第12話 あなたの名前を教えて
長いカウンターに座り、脚をぶらぶらさせながらクランベリーソーダを飲む。目の前の歩道を通り過ぎる人たちはひどく足早で、自分以外は誰の存在にも気づいていないように見える。
自分から誘ったくせに、いざ花奈子が東京に来たら急な会議とかで、このハンバーガーショップに待たせっぱなし。そのくせ「誰かに声かけられたら、彼氏と待ち合わせって言うんだぞ」だとか、余計な一言だけは忘れない。
溜息をついて、携帯をしまいかけて、やっぱりもう一度開くと
あの夜、彼女と
そんな事ないよ。
花奈子の答えは、考える前に口から出ていた。けれど美蘭は尚も続けた。
自分じゃ大丈夫なつもりかもしれないけど、暑さで倒れちゃったり、さっきみたいに急に不安になったり、気分が悪くなったり、身体が悲鳴をあげてるんじゃないかな。両親に心配かけずに、弟のためにいいお姉さんでいようとして、すごく無理してるんじゃない?
無理なんか、してない。
でもどうしてだろう、口ではそう言えるのに、わけもなく泣きたくなってしまうのは。美蘭はそんな花奈子の気持ちを判っているのか、嫌だとか、寂しいとか、辛いとか、どんな風に思ったっていいし、思って当然だもの、と言った。
私そんな事、思ったりしてない。
言おうとして、言えなかった。だからといって、何が嫌だとか、そういうはっきりした考えがあるわけでもなくて、ただ名前のつけようがないものが、喉元で絡まっているような感覚だけがある。それはどこか、あの不思議な獣に似ている気がした。
ねえ、美蘭はさっきの黒豹みたいな生き物を知っていたの?
そうね、と、いつものあの、悪戯っぽい微笑みを口元に浮べて、彼女は左手に赤く残った傷の痕を右の人差し指でなぞった。そもそも私たちがこの街に来たのは、あいつを見つけるためだったの。
あれは一体、何なの?
とても古い生き物、といっていいのかしら。ずっとあの、赤牛山の古墳を守ってきたのよ。人にはない、特別な力を持った獣。あいつは水晶の玉に封じ込められて、長いあいだ地中にとどまっていた。私はその封印を解いて、彼の力を借りるつもりだったの。ところが何の偶然だか、花奈子、あなたが先に彼を見つけてしまった。崩れた赤牛山を見に行って、水晶を拾ったのね?
うん。とてもきれいなレモン色だったから、拓夢にあげようと思ったの。
なるほど。で、何があったか知らないけど、その水晶を割った。そしてあの獣を呼び出してしまったのね。だから、あいつは花奈子にだけ力を貸してくれる。
美蘭はどうやって獣のことを知ったの?
それはまあ、うちの一族で、仕事をしてる人の間では常識みたいなものよ。会社を経営するにも従業員は必要でしょ?それと同じこと。ある人は鴉や梟といった鳥を使うし、ある人は蜘蛛やなんかの虫を使う。鼠や蛇も役に立つわね。でもそれより何より、あの獣よ。あいつには力があるし、知恵もある。そして人間よりもずっと長く生きる。ただ問題は滅多に見つからないって事。まだ誰にも開かれたことのない古墳が千あったとして、その中の一つにでもいたら大当たりね。だからまあ、話には聞いていたし、探してもいたけれど、じっさいお目にかかったのは今回が初めてよ。
幸いなことに、あの獣は力が強い分、遠くからでも地上に現れた気配を感じ取ることができた。あの大雨の夜、赤牛山が崩れたその時に、またとない機会が廻ってきたと知って身震いしたわ。だから大急ぎで駆け付けたのに、一足遅かったってわけ。
わかってたら、あの水晶を美蘭のためにとっておいたのに。
嬉しいこと言ってくれるじゃない。でもまあ仕方ないわね。花奈子が封印を解くまで、私達にもあいつの居場所ははっきり判らなかったんだもの。
じゃあ、うちに来たのは偶然なの?
まあね。そこは亜蘭の奴に感謝すべきかも。とにかく、私はあいつが目当てで花奈子の傍にいるわけじゃない。信じなくても別に構わないけど、お友達のつもりなの。
だいじょうぶ、ちゃんと信じてる。
ありがと。じゃあ一つだけお願いしておくわ。次にあいつに会ったら、名前を聞いて、その名前を私に教えて。
それだけでいいの?でも、どうやったら会えるの?
あいつはいつも花奈子のそばにいる。ただ、ちゃんと見ないから現れないだけ。
ちゃんと見るってどういう事だろう。目の前を通り過ぎてゆく人の波はいちだんと速さを増したようで、何だか眩暈がしそうだ。花奈子は視線を落として、グラスに挿したストローについている小さな泡を眺めた。赤くて透明なソーダと、半分ほど溶けてしまった氷。
東京なんて、半分は冗談だと思っていたのに、寛ちゃんは本気でお父さんに話をしていたらしい。花奈子が「行きたい」と言う前に新幹線の切符が送られてきて、ばあちゃんがお小遣いをくれたけれど、それでもまだ半信半疑だった。
幸江ママに確かめてみると、「大丈夫、
でも結局、寛ちゃんが忙しくてこんな風に待たされるんだったら、別に来る必要なかったのに。思わずため息が出て、視線を落とした先に、奇妙なものが見えた。足元に、黒いものが蹲っている。
「
呼ばれてこちらを見上げたその小さな黒猫は、ニャ、と微かな声で返事した。でもそんな事ってあるだろうか。豆炭はかどや旅館の飼い猫で、東京のハンバーガーショップなんかにいるはずないのだ。じゃあこれは、ただの黒猫?にしては、肩のところに少しだけある白い毛の場所までそっくりだ。
「花奈子ちゃん?」
背中からいきなり呼ばれて、思わず背筋がびくりとなった。
「ごめん、驚かせちゃったかな」
振り向くと、知らない女の人が立っていた。明るい色に染めた髪をうしろで束ねて、赤いフレームの眼鏡をかけている。少しだけそばかすのある顔に笑顔を浮かべているけれど、どうして花奈子の名前を知っているんだろう。この場合、「彼氏と待ち合わせしてる」と言うべきかどうなのか。
「私、叔父さんから花奈子ちゃんのこと迎えに行くように頼まれたの。
「あ、
「いや本当にごめんな、まさかの緊急会議でさ。葛西さんも本当なら有給のところを、申し訳ない。という事で、何でも好きなものおごるから、どうぞ遠慮なく選んで」
相変わらず、謝ってるようでどこかふざけた感じの寛ちゃんだ。それでも、少し会わないうちに痩せたように思える。寛ちゃんの同僚だという葛西さんは、「じゃあ一番高いお料理いっちゃおうかな」と、メニューを開いたけれど、そのまま花奈子の方に向けてテーブルに置くと「何にする?」と尋ねてきた。
「え、私よく判らない、です」
そこに書かれた片仮名の行列。テリーヌとかアンディーブだとか、何のことだか想像がつかない。
ハンバーガーショップの前から、いきなりタクシーで連れて来られたのがこのレストランだ。他にもお客さんはいるけれど、とても静かで、あちこちに本物の花が飾られていて、クロスのかかったテーブルにはナプキンやグラスがセットしてあって、かっこいい男の人が席に案内して、椅子まで引いてくれた。
そんな場所で知らない女の人と二人きりで待っているだけで、もう花奈子の緊張は限界ぎりぎりで、「お待たせ~」と寛ちゃんが現れた瞬間には、ほっとしたのを通り越して腹が立ったほどだ。
「ここを紹介してくれたのは葛西さんだから、お任せしてみるか」
「高くつくわよ、というのは冗談で」と、葛西さんは笑いながらもう一度メニューを手にとった。
「この店、ディナーはそれなりのお値段だけど、ランチはすごくお手頃なの。本日のAコースでいいかしら。前菜か冷製スープと、メインはお魚かビーフ、それからデザートとコーヒーか紅茶よ。前菜はホタテのテリーヌ。スープはヴィシソワーズっていう、ジャガイモの冷たいポタージュね。本日のお魚はスズキのグリル、ビーフは頬肉の赤ワイン煮。デザートは木苺のソルベとキャラメルアイスクリーム」
葛西さんはまるでお店の人みたいにてきぱきと説明してくれて、花奈子も寛ちゃんも「じゃ、それにします」ぐらいしか言わずに、食べたいものを選ぶことができた。そして食事を終えて、さあこれからどうするんだろうと思っていたら、葛西さんは「買い物でもしようかと思ってたんだけど、ついてっていいかしら」と、一緒に歩き始めた。
何だかこれって変じゃない?そう思いながらも、花奈子は寛ちゃんの後についてあちこち行くしかなかった。
まず駅のコインロッカーに荷物を預けて、それから地下鉄を乗り継いでスカイツリーと水族館と浅草あたりを見て回ったら、あっという間に夜になって、晩ごはんは中華料理で、どうせなら人数が多い方が色々頼めるからという流れで、けっきょく葛西さんは最後まで一緒だった。
おまけに、別れ際になって「私、明日も大した予定入ってないから、そっちに合流していいかな?」とか言い出した。やっぱりそれって変じゃない?なんて言えるわけもなく、おまけに寛ちゃんは「いいよ、なあ花奈子」と、即OKなのだ。
駅のロッカーに預けていた荷物は持ってもらったけれど、花奈子は何だか重い足取りで寛ちゃんのマンションにたどり着いた。東京だから、どんなに賑やかなところに住んでるのかと思っていたら、普通の住宅街で、しかも古い建物で裏が墓地というまさかの立地。
「エレベーターないけど、二階ならどってことないだろ?」と、全然気にしてない寛ちゃんは、墓地に面したベランダの窓を全開にすると、「ほら、風通しもいいし」と得意げだ。確かに、一度だけ遊びに行ったことのある、学生時代のワンルームマンションに比べると、狭くてもキッチンは独立してるし、お風呂とトイレが別で寝室とリビングの二部屋があるのはすごい進化かもしれない。
「花奈子は隣の部屋のベッドで寝ろよ。ちゃんとシーツとか替えてあるからさ」
「寛ちゃんどこで寝るの?」
「そこのソファ。ベッドになるんだ、よっ、と」説明しながら寛ちゃんはソファの背もたれを倒して、本当にベッドみたいにしてしまった。
「水とかお茶とか、冷蔵庫にあるもの何でも飲んでいいから。ただし賞味期限までは保証しないから、自分でチェックしろよ」
帰り道にコンビニで買ったばかりの牛乳を冷蔵庫に入れている寛ちゃんの背中を見ながら、花奈子はずっと迷っていた。でも、やっぱり言うなら今かもしれないと思って決心する。
「あのさ、葛西さんのことだけど」
「何?」冷蔵庫のドアを閉める音がして、寛ちゃんがこっちを向く。
「あの人、どうして明日一緒に来るの?」
「どうしてって、大した予定ないから合流したいって、言ってたじゃないか」
「でも、だったら別に一緒に来なくてもいいじゃん」
実のところ、花奈子もどうしてそこがひっかかるのか、自分でよく判らなかった。ただ何となく、おかしいというか。寛ちゃんは一瞬、ぽかんとしたけれど、すぐに訳知り顔の笑いを浮かべた。
「なになに?要するに俺と二人っきりでいたいって事?葛西さんには邪魔するなって?」
「えっ?私、ひとこともそんなの言ってないですけど!」
「言ったも同然じゃない。俺のこと独り占めしたいんだろ?悪い悪い、花奈子がまだお子ちゃまだって事、すっかり忘れてた。葛西さんには断っとくから安心しな」
そう言って携帯を取り出すものだから、花奈子は慌てて阻止した。
「違うってば!そういう意味じゃないの!断ってなんて言ってない!」
夢中で携帯を奪い取ったら、寛ちゃんは「あっそ。なら問題なし」と、平然としている。
何だか自分の大騒ぎが馬鹿みたいで、花奈子は仕方なく手にした携帯をテーブルに置いた。その時、寛ちゃんが「あれ、お客さん」と言って、ベランダの方を指さした。見ると、手摺の上に黒い猫がのっかっている。
「ここ、裏が墓地なせいか、よく猫が来るんだよね。でもお前、見かけない顔だな」
寛ちゃんが舌を鳴らして呼んでやると、猫は怖がる様子もなく手摺から飛び降りて近づいてきた。真っ黒で、子猫より少し大きいぐらいで、肩のところに少しだけ白い毛があって…
「豆炭?」
思わず声をかけると、猫はニャ、と返事して中に入ってくる。
「どっかの飼い猫かなあ、人に慣れてるし、綺麗だし」と、寛ちゃんもびっくりしている。花奈子は半信半疑でその猫を抱き上げてみたけれど、顔つきといい、身体の大きさといい、豆炭だとしか思えない。
「この子、かどや旅館で飼ってる猫にそっくり」
「かどや旅館って、青松通りの?なんで花奈子があそこの飼い猫知ってるんだよ」
「友達が泊まってたの。ほら、フィアットほめてくれた東京の子。あれからしばらくして、また来たの」
「あーあ、あの綺麗な子。そうだ、花奈子せっかく東京に来てるんだから、連絡とってみれば?ケーキぐらいご馳走するけど」
寛ちゃんは美蘭のことをよく憶えてるみたいだった。でも花奈子は「忙しいだろうから、やめとく」と言った。半分は本気だけれど、また半分は約束が果たせていないから。あの黒い獣にもう一度会って、名前をきくこと。
寛ちゃんは「そっかあ、残念」と言いながら、豆炭らしき黒猫の喉をくすぐった。そして「俺、ちょっと仕事関係のメールをチェックするから、先に風呂でも入れば?タオルとかはベッドの上に置いといたよ。でも脱衣室ないから、その辺はうまくやりくりしてね」と言うなり、ノートパソコンを開いて仕事の体勢に入ってしまった。
こうなると、寛ちゃんはちょっと別世界だ。花奈子は荷物を持って寝室に移動し、着替えを取り出してお風呂に入る準備にかかった。豆炭らしき黒猫も一緒についてきて、足元でじっと花奈子を見上げている。
「お前、豆炭でしょ?」
相変わらず返事はニャ、で、それはきっとイエスだと思いながら、花奈子はブラウスのボタンを外した。脱衣室がないんだから、ここで外側だけパジャマに着替えておいて、下着はお風呂場で替えようという作戦だ。ところがブラウスを脱いだところで、豆炭はいきなり寝室のドアをガリガリやって、外に出ようと暴れだした。
「もう!何なの?自分でついてきたくせに」
仕方なくブラウスを羽織ってドアを少しだけ開けてやると、豆炭は大慌てで飛び出して行く。寛ちゃんはそんなの全く気にしてない様子で、キーボードを叩き続けていた。
これならバスタオルだけで部屋を通っても気づかれないかも、と呆れてドアを閉め、またブラウスを脱ぎながら花奈子は、裸アレルギーだという美蘭の事を思い出していた。
亜蘭は「貧乳コンプレックス」なんて言っていたけれど、そんなの気にする必要もないほど、美蘭のほっそりとしなやかな身体つきは美しくて素敵だ。それに比べて、姿見に映っている自分は、本当にどうって事ない感じ。
思わずため息が出て、すぐにパジャマを着る。そして、タオルやシャンプーなんかを持って寝室から出ると、豆炭はドアのすぐそばに座って待っていた。花奈子と目が合うと、ニャ、と鳴く。
「何よもう!出たい出たいって大騒ぎしたくせに」
そんな事言われても、ニャ、としか言わず、豆炭は花奈子の足にまとわりつくようについてくると、またお風呂場の外でじっと待っているのだった。
はっと気がついて、時計を確かめると十二時を少し過ぎていた。
ベッドに寝転がって、使ったお金をメモしておこうと思ったはずなのに、うとうとしてしまったらしい。もういいや、明日まとめて書こうと観念して明かりを消すと、ドアの隙間からリビングの光がさしこんでくる。寛ちゃんはまだ仕事メールを打っているんだろうか、テレビもつけていない部屋は静かで、ただ外からぼんやりと車の走る音が近づいたり遠ざかったりしてゆく。
だんだんと暗さに慣れてきた目に、寝室の様子が見えてくる。まだ引っ越してそんなに経っていないせいか、ベッドの他は本棚と姿見ぐらいしかなくて、あとは段ボールが三つほど積んであるだけ。
枕元にはスピーカーが置いてあるから、寛ちゃんはふだん音楽を聴きながら寝ているんだろう。ベッドの端っこには一匹だけ連れてきたぬいぐるみのモモンガがいる。これは「ヤマモトくん」といって、どうやら寛ちゃんにとって特別な存在みたいだ。
花奈子はちょっといたずら心を起こして、足の先でヤマモトくんをつかまえてみようとした。簡単そうに思ったのに、ヤマモトくんは意外と丸っこい体型で、つるつると逃げてゆく。三度目のチャレンジでとうとうベッドから落っこちてしまった。
「あーあ、ごめんね」
慌てて拾い上げようと、ベッドの端から覗き込むと、暗がりの中で一対の目が光った。一瞬びくっとして、それからやっと豆炭の事を思い出す。また外に出たがるかと思って、窓を少し開けておいたのに。
「まだいたの?ここに泊まるつもり?」
花奈子がヤマモトくんを拾い上げるのにつられるように、豆炭はベッドの上に飛び乗ってきた。それからうーんと伸びをして丸くなる。どうやらここで寝るつもりらしい。この猫が本当に豆炭だとして、一体どうやってここまで来たんだろう。それより何より、どうしてなんだろう。
「ねえ、誰にも言わないから、何しに来たのか教えて」
全く反応なし。花奈子は寝転んだまま、人差し指で豆炭の鼻先をかるく押してみた。何しに来たの?そう言う自分は、何しにここまで来たんだろう。
拓夢は今夜も病院だし、幸江ママは寝る時間もないほど忙しくて、お父さんはきっと今ようやく家に帰って一息ついた頃。なのに自分一人、こんな風に遊んでいていいんだろうか。寛ちゃんだって、誘ってはくれたけれど、会議だったり、この時間になってもまだメールだったり、本当はすごく忙しいのを無理してるんじゃないんだろうか。そして、お兄ちゃんは今どこで何してるんだろう。
新幹線には家族連れの人がたくさん乗っていたけれど、うちの家族はいつになったら皆で旅行に出かけたりできるんだろう。それとも、お兄ちゃんが出て行ったのは「いち抜けた」の合図なんだろうか。
そこまで考えると、急に涙が溢れてきた。変なの。夏休みで遊びに来ているのに、どうして泣く必要があるんだろう。楽しんでいればいいのに、どうしてこんな事考えるんだろう。でも、そんなもう一人の自分にはお構いなしに涙は頬を伝い、ぽたりと落ちて、シーツに吸い込まれてゆく。
「また泣いているのか」
聞き覚えのある低く太い声に、花奈子はびくりとして起き上がった。ちょうど目に入る姿見の奥から、レモンイエローに輝く鋭い瞳がこちらを見ている。どこか別の場所につながる洞窟みたいに黒くて大きな身体と、わずかに開いた瑠璃色の口元で冷たく光る牙。思わず後ろを振り向いたけれど、リビングに続くドアの前には何もいない。
「私はこの世に一つしか身体を持たないのだ。そんな所を探しても意味がない。鏡とは嘘をつかないもの。お前が朝な夕なに長々と鏡を覗いているのは、そこに己の真実を見ようとしているからではないのか?」
そんな難しいこときかれても、答えようがない。というか、一瞬で喉がからからになって、舌が貼りついたように動かなくなっていた。
「私のことが恐ろしいか?」
鏡の奥から獣が尋ねても、花奈子は声も出せず、ただうなずくしかなかった。獣はそのまま、足音もたてずにゆっくりと歩き出す。黒い前足が姿見の木枠を越え、鏡の世界から寝室へと踏み出して近づいてくる。その頭はちょうど、ベッドに起き上がった花奈子の顔と同じくらいの高さにあった。
「何かを恐ろしいと思う時、二つの理由がある。一つは、それを知らないが故、そしてもう一つはそれを知るが故に。お前は私の事をよくは知らないのだから、答えは前者だろう。知らないが故に、余計な考えで恐ろしさを募らせているのだ。さてお前は私が何をするのではないかと怯えているのだ?」
「ひ…」
自分でも驚いたけれど、花奈子の喉から細い声が出た。
「ひっかく、かも」
「なるほど、それから?」
「噛みついて、殺す」
「それは何のためだ?」
「た、食べるから」
獣は更に近づいて、花奈子はその分少しだけ下がった。お尻のあたりに豆炭の暖かい身体が触れたので首を廻らせると、豆炭は蹲ったまま大きな目を開いて獣をじっと見ていた。
「私は無用な殺生などしないし、人を食らって命をつないでいるわけでもない。ただ、それはできないという意味ではない。私の顎は人の頭など造作なく噛み砕くし、私の鉤爪は一撃でその胴を二つに引き裂く。さあ、よく知るがいい。恐れを鎮めるために」
そして獣は花奈子の膝の上に、片方の前足をのせた。そのずしりと重い掌は花奈子の顔ほどもあって、黒い毛並の表面にはあの不思議な模様が滑るように流れている。獣はそれきり何も言わないし、気持ちも少しずつ落ち着いてきたので、花奈子はこわごわ手を伸ばし、前足に触れてみた。
毛並、と思っていたものは実際には毛ではなく、何か水のようなもので、その奥に固い身体がある。けれどその身体は豆炭のように暖かくはなく、ひんやりとしていて、今日のような夏の夜には心地よいほどだった。
獣の前足に重ねた花奈子の細い指の上を、不思議な模様が通り過ぎてゆく。手を持ち上げてみると、そこには何もなくて、また手を浸すように下ろすと、流れる模様を透かして指が見えるのだった。何だか面白いような気がして、花奈子は両手で前足をひっくり返してみた。豆炭と同じような、でもずっと大きな肉球があって、撫でてみるとやっぱり柔らかですべすべしている。そして太い指を一本一本、確かめるように触って、豆炭にしてみたことがあるように、鉤爪を出してみる。それは銀色に輝いて、まるで金属でできているようだった。
「きれい」
花奈子が思わずため息をつくと、獣は「飾り物ではないのだが」と、何だか照れているように言った。
「お友達はあなたのこと、優しいって」
まだ両手でその前足に触れたまま、花奈子は美蘭がこの獣について教えてくれたことを思い出していた。
「そうだ、名前」
まるで誰かの手を握りしめるように、獣の前足に触れる指に力をこめ、花奈子は身を乗り出して叫んだ。
「あなたの名前を教えて!」
「ツゴモリ」
獣がそう答えたのを聞いたと思った瞬間、花奈子の身体はくるりと転がって床に落っこちていた。
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