第7話


「いいわよ、特別に教えてあげる。貴方、素敵な人だから。フフッ」

 悪戯っぽく唇を窄(すぼめ)る赤毛の踊り子。

「貴方が気に掛かって仕方ない小夜子(さよこ)さんの〈前の恋人〉、その男の名は溝口朔耶(みぞぐちさくや)って言うの。すらっとした長身で、柔らかな髪、気品に満ちた物腰――これはまあ、育ちのせいで当然だわね? 海運会社社長の御曹司なんだもの――とにかく、非の打ち所のない好青年よ! おまけに、帝大生とくるんだから」

 銀の灰皿にシガレットを押し潰す。すぐに新しい一本を咥えると探偵の顔を覗き込んだ。

「ほんとだったら私達とは住む世界が違う、出会うはずないって、貴方も思ってるんでしょう?」

 興梠(こおろぎ)は先刻と全く同じ動作でマッチを擦ると火を点けた。

 その指先に視線を移してミーシャは語り始めた。

「この春にね……」



 帝大の春季学祭。

 知り合いのそのまた知り合いの伝(つて)でミーシャはキャンパスを覗いて見ることにした。その際、一緒に行こうと誘った相手が同僚の踊り子、久我小夜子(くがさよこ)だった。


「だって、小夜子さん、可憐で品があって〈女学生〉で通るんだもの。私だけだったら、一目で場違いだって放り出されそうで不安だったのよ」

 その日に戻ったように混血の踊り子はウットリと目を細めた。

「帝大の中は初めて入ったんだけど、そりゃ素敵だったわ!

 講堂でジャズを聴いたり、文士劇を見たりしたの。パーラーでお茶を飲んで、美術部の絵画展覧会場も覗いてみた。生け花とか、書道の展示室もあったわよ」 


 そんな構内で写真部の看板も見つけた。


 前衛的で訳のわからない芸術的な写真が溢れる中、鳥の写真ばかり並んだ一画があった。

 名も知らない様々な鳥たちの写真。静謐な展示場にそこだけ囀りが聞こえそうなくらい生き生きしていた。


「小夜子はね、足を止めて、暫くジーッと見入っていたんだけど、いきなり言ったの」


 ―― 可哀想……


「私、吃驚しちゃった!」


 ―― え? 〝可愛い〟じゃないの?

 ―― ううん。だって、こんなところ……狭い枠に閉じ込められて……可哀想。

 ―― あはははは……!




「あはははは!」


 突如、背後から降って来た明るい笑い声。

「こんな素晴らしい賛辞は初めてです! お嬢さん!」


 てっきり、憤慨されるかと冷や汗を流すミーシャの心配をよそに青年は言った。

「〝こんな枠に閉じ込められて〟って、感じてくださったんですね? ってことは、つまり、それだけ生きた鳥たち……その一瞬一瞬を写し取るのに成功してるってことでしょう?」

 頬を上気させ嬉しそうに笑う青年。

「ありがとうございます。撮影者冥利に尽きますよ!」

 腕を伸ばして写真を指し示すと、

「ご安心下さい。これら鳥たちは僕がシャッターを切った次の瞬間にはもうこんな〝枠(フレーム)〟の中にはいません。さっさと飛び去ってしまいました。僕が貰ったのは彼らの〈一瞬〉なんです」

「まあ! では貴方(あなた)がこの写真を撮影された方?」

 それを言ったのはミーシャだ。小夜子は一言も発せずにただ青年を見つめていた。

「ええ。そうです。僕の名は溝口朔耶。どうぞ、よろしく!」




「なるほど。それが出会いか。そのまま二人は急速に親しくなった、と……」

「あら、ちょっと違うわ」

 混血娘は人差し指を振った。

「朔耶さんが一目で小夜子を気に入ったのは、傍にいる私にはよおくわかったわ。朔耶さんたら、その場で小夜子を食事に誘ったほどだもの。それなのに小夜子ときたらその誘いをきっぱりと断ったのよ」

「断った?」



 勿体無いことをする、と内心ミーシャは歯噛みした。

 帝大生と知り合う機会なんてそうザラにあるわけじゃないのに。

 その上、なんと、食事の誘いを拒絶するのみならず、小夜子はその場で明かしたのだ。

「私、女学生ではありません。S宮のダンシング・バアで働いています。職業は踊り子です」

「ち、ちょっと、小夜子。何もこんな処でそんなこと――」

「それでは、今日もこれから仕事があるので、失礼します」

 帝大の広大な敷地を門へ向かって踊り子二人は歩き続けた。

 どちらも無言だった。

 足音が後ろから追いかけて来る。続いてあの明るい声が響いた。

「おおーい! 待ってくれ!」

「!」

 帝大生、鳥の写真の撮影者、溝口朔耶だった。




「朔耶さんはね、小夜子をイチョウの木陰へ引っ張っていくと、なにやら話し始めたの」

 短い時間だった。ほんの二言三言。

 小夜子は長身の青年を見上げたまま、黙って聞いていた。

「一体、どんな魔法の言葉を使ったのかしら? 私が、今でも不思議に思うのはそこよ」

「?」

「なんてこと! その短い言葉の後で、さっきはあれほど頑(かたく)なに拒絶したはずの小夜子が頬を染めて頷いたの!」


 

 悪魔的妖術を駆使したのは娘ではなかった?

 では、悪魔は青年の方だったのか?



「それ以来よ。見る見る二人の仲は深まって、気がつくと朔耶さんは小夜子のアパートに転がり込んで、二人は新婚の夫婦みたいに仲睦まじく暮らし始めてたってわけ。朔耶さん、実家にも戻らず大学へもそこから通ってた……」

 思い出したようにクックとミーシャは笑った。

「そういえば写真展には巣篭(すごも)りする番(つがい)の鳥の写真もあったけど、まさに、そんなだったわ、あの二人!」

「でも、最終的に、別れたんだろう? その男と小夜子さんは」

「一体何を話してるの?」


 冷水を浴びせられるとはこのこと。

 振り返るとそこに久我小夜子が立っていた。

 今日は公休日で、店にいるはずのない、小夜子が。


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