第17話 後ろの正面誰だ
なんだか去年の校外学習で泊まった、「青少年の家」みたいな感じだなと思いながら、
新田さんがいないうちに、お兄ちゃんのいそうな場所を探そうと、勝手にうろついてみたものの、誰かに怒られはしないかと、花奈子は気が気じゃない。一方、美蘭は臆することなくどんどん歩いてゆく。何だか心配で、あたりを見回してばかりいた。
細長い研修所の建物は、一階が会議室や何かになっていて、二階と三階のほとんどは人の泊まる部屋らしい。廊下の片側が窓で、反対側にはドアが並んでいる。「ゴミ当番」という札のかけられた部屋があったり、「廊下では静かに」という紙が貼られていたりするけれど、人の気配がない。
「誰もいないね」
「たぶんイベントの準備に駆り出されてるんでしょ。タダ飯食うなってことで」
「じゃあやっぱり、みんながいる一階を探した方がいいんじゃない?」
「まあ、そう慌てることないって」
「でも、さっきの話、本当だったらどうしよう。腎臓を人にあげるなんて」
「大丈夫でしょ。一つ残ってりゃ問題ないって、おっさん言ってたじゃない」
「私が心配なのはそういうんじゃなくて…」
あんまり美蘭が呑気なのでつい反論したけれど、どう説明していいのかよく判らない。自分でも不思議なくらい、あっという間に涙が浮かんでくる。美蘭は困ったような顔で立ち止まると「ごめんごめん。花奈子が焦ってるのはよく判るから」と謝った。
「でもさ、腎臓移植なんて、事前の検査もあるだろうし、そう簡単に、はい頂戴しました、って事にはならないわよ。何より、まだそうと決まった話じゃないでしょ」
言われてようやく、はっとする。確かに、悪い方にばっかり考えていたけれど、お兄ちゃんはここで仕事を探しているだけで、今もどこかで椅子なんか運びながら、面倒くさいな、とか思っているのかもしれない。
ついでに三階も回って、何の収穫もなくさっきの部屋に戻ると、
椅子はちゃんと並べ終わっていて、空いた場所には大きな液晶ディスプレイが運び込まれていた。
「おっさんは?」と美蘭が声をかけると、亜蘭は顔を上げて「車の運転頼まれて、どこか行ったよ」と答える。そして「これ、預かった」と、ジーンズのポケットから何か取り出した。
「何?それ」と花奈子が覗き込むと、亜蘭は「ICレコーダー」と言った。
「
「あの人、何する人なの?」
「おおかた、週刊誌か何かの下請けライターあたりでしょ。潜入レポート、東京都人並区の並みじゃない悪評、とかってね。私達に対してこれだけガードが緩いって事は、もうそろそろ潜入もおしまいなのか、単に舐められてるだけか。ま、どうでもいいわ。猫の鳴き声でも入れといてやれ」
そう言って美蘭はICレコーダーをポケットに入れると、壁際にある机に近づいた。さっきはなかったノートパソコンが置かれていて、その横に分厚い紙の束。上にはホチキスが二つのっている。
「
「ふーん。よろしくね」と、自分は全くやる気を見せずに、美蘭はノートパソコンを開いた。
「ちょっと、美蘭、駄目だよ人のパソコン触っちゃ」
怖くなった花奈子が止めても、「こんなとこに置いてく奴が悪いの」と、聞く耳を持たず、「パワーポイントで、プレゼンですか」とにやにやしながらキーボードを触っている。
亜蘭はといえば、いつの間にか部屋を出て、廊下の壁にもたれていた。誰か来ないか見張っているみたいだ。さすがは双子、黙っていても連係プレーなんだ、と感心する一方で、花奈子はここに来た目的をあらためて思い出していた。
「私、もうちょっとその辺を見てくるね。戻ったら、紙綴じやるから」
そう声をかけると、美蘭はパソコンの画面を睨んだまま「了解」と答える。
美蘭も亜蘭も、花奈子がお兄ちゃんを探したいと言うからつきあってくれているだけ。本当に頑張らなきゃいけないのは花奈子自身だ。とにかく人のいる場所は全部覗いて、自分で探してみよう。
この研修所に着いた時よりも、人の数は随分と増えたように思える。
一階はどの部屋も椅子や机の準備が済んだみたいで、何人かで輪になって打ち合わせをしていたり。でもその人たちの中に、お兄ちゃんらしき姿はなかった。
全部の部屋を見てしまうと、あとは玄関だ。ホールには会議机が並べられ、その前に「受付」と大きく印字した紙が垂らしてある。そして女の人が三人、足元に置いた箱からパンフレットらしきものを取り出して、机の上に積んでいた。
薄暗いホールから外を眺めると、地面が白く光って見えるほど午後の日差しが強い。それでも少し風にあたりたくなって、花奈子は玄関の自動ドアを抜けた。アスファルトに反射した光の眩しさに目を細めながら、熱い空気を胸の奥深く吸い込んだ。
街中の埃っぽさとは違って、同じ東京でもここの空気は柔らかい。
もしかしたら、もう東京じゃない場所まで来てるのかな、と思いながら両手を後ろで組み、軽く伸びをしたその時、いきなり強い風が吹きつけてきた。あっという間にくしゃくしゃになった髪をかき上げると、目の前を何かが横切った。
日傘だ。
それは風にのって落ちてくると、弾んでふわりと浮きあがり、こんどは地面をどんどん転がってゆく。花奈子は反射的に飛び出してそれを捕まえた。
思ったよりずっと軽く、艶のある紫の生地に黒いレースを重ねた美しい日傘。持ち手の部分は飴色の竹でできていて、同じく紫色のタッセルがついている。日傘よりもパラソルと呼ぶ方が似合ってる、と思いながら、花奈子はもう飛ばされないようにそれを畳んだ。
「すいませーん」という声がして、ポニーテールの女の人が駆け寄ってくる。花奈子が日傘を差し出すと、彼女はひったくるようにしてそれを受け取り、小走りに戻って行く。その向こうから、小柄なおばさんがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
ポニーテールの人が何か言いながら頭を下げて、大慌てで日傘をおばさんにさしかけると、彼女はそれを受け取り、まっすぐに花奈子の方へ歩いてきた。髪を高く結い上げて、まるで日傘とお揃いのような、紫の地に黒いレースをあしらったジャケットに、とても細かい襞のついた黒いプリーツスカートを合わせている。生地にはラメが入っているらしくて、歩くたびにきらきらと光を反射する。おばさんはずんぐりした体形で、これまた紫のハイヒールでその体重を支えるのは、けっこう大変そうに見えた。
そしてお化粧も服装に負けないくらい豪華だ。金のフレームに紫のレンズの大きなサングラスをかけていて、目元は弓なりにくっきりと描かれた眉しか見えないけれど、この暑いのにきちんとファンデーションを塗って頬紅ものせ、真っ赤な口紅はグロスで艶々と輝いている。耳には大きな黒真珠のイヤリング、お揃いのネックレスが厚みのある胸元を二重に飾っていた。
その姿に花奈子がぼんやり見とれているうちに、彼女はすぐそばまでやって来た。そうか、建物の中に入るんだ。通り道を塞がないよう、一歩下がる、でも彼女は花奈子の前で立ち止まると、「ついうっかりして、日傘を持って行かれてしまったわ。どうもありがとうね」と笑顔で話しかけてきた。
「そんな日向にいちゃ暑いでしょ、こっちに入りなさいよ」
彼女は、何も言えずにいる花奈子の背中を押すようにして玄関から中へと入れると、紫の日傘を畳んだ。すかさず、後ろに控えていたポニーテールの女の人がそれを受け取る。
「今日はまた、ずいぶん若い方もお見えになってるのね。あなた、高校生?」
「中三、です」
花奈子はようやく、小さな声で返事をした。
「あら、そうなの。今から色んな事に興味があって、偉いのね」と、おばさんはサングラスを外し、絵でも鑑賞するみたいに、花奈子を上から下までしげしげと見た。重そうなつけまつ毛に縁取られた目が、まばたきもせずに光っている。小さいけれど、吸い込まれるような、不思議な力のある瞳。
「ママに愛されてない子の目だ。あなた、随分と寂しい思いをなさってるのね」
彼女はそう言って、花奈子の腕を強くつかんだ。その太くて短い指には緑色の大きな宝石をあしらった指輪が光っている。
「私とちょっとお話ししてみる?きっと、ずいぶん楽になると思うわよ。大丈夫、別にあなたが悪いってわけじゃなくて、ママも大変なのよ」
そして彼女は指の力を緩めると、こんどは花奈子の手をとり、両手で包み込んだ。
「どう?冷たいものでも飲みながら、一休みしない?」
優しそうな笑顔に暖かい声。花奈子はしかし、返事もできすにじっと立っていた。それでもおばさんは急かす事もなく、手を握り続けている。何か言わなきゃ、そう思った時、ポニーテールの女の人が少し焦った様子で「お約束は四時です、
この人が八千代さま?じゃあお兄ちゃんのこと、知ってるかもしれない。
慌てて花奈子が口を開こうとしたその時、彼女は握っていた手を緩めて「あら、もうそんな時間なの?」と後ろを向いた。それからまた花奈子の方を見ると、「楽しんでらしてね。ここでお友達が見つかるかもしれないわ。何かあったら私のところにいらっしゃい。みんな私の可愛い子たちだからね」と微笑み、足早に歩きだした。
彼女のゆく先では、周りの人が次々に会釈をしたり、頭を下げたりしている。よく見ると、ポニーテールの人以外にも、ボストンバッグやなんかの荷物を持った女の人がまだ二人後に続いていて、ちょっとした大名行列みたいだった。
その後ろ姿が階段を上がって行くのをぼんやり見送ってから、花奈子はようやく我に返った。
「美蘭!」
慌ててさっきの部屋に駆け込むと、彼女は椅子にふんぞり返って、死ぬほど面倒くさそうに紙の束をホチキスで留めていた。その横では新田さんが、こちらはてきぱきと同じ作業を進めている。亜蘭は美蘭より多少まし、という程度だ。
「てめー、戻んの遅いんだよ。トイレ行ったぐらいで迷子って、ハツカネズミ以下だな」
美蘭は有無を言わさず、といった感じで、ホチキスと紙の束を花奈子に差し出した。まあ確かに、戻ったらやるって約束したし、と思って受け取り、彼女の隣に座る。どんな風にやればいんだろう、と美蘭の作品を見ると、どれも角がばらけて、完全にやっつけ仕事だった。
とりあえず角だけはきちんと揃えようと、紙をまとめていると、美蘭が「お前やっぱりお兄ちゃんに似て、真面目ってか几帳面ってか」と呆れ顔で言った。新田さんはかなり焦っているのか、前のめりで紙を綴じ続けている。花奈子は一か八かで「あの人、来てた」と言ってみた。
「誰だよ」
「おじさんが言ってた人」
その一言で美蘭は判ったらしくて、ちらっと新田さんの方を見てから「何かしゃべった?」と尋ねた。
一瞬、どうしようかと迷って、花奈子は「私を見て、ママに愛されてない子の目だって…そう言った」と答えた。
普通に報告したつもりだったのに、口にするとひどく悲しくなってきて、涙が溢れてきた。どうして八千代さまは、会っていきなりあんな事言ったんだろう。まるで、
「ばーか!」
いきなり、美蘭は両手で花奈子のほっぺたをつまむと左右に思い切り引っ張った。そして鼻がぶつかるかと思うほど顔を近づけると「それが奴らの作戦なんだよ。マジ誰にでも最初にそういう一発をかますんだから。言われて少しでも、当たってる、なんて思った奴がカモられるんだ」と吠えた。
あまりに突然だったので、零れかけた涙もそこで止まって、花奈子は「本当?」と聞き返していた。
「当たり前だろ。マジつまんない事でビビるんじゃねえ」
美蘭はさんざんひっぱった花奈子の頬を、今度は両側からむにゅーっと押し潰す。さすがに「もう!わかったよ」と言って逃れたけれど、彼女の冷たい指先は、頬から離れる前にそっと目尻の涙を拭い去っていった。
「美蘭ちゃん、お姉さんなんだからもう少し頑張れない?全体ミーティングまでにこれを終わらせなきゃいけないの。お願い」
新田さんは二人がふざけていると思ったのか、けっこう容赦ない。美蘭は「ったってあたしマジ妊婦だし」と言いながら立ち上がると、いきなり彼女の後ろに回り、両手で目隠しをした。
「新田さん、後ろの正面誰だ?」
ふざけるのもいい加減にして!という反応を予想していたのに、新田さんは何も答えず、手にしていた紙はぱらぱらと床に落ちてしまった。
「今から、何をすればいいか教えるよ。さあ、一緒に来て」
美蘭はそして目隠しを解くと、新田さんの腕を軽くつかんで歩き出した。新田さんは無言で、どこか虚ろな表情を浮かべてそれに従う。
そのまま部屋を出てしまった二人について行こうか、と一瞬考えて、でもやっぱり言われた仕事は片づけなきゃと思い直し、花奈子はしゃがみこむと床に散らばった紙を拾い集めた。そして立ち上がろうとした時、亜蘭と目が合った。
もしかして、さっき頬をぐいぐい引っ張られたりしたの、ずっと見てたんだろうか。その気まずさが伝わったのか、亜蘭は目を逸らすと「美蘭の愛情表現は、独特だから」と言った。
「好きな男の人の前に行くと、すっごい変なことしたりするし」
さらりとそう続けると、彼はホチキスで紙をパチンと綴じた。
「え、美蘭、好きな人いるんだ。それって、彼氏?」
何だか少し、その男の人が妬ましいような胸苦しさを感じて、花奈子は慌てて聞き返した。
「その気になれば彼氏にできると思うけど、美蘭の片想いっぽいかな。うちの事務所のマネージャー」
「素敵な人?」
「まあね。見た目も頭もいいし。あと独身なら完璧だったのに」
「つまり、結婚してる人?美蘭は知ってるの?」
「もちろん。だって知り合ったきっかけは、彼の奥さんから頼まれた、迷子の猫探しだもの。猫を見つけて、家に連れて帰って、お金を貰って、ではさようなら、ってところでマネージャーが仕事から帰ってきた。そこでいきなり美蘭をモデルにスカウトしたんだ」
「それって、マネージャーさんが美蘭のこと一目惚れしたんじゃないの?」
「ある意味そうかな。けどね、それで美蘭がどうしたと思う?」
「さあ…」
本気でこれは難しい質問だな、と思って花奈子は考え込んだ。
「奥さんの飼い猫に噛みついたんだよ。背中の痛くないとこ。親猫が子猫くわえるみたいな感じで」
「えっ、マジで?」
「それで仁王立ちしたもんだから、猫は宙ぶらりんでびっくりしてたけど、奥さんが悲鳴あげちゃって」
「それは驚くよ」
「僕がすぐに猫を助けたけど、奥さんショックで三日ほど寝込んじゃった」
「寝込むって、ちょっと大げさじゃない?」
「すごく身体が弱い人らしいよ。でもまあ猫は見つけたんだから、とりあえず許してもらったけど。美蘭はもちろん、全然反省してない。初対面でいきなりモデルにスカウトする方が悪いって、開き直ってた」
「でも結局、美蘭が猫に噛みついたっていうのは、どういう意味なの?」
「たぶん、いわゆる、胸キュンって…」
急に亜蘭が言葉を呑みこんだので、花奈子が後ろを振り向くと、美蘭と新田さんが部屋に入ってくるところだった。美蘭は新田さんをさっき立っていた場所まで連れて来ると、また両手で目隠しをした。
「はい、これで全部おしまい。後ろの正面には誰もいませんでした」
そう言って彼女が目隠しを解くと、新田さんはきょとんとした顔つきで自分の両手を見た。そして思い出したようにまた慌ただしく、紙をまとめ始めた。
美蘭はというと、花奈子に向かって「秘密だよ」とでも言いたげに、人差し指を唇の前に持って行く仕草をした。それからいきなり亜蘭に歩み寄ると「お前、なんかあたしの話してただろ」と言うなり、さっき花奈子にしたみたいに、両側から頬をつかんだ。
「言ってない」と否定しても、「あたしに嘘つこうなんざ百年早いんだよ!」と聞き入れない。亜蘭の整った顔が容赦なく引っ張られるのを横目で見ながら、花奈子はこれも独特な愛情表現って奴かな、と考えていた。
「ちょっともう本当に、二人ともいい加減にして。お兄さんのこと探す前に、やらなきゃいけない事をしてちょうだい」
新田さんがさっきより更に厳しい声をあげていると、部屋の入口から男の人が顔だけ覗かせ、「全体ミーティング、始まるよ」と声をかけた。新田さんは「わかった」と返事して、「あなたたちも一緒に来るのよ。ここにはボランティアで参加してる事になってるんだから」と花奈子たちを促した。
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