第5話 郷愁

 目覚まし時計を見ると、すでに正午を回っていた。

 枕に埋めていた顔を上げる。昨日はずいぶんと疲れていたみたいだ。目が覚めた今でも頭がくらくらする。

 浩輔は空腹を満たすために、戸棚からカップラーメンを二個出した。電気ケトルでお湯を沸かす。その間に、連日出勤で溜まっていたシャツや下着を洗濯機に放り込んだ。洗剤と柔軟剤を入れて回しはじめると、電気ケトルから終了の音が聞こえた。ワンルームの中央に置いた正方形のテーブルの前に座り、一つ目の醤油味のカップラーメンにお湯を注いで、箸をのせて蓋をする。二分経ってから、朝と昼一緒の食事をはじめた。少し固めが好みだ。ちぢれた麺をすすりながら、左手でスマートフォンを弄る。咀嚼しながらぼんやりと、昨日の夜のことを考えていた。


 最後に耳に残った、彼女の名前。

 ×××。


 浩輔にとって、彼女の存在はとても大きなものだった。小学生だったあの頃に影響を与えた、人生を変えたと言っても過言ではない貴重な出逢いだった。だからあの日に起こったこと、家から脱走したこと、空き地に行ったこと、青空を見上げたこと、彼女と会話をしたこと、すべてを事細かに思い出すことができた。

 それなのにどうして、名前を思い出せないのだろう。浩輔は発泡スチロールの器に口をつけて、スープを飲みながら首を傾げた。全部で三文字だったのは覚えている。でも、ひらがなか漢字だったかはわからない。もしかすると外人かもしれない。だから苦肉の策で、仮に『×××』と記憶の中で呼ぶことにした。


 これも記憶障害のせいだろう、と浩輔は納得することにした。一一歳の時の大きな事故のせいで、脳が大きなダメージを受けてしまった。それが昨日から、たぶん仕事中に小指に触れた桜の花びらをきっかけに、だんだんと思い出してきているんだろう。このまま回想を繰り返していれば、いつか彼女の名前もわかるかもしれない。前向きに、そう思うことにした。

 二つ目のカップラーメン、塩味を黙々と食べる。音がないのも寂しいので、特に見るつもりもないテレビを流すことにした。モニターの中では、知らないお笑い芸人が持ちネタを披露している。その間もずっと操作していたスマートフォンの電話帳には、やっぱりあの女の子らしき名前は登録されていなかった。


 今、彼女はなにをしているんだろう。


 一人きりの部屋に、十六型液晶テレビに映った、ひな壇芸人の大声と観客のわざとらしい歓声が聞こえる。同じように、一人暮らしをしているのだろうか。会社勤めをしているのだろうか。それとも、結婚をしているのだろうか。家庭を持っているのだろうか。元気にして、いるのだろうか。

 それはまるで小学校まで仲が良かったのに、疎遠になってしまった友達を偲ぶような、儚い郷愁の想いだった。焦がれるような恋愛感情も微かにあったが、それよりもただ会いたい、話がしたいと思った。


 浩輔は二つ目のカップラーメンを掻き込むと、すぐにゴミを片付けた。どうすれば見つけることができるだろう。ひさしぶりの休日を、なにもしないままでいるつもりはなかった。

 一番簡単な方法はSNSを使って調べることだった。自分が通っていた学校の名前や友達グループから検索をかけられるから、ほとんどの友達はこれで探し出せる。ただ問題は、彼女がSNSに登録していない場合だ。あの時はたしか、背丈からして小学校二年生ぐらいに見えただろうか。現在なら大学生か社会人の年齢だから、恐らくは使用しているはずだ。

 浩輔は、しばらく小さい画面とにらみ合っていたが、成果はまったくなかった。そもそも彼女の名前がわからないから、アカウント名から特定できないし、空き地で会う時はいつも二人きりだったから、共通の友達からも探すことができない。同じ小学校に通っていたかも定かではないし、あの学校の名前すらも覚えていなかった。

 自分のことながら、薄情な奴だと思う。普通なら、幼少期の大半を過ごすことになる小学校を、忘れることなんてあり得ないだろう。学校生活でいい想い出がなかったこともあるが、自宅での療養生活の期間が長かったこともあるし、三回も小学校を変えた上に、実質半年しか通っていない二番目の小学校なんて、特別な感情もなにもなかった。さらに事故のせいで、それ以前の記憶はなくしていたし、回復した頃には別の学校に転校をしていたからだ。


 次に考えた方法は、探偵会社や興信所、インターネット上の人探し用掲示板を利用することだった。探したい相手の名前や見た目、特徴を記入して依頼をすると、それぞれの仕事人達が捜索してくれるというものだ。だがここまでやるとなんだか大袈裟な気がするし、やはり彼女の名前がわからないのがネックだった。それに容姿も、十五年以上前の想い出のものだから、今では成長して大きく変わっているだろう。

 他にも区役所で請求できる住民票、戸籍謄本、住民基本台帳についても調べたが、どれも無理だった。様々な方法を検討しているうちに、わずかに覚えているだけの人物を捜すということが、どれだけ難しいかがわかった。こうして疎遠になった人物のほとんどが、再び出会うこともなく、やがて想い出と共に風化してしまうのだろう。


 浩輔は、スマートフォンを放り出して、座ったまま背中を伸ばした。下ばかり向いていたせいだろう。肩胛骨から小気味のいい音がなる。

 気が付けば、窓の外は夕方だった。ベランダに干していたシャツと下着を、乾燥しているのを確認してから取り込む。手すりの向こうには、電線に止まった一羽のカラスが嘴を大きく開いて鳴いていた。

 歳を取るにつれて時間が過ぎるのが早くなったな、と思う。小さい頃は一日中遊んでいてもまだ時間が余って、友達と一緒に空が赤くなるまで走り回っていたっけ――


 浩輔は、沈んでいく夕日をじっと見つめた。じんわりと視界がぼやけて、寂しいような懐かしいような感情が、泡のように浮かんでは消えていく。同時に、過去の想い出がまた意識を掠めていった。

 このまま調べていても、行き詰まるだけだ。それなら、また昔の記憶の中から情報を仕入れた方が、彼女を探す手がかりが見つかるだろう。

 浩輔は、ベランダの窓を閉めた。カーテンは開いて、オレンジ色の太陽光を室内に投射する。暖かな黄昏の中で、ベッドの端にゆっくりと腰掛けた。手のひらで顔を覆って、そのまま俯く。なにも見えないけれど、視界は仄かに灯っている。自分の呼吸音だけが、等間隔に続いていく。ほどなくして、過去への追想がはじまった。




 第6話 ▲▲ へ続く...

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