僕は姉の顔を知らない
と~や
小さな村の小さな店
第1話 僕は姉の顔を知らない
「姉ちゃん、じゃあ行ってくるね」
扉を開けて、店の奥に向けて声をかける。返事はないが僕は奥に向けて手を振った。
戸締りをしっかりして、ぶら下げたままの札をくるりとひっくり返す。
それから、出窓をのぞき込む。外から見える出窓には、お客の目を引きそうなものを置いておくんだけど、今は目玉商品がないから花瓶に生けた花束だけだ。
ぴかぴかに磨き上げたガラスには肩までのサラサラした茶色い髪とくりっとした目が映っている。
にかっと笑ってみる。ちゃんと僕の顔だ。
「よし」
ぱしっと両手でほっぺたを叩くと出窓から離れ、隣のお菓子屋の扉を押し開いた。
「こんにちはー」
「はいはい。……あら、テオくん。お出かけ?」
奥から出てきたのはお菓子屋さんの奥さんでハンナさん。大きなおなかを抱えてしんどそうに出てくると、にっこり微笑んでくれる。
隣に越してきてからなにくれとなく僕ら姉弟を気にかけてくれている。
「わあ、大きくなりましたね」
「ええ、おかげさまでね。来月には会えるわよ」
「うん、楽しみにしてる。ハンナさん、これ」
「え?」
僕はポケットから包みを取り出して彼女に差し出す。
「足がむくんでるって言ってたから、むくみが取れる薬草茶。夜寝る前に飲んでね」
「まあ、ありがとう」
少しほほを赤らめてハンナが受け取ると、僕は扉を押し開けた。
「ヤグレンの町に行ってきます。帰りは明日の夜になるんで、留守中にうちのお客が来てたら」
「ええ、いつものように対応しておくわね。アリスちゃんは?」
「いつも通り地下室で仕事してます。食事は作り置きしといたんで」
「そう。気を付けて行ってらっしゃい」
「行ってきます」
少し不安そうなハンナに、僕は元気いっぱいの笑顔を返して店を出た。
◇◇◇◇
乗合馬車には僕のほかにもお客さんが乗っていた。
会釈をして空いた場所に座ると、そっと息を吐く。
「おや、テオバルド君かね?」
「え?」
声をかけられて顔を上げる。先に座っていたお客に見知った顔はなかった。
声のほうに顔を向けると、戸口のところに黒い帽子とマントを羽織った御者さんが立っている。
帽子を脱いで顔を見せた御者さんは、店の常連さんだった。黒いもじゃもじゃ頭と太い眉毛ですぐわかる。
「リンデンさん! こんにちは」
「ああ、こんにちは。お出かけかい?」
「はい。明日薬草市があるので」
そういうとリンデンさんはつるりと顎をなでた。
「ああ、そういえば明日だね。じゃあヤグレンの町まで?」
「はい、お願いします」
料金を渡すと、リンデンさんはにっこり微笑んだ。
「四時間ほどかかるから」
「はい」
出発します、とほかの乗客にも声をかけて、リンデンさんは出て行った。
◇◇◇◇
ヤグレンの町に着いたのはお昼をずいぶん過ぎたあとだった。リンデンさんはそのまま次の町まで御者をするらしく、手を振って別れた。
いつもの安宿を押えてから市場のほうへ歩く。途中で明日市が立つ広場を通ったけど、今日はまだ市の日じゃないから市民の憩いの場になっている。
四方を高い建物で囲まれた広場では、吟遊詩人がフィドルを奏でたり、大道芸人が芸を披露している。
いい匂いが漂ってくる。広場に面した喫茶店からだ。一度入ってみたかった店だけど、今日は我慢。
途中の屋台で軽く食べてから、懐のメモ帳を取り出す。
姉ちゃんの依頼は二つ。
一枚目のメモはお菓子の材料。大きな町でないと買えない品ばかりだ。
二枚目は、ヤグレンの特産品。もちろん食べ物。甘いもの限定だけど。
「それにしても姉ちゃん、ちょっと欲張りすぎじゃねえ?」
ぺらりと開いたメモにはぎっちり店の名前と商品名が書かれている。
ため息をついて、一番近いお店を探す。
本当ならここにきてるのは姉ちゃんのはずなのに、薬草市の日だからって無理に変わってもらったんだ。
これくらいいいでしょ? とぶんむくれた姉ちゃんの顔が浮かぶ。……自分の目で見たことはないんだけど。
上着のポケットと肩にかけたカバンの中身を確かめる。
薬の届け先は少し遠い。宿に帰る途中で立ち寄ったほうが効率はいいだろう。
宿泊費は前払いしてあるし、夕食と朝食つきだから帰りの馬車代を残せば使い切っても大丈夫だ。それに、薬を届ければ代金がもらえる。
「さてと、ちゃっちゃと済ませよっか」
誰に言うわけでもないんだけど、つい独り言を言ってしまう。悪い癖だ。
メモをポケットに押し込んで、僕は歩き出した。
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