった。あの満身創痍の老婆は、ドモンの過去をよく知っている。その事実もまた、ドモンの足をこの病院へと向かわせたのだ。断ったはずの禍根を、再び蒸し返すわけにもいかない。
「来ましたよ、彼が」
初老の医師が、車椅子を押し、廊下を歩いてくる。老婆──元締めはわずかにシワだらけの口角を上げ、嬉しそうに息を漏らした。
「やはりねえ……待っていたよ、ドモンや」
「医者の先生。ちょっとばかり、彼女と二人にしてもらえませんか」
ドモンは静かにそう言った。初老の医師は小さく頷き、白いカーテンの揺れる処置室には、ドモンと車椅子の老婆だけが残された。ドモンは軋む椅子に腰掛け、ベルトから剣を取り、二本を壁に立てかけた。帝国における古式ゆかしい、剣士の礼儀であった。
「なぜ、僕を呼ぼうと思ったんです?」
「理由は二つ。あのレドって坊やをここに運び込む時に、病院の者があんたの姿を見たって言ったから。あんたの仕事にゃ、迷惑をかけたねえ。そして、あんたは、腕の立つ断罪人だから。……今、断罪人なんて輩は、このイヴァンにゃ一人もいないのだねえ。とうとう、あたしとあんたの二人になっちまった。世の中、弱いものは恨みを抱いて死ぬばかりだ」
昔の思い出に浸るように、老婆はしみじみと寂しそうに言った。ドモンにとっては逆であった。その記憶は開けたくない箱の中身のようなものだ。わずかに電流が走ったように、ドモンは顔をしかめる。
「……元締め。こんな稼業に、なんの意味もありゃしませんよ。──僕は、無様に死んでいった断罪人を良く知ってます。どいつもこいつも、ズタボロにされて、無惨に無意味に死んでいきました。僕は、そいつらの仲間入りをするのだけはごめんなんですよ」
「……つらい思いをしたんだねえ」
老婆は、揺れるカーテンの外を見る。見るだけだ。彼女の目は、もうほとんど機能していない。
「二年前までは問題なかったんだけどねえ。目も足も、どんどんダメになっちまってね。死んでいった仲間には申し訳ないが……あたしはベッドの上で死ねそうだ」
彼女は変わった。かつて彼女が元締めとして活動していた時、絶対の掟──殺し屋の掟を作り、非情なる決断を下し続けた彼女が、今こうして穏やかに死すら願っている姿は、ドモンにとっては衝撃的な光景ですらあった。
「……ドモン。あたしは、断罪人という稼業の元締めとして、たくさんの人間を地獄に送ってきた。仲間も、悪党もだよ。そんなあたしの人生も、地獄に近づいてきた。こう年を取るとねえ、みんなが手招きするような声が、耳元でするようになってくるのさ。だから、あたしは最近、毎日こう返すのさ。もう数人ばかり、地獄へ送ってやらなきゃならない人間がいるとねえ。そして、あたしが本当に地獄に行ったら、みんなに自慢してやるつもりなのさ。あたしは、あのひとでなしのアルフレッドを、地獄に叩き込んでやった、それがあたしのさいごの断罪なんだ、とね……」
さいご。たった三文字のその言葉は、ドモンに様々な事を思い起こさせた。死んでいった仲間。無言のまま別れた仲間。いずれも皆自分の信念を持ち──それを抱いたまま、ドモンと別れていった。
「地獄へのみやげ話に、このババアともう一度、断罪をやっちゃもらえないかい」
老婆はしわしわの手で、車椅子の座席の下から金貨を取り出し、横の机に四枚を並べた。しかし彼は椅子を軋ませながら立ち上がり、立てかけていた剣を二つ、腰に帯びた。背中を向けたまま、彼は処置室から出て行った。言葉は無かった。老婆は宙に伸ばした手を力なく下ろした。
その崩れかけの教会は、奇跡的に再開発から逃れていた。元々信者が少なかったのか、今は誰も住んでいないようであったその教会の床に、シスター・アリエッタはかしずき、固く手を結び、祈りを捧げていた。くすんだ青い髪は、目を完全に覆い隠している。
「……いつも、ああなのか」
影の中から、その様子を見ていたレドが現れ、カビだらけでぼろぼろなベンチに座る。黒地に白いストライプのシャツ。同じく黒いスラックス。傍らには赤い傘。
「ああとは?」
「あの憲兵官吏を殺そうとした時、あんたの雰囲気は別物だった」
アリエッタは祈りを捧げ終えると、膝についた埃を払いながら、何ということは無しに答えてみせた。
「ええ。なんだか、自分なのに自分でないような、いつもそんな感じなのです。……おかしな女でしょう。おかげでこの世界にも、なかなかなじめなくて……」
レドは、短くそうか、とだけ答えた。レドには、それ以上にドモンのことが頭にあった。あの男は、俺を格下に見た。殺しという仕事に誇りを持っている彼にとって、それは耐え難い事実であった。
二本差しのドモン。闇社会屈指の殺し屋にして、仲間を何人も死なせた最低の殺し屋。それが、あの男の持っている下らない『伝説』であった。
「レドに、アリー。揃ってるね」
教会のとれかけの扉を無理やり開いて入ってきたのは、ハンチング帽を人差し指に引っ掛けてくるくる回している男であった。ジョウだ。
「ジョウ。ドモンさんは、どうなったのですか」
アリエッタは俄に立ち上がり、ジョウの元へと駆け寄った。彼が一瞬嫌がった顔をしたのを気にもとめず、アリエッタはくしゃくしゃと彼の金髪を撫でる。あまりの体格差に、ジョウにはなすすべもなく受け入れるしか方法がないのだ。
「断ったよ、あの旦那。ま、評判悪いしね。組んだ仲間は大抵死んだか物別れになってるらしいし」
残念そうに口に手を当てるアリエッタを他所に、レドは赤い傘の取っ手を掴み、握り絞める。あのドモンという男は、そんな腕だと命を落とすとまで言い切ってみせた。今まで仕事は完璧にこなしてきた。あの男も、あと一歩のところで──
「元締めは、あの旦那に関してはもう触れないようにとのことだよ。僕らで、なんとかするしかない」
「金はもう貰ってる」
レドは、つとめて冷静にそう言った。ドモンがこの断罪を降りた今、彼にとっての懸念事項は、アルフレッドを討ち漏らす以外無い。この世界において、失敗は殺し屋人生に大きな影を落とす。だが、取り戻せば──きっちり殺しきれば別だ。
「俺は、アルフレッドを殺す。今度は確実にな」
「私も、そのつもりです。──元締めから聞いた話が本当であれば、アルフレッドの行いは許しがたい事です。それを見逃しては、神に仕えるこの身に、申し訳が立ちません」
ジョウは手を話した彼女から逃れるように離れ、ハンチング帽をかぶり直す。帽子の下でニヤリと笑みを浮かべ、二人の殺し屋に向けていった。
「あんまり、調子に乗らないほうがいいんじゃない」
「……どういう意味だ」
レドは無表情であったが、その声色は十分に怒りのこもった言葉であった。彼は誇り高い殺し屋だ。自分の仕事に絶対の自信を持っている。年下の殺し屋でもないジョウの笑みと言葉は、彼の神経を十分に逆撫でするものであった。
「あのドモンって旦那は、この世界じゃ半分死んだ男だ。今じゃ、誰も組みたがらない。レド。あんたは、一回失敗した殺し屋だ。この稼業じゃ、ケチのついた殺し屋なんて誰も相手にしない。……アリー、君もいまさら言わなくても分かるでしょ。まだ分からない? 僕らは、この闇の世界の崖っぷちまで来た人間なんだ」
ジョウはそれだけ言い放つと、サスペンダーに指を通しすっとシルエットを伸ばすと、そのまま外への扉──逆光の世界の中へと消えていった。言葉をひとつ残して。
「そして、僕もその一人ってわけ。ま、せいぜい仲良くやろうよ──断罪は、今夜。一度、病院に集まって下さい。じゃ、つなぎましたよ」
結局ドモンは無言の内に、ふらふらと歩き続け──帝都一番の大通り、帝国行政府から南側大門まで伸びる『アケガワ・ストリート』まで辿り着いていた。
人々が行き交う喧騒の中で、ドモンはようやく自分を取り戻したような気さえしていた。元締めと会ったことは、やはり失敗だった。彼女は死を覚悟している。アルフレッドと言う男を、なんとしても地獄へ送ろうとしている。たとえそれが道連れとなったとしても。
でなければ、僕を使ったりはしないだろう。仲間を死なせ、自分だけ生き残ったような男を──。
「ドモン君! 君、何をしているのだね!」
ドモンの思考を、金切り声に近い怒声が割いた。驚きに猫背を伸ばしたドモンの視界に入ったのは、てすきの憲兵官吏や小者を連れたヨゼフの姿であった。
「や、これはヨゼフ様。大勢で一体どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ! 南西地区で火事があったんだ! 再開発地区には、放置された資材が山ほど残ってる! 延焼すれば、帝都全体が大火事になるぞ! 君の手でも借りたいくらいだ! 全員急げ!」
ヨゼフは腕を力いっぱい回して、憲兵官吏達を促す! 走る憲兵官吏に小者達。いつの間にか、下部組織の駐屯兵団の団員まで混じっている。
ドモンが思い至ったのは、先ほど離れたばかりの──あの南西地区にある慈善病院のことであった。
「まさか、元締めが狙われた?」
火事を消し止めに向かう人々の並の中に混じり、ドモンは踵を返し走る。嫌な予感がする。その予感が間違いであることを信じ、ドモンは走った。
幸いにも、ヨゼフが懸念したような大規模な延焼は起こっていなかった。消防隊所属の魔導師が数人がかりで降らす、局地的大雨の中を歩きながら、ドモンは慈善病院を目指す。
既に瓦礫と化した病院の回りに、消防団員や駐屯兵が、物言わぬ遺体と化した人々。あの初老の医師も、苦悶の表情を浮かべたまま、死に絶えていた。元締めの姿は、どこにもない。
「ドモンの旦那、お疲れ様です」
「ええ。……車椅子に乗った老婆を見ませんでしたか」
威勢の良い鉢巻を巻いた消防団員は、静かに指を向けた。その方向には、ヨゼフが車椅子を押して進む様子が見て取れた。車椅子の上には、意気消沈した様子の元締めの姿。生きていたのだ。ドモンは思わず元締めを呼ぼうとしたが、口をつぐんだ。今のドモンは憲兵官吏だ。殺し屋でも──ましてや断罪人でもない。
「貴公がアルフレッド様の使いというのは、本当なのですか」
ヨゼフは訝しげに、その十字傷の男に尋ねた。剣を携え、鋭い目をした中年のその男は、尊大な態度を崩さず言った。
「下郎、言葉に気を付けろ。……文句があるなら、アルフレッド様より賜ったこの書状を見ろ」
差し出された書状を、平身低頭受け取ると、ヨゼフはがさがさと紙を広げながら、大きな身体を縮こませつつ読んだ。確かに、間違いない。アルフレッドのサインもある。
「しかし、相手はこのような老婆ですぞ」
「黙れ」
押し問答を続ける二人を、ドモンは焼け焦げた資材の影から見ていた。今出て行くのは簡単だが、あまりにも思慮が足らなすぎる。あの十字傷の男は、十分に腕が立つ。ドモンもまた修行を積んだ剣士であったから、漂ってくる雰囲気でそれが分かった。誰も見ていないならともかく、上役のヨゼフの前で目立つような真似をすれば、ドモンの『正体』がばれるやもしれぬ。
そうこうしている内に、ヨゼフはうなだれるように頭を下げると、車椅子を離し、戻っていった。十字傷の男はすかさずぎらりと剣を抜き──ドモンが飛び出していく暇もなく、一瞬で振り下ろした。高そうな男の服に飛び散る、どろりとした赤い血。男は剣についた血を懐から取り出したハンカチで拭うと、そのまま剣を仕舞う。
ただそこには、車椅子に乗った死体だけがあった。ドモンは目を伏せ、想いをはせた。彼女は殺された。アルフレッドがどう知ったのかは定かでないが、慈善病院を患者ごと焼き払い、それでも生き残ったものがいないかどうかをあの男に確認させ、生き残った元締めを……。
ドモンは立ち上がった。雨は既に止み、空は曇天から太陽が差し始めていた。死まで覚悟した彼女の願いを、誰かが背負わねばなるまい。
深夜。
ボロ教会に月の光が差し込んだ頃、レドとアリエッタ、そしてジョウは、沈痛な面持ちで、各々ベンチや床に座り込んでいた。ジョウは、恐らく泣きはらしたのだろう目を擦り、不意に立ち上がった。
「元締めも、僕らと同じだったんだよ」
「……それは、どういうことです?」
アリエッタは掻き抱いた巨体に似合わぬか細い声で言った。
「彼女も、居場所を無くしてた。部下の断罪人を何人も死なせて、同業者からも目の敵にされて──僕らと同じ、日陰者だった」
「……ですが、彼女は最後まで自分の信念を貫いた。悪党を地獄に叩き込んでやるって信念をね」
その男は、音もなく開いた教会の出入口の奥──闇から現れた。首元に巻いた紫色のマフラーが揺れ、白いジャケットの袖を揺らし、腰には愛用の長剣と、小さく鍛え直した形見の剣の二本。はねた黒髪に一度手櫛を通し──憲兵官吏のドモンが現れた。
「二本差しの旦那」
「ドモンさん、あなたはもう断罪をやるつもりはないのでは」
アリエッタの言葉に、ドモンは頭を振った。彼の覚悟は既に腹の内で決まっていた。元締めは、最後の最後まで悪党を地獄へ叩き込もうとしていた。彼女は自分が闇の世界の住人であり、そこから逃れ得ないと理解していたのだ。
そして、恐らくドモンもその世界から逃れられないのだ。無様に死ぬまで、永遠に。なぜなら彼は、金でもって人を殺す、どうしようもない悪党なのだから。
「いつだったか、そんな事を言いましたかねえ。ま、僕もあんたらも所詮は人殺しの悪党。稼ぎになるなら、クズを殺したほうが気分がマシでしょう。違いますか」
ドモンは三人に目線を配る。悪党どもの三者三様の目。ドモンはレドに笑みを浮かべてみせたが、彼はわずかに視線を逸らしたまま無表情なままであった。水分で腐った聖書台に、ジョウは分け前の金貨を並べた。総額金貨二十枚。黄金の光が、埃と月明かりを押しのけ、四人の目へ飛び込んでゆく。
「アルフレッドは明日、イヴァン外苑空港からドラゴン便で帝都を出て、しばらく身を隠すつもりらしいんだ。今夜は、東地区の宿屋街に向かってるみたい。やるなら今日だ。……ほんとは金貨四枚だったけど、元締めが亡くなっちゃったから一人一枚ずつ追加で、一人頭金貨五枚」
レドは無言で金貨を取り、黒スーツの裏側にしまった。アリエッタも同じく受け取り、ドモンは五枚の金貨をつかみとると、右袖口の隠しポケットに仕舞う。思い出したように、ジョウは肩から下げたバッグから、折りたたんだ紙をドモンに差し出した。
「なんです、これ」
「アルフレッドに家族と……自分も殺された……今回の断罪の依頼人の遺書だって。元締めが、必要あるなら二本差しの旦那にも読んでもらえって言ってたんだよ」
ドモンはその手紙に触れようともせず、踵を返して夜へと向かっていこうとした。そんな彼を、アリエッタは手を伸ばし引きとめようと声をかける。
「なぜ、読まないんです。あのアルフレッドという男は、本物の鬼畜です。金があれば何でもできると思いあがって──」
「依頼人は、恨みと金を僕らに託した。それ以上何が必要ってんです? 中身なんて確認する必要、ありませんよ」
振り向きもせず、ドモンは紫色のマフラーと、白いジャケットの袖を揺らしながら、闇の中へと消えていった。レドは、彼の姿を見ながら呟く。
「大した男だ。役人のくせに本物の殺し屋ぶってやがる」
イヴァンには東西南北それぞれの大門近くに、それぞれ宿屋街が広がっている。旅人が出入りする大門付近は、内外問わず賑わっているのだ。理由は、大門が開く時刻が正確に決められているからだ。大門の閉門によって足止めを喰らい、一晩過ごす宿を取るのは、イヴァンでは極普通に見られる光景だ。
「宿はどうするのだ」
アルフレッドは共に連れた、大柄な十字傷の男と、細面の男に尋ねた。二人共、アルフレッドの雇った私兵の中でも、一番の実力の持ち主だ。多少のことならば、この二人に任せて困ることはない。主人の質問に、細面の男は静かに頭をさげつつ答えた。
「はっ。何分急な事でございましたので、予約がとれておりませぬ。自分が先に行き、良いところを確保しようかと……」
「名案だな。……アルフレッド様、いかが致しましょう」
十字傷の男の物言いに、アルフレッドは余裕たっぷりに破顔する。細面の男はそれを合図に駆け出し、夜にも関わらず人の行き交う喧騒へと消えた。
「足の早い男だ」
「やつはなかなか使える男です。アインの時も、そうでした」
アイン。友人の名。死においやった男。アルフレッドの脳裏にそうした情報が流れ、濁流に押し流されるように消えた。彼にとっては、友人もその家族の命も、金で自由にできる。覚えている必要性も無い。
金さえあれば、なんでもできる。事実こうして、休暇すら思いのままだ。殺し屋に本格的に狙われたのだから、しばらくイヴァンに戻ることはできないだろうが──案外田舎のほうがゆっくり過ごせるやも知れぬ。
彼は、バラ色の未来に思いを馳せながら、部下が戻るのを待っていた。
「金なら出せるぞ。良い部屋を紹介できないのか」
「そうは申しましてもね、旦那。あたくしたちもない部屋をお貸しできません。本日はいっぱいでございましてね……また、よろしくお願い致します、へえ」
同じ理由で三軒断られた細面の男は、どうにも困り果てていた。このままでは、主人に叱責を受ける。それで済めば良いが、あれほど金払いの良い主人から暇を貰うことだけは避けなければ。
そんな事を考えていると、暗がりから手招きするものが一人あった。背の高い女。修道服を着ているところから見ると、客待ち──いわゆる路上で春を売る女性の事を指す──でも無いらしい。
「なんだ、貴様」
「宿をお探しですか? ……実は、良い所があるのですが」
女は左袖口に手を突っ込みながら言った。男は思わずその話に飛びついた。これぞことわざの『待ってたら馬車が来た』の言葉通りである。
「おお、それは助かる。金なら、主人がいくらでも出すぞ」
「では、もう少し近くに」
影からわずかに、女のくすんだ青い前髪で覆われた顔が覗く。右手で鈍く輝く銀色の鎖手袋で、女が前髪を分けると、赤く渦を巻いた瞳が覗く。すかさず、女は右手で男の喉輪を掴んだ! 恐るべき怪力だ! 喉を潰されかけている男には、もがきながら剣を抜こうと試みるが、既に左手で柄を押さえられていた!
「あなたの仕業で、罪もない一家が全員殺された……それであなただけがのうのうと生きてちゃ、神にどう詫びれば良いのやら分からないわ。こっち来なさい」
ぐいぐい引っ張りまわされ、男が連れて来られたのは──なんと屋根の上! 男は喉を潰される痛みと恐怖で涙を流しながら、月明かりに照らされた女──シスター・アリエッタの姿と……彼女の前髪の間から覗く、赤く渦巻いた瞳を見た!
「た、たすけ……」
「では、参りましょうか……神の慈悲の、届かぬ場所へ」
腰のベルトを引きずり、男が連れて来られたのは屋根の先端、ここから落ちればただでは済まない。彼女はにこりと笑みを浮かべ、急にボディ・ブローを放った! くの字に折れる男の身体! アリエッタはすかさず男の背後に回り、腰に手を回すと、彼のお腹の前でがっちり組み合わせた! そして地面から引っこ抜くように持ち上げ、そのまま屋根から地面に叩き落とす! 現代で言う、超高高度ジャーマン・スープレックスである!
短い断末魔を残し、男は首と全身の骨を砕かれた。それを冷ややかな目で屋根から見下ろすと、アリエッタは手袋を元に戻し、前髪を下ろすと、屋根から下へと降りていった。
「遅いな……何をやっているのだ」
アルフレッドは苛ついていた。もう三十分は待たされている。金を手に入れ、できなくなったことのない彼にとって、不必要に待たされることは苦痛でしかたがないのだ。
「わたしが様子を見てまいりましょうか」
行き交う喧騒を油断なく見つめながら、十字傷の男は呟く。アルフレッドはそれを手で制し、どうしたものか考えていた。その時であった。
「あのう、お客様。もしかすると宿をお探しで?」
声がした方向を見ると、背の低い金髪の女がいつの間にか立っていた。自分が全く気づかなかったことに驚きながらも、彼はそれに答える。
「うむ。実は、急な旅路ゆえに予約をしておらんのだ」
「それは大変でございますね。いかがでしょう、私どもの宿なら、すぐにお通しできますよ」
アルフレッドは女の容姿をじろじろ見つめた。薄化粧をした金髪、綿のドレスを身にまとい、腰の後ろでリボンの如く帯を結んでいるような女である。いかにも宿屋の田舎娘といった様体だ。
「良かろう。貴様のところで一番いい部屋を」
「それはもちろん! ささ、こちらでございますよ」
女の案内に気を良くしたのか、アルフレッドは上機嫌だ。そんな彼を見て、十字傷の男は表情には出さなかったものの、ほっと胸をなでおろす。何しろ、急に金を掴んだゆえに我慢が効かないのだ。こちらに当たり散らされる前で良かった。
女が案内したのは、妙に古びた宿であった。と言うか、よく倒壊しなかったものだと感心する程度の古さなのだ。玄関から入るように促されたアルフレッド達が、内装の古さをじろじろと見つめていると──突如、扉が閉まった。外から、女──ドレスを脱ぎ、ハンカチで薄化粧を拭ったジョウが、閉じ込めたのだ。おまけにかんぬきまでかけたものだからたまらない。
「おい! どういうことだ、これは! 開けんか!」
返事は無い。月明かりもわずかばかりしか届かぬ廃墟めいた宿で、十字傷の男は何かを感じた。たとえるならば、獲物を捕食しようとする恐ろしい者の気配を。
「や。どうされたのですか、こんなところで」
突如、そんな気配漂う空気を裂くように、のんきな声が響く。思わず剣を抜いた十字傷の男は、月明かり差しこむ窓の前に立った影を見た。剣を携えた男。白いジャケットは、彼が憲兵官吏という役人であることを示していた。
「憲兵官吏がなぜここに」
「勝手に入ってもらっちゃ困りますねえ。何を聞いたのか知りませんが、ここには死体が……」
「何? 死体があるのか?」
「いえ、死体ができるんですよ。二つね」
十字傷の男は一気に剣を上段に構え、一息に振り下ろす! ドモンはすかさず剣を抜き、その剣を弾くと、右足を踏み込み刃を男の腹に押し込んだ!
「一人目は、てめえだ……」
ぶつりと剣を引き抜き、ぬるりとついた血を刃を振るって飛ばす。一瞬の出来事。すべてがアルフレッドの前で行われ──そして終わった。腰の赤鞘の剣を抜こうともせず、アルフレッドはひたすら閉じられた扉を叩く! だが反応はない。ここは宿屋街から少し離れた所にあり、人の声は届かないのだ!
「た、た……助けてくれ! 金……金ならある! 全部払う! だから……」
その時であった。ぱん、と破裂音と共に、赤い傘が室内で開く。赤い傘の中でシルエットが現れ──傘の骨を折り取った。骨を失った傘の形が崩れた場所から、赤錆色の髪から、レドの冷たく光ない瞳が、アルフレッドを射抜く。赤い傘が転がり、レドの闇に溶ける黒スーツに黒手袋、そして傘と同じ赤いネクタイがアルフレッドの恐怖を煽る!
あまりの恐怖にアルフレッドは喘ぐように扉を叩くも、やはり無意味! レドは淡々と鉄骨に仕込んだ針を振り上げ──首の後ろにずぶずぶと刺した! 半分ほど刺した鉄骨を引き抜くと、アルフレッドはゆっくりと膝から崩折れ、そのまま事切れた。
「……終わった?」
変装を解いたジョウがかんぬきを外し、闇の中に立つ二人の男を交互に見た。レドは無言の内に外へと出ると、そのまま何も言わず去っていった。
「二本差しの旦那」
ドモンは紫色のマフラーを巻き直してから、闇へと消えたレドの姿を追う。彼の黒スーツは、既に闇へと溶けてしまっていた。
「負けず嫌いの野郎ですねえ。わざわざ、僕の前で殺しをやるだなんて」
ドモンはふっと笑みを浮かべると、レドとは反対方向の闇へと向かう。ジョウもまた、そんなドモンの後を追った。
再び、全員が闇へと消えた。
拝啓 闇の中から光が見えた 終
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